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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国

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遠征 -使者-


 ガーレルラーン二世率いる南アンタルヤ軍主力との決戦に勝利した後、ジノーファは一度バイブルト城に帰還して補給を受けた。そして大統暦六四三年の年の瀬と、六四四年の年明けをその城で迎えた。その後、彼は負傷兵を中心に約三〇〇〇の兵を城に残し、およそ二万五〇〇〇の兵を率いて今度はエルズルム城目指して北上する。


 なお、もともとバイブルト城に詰めていた輸送部隊の二〇〇〇は、一度リュクス川の西岸まで戻らせた。次の補給物資を受け取った上で、今度はエルズルム城方面へ輸送させるためだ。


 エルズルム城に貼り付けておいた斥候からの報告によると、ガーレルラーン二世が出陣して以来、別の部隊が後詰めに入ったりはしていないという。ということは、エルズルム城を守っている守備隊の戦力は多くても三〇〇〇程度であろうと思われた。


 これを攻め落とすことは難しくない。だがそうする前に、ジノーファは降伏を促す使者を送った。使者は城砦司令官に、遠征軍が南アンタルヤ軍主力を撃破したこと、その際ジノーファがガーレルラーン二世に重傷を負わせたことを告げた。


「と、とても信じられぬ……! まさか、陛下が……!」


 エルズルム城の城砦司令官は、あえぎながらそう呟いた。もしかしたら彼は、信じられなかったのではなく、信じたくなかったのかもしれない。そんな司令官に使者は持参したあるモノを突きつける。


 それはガーレルラーン二世が愛用していた槍だった。ジノーファに切り落とされた右腕で握っていた槍である。それを見て、城砦司令官は息を呑み絶句する。そんな彼に対し、使者はさらに語った。


「南アンタルヤ軍の主力が敗れていないと言うのなら、なぜ我が軍はこの場にいてこの城に対して攻囲陣形を敷いているのか。貴官がガーレルラーン王に忠誠を尽くすのは立派だが、しかしどれだけ忠誠を尽くそうとも、ガーレルラーン王が救援に来ることはない。エルズルム城は孤立したのだ。かくなる上は最善の道を選ばれよ」


 城砦司令官の心はついに折れた。ただ、彼は無条件で降伏したわけではなかった。エルズルム城には一五〇〇の兵が残っているが、彼らがクルシェヒルへ退去することを降伏の条件としたのである。


 その条件を使者から伝えられると、ジノーファは少し考えてからそれを了承した。無傷でエルズルム城を手に入れられるのなら、決して悪くない条件だ。それに、今更一五〇〇の兵が合流したところで、ガーレルラーン二世と南アンタルヤ軍の置かれた状況は好転しない。優位を確保したがための余裕だった。


 守備隊の退去を見届けてから、ジノーファは遠征軍を率いてエルズルム城に入城する。彼らはそこに三日間留まり、輸送部隊から補給物資を受け取った。そして十分な物資を確保した上で、遠征軍は改めてクルシェヒル方面へ向けて出陣する。なお、城にまた輸送部隊の兵を残した。


 この行動は、決してクルシェヒルの攻略を意図したものではない。遠征軍はバイブルト城とエルズルム城の二城を確保した。戦略目的を達成したのであり、これ以上戦争を続けることはむしろ国益に反する。それで、クルシェヒルの手前まで軍を進め、圧力をかけた上で交渉に持ち込むのが、ジノーファと遠征軍司令部の方針だった。


 そして情勢はここから怒濤の展開を見せることになる。



 □ ■ □ ■



 父であるガーレルラーン二世が負傷してクルシェヒルに帰還した。夫であるオルハンからそのことを告げられた時、ユリーシャは最初それを冗談か何かだと勘違いした。しかし冗談ではないことが分かると、彼女は顔面を蒼白にする。そして王宮に向かって一目散に駆け出した。見舞いのためである。


 だが結論から言えば、ユリーシャはガーレルラーン二世に面会することはできなかった。当の本人から、「忙しい」とけんもほろろに面会を断られたのだ。ユリーシャはそれでも心配だったのだが、「忙しい」ということは仕事をしているということで、それなら怪我の具合はそれほど悪くないのだろう、と彼女は無理矢理自分を納得させて屋敷へ戻った。


 その後、ユリーシャはガーレルラーン二世が右腕の肘から先を失ったことを知る。まさかそれほどの大怪我をしていたとは知らず、彼女はまた急いで王宮へ向かった。しかしまたしても彼女は父王に会うことができない。そして悶々としたままおよそ二週間が過ぎた頃、彼女は唐突に王宮へ呼び出された。


「こちらでございます」


 そう言ってユリーシャを先導するのは、ガーレルラーン二世に仕える書記官のハムザである。彼はユリーシャをガーレルラーン二世の寝所へ案内した。衛士たちが厳重に警備するその部屋に入った瞬間、ユリーシャは思わず顔をしかめた。


 寝所には、死臭が漂っていた。実際に死体が安置されているわけではない。室内にいる人間は全員生きている。だが生きていることと健康であることは別問題だ。薄暗い部屋の中、ベッドに横たわるガーレルラーン二世からは、死の気配が濃密に感じられた。


「来た、か」


 ユリーシャの入室に気付き、ガーレルラーン二世が身体を起こした。その動きがひどくぎこちない。彼の顔はやつれていて、まるで十も歳を取ったかのように見える。その姿にユリーシャは衝撃を受けた。


 ユリーシャの知る父王は、巌のような人だ。温かみのある人ではないが、弱々しさとは無縁の人だった。その人が、今やベッドから身体を起こすことにも苦労している。目の前の事とは言え、ユリーシャはそれが信じられなかった。


 ガーレルラーン二世がゆっくりと身体を起こすと、侍女がその肩にガウンを掛けた。その下から短くなった右腕がのぞく。痛々しいその姿に、ユリーシャの胸がまた痛んだ。そして彼女は思わずこう尋ねた。


「陛下、どうして……!?」


「右腕の方は、すぐにポーションで止血が出来たのですが……。脇腹の傷の方に、砕けた鎧の破片が入り込んでしまい、ポーションを使うことができなかったのです」


 破片を取り除かなければ、ポーションは使えない。しかし敵軍が迫ってくる状況で、悠長にしている余裕はなかった。それでガーレルラーン二世は馬を駆けさせることを優先した。まともに脇腹の傷を治療したのは、クルシェヒルに帰還してからのことだ。


 その強行軍の甲斐もあり、ガーレルラーン二世は敵の追撃を振り切った。だがその代償は大きかった。多量の血を失い、さらに傷が原因だと思われるが、高熱を発した。しかし彼は休まなかった。高熱を押して敗戦処理を続け、そして先日ついに限界に達したのだ。


 ユリーシャは父王に駆け寄ろうとしたが、当人がそれを視線で抑える。彼女は悲壮な顔をしたが、ガーレルラーン二世はそれを無視してハムザにこう命じた。


「ハムザ、説明せよ」


 ハムザは「はっ」と応えて折り目正しく一礼すると、ユリーシャに椅子を勧めてから現在の状況を説明した。その中で父王を負傷させたのがジノーファであることを知り、ユリーシャは内心で複雑な気持ちになった。


「……そして昨日、エルズルム城から退去した兵たちが、クルシェヒルに戻ってまいりました。彼らの話を聞く限りでは、イスパルタ王は現在、エルズルム城にいるものと思われます。つまりアンタルヤ王国はバイブルト城とエルズルム城の二城を奪われた事になります」


 その説明を聞き、ユリーシャは頭の中で地図を広げた。二城を奪われたということは、イスパルタ軍がここクルシェヒルを狙うに当たって、もはやそれを妨げるものが何もないということだ。


 もちろん、王都クルシェヒルの城壁は高く堅牢だ。だが王都が敵に直接狙われる状況というのは、受ける圧迫感がこれまでとは段違いである。加えて、ガーレルラーン二世は負傷して衰弱している。ユリーシャに軍事的なあれこれは分からないが、それでも状況がかなり逼迫している事だけは分かった。


「……今後、イスパルタ軍はクルシェヒルへ向けて進軍してくるだろう。戦うにしろ、交渉を望むにしろ、その方が有利だからな」


 ハムザの説明を引き継ぎ、そう語ったのはガーレルラーン二世だった。彼の口調は落ち着いていたが、同時に苦しそうでもある。本来なら、こうして身体を起こしているだけでも辛いのだろう。ユリーシャは横になるように言おうと思ったが、その前にガーレルラーン二世の視線が彼女の方を向く。そして彼はこう言った。


「ユリーシャよ。イスパルタ軍が確認されたら、書状を持って使者として赴け。……ハムザ」


「はっ」


 事前に用意していたのだろう。ハムザは一礼すると、部屋の隅に置いてあったトレイを持ってきて、ユリーシャに差し出す。そこには書状が載せられていて、彼女は促されてそれを手に取り、書面を目で追った。そして眼を疑い、思わず叫ぶ。


「……っ、陛下、これは!?」


「お前が交渉をする必要は無い。ただ書状を渡すだけで良い」


 ユリーシャの叫びを無視して、ガーレルラーン二世はそう言った。そして言うべきことは言ったばかりに、再びベッドに身を横たえる。傍に控えていた侍女が、彼の身体に毛布を掛けた。


 書状をトレイに戻してから立ち上がると、ユリーシャはガーレルラーン二世の枕元に向かった。見下ろす父王の姿からは、かつての覇気はまったく感じられない。頬は痩せこけ、眼がくぼんでいる。何と声をかけて良いのか分からず、ユリーシャはついこんなことを言ってしまった。


「……ヘリアナ侯爵家は、政に関わることを禁じられております」


「勅命である」


 ガーレルラーン二世は薄く笑ってそう応えた。揶揄するような、皮肉げな笑みではない。面白がるような、聞き分けのない子供に言い聞かせるような、そんな笑みだ。彼のそう言う笑みを、ユリーシャはずいぶん久しぶりに見た気がした。


 父はもうすぐ死ぬのだろう。ユリーシャはそう直感した。ガーレルラーン二世自身も、己の死期を悟っている。そして死を目の前にして、彼は冷然と構えてきたその心を、ようやく緩めようとしているのではないか。ユリーシャはそう思った。


「御意に、従います」


 ユリーシャはそう応えるしかなかった。ガーレルラーン二世が横になったまま「うむ」と応じると、ハムザが書状を封筒に収めて封をする。ユリーシャはそれを受け取ると、大事にしまった。そして、最後にこう問い掛ける。


「イスパルタ王に、何かお伝えすることはございますか?」


「何も。……いや、『聞きたいことがあるのなら、余が生きているうちに来ることだ』。そう、伝えておけ」


「畏まりました」


 ユリーシャは静かに一礼した。ガーレルラーン二世は肩の荷を下ろそうとしている。彼女は今度こそ、はっきりとそれを確信した。喉の奥から、涙がこみ上げてくる。彼女は何とかそれを堪えた。


「……近いうちに、ファリクを連れてまいります」


「無用だ」


「いいえ。必ず連れてまいります」


「……勝手にするがいい」


 どこか呆れた様子で、ガーレルラーン二世はそう応える。ユリーシャは「はい」と言って一つ頷いた。イスパルタ軍が双翼図を掲げてクルシェヒルに迫ったのは、その四日後の事だった。



 □ ■ □ ■



 遠征軍がクルシェヒルを視界に収めたとき、その正門は当然のことながら固く閉じられていた。クルシェヒルは大きな都だ。四方を包囲するには最低でも五万の戦力が必要で、遠征軍はその半分しかいない。それでジノーファは全軍を正門の正面に布陣させた。


 さてその数時間後。何の前触れもなく、クルシェヒルの正門がゆっくりと開かれた。敵が仕掛けて来るのかと思われ、遠征軍の間に緊張が走る。だが正門をくぐって出てきたのは、二頭引きの馬車一台と、その護衛と思われる騎兵が十騎ほど。彼らは真っ直ぐに遠征軍のほうへ向かってきた。


「止まれ! 何者だ!?」


 最前線に配置された部隊の隊長が、その一団に対してそう詰問する。馬車は、凝った装飾はされていないものの、上等な造りであることが見て分かる。護衛が付けられていることも含め、乗っているのは貴人だろう。恐らくは南アンタルヤ王国側からの使者であろうと思われた。


 その予想は当たった。しかし隊長は度肝を抜かれることになる。護衛のリーダーと思しき男が近づいて来て、こう答えたのである。


「馬車に乗っておられるのはヘリアナ侯爵夫人である。夫人はジノーファ陛下に宛てた親書を、ガーレルラーン陛下から預かっておられる。ジノーファ陛下へ直接お渡しするようにとのお達しである。陛下へのお目通りを願いたい」


「しょ、少々待たれよ!」


 隊長は慌てて上官に報告した。報告を受けた上官も驚く。ヘリアナ侯爵夫人といえば、降嫁されたユリーシャ王女のことだ。そしてユリーシャがジノーファをかわいがっていたことや、ジノーファも彼女を慕っていたことは広く知られている。断じて粗略な扱いをするわけにはいかず、彼女は丁重に案内された。


 ユリーシャが大きなテントに案内されると、そこにはすでにジノーファが待っていた。テントの中には、少人数しかいない。大勢でユリーシャを囲むのが心苦しく、ジノーファが人数を制限したのだ。この場にいるのは将軍以上の者と、あとは彼の従者であるユスフとラグナだけだった。


「姉上、お久しぶりです」


 ジノーファはユリーシャの姿を見ると、柔らかく微笑んでそう挨拶をした。そしてユリーシャに席を勧める。一方でジノーファの正面に座ったユリーシャは、困惑を顔に浮かべた。二人の間に血縁関係はない。そのことはジノーファも十分に承知しているはずなのだが。


「まだ、わたくしのことを姉と呼んで下さるのですか?」


「お許しいただけるのなら、是非」


「是非もないことでございます。どうぞ御意のままに」


 ユリーシャがそう答えると、ジノーファは嬉しそうに微笑んだ。それからクワルドに促されて、二人は早速本題に入る。まずジノーファがこう切り出した。


「ガーレルラーン陛下から親書を預かっている、と聞いています」


「はい。こちらでございます」


 ユリーシャが差し出した書状を、ジノーファはユスフを介して受け取る。ジノーファは差出人と宛名を確認してから、封を破って中の書状を確認する。書面を目で追うと、ジノーファは「ふむ」と小さく呟いた。


 ジノーファのその反応に、ユリーシャは彼の成長を強く感じていた。彼女も一度確認しているので、親書の内容は把握している。あの内容を読んで、彼はごく限られた反応しかしない。その落ち着いた様子が、彼女の知るジノーファとなかなか結びつかなかった。


「……姉上。父上、ガーレルラーン陛下は、他に何か仰っていましたか?」


「『聞きたいことがあるのなら、余が生きているうちに来ることだ』、と」


「なるほど。……『生きているうちに』ということは、お加減は良くないのですか?」


「死期を悟っておられるものと、存じます」


 ユリーシャがそう答えると、クワルドたちがざわめいた。彼女の後ろに控えている、二人の護衛も焦ったような表情を浮かべている。本来なら秘匿しておくべき情報だろう。だが親書に書かれていることに比べれば、この程度のことは何でもない。


 ユリーシャはそう思っていたし、ジノーファも同様であったのだろう。彼は落ち着いた様子で一つ頷いた。そして親書を回覧させる。クワルドをはじめ、それを見た者たちは揃って絶句した。


 ――――玉璽を譲渡する。


 そこにはそう書かれていた。


 今回の遠征の目的はバイブルト城とエルズルム城の奪取で有り、それに付随して国境際の十州弱を切り取るつもりだった。だが玉璽を譲るとは、つまり王権と王位を譲ることに等しい。南アンタルヤ王国の版図は五〇州。イスパルタ王国の約二倍だ。それを一挙に負わされた格好である。


 玉璽を、そして南アンタルヤ王国の王位を得ることができるのだ。本来なら喜ばしいことだろう。クワルドをはじめとする幕僚たちも、驚きつつ喜んでいる者たちがほとんどだ。だがジノーファとしてみれば、ようやく遠征の終わりが見えてきたところへ、諸々全てを丸投げされたようなものだ。


 まったく予想外、予定外、想定外の展開である。しかしこれを拒むことはできない。拒んでみたところで、振り上げた拳を下ろす先がないからだ。それに下手を打てば、北アンタルヤ王国のイスファードに全てを持って行かれかねない。ならば手を伸ばしてそれを掴むより他にないのだ。


 こうしてジノーファの始めた遠征は、彼の想定を大きく越えて新たな局面へと突入したのだった。



ユリーシャ「抜け目のない人選ね……」

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― 新着の感想 ―
[一言] ヒャッハー新鮮な更新ダァ!ちょっと開幕から怒涛の展開でどうなるか全く想像がつかねぇぜ!楽しみだぁ!
[一言] 200話到達おめでとうございます! なぜ一気に渡す気に成ったのかねぇ…… 裏切り者の本当の息子より、自分の力で成し遂げてきたジノーファに託す気に成った? よく解らないが、ここから真実や統…
[良い点] あ~こう来たか。ガーレルラーンの事だから恐らくイスファードに譲ることはないと思っていましたが、えらくあっさり王位継承を打診したな。自分を超えたジノーファに感心したのか、それとも他に理由があ…
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