新総督
ガーレルラーン二世が崩御し、新王としてジノーファが立ったことを知ったとき、カスリムは独立を考えなかったわけではない。新領土の版図は二五州。さらに彼の手元には二万五〇〇〇の戦力がある。徴兵を行えば、一ヶ月以内に合計で四万はかたい。
しかしカスリムは決断することができなかった。四万の兵を率いてジノーファと戦い、そして勝つ。彼はそれを確信できなかったのだ。一時は勝利を得て独立することができるかもしれない。だが国力に差がありすぎる。先は長くない。
そもそも戦力の中核となる二万五〇〇〇も、元を正せばアンタルヤ兵。郷愁が募れば、戦列を離れかねない。ともすれば敵と戦う前に部隊が空中分解することもありえる。そうでなくとも、敵から誘いがあれば心が揺れるだろう。それではとても戦えない。
ルルグンス法国ならあるいは、とカスリムも考えた。しかし法国は宗教国家だ。王に成り代わるというのは、民衆にとってただ税を納める先が変わるというだけの話ではない。それこそ、信仰に関わる問題なのだ。
統治の仕方を誤れば、新領土も含めてルルグンス法国は大混乱に陥るだろう。そうなればジノーファと戦うまでもなく自滅だ。そしてカスリムは統治者としての自分の能力を、それほど高く評価していなかった。
加えて、仮に首尾良くルルグンス法国を平らげたとして、その場合さらに西の国々と国境を接することになる。それらの国々が東進の野望を持っていることは、カスリムもよく知るところである。
彼らとの戦いに明け暮れていては、いつかジノーファに背中を突かれることになる。それでは独立した意味が無い。同じ理由で、ルルグンス法国との同盟にもカスリムは否定的だった。法国と同盟を結んだとして、やはり西の国々と戦わなければならなくなるからだ。
ではルルグンス法国を平らげ、そこからさらに西へ進むのはどうだろう。ことさら東へ進む姿勢を見せなければ、ジノーファは北アンタルヤ王国を優先するだろう。その間に独立を維持するだけの力を付けるのだ。
ただ、法国の西にあるのは、いわゆる小国群。これを一つ一つ平らげていくのは、負けることはないかも知れないが、それなりに時間がかかる。併合した国々の戦後処理にも、手間を取られるだろう。
その上、新領土を含む旧法国領の支配も、盤石なものとは言いがたい。西で戦っている間に足下で反乱を起こされては、やはり大混乱が起こることになる。その上、その動きに触発されて他の地域でも反逆者が出れば、カスリムの王国は全土が大炎上することになるだろう。ジノーファと戦うまでもなく、彼は自滅することになる。
独立は無理筋である。カスリムが結論を出すのに、そう時間はかからなかった。だが彼は布告に従い、自分自身でクルシェヒルへ挨拶に赴くことを躊躇った。粛清されることを警戒したのである。
カスリムは前王ガーレルラーン二世によって、新領土の総督に任じられた。そして総督は強力な権限と戦力を有している。新王にとっては目障りな存在であるに違いない。また歴史的に見ても、前王の功臣が新王によって粛清されてしまうのは、決して珍しい話ではない。
都合の良いことに、カスリムには自分で挨拶に行かずとも良い理由があった。それで彼は代理の者を挨拶に行かせた。一緒に去年分の税を持って行かせることで、彼は自分に叛意がないことを伝えたつもりだ。とはいえ、これで直接挨拶へ行かなかったという事実が残ってしまった。結果的に、カスリムの苦悩はさらに深くなってしまった、と言っていい。
そんな矢先である。ロスタム将軍が三〇〇〇の兵を引き連れ、ジノーファの勅使として総督府に現われたのは。もしもロスタムがカスリムを粛清するために来たのだとして、彼もただで殺されてやるつもりはない。後がないというのなら、独立によって活路を見いだすより他にないだろう。カスリムはその決意を固める。否応なしに緊張が高まった。
「ジノーファ陛下の勅命を伝える」
厳かにそう前置きしてから、ロスタムは巻物を開いた。カスリムは片膝をついてその内容が語られるのを待つ。表面上は平静さを保っているが、心臓の鼓動は嫌になるくらい大きい。そして緊張しているのは彼だけではない。カスリムの部下も緊張していたし、ロスタムや彼の部下たちも緊張していた。触れれば破裂しそうな空気の中、いよいよロスタムが勅書を読み上げる。
「一つ、カスリムを伯爵に叙し、新領土より二州を与える」
その瞬間、カスリムは思わず顔を上げた。ともすれば死を命じられるかも知れないと思っていた。だが告げられた内容は、それとは全く違った。そのせいか、頭がうまくついて行かない。だがそんな彼の様子に気付くことなく、ロスタムはさらにさらに勅書を読み進めた。
一つ、叙爵はクルシェヒルで行う。一つ、カスリムは一万の兵を率いてクルシェヒルへ帰参するべし。一つ、カスリムの後任はロスタムとする。勅書の内容は、大雑把にまとめるとそのようなものだった。
「……以上、勅命である。謹んで拝命するべし」
「……謹んで、拝命いたします」
そう応えてから、カスリムは自分がジノーファの勅命を承諾したことに気付いた。そして次の瞬間、彼の身体からどっと力が抜ける。胸に残ったのは安堵なのか、それとも無念なのか。彼は小さく息を吐いた。
二州という領地は、新領土の二五州と比べていかにも小さい。だが総督は役人だし、新領土は全て天領。加えて総督の権限は強すぎる。将来的に総督職は廃され、天領には代官が置かれることになるだろう。
要するに、総督を続けたとしても、その先があるわけではないのだ。総督職それ自体が一時的なものだし、天領が彼のものになるわけでもない。当然、子孫に相続させることもできない。
だが伯爵になって二州の領地を得られれば、それはもう彼のモノだ。よほどの事が無い限り、取り上げられることはない。子孫にその財産を受け継がせていくこともできる。立身出世を極めた一つの形、と言っていいだろう。
カスリムは貴族だ。ただし家を継ぐ立場にはなく、それで近衛軍に入った。同僚の中にはどこかの家の婿養子になった者もいたが、彼にそういう話はなかった。珍しい話ではない。むしろありふれた話だ。
家門の当主となることの大きさ、重さは、カスリムも十分に理解しているつもりだ。何よりもまず家を優先するのは、貴族として当然のこと。そういう価値観は彼にも染みついている。その家を与えられるというのだから、ジノーファが彼を軽んじているわけではないことを理解できる。
だがそれでも、カスリムは胸にぽっかりと穴が開いたような、空虚さを覚えた。家ではなく国を興すというのは、無謀だと分かっていても男を魅了するものらしい。彼はそれを今になってしみじみと感じた。
(歴史に、名前を残し損ねたか……)
もっとも、残るのは愚かな野心家の名前であったかもしれないが。カスリムは内心で自嘲気味にそう呟いた。それから彼が顔を上げると、ロスタムが大きく息を吐いているのが目に入る。見れば、彼も彼の部下たちも、どこか安堵した表情を浮かべていた。
ここでカスリムに殺される危険があることを、彼ら自身も承知していたのだ。お互いに内心でビクビクしていたのかと思うと何だか可笑しくて、カスリムはふっと笑みを浮かべるのだった。
さて総督職の引き継ぎを終えると、カスリムは勅命に従い、一万の兵を率いてクルシェヒルへ向かった。これにより新領土の戦力は一万八〇〇〇となり、これらの兵は新総督であるロスタムの指揮下に入る。
クルシェヒルへ向かう道中、カスリムは必ずしも心晴れやかではなかった。なるほど、確かに勅書では伯爵への叙爵とそれに伴う二州の領地が約束されていた。だが言ってしまえばこれは口約束。ジノーファの胸三寸でいくらでも変えられてしまう。
ともすればこの話それ自体が、カスリムから総督職と戦力を取り上げるための詭弁かも知れないのだ。その可能性を彼は否定できなかった。だがその一方で、戦力を取り上げることが目的なら、こうして一万を一緒に連れてこいとは命じないだろう。内心での葛藤は続いたが、表面上は何事もなく、彼らはクルシェヒルへ到着した。
「良く来てくれた、カスリム。卿の新領土での働きには感謝している」
覚悟を決め、硬い表情で謁見の間に現われたカスリムを、ジノーファは穏やかな声と表情で出迎えた。彼のその態度に、カスリムは内心で胸をなで下ろす。どうやら本当に、粛清される心配はないようだ。
それからジノーファはカスリムに、新領土のことをいろいろと尋ねた。彼の的確な質問に、カスリムは内心で驚く。彼がクルシェヒルを掌握したのは、ほんの数ヶ月間のはず。その間激務であったろうに、新領土のことをこれほど調べているとは。
「……では新領土の民は、自分たちが法国の民ではなくなったことに、それほど不満を持ってはいないのだな?」
「はっ。そもそも国土の割譲はヌルルハーク法王が法国の非を認めてなされたこと。また女神イーシスへの信仰を禁じたわけではありませんので、今のところ目立った反対行動は起こっておりませぬ」
「なるほど。では、法王や枢機卿らが神官や聖職者を使い、旧法国民に対して蜂起をそそのかし、国土の回復を図る可能性については、どう思う?」
「……あり得ることかと存じます。申し上げにくいことではありますが、ヌルルハーク法王がことさら恐れていたのは、前王ガーレルラーン陛下でしたので……」
「なるほど。前王陛下と比べられては、わたしのような若造は侮られるか」
少々言いにくそう答えたカスリムに対し、ジノーファは小さく苦笑を浮かべてそう言った。周囲にいた彼の臣下たちが、揃って険しい顔つきになる。カスリムは居心地が悪そうに小さく身じろぎした。
「で、ですがその場合、一時兵を引き上げればよいだけのことと存じます」
「ふむ。つまり新領土を放棄せよ、と?」
「はっ。国土を回復したところで、法国の体制が変わるわけではありませぬ。法国はやがて西から食い荒らされましょう。法国が国として立ちゆかなくなるのを待ってから、改めて新領土を回復なさればよいと存じます。さすれば法国の民は、陛下を救世主として迎えることでしょう。法国も以後は愚かな真似はいたしますまい」
「なるほど。覚えておこう」
そう言ってジノーファは一つ頷いた。それから彼はさらに別のことをカスリムに尋ねる。満足するまで話を聞いてから、ジノーファはカスリムにおもむろにこう告げた。
「さて、カスリム。卿には二つの選択肢がある」
そう言われ、カスリムは心臓に鈍い痛みを覚えた気がした。伯爵にしてくれるのではなかったのか。今更どんな選択肢があるというのだ。彼は身体を硬くして身構えた。そんな彼にジノーファは口調を変えずにこう告げた。
「一つは、勅書にも記したとおり、伯爵となって領地を得ること。この場合、連れてきてもらった一万の兵については、兵権を返してもらうことになる。
ただ、わたしはこれから北アンタルヤ王国と防衛線の問題に取りかかろうと思っている。それでもう一つの選択肢として、このまま近衛軍の将軍としてもう一働きするという道がある。無論この場合、功名を上げれば必ずやそれにも報いると約束しよう。どちらでも、良いと思える方を選んで欲しい」
そう言われ、カスリムは内心で安堵の息を吐いた。決して悪い話ではなかったし、約束を守るつもりがないというわけでもないようだ。
「……では、今しばらく兵を率いて、陛下の御為に働きたいと存じます」
カスリムは少し考えてからそう答えた。そちらを選んだ理由は幾つかある。一つには、このまま伯爵になっても準備が足りていないから。特に彼の手足となって働く人材が足りていない。実家の伝手を頼るなりするつもりだが、それにしても時間は必要だ。
またジノーファのために戦い、彼の信頼を得ることも理由の一つだ。カスリムがこれまでに忠義を尽くしてきたのは、主に前王ガーレルラーン二世に対してであり、ジノーファに対してではない。ここで彼のために働いておくことには大きな意味がある。
加えて、伯爵になって領地へ赴けば、しばらくは内政を優先しなければならず、武功を上げる機会は得られないだろう。また当然ながら近衛軍の将軍職は返上しなければならない。その前に武官として最後の花道を飾りたいという気持ちもあった。
「分かった。では、卿にはそのまま一万の兵を任せる。以後はクワルドの指揮下に入ってくれ」
「御意」
カスリムが短くそう応えると、ジノーファは満足げに頷いた。こうして、新領土の問題はおおよそ片付いた。西方における軍事的な脅威は格段に減ったのだ。貴族や代官たちも、大部分が恭順の意を示している。
これにより、一定程度国内が固まったと判断したのだろう。ジノーファはいよいよ本格的に北アンタルヤ王国へ目を向けることにした。歴史的に見れば、アンタルヤ王国再統一事業の仕上げに取りかかったことになる。
ただこのとき、ジノーファの中でその意識は希薄だった。むしろ、本当に今、北アンタルヤ王国と事を構える必要があるのか。今は内政に力を注ぐべきではないのか。そういう想いの方が、彼の中では強かった。
だが、いたずらに時間をかけても、防衛線の状況が好転することはほぼ見込めない。そうであるなら、早めに手を打つ必要がある。これはイスパルタ朝首脳部の最終見解だった。ちなみにこの“首脳部”の中には、フスレウも名前を連ねている。
ジノーファはまず、ルドガー率いるロストク軍五〇〇〇をマルマリズまで後退させた。彼の手元にはもう十分な戦力があり、援軍をアテにする必要は無くなったからだ。ただ北アンタルヤ軍がマルマリズを狙う可能性はないとは言い切れない。それでマルマリズでもう少し様子を見てもらうことにしたのだ。
マルマリズにはこれとは別にロストク軍がもう五〇〇〇いる。ルドガーが合流すれば一万であり、北アンタルヤ軍が襲来しても十分に持ちこたえられるだろう。もっともマルマリズが狙われる可能性は低いというのがルドガーを含めた軍部の見解だ。それでルドガーも「余暇のようなものですね」と言って笑っていた。
「ルドガー将軍、ありがとうございました。ロストク軍の精強さには、ずいぶんと助けられました」
「もはや無用とは思いますが、ジノーファ陛下のご武運をお祈りしております。陛下なら、再統一事業を必ずや成し遂げることができます」
最後にそう言葉を交わし、ジノーファはルドガーを見送った。ちなみにこのとき、ジノーファはダンダリオンへの手紙をルドガーに託している。これまでの経緯と、援軍への礼を記した手紙だ。この手紙はマルマリズから伝令兵によってダンダリオンのもとへ届けられることになる。
さてジノーファは次に、ダーマードへ手紙を出した。北アンタルヤ王国との間で行われている私貿易を停止させるためだ。さらに誘引作戦の終了も、同じ手紙の中で指示を出す。ただし、戦力については保持を命じた。
これまですでに、私貿易を通じて武器やポーションなどの軍需物資を北アンタルヤ王国へ流すのは止めさせてある。その武器などがイスパルタ朝との戦いで使われてしまっては本末転倒だからだ。
ただその一方で、食料や塩などの物品は取り扱いを続けていた。特に北アンタルヤ王国は塩を自給できていない。これを止めてしまった場合、北アンタルヤ王国は急速に崩壊しかねず、それが防衛線の決壊に繋がることをジノーファらは危惧したのだ。
だがその塩や食料さえも、ジノーファは供給を止めることを決断した。同時に誘引作戦も終了する。これにより、北アンタルヤ王国は完全に孤立する。イスファードらは自分たちが見捨てられたことを理解するだろう。
味方がいないことを悟れば、あえて戦うことの愚かさも分かるはずだ。ジノーファは北アンタルヤ王国に対して降伏勧告をするつもりでいるが、もしかしたらそれに素直に応じてくれるかも知れない。
もっとも、応じないことも考えられる。というよりイスパルタ朝首脳部においては、「イスファードは降伏勧告に応じない」と考える意見が圧倒的多数だ。そして勧告に応じないことを理由に、改めて北アンタルヤ王国の討伐を宣言する。それが首脳部の描くシナリオだった。
まあそれはそれとして。これから戦うつもりでいるのに、その相手にわざわざ食料だの塩だのを売ってやる義理はない。私貿易を止める第一の理由は、要するにそういう事だった。敵はあくまでも弱らせなければならないのだ。
しかしながらそのために、特に北アンタルヤ王国の民衆には大きな影響がでることが予想される。そのことにまず責任を負うべきはイスファードだが、ジノーファにも全く責任がないとは言えない。なにより防衛線のこともある。なるべく短期間で終わらせよう、とジノーファは思っていた。
「塩や食料、それに医療品も、遠からず必要になる。ダーマードには今のうちから準備させておこう」
ジノーファはそう呟くと、その旨を手紙に追記した。そして書き上げた手紙を、ユスフに命じてダーマードへ送らせる。彼が執務室から出て行くと、ジノーファは小さく息を吐いた。
カスリム「粛清怖い」
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今回はここまでです。
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