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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国

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203/364

人質制度撤回


 人質制度の撤回。要するにそれが、ヨズガト侯爵をはじめとする貴族たちの要求だった。そしてその要求を、ジノーファは決して意外には思わなかった。


 なるほど、確かに彼は人質を連れて帰ることを許可した。しかし成文法に規定された人質制度それ自体は、依然として残っている。そして制度が残っていれば、将来的にジノーファの支配が確たるものとなったとき、彼が再び人質を求めないとは限らないではないか。


 ジノーファも口では「そうはしない」と言っている。だが貴族らの価値観からして、彼らは全くそれを信用していなかった。状況が変われば、口約束などいくらでも反故にできる。この場合、ジノーファが実際にどうするかはあまり問題ではない。要するに彼らは、自分たちがその立場なら、また人質を求めると考えたのだ。


 ゆえに、ジノーファの足場がまだ固まっていないこの段階で、人質制度それ自体の撤回を求める。この場に集まった貴族は三十名以上。当主や世子だけでも十名を越える。今のジノーファに、これだけの貴族を敵に回す余裕はない。貴族たちは勝利を確信していた。しかしジノーファの返答は、彼らの想像したものとは少し違っていた。


「人質制度は将来的に撤回するつもりでいる。しかし今はまだその時ではない」


「それは、なぜでございましょうか?」


 ヨズガト侯爵が不思議そうにそう尋ねる。無論、これも演技だ。それに対し、ジノーファは落ち着いた口調でこう答えた。


「卿らも知っての通り、今日までに全ての貴族や代官たちが挨拶に来たわけではない。中には代理を寄越した者もいる。布告には、当主か、もしくは世子が来るようにと明記したはずなのだが、な」


 ジノーファは少し困ったようにそう答えた。代理の者の挨拶も、彼は拒絶することなく受け取っている。しかし人質を連れて帰ることは許さなかった。布告の中では、代理の者の挨拶でも良いとは認めていないからだ。その線引きはしっかりとしなければならない。


「今、人質制度を撤回すれば、わたしは彼らの慢心を大目に見たことになる。それは布告に従った卿らに対して不誠実なことだ。なにより彼らはわたしにも王家にも、そして国法にも敬意を払わなくなるだろう。それでは国が乱れてしまうばかりだ」


 ジノーファは顔に憂いを浮かべてそう語った。押しかけた貴族たちは、それに対して何も応えられない。彼らは人質制度の撤回を自分たちの手柄にし、それによってまだ挨拶に来ていない者たちに恩を売ろうと考えていたのだ。内心で後ろめたさを覚える彼らに、ジノーファはさらにこう言った。


「わたしとしては、全ての貴族や代官たちが挨拶に来て、人質となっている全ての者たちにクルシェヒルを出ることを許してから、有名無実となった人質制度を撤回しようと考えている。それで、わたしのほうからも卿らに頼みたいことがある」


「な、なんでございましょう?」


 ヨズガト侯爵はやや警戒を滲ませてそう応えた。集団で押しかけ、その勢いと圧力で要求を呑ませるつもりであったのに、逆に頼まれごとをしようとしている。その状況に彼は戸惑いを隠せない。だがジノーファはそれに気付かないフリをして頼み事を口にした。


「まだ挨拶に来ていない者たちに、卿らから手紙を書いてもらえないだろうか。卿らから手紙を受け取れば、あの者たちも安心してここへ来ることができるだろう。わたしも人質制度は一日も早く撤回したいと思っている。卿らも同じ気持ちのはずだ。どうか協力して欲しい」


 こう言われてしまえば、貴族たちとしても協力するより他にない。彼らは口々に協力を約束して謁見の間から引き上げた。王宮の廊下をぞろぞろと歩く彼らの多くは、顔に苦笑を浮かべている。


「いやはや、ジノーファ陛下もなかなか手強い」


「左様、左様。侮れませんな、これは」


「それが分かったことも、収穫の一つでしょう」


 貴族たちはそう語り合った。この状況で、ジノーファに挨拶に来るよう手紙を出せば、それを受け取った側はどう思うだろうか。手紙を出した側はジノーファを全面的に支持している。そう判断するはずだ。少なくとも、新王よりの立場だと思うに違いない。


 つまりジノーファは押しかけてきた貴族たちを、そのまま自分の側に引き寄せてしまったのである。それを分かっていて、しかし貴族たちは彼の頼み事を断れなかった。断れば、それは「人質制度は撤回しなくて良い」と言っているに等しいからだ。


 そのような態度を取れば、一緒に押しかけた貴族たちから猛反発をくらうだろう。新王(ジノーファ)にも目を付けられるに違いない。将来的に多大な不利益を被るのは確実だ。彼らは協力するより他になかったのだ。


 終わってみれば、相手を利用したのはむしろジノーファの側だったというべきだろう。貴族たちが思う以上に彼はしたたかだった。彼はもう繊弱で意志薄弱な王太子ではない。貴族たちは認識を改めなければならなかった。


 とはいえ、貴族たちにも収穫がなかったわけではない。ジノーファは人質制度の撤回に前向きだ。それがはっきりと分かった。そうであるなら、協力もやぶさかではない。


 彼らはせっせと手紙を書いた。中には直接、説得に赴いた者もいる。その甲斐もあり、大多数の貴族や代官たちが、春の初め頃までに挨拶のため、クルシェヒルへとやってきた。


 ただ結論から言うと、人質制度の撤回には時間がかかった。主にバイブルト城とエルズルム城より東に領地を持つ貴族たちが、なかなか挨拶に来なかったのだ。彼らは実際に遠征軍と戦っている。手紙を受け取っても、粛正を恐れる者が多くいた。あるいは、有力者が戦死したために領内がごたついてしまい、それどころではなかったりしたのだ。


 ただ、ジノーファは辛抱強く待った。兵を差し向けて、彼らを討伐してしまうことはしなかったのだ。理由は主に二つ。一つは単純に、彼らは挨拶には来ないものの、兵を挙げることはしなかったからだ。決定的な決裂には至らなかったので、ジノーファは待つことができた。


 二つ目の理由は、北アンタルヤ王国と新領土に存在するそれぞれの戦力だ。これがどう動くのか、この時点では判然としなかった。それでジノーファとしても、安易にクルシェヒルから戦力を動かすことができなかったのである。


 結局、新年の挨拶が完了したのは、初夏の頃だった。ずいぶん時間がかかったと言うべきで、ジノーファは素直に布告に従わなかった者たちを咎めた。遠征軍の進路を妨げた事も含め、彼らの領地の一部を召し上げることにしたのである。


 反対する声はほとんど上がらなかった。無論、領地を削られる側からすれば不満だったろう。だが布告に従わなかった負い目はある。何より、経緯はどうあれ新王と直接敵対してしまったのだ。攻め滅ぼされる可能性さえあった。それを考えれば、穏当な処分と言っていい。


 また手紙を書き送っていた貴族たちからしてみれば、散々挨拶に来るよう促したというのに、それを無視された格好だ。面子を潰された、と言ってもいい。腹立たしさは当然あった。


 また前述したとおり、彼らがなかなか挨拶に来なかったことで、人質制度の撤回が遅れた。それどころか、クワルドなどは「このように反抗的な態度を取る貴族がいる以上、人質制度は残しておくべき」と主張する始末だ。領地の一部召し上げくらいは当然、という空気になっていた。


 ともかくこうして、南アンタルヤ王国の全ての貴族が新王ジノーファに挨拶に来た。王としての彼の正当性と権威が認められたのである。同時に、人質になっていた全ての者に、クルシェヒルを出ることが許された。中には留まっている者もいるが、それは決して王に命じられたからではないし、クルシェヒルを離れても罪に問われることはない。


 人質制度は有名無実となった。ジノーファは満を持して人質制度を破棄し、その撤回を布告した。それを受け、貴族たちは胸をなで下ろした。これで、あとは北アンタルヤ王国のことさえ片づけば、また以前と同じようにようになる。これでアンタルヤ王国も落ち着くだろう、と彼らは思っていた。



 □ ■ □ ■



 さて、ジノーファが治めるアンタルヤ王国イスパルタ朝の版図は、大統暦六四四年初春の時点で七六州を数えた。この内、およそ三分の一にあたる二五州が、いわゆる新領土である。ガーレルラーン二世がルルグンス法国から切り取ったもので、現在はカスリムを総督として統治が行われている。


 この新領土を、ひいては総督カスリムとその麾下の戦力二万五〇〇〇をいかがするのか。それはイスパルタ朝の首脳部にとって、頭の痛い問題だった。しかし放置しておくことはできない。それで貴族らの半分以上が挨拶に来たタイミングで、ジノーファはいよいよ本腰を入れてこの問題に取り組むことにした。


 カスリムは新年の挨拶には来なかった。代理の者を寄越して済ませている。もっとも、だからといって彼に叛意有りと決めつけることはできない。昨年、ガーレルラーン二世に対してもまた、彼は代理の者を送って新年の挨拶を済ませていたからだ。他でもないガーレルラーン二世自身が、それで良いと認めていたのである。


 この場合、勅命によってカスリムは例外とされていた、と解釈できる。一方、ジノーファが出した布告は一般的なものだ。しかもジノーファはこの布告をアンタルヤ王国の国王として出した。となればその布告は、すでに出されている勅命を上書きするものにはならない。ジノーファはアンタルヤ王国の国王として、前王ガーレルラーン二世の権威を認めなければならないからだ。


 無論、上書きも否定も、やろうと思えばできる。だがそのためには、それなりに形式を整えなければならない。要するに、カスリムを例外とする勅命が出されていたのだから、特にカスリムに対して「挨拶に来い」と命じる必要があるのだ。


 だがジノーファはそれをしなかった。「挨拶に来い」とカスリムに命じ、万が一彼がそれを拒否すれば、もはや討伐するより他に道はない。南アンタルヤ王国の貴族や代官らが素直にジノーファに従うのか、それがまだ分からないときに彼と決定的に決裂することはできなかったのだ。


 こうなると、ジノーファもカスリムの例外扱いを承知していた、ということになる。本人が挨拶に来なかったからと言って、それを咎めることはできない。また彼の代理人は、挨拶と一緒に昨年分の税を納めている。謀反を決意しているのであれば軍資金として手放すはずのない金であり、彼はひとまず総督として新王に従う姿勢を見せたのだ。


 だからといってカスリムを完全に信用できるかと言えば、やはりそうではない。ジノーファに全面的に従うつもりであるのなら、やはり本人が挨拶に来るべきだった。それは彼自身も十分に承知していたはず。そもそもこの情勢で代理人を寄越せば、「腹に一物あるのではないか?」と疑われて当然だ。


「カスリム卿には、総督の地位を退いてもらわねばなりますまい」


 そう主張したのはクワルドだった。その言葉に、ジノーファも厳しい顔をしながら重々しく頷いて同意する。カスリムに特別瑕疵があるわけではない。だがやはり、挨拶に来なかった人間をそのまま総督にしておくわけにはいかないのだ。


 しかしそうは言っても理由がない。代理人を寄越したことを、今更咎めるわけにはいかない。税を納め、ともかく従う姿勢を見せている。総督の職責も十分に果たしているし、大きな問題を起こしたわけでもない。


 にもかかわらず罷免を強行すれば、カスリムは強い不満を覚えるだろう。それこそ、罷免をきっかけに謀反を決意させかねない。またそれを見た貴族たちがどう思うか。最悪、同調する者が現われかねない。


「フスレウ。卿はどう思う?」


 ジノーファが意見を求めたのは、南アンタルヤ王国きっての外交通、フスレウだった。彼はかつて通商交渉のためにマルマリズを訪れたこともある。新領土の問題となれば、どうしてもルルグンス法国まで含めて考えなければならない。それで彼もこの場に呼ばれたのである。彼はまずこう切り出した。


「ご存じの通り、いわゆる新領土は数年前までルルグンス法国の一部でした。彼らは当然、内心ではこれを取り戻したいと思っているはずです」


 フスレウの言葉に、ジノーファも頷く。新領土が長らくルルグンス法国の一部であったことは歴史的な事実だ。そしてアンタルヤ王国に割譲されてから、まだ五年も経っていない。その土地に想いが強く残っていることは想像に難くない。


「カスリム総督も、そのことは承知しているでしょう。クルシェヒルにいる我々より、その認識は強いはずです」


「ふむ。つまり背中を気にして兵を動かしていない、とそうことだろうか?」


「その側面は確かにあるはずです。もっとも、総督が気にしているのは法国ではなく、さらにその西かもしれませんが」


 苦笑を浮かべながらフスレウはそう言った。ルルグンス法国の弱兵は有名な話だ。カスリムがそれをことさら恐れているとも思えない。だが法国の西にも国はあり、それらの国々は東へ進む機会を虎視眈々と狙っている。


「ですがそこのことは総督だけでなく、陛下をはじめ我々もまた気にかけるべきことであると考えます。……新領土に混乱を招くような策には、賛成できません」


「まあ、わたしも穏便に済ませたいとは思っている。だが、彼の手元には二万五〇〇〇の戦力がある。新領土で徴兵を行えば、さらに二万はかたいだろう。どれだけ我々が穏便に済ませたいと思っても、彼に自立の意思が芽生えればそれは難しくなる」


 ジノーファは表情を変えず、淡々とそう話した。彼のその様子にフスレウは若干気圧される。為政者の顔だ、と彼は思った。


「クワルド将軍。仮に四万五〇〇〇、多く見積もって五万の戦力を動員可能として、カスリム将軍はそれで二正面作戦を戦えると考えますかな?」


 そう尋ねたのはスレイマンだった。彼がクルシェヒルに来てくれたおかげで、ジノーファもずいぶん仕事が楽になった。彼自身、クルシェヒルの王宮は古巣と言っていい。顔見知りも多く、その人脈も駆使しながら、彼はジノーファを助けている。


「そうですな……。西に一万五〇〇〇を抑えとしておき、三万五〇〇〇で東へ進む。三万五〇〇〇でクルシェヒルを落とせるとは思いませんが、北と連携し、国内の貴族を蜂起させれば、あるいは……」


「わたしなら逆にするね」


 クワルドの話を聞いて一同が険しい顔をしていると、ジノーファが少々投げやりな口調でそう言った。「逆?」と誰かが呟き、三人の視線がジノーファに集まる。彼はさらにこう言葉を続けた。


「一万五〇〇〇は東に置く。そして三万五〇〇〇で西に進む。ルルグンス法国を併合し、さらに西進を続ければ、一年以内に六〇州程度にはなるだろう。こうなると、我々としてもなかなか手は出せない」


「一万五〇〇〇で、我々を防げますかな?」


「防衛線のこともある。彼らの方から攻めてこないのであれば、我々としては北を優先せざるを得ない。……それを気取られてしまうと、西にはさらに多くの戦力を回せるな」


 ジノーファがそう話すと、三人は厳しい顔をして唸った。六〇州という数字はともかく、カスリムが西へ進む可能性は否定できない。むしろ、イスパルタ朝よりルルグンス法国の方が組みやすいのは事実なのだから、そちらを先に狙うのは合理的と言える。


「……要するに、カスリム総督のもとに二万五〇〇〇という戦力があるから問題なのです。まずはこの戦力を取り上げてはいかがでしょう? 『北を攻めるために兵が必要』と言えば筋は通りますし、彼も拒否しづらいでしょう」


 そう提案したのはスレイマンだった。確かに、カスリムの手元にある戦力を減らせれば、それだけ諸々の対処はしやすくなる。だが戦力を取り上げようとすれば、彼ははやり内心で面白くないだろう。それどころか新王が自分を粛正しようとしていると考え、危機感を募らせるかも知れない。


(そもそも……)


 そもそも、自分はカスリムをどうしたいのだろうか。ジノーファはそう自問した。邪魔だと思っているわけではないし、まして粛正しようと思っているわけでもない。そのことはすぐに、そしてはっきりと言える。


 かつてカスリムの部下だった者たちをロスタムから紹介してもらい、ジノーファは彼らからも話を聞いていた。彼らの話や、総督としての仕事ぶりをから察するに、やはりカスリムは優秀な軍人だ。命令には忠実だが、与えられた権限の中では柔軟に対応する。戦略的な視点を持っていることも、セルチュク要塞の一件から明らかだ。


 こういう人材は、手放したくない。ジノーファは強くそう思った。それだけではない。主にガーレルラーン二世に対してであったとは言え、カスリムが忠義を尽くして働いてきたのは事実なのだ。これを踏みにじるようなことは、してはならない。


「……カスリムは、どこかの家や領地を継ぐ予定はあるのだろうか?」


「無いでしょう。そのような予定があるのなら、そもそも近衛軍で将軍にはなりますまい」


「では、カスリムには領地と爵位をやろう。それをもって彼のこれまでの働きに報いる」


ユスフ(『人質は返した。だが時代がもとに戻るわけではない』って日記に書いておこう)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 陛下、素晴らしいご回答でした [気になる点] しばらくは新任陛下の人間関係の悩みがテーマでしょうか? 国も会社も、一番難しいのは人間関係ですね
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