遠征 -殿軍-
バイブルト城を再奪取したジノーファは、翌日、早めの昼食を食べてから出陣した。向かうのはクルシェヒル方面。ガーレルラーン二世率いる南アンタルヤ軍の主力を、先行している遠征軍本隊との間で挟み撃ちにするためだ。
輸送部隊の二〇〇〇は、バイブルト城に残してある。ただし、この内一〇〇〇はリュクス川の西岸まで引き返し、次の補給物資を受け取ってくることになっている。当面は一〇〇〇の兵で城を守ることになるが、周囲に脅威となる敵はいないはずなので、これで問題はないはずだった。
別働隊はもちろん本隊も含め、遠征軍の兵糧に今のところ心配はない。バイブルト城には相当量の兵糧が保管されていた。加えて、ガーレルラーン二世が来るまでの間に、周辺からさらに買い集めたのだ。
バイブルト城を放棄した際、それらの食料は当然全て持ち出された。本隊と別働隊の間でしっかりと分配されており、あと二週間程度は補給なしで戦うことができるだろう。逆を言えば、それまでに南アンタルヤ軍主力を退け、バイブルト城へ帰還できなければ少々まずいことになる。
(勝てる、はずだ。いや、勝てる)
ジノーファはそう自分に言い聞かせた。遠征軍本隊は街道上で敵を待ち受けるわけではない。街道から少し外れた場所に小高い丘があり、そこに防御陣形をしいて敵を迎え撃つことになっている。
遠征軍本隊は南アンタルヤ軍主力と比べ、数の上では一万ほど劣る。だが有利な地形で守りを固めた二万を、三万の戦力で圧倒するのは難しい。そして手間取れば別働隊がその背中を襲う。これで趨勢はほぼ決するだろう。
ただ、ガーレルラーン二世がバイブルト城を再奪取されたことに気付いていないと考えるのは、少々楽観的過ぎるだろう。彼は何かしらの手を打つはずだ。その一つとして、追撃してくる別働隊に対し、抑えの兵を置いてこれを阻もうとすることが考えられる。
もっとも、「それはそれで構わない」というのがジノーファらの考えだ。あまりに多くの兵を抑えに回せば、それだけ本隊にかかる圧力が減る。作戦全体としての成功率はむしろ上がるだろう。
最も良くない展開とされているのは、ガーレルラーン二世が別働隊に狙いを定めてきた場合だ。その場合、別働隊はバイブルト城まで引き返す事になっている。そして本隊が敵の背中を襲うのだ。その辺りの連携が上手く行くかが、勝利の鍵となるだろう。
ただ、ガーレルラーン二世が引き返して来る可能性はあまり高くないと見込まれている。理由は南アンタルヤ軍の兵糧だ。彼らはエルズルム城を出陣し、バイブルト城を経由してクルシェヒル方面へ向かった。
この間、南アンタルヤ軍は大がかりな補給をしていない。バイブルト城も空だったから、そこで食料を得ることはできなかった。そろそろ兵糧が尽きる、というのが遠征軍幕僚たちの見立てだ。そして現在の彼らの位置から一番近い補給基地は、何を隠そうクルシェヒルなのである。
遠征軍別働隊の存在を知ったとしても、十分な兵糧がなければ南アンタルヤ軍は戦えない。それでまずは遠征軍本隊を蹴散らし、一度補給を受けてから別働隊に迫る。それがガーレルラーン二世の基本戦略になるだろう。
ジノーファらはそう考えていたわけだが、では実際のところどうだったのか。クルシェヒル方面へ行軍中のガーレルラーン二世がバイブルト城への攻撃を知ったのは、その翌日の午前中のことだった。
バイブルト城を任されていた守備隊長は、ロストク軍が威嚇を始めた段階で伝令をガーレルラーン二世のところへ送っていた。ただ、この伝令は必ずしもバイブルト城周辺の地理に明るいわけではなかった。暗がりのなか道に迷い、彼のもとへたどり着くのに、少々時間がかかってしまったのだ。
報せを受け、ガーレルラーン二世は顔をしかめた。自分が敵の策略に引っ掛かったことを悟ったのだ。ただバイブルト城への攻撃はそれほどの痛手ではない。仮に落とされたとして、兵を一〇〇〇失うだけだ。見方を変えれば敵は分散しているわけで、各個撃破の好機とも受け取れる。
だが、どこからどこまでが敵の策なのか。それが判然としない。例えば南アンタルヤ軍主力が引き返したとして、クルシェヒル方面へ向かった敵軍の目的は何なのか。そうやって時間を稼ぎその間にクルシェヒル方面を落とすことが目的なのか、それとも反転して主力の背中を襲うことが目的なのか。
「敵の数はどれほどであったか?」
「な、何分周囲が暗かったもので、はっきりとしたことは……。た、ただ、城の兵よりは多かったのではないかと」
伝令の受け答えは歯切れが悪かった。ただ夜襲であれば、敵の数がはっきりと分からないのも仕方がないと言える。それでガーレルラーン二世もそのことで伝令の兵を責めたりはしなかった。
これまでの様子からして、敵軍の総数は三万強。そして街道に残されている痕跡からして、この内、少なくとも三分の二以上がクルシェヒル方面へ向かっていると思われる。そうするとバイブルト城を襲ったのは多くても一万弱。
「実際には、五〇〇〇と言ったところではないでしょうか?」
ガーレルラーン二世と一緒に報告を聞いていた参謀の一人がそう発言する。彼は重々しく頷いた。何にせよ、敵が後ろにいることに間違いはない。そしてこの時、彼は選択を迫られることになった。
このまま進むのか、それとも引き返すのか。ガーレルラーン二世はこのまま進むことを選んだ。もちろん、後方は警戒する。周囲に放つ斥候の数を増やす必要があるだろう。だが全軍で引き返すことはしないし、一隊を割いてバイブルト城へ向かわせることもしない。彼はそう決断した。
クルシェヒル方面へ先行している部隊こそ敵軍の本隊であり、まずはこれを撃破する。敵の戦争継続能力を粉砕するのだ。また普通に考えて、ジノーファがいるのは本隊だろう。彼の首を獲れば、それで全て終わる。
逆にジノーファがいるのが別働隊でも構わない。敵本隊さえ叩き潰してしまえば、別働隊の戦力は恐れるに足らない。いや、そもそも戦う以前にバイブルト城へ、そしてイスパルタ王国本土へ撤退しなければならなくなるだろう。要するに敵本隊さえ叩いてしまえば、それで戦争の趨勢は決するのだ。
また、そろそろ兵糧が残り少なくなっていた。全軍で引き返せば、敵の別働隊を撃破せしめたとして、敵本隊と戦う前に兵糧が尽きてしまうだろう。補給の準備を指示してはいるが、クルシェヒルとの間に敵がいれば、部隊を出して合流させることは難しい。そうであればやはり、このままクルシェヒル方面へ進むより他にない。それがガーレルラーン二世の示した方針だった。
ガーレルラーン二世はそのまま兵をクルシェヒル方面へ進めた。バイブルト城について続報が来たのは、その日の夕方になってからだった。ジノーファらが解放した兵の一部が、南アンタルヤ軍主力のあとを追いかけて城の陥落を報告したのだ。
その報告により、バイブルト城を放棄する以前に敵は抜け道を造り、それを使って易々と城内へ侵入したようであることが判明した。そして妙な話にも思えるが、それを聞いてガーレルラーン二世や参謀たちは、敵別働隊の五〇〇〇という戦力について確信を深めた。
五〇〇〇であれば、二手に分かれても二五〇〇ずつ。一方が正面で陽動を行い、他方が抜け道を使って城内に侵入する。二倍以上の兵が城内に侵入してくるのだから、バイブルト城が一夜で陥落してしまってもおかしくはない。
バイブルト城の陥落を知っても、ガーレルラーン二世はクルシェヒル方面へ進んだ。そしていよいよ彼は敵本隊を捕捉する。だがイスパルタ軍本隊の様子は彼の予測とは異なっていた。彼らは街道を外れ、小高い丘で防御陣形を敷いていたのである。
そして同日中に、ガーレルラーン二世は敵別働隊が背後から迫っていることも斥候によって知った。前方では敵本隊が待ち構えており、後背では別働隊がうごめいている。どうやら敵の狙いはクルシェヒルの攻略ではなく、南アンタルヤ軍の主力を挟み撃ちにすることらしい。それを察し、ガーレルラーン二世は冷笑を浮かべた。
斥候の報告によれば、敵別働隊の戦力はやはり五〇〇〇程度。ただ、確認されたのはイスパルタ軍のみで、ロストク軍については確認されていない。丹念に探索したわけではないので見落としている可能性はあるが、恐らくはバイブルト城を守っているものと思われた。退路を確保するためには必要な事だ。
イスパルタ軍だけで五〇〇〇となれば、バイブルト城を再奪取した敵別働隊全体では、おそらく七〇〇〇程度の戦力を揃えていたのであろうと思われた。その数に不自然さはない。別働隊を組織した時点で、抜け道というカードはあれど、ガーレルラーン二世が城にどれだけの兵を残すのかは分からなかったのだから。
加えて、挟み撃ちが狙いならバイブルト城は速やかに再奪取する必要があるし、兵の数があまりに少なくては挟み撃ちにしたときのインパクトも弱くなる。大目に兵を割いたとしてもおかしくはない。また本隊の戦力はそれだけ減っているのだ。敵の戦力を分散させたという点でも悪くはない。
そして五〇〇〇程度であれば、殿に三〇〇〇もあれば、撃退することは無理でも、進軍を阻むことはできるだろう。その間に敵本隊を撃破するのだ。それで戦争の趨勢は決する。別働隊はその後に叩けば良い。
「そなたらに名誉挽回の機会をやる。見事に敵を防いで見せよ」
ガーレルラーン二世がそう言って三〇〇〇の兵を任せたのは、バイブルト城でイスパルタ軍の捕虜になっていた、守備隊の参謀や貴族らであった。彼らは粛々とその任を拝命する。なお、城砦副司令官だった男が殿軍全体の指揮を執ることになった。
五〇〇〇の敵を三〇〇〇で防げというのだから、厳しい戦いになるだろう。彼らもそれは覚悟の上だった。だが見事任務を果たせば、まさに勝利の立役者と言っていい。もっとも、彼らは武功に惹かれてこの任務を引き受けたわけではなかった。
彼らは一度失態を犯している。戦後、ガーレルラーン二世はその責任を追求するだろう。そしてこれまで事例を見る限り、彼はそのような時に温情を見せる主君ではない。だがここで殿を成功させれば、その失敗を雪いであまりある。
「やり遂げねばならぬ。やり遂げねば、もはやこの国に我らの居場所はない」
彼らはそう話し合った。ただその一方で、彼らが団結していたのかは怪しい。本音を話し合うほどの信頼関係は彼らにはまだなかったし、それを築くための時間もなかった。結局、うわべだけの正論を頼りに、彼らは敵を待ち受けることになった。
さて、殿軍を残したことで、ガーレルラーン二世が率いる南アンタルヤ軍主力の戦力は二万六〇〇〇となった。これを率いて、彼は敵本隊が陣取る小高い丘へと向かう。
彼は以前、「戦力の分散は愚策である」と断じた。しかし彼はこれまでにバイブルト城に一〇〇〇、殿軍に三〇〇〇をそれぞれ残してきた。結果だけ見れば、戦力を分散させてきた訳だ。それがどうしても必要な事であったのか、それとも実際には不要であったのか、その評価は難しいところだ。
ただ一つだけ確実に言えるのは、ガーレルラーン二世は敵戦力の推定を誤ったということだ。彼は追撃してくる敵別働隊を五〇〇〇と見積もった。だが実際のところ、ジノーファは一万の戦力を率いていた。この差が、ガーレルラーン二世の見通しを大きく狂わせることになる。
イスパルタ軍五〇〇〇が姿を現すと、殿として残った南アンタルヤ軍三〇〇〇に緊張が走った。殿軍に求められているのは、守りを固めて時間を稼ぐこと。だがその一方で準備が足りず、柵などはほとんど用意できていない。殿軍の兵士たちは盾を並べて長槍を突き出し、まるでハリネズミのように敵を威嚇して待ち受けた。
しかしイスパルタ軍はなかなか仕掛けてこない。殿軍はじりじりと緊張を強いられ、その中でただ時間だけが過ぎていく。時間を稼ぐという意味では、殿軍にとって望ましい展開と言える。
だがイスパルタ軍別働隊の目的は、ここを素早く突破して南アンタルヤ軍主力を挟み撃ちにすることであるはず。いたずらに時間を浪費してどうするのか。殿軍の将兵の間に困惑が広がる。
その中には嫌な予感を覚えた者もいただろう。そしてその予感は的中する。合計で約八〇〇〇の兵が睨みを始めてからおよそ一時間後、緊張感の漂う戦場に新たな一団が到着した。ルドガー率いるロストク軍五〇〇〇である。それを見た瞬間、殿軍の指揮官と参謀らは絶望にわなないた。
「て、敵は五〇〇〇という話では無かったのか!?」
参謀の一人がそう叫ぶ。大半の者たちが同じ気持ちであったろう。どう見ても敵の戦力は殿軍の倍以上だ。ともすれば三倍もあるかも知れない。時間を稼ぐだけで良いと言われているが、果たしてどれほど持ちこたえる事ができるだろうか。
「お、臆するな! 別働隊にあれだけ割いたということは、逆を言えば本隊の戦力はそれだけ少なくなっていると言うこと。陛下は速やかに敵を撃滅し、こちらに戻ってこられる。それまで持ちこたえるのだ!」
そう言って指揮官は味方を鼓舞したが、目の前の現実はいかんともしがたい。殿軍の将兵らは戦闘が始まる前から腰がすでに退けていた。そこへ戦力を整えた敵軍が、満を持して動き始める。
イスパルタ軍とロストク軍はそれぞれ歩調を合わせながら左右に動いた。それを見て指揮官は渋面を浮かべる。イスパルタ軍もロストク軍も、それぞれ単独であっても殿軍より数が多い。それが二手に分かれたとあっては、まずどちらに対処するべきか。
片方に兵を向ければ、もう片方が殿軍を背後に回るだろう。かといってただでさえ少ない兵をさらに分けては、結局すり潰されて終わりだ。その一方で、亀のように動かないでいたら、あっという間に包囲されてしまう。
「防御を固めつつ後退しろ!」
指揮官はそう命じた。そう命じるより他になかったとも言える。殿軍はじりじりと下がったが、しかし敵軍の方が動きが速い。徐々に距離を詰められ、矢が射かけられた。殿軍の側も応射するが、多勢に無勢。明らかに数が違った。
そうしている内に、イスパルタ軍とロストク軍は殿軍を半包囲した。側面を突かれないようにするため、殿軍は左右にも盾を並べ長槍を突き出す。しかしそうすると、今度は思うように後退できない。そして足が止まってしまえば、完全に包囲されるのは時間の問題だ。
「も、もう駄目だ!」
最初に逃げ出したのは誰であったのか。戦意の喪失は瞬く間に殿軍全体に波及した。指揮官や参謀たちはそれを押しとどめる事ができない。手塩にかけた子飼いの兵ではなかったし、何より彼ら自身の心が遁走に傾いていたのである。
その原因は、突き詰めて言えばガーレルラーン二世にある。彼の、バイブルト城が再奪取されてからの対応は、客観的に見て合理的であったと言えるだろう。ただ同時に、彼がバイブルト城を見捨てたこともまた事実だ。敵襲撃の報を受け、後詰めをしなかったのだから、そう受け取られても仕方がない。
そして殿軍の将兵らはそれを見ていた。いざとなれば自分たちも見捨てられるのではないのか。彼らがそう考えたとしても無理はない。国が自分たちを助けてくれないなら、どうして国のために戦うことができるだろうか。
さらに殿と聞くと、南アンタルヤ軍の将兵が思い浮かべずにはいられない事がある。アンタルヤ王国時代、ガーレルラーン二世が当時王太子であったジノーファに殿を命じたあの出来事だ。
あの時、ガーレルラーン二世はジノーファを戦場で死なせてしまうつもりだった。彼がそうはっきりと明言したことはない。だがその後の物事の推移を見れば、彼がそれを意図してたことは明白である。
今回もそうなのではないか。ガーレルラーン二世は「名誉挽回の機会をくれてやる」と言っていたが、腹の内ではバイブルト城を守れなかった役立たずを処断しようとしているのではないのか。殿軍の指揮官をはじめ参謀らは、頭からその疑念が離れずにいたのだ。
殿とは苦しい役回りだ。主君が信頼できないようでは、到底戦えない。殿軍は崩れた。物理的に突き崩されたわけではない。戦意を挫かれたのだ。そしてその主な原因は、敵ではなく味方にあった。
後世の歴史家は言う。「あるいは、ガーレルラーン二世の敗北はこの瞬間にこそ決まったのかも知れない」と。
ガーレルラーン二世「余に負けフラグ、だと……?」




