遠征 -再奪取-
「陛下。南アンタルヤ軍がバイブルト城に入りました」
バイブルト城を監視していた斥候からその報告を聞き、ジノーファは大きく頷いた。彼は今、バイブルト城から見て南東へ移動した場所にいる。バイブルト城からは死角になっている場所で、彼と一緒に一万二〇〇〇の兵が潜んでいた。
「全軍が城に入ったのか?」
「いえ。まずは一〇〇〇ほどでしょうか。城の中を検めるようです。兵の大半は、城の外で警戒を続けています」
それを聞き、ジノーファはもう一度頷いた。そして監視を続け、動きがあればまた報告するように命じる。斥候は一礼してから駆け出した。その背中を見送ってから、ジノーファは拳を握りしめる。ここまでは計画通りだ。
『バイブルト城を、放棄しようと思う』
ジノーファがそう言ったとき、クワルドをはじめ遠征軍の幕僚たちは耳を疑った。中には彼の正気を疑った者さえいたかもしれない。それくらい、ジノーファの発言は衝撃的だったのだ。
バイブルト城を頼みにして、ガーレルラーン二世が率いる南アンタルヤ軍の主力と戦う。幕僚たちはそのつもりでいたのだ。遠征軍と南アンタルヤ軍の戦力はほぼ同じ。そうである以上、バイブルト城を押さえた遠征軍の方が有利であり、いかにガーレルラーン二世が相手とは言え勝つことは難しくない。彼らはそう考えていたのである。
だがその見通しは、ジノーファには楽観的過ぎるように思えた。そもそも籠城戦とは援軍を期待して行うものだ。だがこれ以上の兵を動員することは、イスパルタ王国には難しい。つまり遠征軍にこれ以上の援軍はない。
むしろ時間と共に戦力を増強できるのは、南アンタルヤ軍の方であろう。ここは彼らのホームグラウンド。この周辺で新たに徴兵を行っても良いし、新領土にいるカスリム将軍を呼び寄せても良い。あるいは北に展開している貴族らの兵を使うこともできるだろう。そうやって十分な戦力を集めてから、改めて攻めかかれば良いのだ。
また新たに戦力を集めなくとも、ガーレルラーン二世にはできることがある。一万ほどの兵をバイブルト城への抑えとして置いておき、残りの全軍を率いて東へ向かう、つまりイスパルタ王国本土を狙うのだ。
王都マルマリズを落とすのは容易ではないだろう。だが国境に近い地域を荒らし回り、補給線をズタズタに寸断することは容易だ。そして補給線が寸断されたら、遠征軍はバイブルト城で孤立する。後は干上がるのを待てば良い、というわけだ。
バイブルト城に固執するのはむしろ危険である。そのことを理解し、幕僚たちは険しい顔をした。バイブルト城に籠もれないとなれば、野戦で南アンタルヤ軍主力を破るより他にない。だが、どう戦うのか。
『出陣し、エルズルム城を目指して北上すれば、どこかで南アンタルヤ軍とかち合う事になりましょう。これならば、少なくとも正面から戦うことができます』
幕僚の一人がそう発言する。ひねりはないが、堅実であるともいえる。少なくとも敵に小細工をされる心配はない。彼の言うとおり、正面から戦うことができる。
もっとも、それで勝てるかは別問題だ。仮に勝てたとしても、敵軍はエルズルム城へ逃げ込むだろう。一万の兵が逃げ込んだだけでも、攻城戦は極めて難しくなるに違いない。まして相手はあのガーレルラーン二世だ。野戦で大敗するとは考えづらく、しっかりと軍を掌握してエルズルム城へ撤退するだろう。
こうなるとエルズルム城を落とせるかは不透明だ。和睦によって落し処を探ることになるだろう。だがその場合、遠征軍はバイブルト城を返還することになる。無論、賠償金などは得られるだろうが、総力を挙げた遠征の結果としては、得られるものがあまりにも少ない。
要するにエルズルム城を取るためには、南アンタルヤ軍の主力をそこから引き離した上で叩かなければならない、ということだ。そのための餌がバイブルト城なのだ。ただし、ジノーファはバイブルト城でガーレルラーン二世と戦おうと思っているわけではない。
バイブルト城を棄て、全軍でクルシェヒル方面へ進軍する。ガーレルラーン二世はこれを追うだろう。これに対し遠征軍は迂回しつつ引き返し、敵軍の側面を強襲する。この場合、敵軍が逃げ込むのはクルシェヒルだ。
敵をクルシェヒルに押し込んだ後、バイブルト城を再奪取する。そして最後にエルズルム城を落とすのだ。主力を破られ、さらには二城も奪われた。この状況では、ガーレルラーン二世も和睦に応じるより他にあるまい。
ジノーファの案を聞き、幕僚たちは感心した様子だった。だがクワルドの表情は険しい。彼は口を開き、次のように懸念を指摘した。
『敵が取り戻したバイブルト城を放置するとは思えませぬ。少数ではあっても兵を置くでしょう。その場合、退路と補給線を断たれることになります。敵主力との決戦に勝てるならば良いですが、負けた場合には全てを失うことになりましょう』
『それに、敵の側面を突くというのも難しいかと。大軍が移動すれば必ず痕跡が残りますし、敵も遮二無二に追跡してくるわけではないでしょう。斥候を出し、前方の様子を確認しながら進むはずです。下手をすれば、我々が奇襲を受けかねません』
クワルドに続いて、ハザエルもそう懸念を述べた。ルドガーも無言のまま頷いて同意を示している。それを聞き、ジノーファは怒るでもなく「そうか……」と呟いた。少々残念そうな顔をする彼を見て、クワルドがふっと笑みを浮かべる。そしてこう言葉を続けた。
『とはいえ、陛下の策もなかなか面白うございます。……軍を二つに分けましょう。本隊はクルシェヒル方面へ。もう別働隊はバイブルト城の周辺に潜み、ガーレルラーンが出陣した後に城を奪還します。その後に敵の後を追えば、本隊との間で挟み撃ちに出来るでしょう』
『しかしそう簡単に城を奪還できるものだろうか。それに兵を潜ませていたとして、気付かれてしまうのではないか?』
『兵を潜ませておくのには、良い場所があります』
そう言ってハザエルは地図上の一点を指さした。そこは小高い丘になっており、その陰に兵を潜ませればバイブルト城からも死角になるという。少し遠いのが難点だが、それだけ見つかりづらいということでもある。
『城には幾つか抜け道を造っておけば良いでしょう。それを使って夜襲を仕掛ければ、奪還は難しくありません』
ハザエルの意見に他の幕僚たちも頷く。ガーレルラーン二世がバイブルト城に置く兵は少ないと予想される。抜け道を使って城内に忍び込めれば、確かに奪還は難しくないだろう。内側から城門を開けば、それでほぼ詰みだ。
無論、城を守る南アンタルヤ兵の全てを討ち取るか、あるいは捕らえるかすることは難しい。一人か二人は逃れて、別働隊のことをガーレルラーン二世に伝えるだろう。その時、彼はどう動くのか。
引き返すのであれば、別働隊はバイブルト城に籠もってこれを迎え撃ち、本隊が南アンタルヤ軍の背中を襲うことになる。そのまま進むのであれば、計画通り別働隊が敵の背中を突く。いずれにしても有利に戦えるはずだ。
『そうなると、後はどうやってガーレルラーンの意識をクルシェヒル方面へ向けるのか、ですな』
『本隊が移動した痕跡を、ことさら残して置けば良いのではありませぬか?』
『だが陛下は一度ガーレルラーンを欺いておられる。エルズルム城を狙うと見せかけ、バイブルト城を狙われた。今度もあるいは、と敵も警戒しましょう』
『捕虜を使う、というのはどうでしょう?』
そう発言したのはルドガーだった。思いがけない人物の発言に、イスパルタ軍の幕僚たちも驚く。視線が集まる中、彼はいつもと変わらない口調でこう説明を続けた。
『取り戻したバイブルト城に捕虜が残っていれば、ガーレルラーンは必ず彼らから話を聞くでしょう。その時に彼らの口から、「遠征軍はクルシェヒル方面へ向かった」と証言してもらうのです』
『しかし、どうやって?』
『ジノーファ陛下御自ら、捕虜たちを尋問なさいませ。その時にクルシェヒルのことをしきりに尋ねるのです。そうすれば、それが捕虜たちの印象に残るでしょう。捕虜の内の一人くらいには、もう少し強く匂わせても良いかもしれません』
その上で、実際に本隊がクルシェヒル方面へと進軍してその痕跡を道中に残せば、ガーレルラーン二世もジノーファの狙いはクルシェヒルであると信じるに違いない。そして軍をそちらへ差し向けるだろう。
『なるほど。問題はわたしの演技力、というわけだ』
ジノーファがおどけた調子でそう言うと、幕僚たちは声を上げて笑った。笑いが収まってから、さらに細かい点を話し合う。その中で本隊は二万、別働隊は一万二〇〇〇と決まった。ただし別働隊には輸送部隊の兵が二〇〇〇含まれており、これらの兵に戦場での働きは期待されていない。
本隊を率いるのはクワルドであり、ジノーファは別働隊を率いる。本隊の方が戦力は多いが、背中を南アンタルヤ軍に見せることになるし、何より負けた場合には退路がない。一方で別働隊ならバイブルト城を頼ることができるし、本国への退路もある。
最悪、ジノーファさえ生き残れば、イスパルタ王国は再起を期することができる。そのために彼は別働隊を率いることになったのだ。いざというときには単騎であっても本国へ逃げるように言われ、ジノーファは不満を顔に滲ませた。それを見て、クワルドも眉を跳ね上げる。
『ユスフ、ラグナ卿、頼んだぞ。いざというときには首根っこひっ掴んででも陛下をマルマリズへお連れしろ』
『はっ』
『うむ。任されよ』
クワルドに頼まれ、二人はすぐに請け負った。特にラグナの場合、本当にジノーファの首根っこをひっ掴んで連れて行きかねない。「わたしは猫じゃないぞ」とジノーファは少々恨めしげに呟いた。
さて、ロストク軍五〇〇〇は別働隊に組み込まれた。残りの五〇〇〇は近衛軍から出される。さらに前述した通り輸送部隊の二〇〇〇が組み込まれ、合計で一万二〇〇〇だ。残りの二万が本隊となる。
別働隊に組み込まれた近衛軍五〇〇〇を指揮しているのは、ロスタム将軍という男だった。ロスタムはハザエルよりも年上なのだが、最近ではハザエルのほうが目立った働きをしている。彼自身、それを気にしているようで、今回の作戦を必ずや成功させてみせると意気込んでいた。
閑話休題。状況は、遠征軍の目論見通りに推移している。南アンタルヤ軍はバイブルト城へ入った。どうやらガーレルラーン二世も入城したようだ。そしてそのまま夕方を迎えた。食事の支度をしているのだろう。城からは煙が上っている。どうやら今日はもう動かないらしい。
ガーレルラーン二世に焦った様子は見られない。ジノーファはそれを少し意外に思ったが、しかしすぐに思い直す。夜を徹して追撃したとして、遠征軍本隊の背中を捉えられるか分からない、ということなのだろう。出陣は、おそらく明朝だ。
「陛下。今晩、夜襲を仕掛けるのはいかがでしょう? ガーレルラーン二世は周辺に敵はいないと油断しているはず。奴の首を落とせば、二城と言わず南アンタルヤ王国の全土が陛下のものとなりましょう」
そう進言したのはロスタムだった。バイブルト城の城門は閉じられているとはいえ、ガーレルラーン二世はこの周辺に敵がいるとは思っていないだろう。さらに城には抜け道が用意されている。上手くやれば、確かに彼の首を獲ることも不可能ではない。
「焦る必要はない、ロスタム。作戦通りに行動するのだ」
しかしジノーファはそう言ってロスタムをたしなめた。今回の遠征の目的は、ガーレルラーン二世を討ち取ることではない。二城を奪取し、防衛線を押し上げること。それが目的だ。目的外の戦果を上げるために、予定外の行動をする必要は無い。
それに、いま別働隊だけで動いてしまうと、本隊と連動することができない。奇襲という優位はあるものの、それでも三倍の敵と戦わなければならないのだ。しかもガーレルラーン二世を討ち損ねた場合、別働隊は窮地に陥ることになる。今はまだ、そのようなリスクを冒すべきではないだろう。
ジノーファが同意しなかったので、ロスタムは内心面白くなかったかも知れない。しかし彼はそれを表には出さず、粛々と一礼して下がった。武功が欲しくて逸っているのかとも思ったが、こういうところは冷静だ。ジノーファは安心して一つ頷いた。
そして翌日。日の出と共にガーレルラーン二世は南アンタルヤ軍主力を率いてクルシェヒル方面へ向かった。斥候からの報告では、整然とした行軍ではあったものの、ことさら急いでいるようには見えなかったという。もっとも急いで追いついたところで、兵が疲れ果てていれば戦えないので、当然のことかも知れないが。
「それで、城内はどれほど残った?」
報告に来た斥候に、ジノーファはそう尋ねた。城内にどれほどの戦力が残ったのか。それはバイブルト城を奪還する上でとても重要な情報だ。ただ斥候も城内に侵入して調べてきたわけではない。「正確なところは分かりませんが」と前置きしてから、こう答えた。
「出陣した兵の数は、入った時と比べ、大きく減っているようには見えませんでした。多くても三〇〇〇といったところではないでしょうか」
それを聞き、ジノーファは大きく頷いた。つまりどんなに多く見積もっても、五〇〇〇はいない。それに対し別働隊の戦力は一万。バイブルト城の奪還は成功するだろう。ジノーファは自信を深めた。
ただ、彼はすぐに動くことはしなかった。彼が動いたのは、辺りがすっかり暗くなってからのことである。別働隊はさらに二手に分かれた。ルドガー率いるロストク軍がバイブルト城の正面に出て敵の注意を惹きつけ、その隙にロスタム率いる近衛軍が回り込んで抜け道から城内に侵入。内側から城門を開きロストク軍を中へ入れる、という手筈だ。
ちなみにジノーファは輸送部隊と一緒にロストク軍の後ろで待機する事になっている。彼自身は城内に潜入するつもりだったのだが、ロスタムとルドガーに即決却下されて後方で戦況を見守ることになった。
さて、ロストク軍が迫るとバイブルト城は騒然となった。ロストク兵は揃って鬨の声を上げ、今にも攻めかかるぞと言わんばかりの姿勢を見せる。城壁の上には慌てた様子の南アンタルヤ兵の姿が見えた。
「陛下、始まったようです」
ユスフがそう呟く。ジノーファは一つ頷いた。二人は望遠鏡を使ってロストク軍の後ろから城壁の上の様子を眺めていたのだが、南アンタルヤ兵たちが先ほどまでとは違った慌て方をしている。ロスタムの部隊が抜け道を使って城内に侵入したのだ。
やがて城内から激しい喧騒が聞こえ始める。そしてさほど間を置かずにバイブルト城の城門が開いた。笑顔で手招きするのは、間違いなくイスパルタ王国の近衛兵だ。ルドガーは間髪入れずに命じた。
「突撃!」
ロストク軍がバイブルト城に突撃していく。その姿をジノーファは後方から見守った。城の制圧が完了したのは一時間後。彼は迎えに来たロスタムと一緒にバイブルト城へ入った。
城に残っていた南アンタルヤ兵はおよそ一〇〇〇。その大半が降伏していた。末端の兵士らについては、武装解除の上、夜明けを待ってから解放することにした。部隊長クラスの者たちは、捕虜とした上で地下牢に放り込んでおくことになる。
バイブルト城を奪還した後、ジノーファは抜け道を塞がせた。もう一度放棄する予定はないので、抜け道があると困るのだ。
戦の後始末を手早く終えると、ジノーファは兵たちを休ませた。明日はクルシェヒル方面へ向けて進軍する。大きな決戦が迫っていることを、全ての将兵が感じていた。
シェリー「ほらジノーファ様、にゃーんって言ってみて下さい、にゃーんって!」
ジノーファ「にゃーん」




