予兆
大統暦六四四年の年明けから一ヶ月半ほどが経った頃、北アンタルヤ王国は私貿易を介して武器や防具などの軍需物資を入手することができなくなった。担当官の話によれば「国内への供給が優先されるようになったから」である。
軍需物資を入手できなくなったのは、当然、北アンタルヤ王国にとって痛手だった。ただ財政面から見ると、そう悪いことばかりではない。仕入れる物資の量が減ったことで、支払うべき金貨の量も減ったのだ。
シャガードが実現させた割引の分も合わせ、なんとほぼ全額を煌石など物々交換で支払うことができるようになったのである。つまり金貨の流出が止まったのだ。無論、物々交換をしていることそれ自体が危機的状況の表れとも言えるが、ともかくこれで経済の破綻は避けられそうだとファティマは胸をなで下ろした。
折しも、イスパルタ軍の遠征が始まったからなのか、南からの攻撃も今は止んでいるという。ただし無防備な状態ではないのでイスファードも手を出しかねていると聞くが、彼女にとってはいっそ理想的な状況である。
「これで、これで国力を回復させることができるわ……!」
ファティマはそう意気込んだ。また手紙を読む限り、彼女の父であるエルビスタン公爵カルカヴァンも同様のことを考えている。これであとは、南アンタルヤ王国やイスパルタ王国と正式に停戦条約を結ぶことができれば、国を生きながらえさせるための道筋が見えてくる。ようやく希望が見えてきたことを、彼女は喜んだ。
しかしまたしても状況は一変する。何の前触れもなく、それは起こった。事前の通達も何もなしに、突然私貿易が打ち切られたのである。取引現場に、イスパルタ側の人間が誰も現われなかったのだ。
「これは、これはどういうことだ……!?」
シャガードはただちにこの事をファティマに報告した。それを聞き、彼女は思わず立ち上がる。動揺を隠せないほど、彼女は混乱していた。色々な可能性が浮かんでは消える。だがどれも可能性でしかない。
「まずい、わね……」
ファティマは爪を噛んだ。私貿易を打ち切られると、塩が全く入ってこないことになる。多少の備蓄はあるものの、しかし一年分にも満たない。早急にこの問題を解決しなければ、北アンタルヤ王国は早晩立ちゆかなくなる。
ファティマはすぐにこのことをイスファードに伝えた。そして物語はまた、ここから大きく動き出すことになる。
□ ■ □ ■
北アンタルヤ王国と南アンタルヤ王国がしのぎを削る南方戦線に変化が起こった。イスファードがそれに気付いたのは、大統暦六四四年の年明けからおよそ一ヶ月が経ったころだった。散発的かつ慢性的に行われていた略奪隊の襲撃が、この時期を境にピタリと止んだのである。
「一体、何があった?」
「兵を別のところへ差し向ける必要ができたのかも知れませぬが……、いや、しかし……」
イスファードとカルカヴァンはそう話して互いに首をかしげ合った。ともかく、話しているだけでは何も分からない。イスファードは斥候を放って南方の様子を探らせた。そして分かったのは、敵は出撃は控えているものの、戦力は保持しているということだった。
その不可解な状態に、イスファードとカルカヴァンはまた揃って首をかしげた。戦力を保持しているということは、いつでも動ける状態を保っているということ。しかしその状態で出撃しないと言うことは、動きたくても動けない理由があるということか。
「クルシェヒルで、何かありましたかな」
カルカヴァンの推測にイスファードも頷く。実はこのとき、ジノーファが貴族や代官らに布告を出していた。だからカルカヴァンの推測は正しかったといえる。ただ二人とも、ジノーファがすでにクルシェヒルを掌握しているなど、想像の埒外だったが。
さて、略奪隊の襲来が止んだことで、諜報活動に力を割く余裕が生まれていた。早速、カルカヴァンが主導して国境近くの街々に人を送り込む。その結果分かったことだが、南アンタルヤ王国は現在、イスパルタ王国と戦争状態にあるらしい。
「略奪隊の襲来が止んだのは、これが理由でしょう。戦力をいつでも動かせるようにしているのだと思われます」
「そう、だろうな」
イスファードは舌打ちしたそうな顔でそう応えた。「先を越された」という思いが、彼の胸をよぎる。北アンタルヤ王国を建国してからこれまで、彼はずっと南アンタルヤ王国と戦い続けてきた。しかしその戦いは防戦一方で、南進することはできていない。「いずれは」と思いつつ、ジノーファとイスパルタ王国に先を越されてしまった。
(まあ、いい)
息を吐き出し、イスファードは気を鎮めた。ジノーファも攻め込んだとはいえ、まさか勝ったわけではあるまい。これを好機として巻き返せば良いのだと、彼は自分に言い聞かせた。ちなみに集めた情報の中には、ガーレルラーン二世が死んだとか、ジノーファが新王になったとか、そんなものもあったが流石に荒唐無稽であると判断されている。
ともかく、南アンタルヤ王国の略奪隊が動けないのであれば、北アンタルヤ王国にとっては好機である。イスファードは早速、遠征の準備を始めた。カルカヴァンもそれを止めない。北アンタルヤ王国が生き残るためには、どうしても南に進む必要があるからだ。
ただ、これまで連戦に次ぐ連戦だったため、準備は思うように進まない。イスファードが少々苛立っていると、そこへそれどころではない報告がファティマからもたらされた。
曰く「私貿易で軍需物資を仕入れられなくなった。イスパルタ国内を優先するとのこと。遠征が始まったと思われる」
イスパルタ軍の遠征が始まった、という情報に驚きはない。ただそれにより軍需物資が手に入らなくなる、というのはイスファードも考えていなかった。これは由々しき事態である。イスファードは渋い顔をしていたが、彼と同じくらい渋い顔をしているカルカヴァンがこう呟いた。
「十分な物資がなくては、動くに動けませんな……」
イスファードも一つ頷いてそれに同意する。無論、国内で必要な物資を揃えることは可能だ。しかしこれまで防衛線を維持しつつ、南方戦線で慢性的に戦い続けてきた結果、国内の生産能力は著しく低下している。必要な物資を揃えるまでに、どれだけ時間がかかるのか見通せない。
現地調達、という案がイスファードの頭に浮かぶ。だが彼は首を横に振った。略奪隊の戦力は保持されているのだ。十分な準備を整えてから南進しなければ、返り討ちに遭ってしまう。それでは意味がない。イスファードが歯がみしていると、カルカヴァンが彼にこう言い聞かせた。
「陛下。焦ってはなりませぬ。今は好機を待つのです」
「好機とは、今ではないか」
「いいえ、今ではありませぬ。その証拠に、略奪隊の戦力はいまだ健在ではありませぬか。我々が動かずにいれば、ガーレルラーンはこれらの戦力もイスパルタ軍との戦いに投入しましょう。さすれば、あとは無人の野を行くが如く。今はそれを待つべきと存じまする」
カルカヴァンがそう力説すると。イスファードはため息を吐いてから「そうだな」と言って同意した。どのみち、今すぐ動くには不安があるのだ。そうであるなら、準備を整えつつ好機を待つのもいいだろう。
しかし彼らが好機を待つうちに、情勢はさらに思わぬ方向へ転がることになる。私貿易で軍需物資を仕入れられなくなってからしばらくして、またしてもファティマから急ぎの報告が届いたのだ。
曰く「私貿易の取引現場に、イスパルタ側の人間が現われなかった」
その報告を読んだとき、イスファードは腹の底に鈍い衝撃を覚えた。カルカヴァンもまた、顔色を悪くしている。
これまでイスパルタ側が私貿易の取引をすっぽかすことは一度もない。しかし今回、彼らは取引現場に姿を現さなかった。これをどう解釈すれば良いのか。些細な行き違いであれば、たいしたことはない。だがもしそうでないとすれば。
最悪の可能性が二人の頭をよぎった。つまり、私貿易がジノーファに露見したという可能性だ。いや、露見しかけたのかもしれない。いずれにしても、そうであれば私貿易が再開されることはまずない。北アンタルヤ王国は外部との繋がりを断たれ、孤立することになる。
「カルカヴァン。これはもう、動くよりほかにないぞ」
「陛下。今しばらくお待ちを。私貿易の打ち切りが決まったわけではありませぬ。これは向こうの不快感の表明かも知れませぬ。こちらとしても、いささか無理を申しましたゆえ」
カルカヴァンはそう言ってイスファードを宥めた。彼のいう「無理」とは、軍需物資を回してくれと強く、そしてしつこく求めたことだ。それに嫌気が差したイスパルタ側が、ボイコットという強硬手段に出た。あり得ない話ではない。
そもそもジノーファは今、南アンタルヤ王国で戦っている。国内の監視は緩んでいるはずで、私貿易が露見したというのは少し考えにくい。そしてそう考えたからこそ、無理を承知で軍需物資の件を頼んだのだ。
加えて、これまで私貿易では主導権争いが綱引きのように続いていた。当初優勢だったのはイスパルタ側だ。だがここ最近は割引を実現させるなど、北アンタルヤ側が徐々に主導権を握り始めていた。そのことに危機感を持ったイスパルタ側が、挽回を期して強硬手段に出たとも考えられる。
いずれにしても、ただ一度の異変に右往左往するべきではない。南進の準備は完了していないのだし、ここはどっしりと構えて、もう少し情勢を見極めるべき。カルカヴァンはイスファードにそう説いた。
「だが……」
「陛下。一度、公爵領へお戻りになられてはいかがですかな?」
イスファードが少々不満げな様子を見せると、カルカヴァンが彼にそう提案した。彼が視線を上げると、カルカヴァンはこう続ける。
「どのみち、私貿易のことはもう少し詳しい話を聞く必要があるでしょう。場合によっては、さらに圧力をかける必要があるかもしれません。防衛線も、ずっとジャフェルに任せきりにしています。南方戦線は小康状態を保っておりますし、この機会に様子を見てきてはいかがでしょうか?」
「…………」
「それに、これは親の私情ですが、娘も陛下にお会いできず、寂しい思いをしているかと存じます」
「……そうだな。分かった。一度、ファティマの顔を見てこよう」
大きくため息を吐いてから、イスファードはそう言った。こうして彼は一度シュルナック城を離れてエルビスタン公爵領へ戻ることになった。
「イスファード陛下!」
イスファードが公爵家の屋敷に帰ってくると、出迎えたファティマは目に涙を浮かべて彼に抱きついた。離れて暮らすこと、すでに二年以上。寂しさは募りに募っていた。イスファードも彼女を抱きしめる。強張っていた表情が、少しだけだがようやく和らいだ。
ひとしきり再会を喜んだ後、二人は屋敷の居間へ移った。そこで軽食を取りながら、二人は諸々の話し合いを行う。イスファードの一番の関心事は、やはり私貿易のことだ。だがそれを説明するファティマの表情は険しかった。
「そうか。私貿易のほうは、あれ以来取引無し、か」
「はい。何度か人をやってはいるのですが、イスパルタ側と接触することすらできていません。こうなるとやはり、上の判断で窓口を閉じたとしか……」
ファティマがそう話すと、イスファードも険しい顔をして一つ頷いた。主導権争いに絡むボイコットであれば、交渉すらできないというのはあり得ない。私貿易を続ける意思がある限り、何かしらの接触はあるはずだった。不満があるならそれを伝えてくるだろうし、「物品を調達できない」などの言い訳があるなら、そう言ってくるはずだ。
だが接触すらできないということは、つまり交渉の余地無しということ。言い換えるなら、イスパルタ側にはもう私貿易を続けるつもりはないということになる。これをどう捉えるべきか。
そもそもオズデミルやダーマードはジノーファよりもイスファードを重く見たために、少なくとも北アンタルヤ王国との繋がりを維持したいと思ったために、私貿易をこれまで続けてきたはずだ。主導権争いもあくまで自分たちを高く売り込むためのものであり、イスファードは二人が自分のシンパであることを疑っていなかった。
しかしここへ来て窓口を、それも一方的に閉じたとなると、彼らの方針が変わったことになる。彼らは北アンタルヤ王国との繋がりを断とうとしている。つまりイスパルタ王国の方が優勢で、北アンタルヤ王国が挽回することはないと彼らは判断したのだ。
だがそのように見限られたと考えるのは、イスファードにとって受け入れがたいことだった。「北アンタルヤ王国に挽回の余地無し」などという話は、彼の立場からして、また彼個人の心情としても全く受け入れられない。
「オズデミルのところへ、私の名前で使者を送る。ファティマ、人選を任せる。何としても私貿易を再開させろ」
イスファードはそう命じた。彼は北アンタルヤ王国の最高権力者である。その名前を出すことは、これ以上ない圧力になるだろう。ただしその圧力は諸刃の剣だ。交渉が決裂した場合、北アンタルヤ王国は面子を保つために、何かしらの制裁行動を取らなければならなくなる。
だがそれだけの力が、北アンタルヤ王国に残されているだろうか。ファティマの答えは、残念ながら「いいえ」だった。経済的な制裁は言うに及ばず、軍事的な行動さえ難しい。そして何もできなければ、オズデミルもダーマードも北アンタルヤ王国とイスファードをなお一層侮るようになるだろう。
「……分かりました。人選を進めます。ですがまずは、王妃の名前でやらせていただけませんか? わたしの名前はすでにイスパルタ側にも伝わっています。いきなり陛下の名前を出すより、反発は少ないでしょう」
一瞬躊躇ってから、ファティマはイスファードの方針に同意した。さらに圧力をかける以外、方法はないように思えたからだ。塩だけは何としても、そして早急に輸入を再開しなければならない。
だが交渉は困難を極めるだろう。それで彼女はまず、自分の名前で交渉することを提案した。ファティマの名前を使えば、たとえ哀願するようなことになったとしても、国家と国王の面子だけは守られる。
「分かった。それでいい」
「ありがとうございます。それと陛下、これは直接私貿易には関係ないのですが……」
使者の件に了解をもらってから、ファティマは言い辛そうにしながらそう切り出した。悪いニュースが、実はもう一つあったのである。イスファードが無言で続きを促すと、彼女はこう言葉を続けた。
「オズデミル卿とダーマード卿が行っていた誘引作戦ですが、私貿易の停止とほぼ同時期から、作戦が行われていないことが判明しました。人員も撤収しており、今後作戦が再開される可能性は、その、低いかと……」
「なに? シュルナック城で受け取った報告には、書かれていなかったぞ」
「もともと、定期的に休息期間が設けられていましたから。今回もそれかと思い、報告書には書きませんでした。申し訳ありません」
「いや、いい。だが、まずいぞ、これは……」
ファティマの話を聞き、イスファードは眉間にシワを寄せた。誘引作戦が終了したとなれば、防衛線の負担は遠からず以前と同じ水準に戻るだろう。北アンタルヤ王国はますます追い詰められることになる。
「使者にはその件も含めて交渉させろ。だがこれはジャフェルにも話を聞く必要があるな」
イスファードはそう呟いた。防衛線の指揮しているのは、彼の義理の従兄弟であるジャフェルだ。これまでの報告書を読む限りでは、状況は一時期よりも改善しているという話だった。だが今後どうなるかは分からない。
「……またすぐに、行ってしまわれるのですね」
従兄弟の名前を聞き、イスファードが防衛線に行ってしまうと思ったのだろう、ファティマは寂しそうにそう呟いた。その様子を見て、イスファードは一瞬言葉に詰まる。それから彼は妻の肩を抱いてこう言った。
「いきなり防衛線に押しかけるわけにもいくまい。ジャフェルをこちらへ呼ぼう。交渉の行方も気になるしな」
イスファードがそう告げると、ファティマは一瞬目を見開いてから「はい」と言って微笑んだ。この後のおよそ半月ほどは、二人にとって思いがけず穏やかな日々となった。だが二人で過ごす日々がこれで最後になろうとは、このとき彼らはまだ知るよしもなかった。
イスファード「二年以上単身赴任で妻にも会えないとか、ブラック過ぎる!」




