南下の気配
ルルグンス法国は宗教国家である。そして宗教とは金のかかるものであるらしい。法国の税率はアンタルヤ王国に比べ割高だった。さらにそれに加えて、法国には「負わせ高」という悪習がある。
「負わせ高」とは、本来は耕作不可能な土地を耕作地と見なしてそこに税をかけるという、とんでもない制度である。いっそ開き直って税率を上げてしまえば良いようにも思うのだが、見かけ上の税率を低くしておくことには何かしらの意味があるのだろう。法国ではこの悪習が古くからまかり通っていた。
イスパルタ朝のいわゆる新領土は、ガーレルラーン二世がルルグンス法国から切り取った土地である。そのためこの地域にはやはり、負わせ高の悪習が根付いていた。彼は総督を任じて新領土を治めさせたが、その際、税制については法国時代のものをほぼ踏襲している。それで税を納める先は変わったものの、負わせ高の悪習もまた南アンタルヤ王国へ引き継がれることになった。
ジノーファが玉璽と王座を受け継いだ後も、負わせ高の悪習はまだ残っていた。そして彼は当初、カスリムと彼のもとにある戦力のことを優先していたため、新領土の税制については後回しになっていた。
だがカスリムを呼び戻し、さらにロスタムを新総督として送り込んだことで、新領土はおおよそイスパルタ朝によって掌握された。ただジノーファはこの先もずっと、新領土に総督を置き続けるつもりはない。将来的には他の地域と同様の支配体制にしたいと考えており、そのためには諸々の制度を変えていく必要がある。
そこでまずジノーファが手を付けたのが税制だった。ルルグンス法国の税率がアンタルヤ王国のそれと比べて割高であることは彼も承知している。それでまずはこれを引き下げることで国内における税率の不平等をなくし、それによって新領土の民衆の負担を軽くしようと考えたのだ。
「どうだろうか、スレイマン」
「よろしいかと存じます、陛下」
ジノーファに意見を求められたスレイマンは、一つ頷いてそう答えた。同席していたフスレウも同様に頷き、彼の意見に賛同する。
税率が割高なままでは、新領土の民衆はそれを不満に思うだろう。長い目で見れば、国内に火種を抱えることになる。だが逆に引き下げてやれば、彼らは喜び人心を得ることができる。それは支配体制の安定に繋がるだろう。
なによりルルグンス法国のことがある。法国がガーレルラーン二世に奪われた領土を取り戻したいと思っているのは間違いない。そしてガーレルラーン二世が崩御し、ジノーファが即位してまだ日が浅いこの時機こそが、その好機であると考えてもおかしくはない。
法国がいかなる手段に訴えるのか、それは分からない。だが肝心の民衆がそれを望まなければ、つまり彼らがルルグンス法国の支配よりもイスパルタ朝の支配を望めば、それはジノーファが支配権の正当性を主張する上で強力な武器となるだろう。
「良かった。では、進めるとしよう」
スレイマンとフスレウの賛同が得られると、ジノーファは満足げな笑みを浮かべてそう言った。それから新領土の現在の税制について詳細をまとめるよう部下たちに指示を出す。そしてその報告書の中に、例の「負わせ高」についても言及されていた。
「これは酷い」
負わせ高についての報告を読むと、ジノーファは思わず顔をしかめてそう呟いた。彼はすぐさまこの悪習を止めさせようとしたのだが、そこへ財務を担当する者たちが「待った」をかけた。
税率を引き下げ、さらに負わせ高も廃止すれば、当然ながらその分税収は減る。しかしながらイスパルタ朝は現在、北アンタルヤ王国とまさに事を構えようとしているのだ。そして一度戦争となれば、多額の金がかかる。
少々余談になるが、ガーレルラーン二世が新領土の税制に手を付けなかったのも、恐らくはこれが理由だ。特に彼の場合、東と北に敵を抱えていた。金は幾らあっても足りなかっただろう。十分な収入を確保するために、彼はあえて不公平な税率に眼を瞑っていたのだ。
「試算によれば、税率を引き下げ、さらに負わせ高を廃止すると、金貨でおよそ四〇〇〇枚分の税収が減ることになります。減税を行うのは、北アンタルヤ王国の問題が片付いてからでも良いのではないでしょうか?」
財務を担当する者たちはそう主張した。彼らの言いたいことは、ジノーファもよく分かる。また北アンタルヤ王国の事に加え、彼は将来的に近衛軍を完全な常備軍にしようとも考えているのだ。そのためにもやはり多額の資金が必要であり、金貨四〇〇〇枚分の減収は確かに痛い。
「いや、これは先送りするべきでない問題だ」
しかしジノーファの考えは変わらなかった。不公平は正されなければならない。そして悪習は取り除かれなければならない。いかに戦費確保のためとはいえ、これを後回しにすることは正道にもとる。
ただし、ジノーファも正義感にのみ突き動かされて減税を決めたわけではなかった。イスパルタ朝は北アンタルヤ王国に対して、極めて優位な立場にある。だらだらと戦争が長引くことは想定されておらず、税収が減ってもやり繰りする目途は立っていた。
またジノーファの経済政策は「農業を基本としつつ商業を発展させる」ことを基本方針としている。そして商業の発展のためには、まずは堅実な国内市場が必要で有り、要するに国民一人一人がある程度のお金を持っていることが望ましい。減税はそのための政策でもあるのだ。
ジノーファは減税を断行した。上記の通り、減収は覚悟の上だった。彼は勅書をしたため、それを新領土のロスタムへ送った。勅書を受け取ったロスタムは直ちに新領土の全土へ布告を出した。こうして新領土において負わせ高は廃止され、税率もイスパルタ朝の他の地域と同程度に引き下げられたのである。
この件に関してロスタムから思いがけない報告が来たのは、勅書を出してからおよそ三ヶ月後のことだった。そこに記されていたのは、今回の減税措置に対する民衆の反応だ。彼らは感涙を流し、ただただ感謝したという。
それだけではない。感激した彼らはそれまでずっと隠していた農地の存在をつまびらかに申告してきたのである。それも一つの村や町だけのことではない。同様のことが新領土のあちらこちらで起こったのだ。
その結果、金貨四〇〇〇枚分の減収となるどころか、なんと金貨七〇〇枚分ほどの増収になる見込みであるという。「詳しい数字についてはまたおって報告する」と書かれていたが、ジノーファはもうそんなことはどうでも良かった。
こんなことがあるのだろうか。頬が緩むのを止められない。歌って踊り出したい気分だった。これまでに経験したことのない類いの喜びである。
ただ一つ、気がかりなことがあるとすれば、このままでは減税にならないということである。むしろ税収が増えているのだから、実質的には増税と言わなければならない。かといって税率をさらに下げれば、やはり他の地域との間に不公平が生じる。
考えた末、ジノーファはこのおよそ金貨五〇〇〇枚分の予算を、新領土のために使うことにした。この予算を用いて治水や街道の整備を行うよう、ロスタムに命じたのである。その際、人足にはきちんと給金を支払うようジノーファは念を押した。要するに公共工事という形で税金を還元することにしたのだ。
それだけではない。水害が減れば民衆の生活は安定するし、復興のためのコストも抑えることができる。そして街道が整備されれば、それは商業の発展に資するだろう。これはいわば、新領土を豊かにするための投資だった。
この、負わせ高にまつわる一連の出来事は、ジノーファにとって良い意味で大きな衝撃だった。彼が覚えた為政者としての最大の喜びとは、あるいはこのときの事であったのかも知れない。彼は終生この報告書を大切に保管し、折に触れては取り出して読み返していたという。為政者としての彼に、一つの芯を作った出来事と言って良い。
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さて、ハムザが戻ってきた。彼は降伏勧告の使者として北アンタルヤ王国のシュルナック城へ赴いたのだが、イスパルタ朝の首脳部は誰一人としてイスファードが降伏を選ぶとは思っていない。それで首が送り返されてくるものとばかり思い覚悟していたが、何と彼は生きてクルシェヒルへ帰ってきた。
「どうしたのだ、何があったのだ?」
ジノーファが喜びつつも驚き、そう尋ねたのも当然だろう。ハムザは粛々と事情を説明した。それを聞いてジノーファも納得する。つまりイスファードは不在で、代わりにカルカヴァンが書簡を受け取ったのだが、彼は返事を保留してハムザを帰らせたのだ。
「何分、カルカヴァンがイスファードに会わせてくれるとは思えず……。こうして書状を預かり帰参した次第でございます」
「そうか。良くやってくれた。卿が生きて帰ってきてくれて、わたしも嬉しい」
カルカヴァンからの書状を受け取ると、ジノーファはそう言ってハムザの労をねぎらった。それから受け取った書状を読んでみるが、見事なまでに中身がない。要約すると「こちらが返事の使者を送るまでは、敵対的な行動は取らないで欲しい」ということで、その意図は明白だった。
「時間稼ぎですな」
そう断言したのはクワルドだった。他の者たちも一つ頷いて彼に同意する。おそらく返事の使者が送られてくることはない。返事をするといって時間を稼ぎ、その間に決戦の準備をすることが目的と思われた。
とはいえ、北アンタルヤ王国に残された時間はそれほど多くない。私貿易の窓口が封鎖され、塩の供給を断たれているからだ。それで遅くとも数ヶ月以内には、イスファードが動くものと見込まれた。
「それで、どちらへ動くと思う?」
ジノーファはそう尋ねた。北アンタルヤ軍が目指す方角は南か、それとも東か。それによって対応の仕方も違ってくる。
現在、ジノーファの手元には四万を越える戦力がある。仮に北アンタルヤ軍が南下してきた場合、この戦力を動かして対処することになるだろう。さらにシュルナック城とクルシェヒルの間には、北アンタルヤ王国へ略奪隊を嗾けていた貴族たちもいる。彼らの戦力もアテにできるだろう。だがもし東へ動いた場合はどうか。
「すでにルドガー将軍率いるロストク軍五〇〇〇をマルマリズへ戻してあります。もともと駐在していた分を含め、一万弱。そこへダーマード卿らの戦力を合わせれば、二万を越えましょう」
クワルドがそう説明する。それだけの戦力があれば、北アンタルヤ軍に十分対抗できるだろう。その間にジノーファ率いる本隊が敵の本領を突くことになる。そのまま敵の背後へ回れば、問題なく勝てるだろうと見込まれた。
「ただ、イスファードは恐らく、南へ動くものと思われます」
クワルドがそう言葉を続けた。ジノーファが無言で続きを促すと、彼はさらにこう説明する。
「シュルナック城を監視させている斥候や隠密衆からの報告ですが、どうもカルカヴァンがクルシェヒル以北の貴族たちに接触しているようです」
「ふむ、調略か。彼らを陛下に背かせようとしている、ということですかな?」
スレイマンがそう尋ねると、クワルドは「そうではないでしょう」と言って首を横に振った。彼らをジノーファに背かせるとして、新たな帰属先は北アンタルヤ王国だ。しかし彼らはこれまで頻繁に北アンタルヤ王国へ略奪隊を嗾けてきた。イスファードやカルカヴァンにとっては不倶戴天の敵と言え、彼らを受け入れることはない。貴族たちの方もそれを理解しているはずで、彼らがジノーファに背く可能性は限りなく低い。
「だが、では何のために……?」
困惑気味にジノーファがそう呟く。離反させるためでないとすれば、何を目的に接触しているのか。ジノーファには思いつくところがない。そんな彼にクワルドがこう説明する。
「北アンタルヤ軍は単純な戦力で我々に劣ります。となれば、イスファードの狙いは陛下のお命ただ一つ。そうである以上、直接ぶつかるまでは戦力を消耗したくないはず。相互不干渉、と言ったところではないでしょうか」
相互不干渉ということは、つまり「こちらからは攻撃しないので、そちらからも攻撃するな」ということだ。イスファードがジノーファの首だけを狙っているのなら、確かにそれで十分だろう。
だが、そんなことがまかり通るのか、という疑問もある。敵が来ているのに戦わないとすれば、敵に通じたと思われても仕方がない。北アンタルヤ王国へ寝返るつもりがないのなら、ジノーファに疑われるような行為はかえって危険なはずだ。
「貴族らの兵と比べて北アンタルヤ軍の方がはるかに多ければ、城砦に籠もって敵が通り過ぎるのを待っても不自然ではないでしょう。それに少々、いえだいぶ苦しくはありますが、陛下が出された布告に戦闘を禁じる意向が含まれていた、と解釈することもできます」
スレイマンがそう説明する。ジノーファの出した布告とは、「北アンタルヤ王国の領土については切り取り自由」としたガーレルラーン二世の布告を停止させた布告のことだ。泥沼化していた戦線を整理することがその布告の主たる目的だったわけだが、そこに戦闘を禁じる意向がなかったとは言えない。
だがスレイマンの言うとおり、それはだいぶ苦しい解釈だ。屁理屈と言ってもいい。それを聞かされたジノーファが不快に感じるのは想像に難くない。それを分かっていてなお、クルシェヒル以北の貴族たちは北アンタルヤ王国の要請に応じるのだろうか。
「残念ながら、応じない、とは言えませぬ」
渋い顔をしながらそう言ったのはフスレウだった。貴族たちにとって重要なのは、まず自分の領地だ。相互不干渉に応じれば、少なくともこれを守ることができる。兵を失うことなく戦火を避けられるのは、彼らにとって大きな魅力だろう。
またジノーファがガーレルラーン二世の後を継いでからまだ日が浅い。確かに挨拶に来たことで、貴族たちはひとまずジノーファを王と認めた。しかし忠義を誓っているわけではない。もともと自主独立の気風が強いこともあり、今はまだ様子見という者が多いのだ。
要するに、ジノーファはまだ彼らに主君として認められていないのだ。多少手強いところは見せた。だがそれでもまだまだ舐められている。あっさりと人質を返してしまったこともそうだが、繊弱な少年だったころのイメージが強いのだろう。
「いかがいたしますか? 先んじて迎撃を命じておくこともできますが……」
「……いや、それは止めておこう」
少し考えてからジノーファはそう答えた。今のところ、全ては憶測でしかない。それに相互不干渉が成立すれば、それは戦火を抑えることにも繋がる。何にせよ、動くようにと命じるのは敵軍の動きを見極めてからでも遅くはない。
加えて、この時点ですでに、ジノーファは将来のことを考え始めていた。つまり、アンタルヤ王国を再統一した後の事だ。魔の森と向かい合って行かなければならない。そのための方策もまた考えねばならないのだが、まあそれはそれとして。
「ともかく今は、最悪を想定いたしましょう。つまり、貴族たちが動かなかった場合です」
その場合、北アンタルヤ軍は真っ直ぐにクルシェヒルを狙ってくるだろう。これを途中で迎え撃つのか、それともクルシェヒルで待ち受けるのか。クワルドが推したのは後者だった。その理由について彼はこう説明する。
「クルシェヒルの城壁は堅牢です。さらに兵の数も我々の方が多い。ほぼ確実に敵の攻撃を防ぐことができます。さらに攻囲が長引けば、その間に貴族たちを動かすことも可能でしょう。敵の背後を突かせるか、あるいは本国を狙わせるか。いずれにしても主導権はこちらにあります。拙速に動く必要を認めません」
加えて、北アンタルヤ軍は補給に不安を抱えている。彼らは短期決戦を望むだろう。逆を言えば、長期戦に持ち込めばそれだけで北アンタルヤ軍は崩壊するかも知れない。
そう説明され、ジノーファは一つ頷いた。ただ彼の表情は今ひとつさえない。それに気付き、スレイマンは彼にこう尋ねた。
「陛下、何か気がかりなことでもありましたかな?」
「……我々が籠城して長期戦に持ち込まれた場合、自分たちが不利であることはイスファードも分かっているはずだ。それを承知した上で南進してくるとしたら、何か奇策があるのではないだろうか?」
「奇策、でございますか?」
クワルドが険しい顔をしてそう聞き返す。ジノーファも思案げに顎先を撫でながら頷いた。
ユスフ「奇策……? 穴でも掘るのかね?」




