遠征 -バイブルト城-
バイブルト城から出陣した南アンタルヤ軍六五〇〇は、遠征軍の別働隊によりさんざんに叩きのめされた。バイブルト城へ帰還したのは二〇〇〇に満たない。その上、中心人物であったメルースィン伯爵も未帰還であり、彼は殿として戦った末に戦死したものと思われた。
ただ、未帰還者四五〇〇人がことごとく討ち死にしたのかというと、決してそんなことはない。実際の戦死者はおそらく一五〇〇人に満たないはずで、要するに半分以上の兵が敗走の混乱に乗じてそのまま逃げてしまったのだ。
この結果を目の当たりにして、バイブルト城の城砦司令官は顔を引きつらせた。脅迫紛いの強引さで出撃許可をもぎ取ったメルースィン伯爵らを、彼は必ずしも快く思ってはいない。口には出さなかったものの、「痛い目を見て逃げ帰ってくればいい」と思っていたのも事実だ。
だがこの敗北はあまりにも酷い。「良くもまあ、こんな無残な負け方が出来たものだ」と、逆に感心してしまう程である。メルースィン伯爵は殿として戦い、味方を逃がすことで最後の名誉を守ったと聞く。だが城砦司令官としてみれば、そんなもの何の救いにもならない。
彼らが出撃する前、バイブルト城には九〇〇〇の戦力があった。それが今や、四五〇〇に満たないのだ。しかも逃げ帰ってきた兵たちのうち、半分以上は負傷している。仮に五日以内に敵が襲来したとして、満足に戦える兵は三五〇〇に満たない。何と五五〇〇人分の戦力が、たった一度の敗北で失われた計算になる。
「は、はは、は……」
虚ろな視線を彷徨わせながら、城砦司令官は乾いた笑い声を上げた。もういっそ何もかも放り出して現実逃避してしまいたかったが、しかしそういう訳にもいかぬ。彼は言い知れぬ絶望感に胃を痛めつつ、この惨敗の後始末を始めた。
彼がまず確認しなければならないのは、メルースィン伯爵らを叩きのめしたのが、敵の本隊であるのか、それとも別働隊であるか、という点だ。しかし逃げ帰ってきた兵たちから話を聞いても、敵の数がよく分からない。ある者は「五万」といい、別の者は「五〇〇〇以上」という。あまりに差が大きくて、彼は首をかしげることになった。
ただ、敵がどのように襲いかかってきたのかはだいたい分かった。まず側面を突かれ、さらに敵の第二陣が後背を突いた。味方は何も出来なかったというから、戦力は敵の方が多いか、少ないとしても差はそれほど無かったのだろう。
(三〇〇〇ずつの、合計六〇〇〇。最低でもこのくらいか……)
城砦司令官はそうアタリをつけた。六〇〇〇であれば別働隊だろう。だがもっと多いかも知れないし、すぐ近くに本隊がいる可能性もある。そもそも六〇〇〇の別働隊をこんなところで動かすだろうか。実際に南アンタルヤ軍は惨敗を喫したのだから、その動きも無駄ではなかったことになるのだが。
(仮に……)
仮に敵がイスパルタ軍の本隊であるか、そうでなくとも別働隊のすぐ近くに本隊がいたとして、彼らは当然今回の大勝利をすでに知っているはずだ。ではなぜ、いまだバイブルト城へ押し寄せて来ないのか。メルースィン伯爵らを蹴散らしてから、そのままバイブルト城へ攻め寄せれば、敗残兵を受け容れる余裕もなかったであろうに。
(だとすると、やはり敵の本隊はこの近くにはいない……?)
城砦司令官はそう思いたかった。もともと敵軍の攻撃目標はエルズルム城だと言われていた。そして実際に、敵軍はそちらへ向かったと彼は報告を受けている。だがバイブルト城は狙われていないと結論したくても、その確証がない。全てはイスパルタ軍の策略であるかも知れないのだ。
迷った挙句に、城砦司令官はともかくガーレルラーン二世に援軍を求めることにした。メルースィン伯爵らの敗戦について説明した上で、「敵軍の本隊がこちらへ向かっている可能性を否定できない。兵を送って欲しい」との旨を手紙に書き、伝令に託してエルズルム城へ向かわせたのだ。その上で、彼は城門を閉じて防備を固めさせた。
だが事態は城砦司令官の想定を上回って悪い方へ転がった。伝令を出してから二日後。敵の大軍がバイブルト城へ迫ったのである。その数、およそ三万。イスパルタ王国の国旗、双翼図も掲げられている。間違いなく敵の本隊だ。いまだ攻めかかられたわけではないのに、まるでのし掛かられるような圧力を感じ、彼は苦虫をかみ潰した。
さて、城砦司令官が城壁の上で壮絶に渋い顔をしていると、敵陣から一騎こちらへかけてくるのが見えた。鎧は装備していない。平服だ。彼は敵軍の使者だろうかと思ったが、しかしそれにしてはみすぼらしい。
「あっ」
顔が見えるところまでその男が近づいてくると、城砦司令官は思わず声を上げた。同時に顔面から血の気が引く。その男はエルズルム城へ向かわせたはずの伝令だったのだ。それがここにいると言うことは、途中で敵に捕まったに違いない。つまり彼が書いた手紙は、ガーレルラーン二世に届かなかったのだ。
「も、申し訳ありません、閣下。お役目を果たせず……!」
急いで伝令の男を城内に入れる。城砦司令官が伝令の男に会うと、彼は悲壮な顔をしてそう言い平伏した。司令官は彼を咎めず、一つ頷いてからやや早口になってこう尋ねた。
「それで、敵は何と言ってきたのだ!?」
「これを閣下にお渡しするように、と……」
そう言って、伝令の男は懐から一通の手紙を取り出した。城砦司令官はひったくるようにしてそれを受け取り、急いで中を検める。
『卿らはイスパルタ軍の計略に落ちた。先日の大敗のために、城内に十分な戦力が無いことはすでに分かっている。城門を開き、白旗を掲げて降伏せよ。降伏すれば、将兵の命は保証する。明日の夜明けまでに城門が開かれなかった場合、降伏はしないものと判断して攻撃を開始する』
要約すると、手紙にはそのようなことが書いてあった。城砦司令官は顔に苦悩を浮かべる。それから彼は伝令の男にさらに幾つかの点を確認した。
伝令はやはり、エルズルム城へたどり着けてはいなかった。城砦司令官が託した手紙も没収されたという。つまり敵軍のこの動きは、ガーレルラーン二世に全く伝わっていないことになる。
援軍が来ないと諦めるのは早計だ。敵がなかなかエルズルム城へ現われなければ、ガーレルラーン二世もそれを不審に思うだろう。そしてエルズルム城が狙われないのであれば、敵が狙うのはバイブルト城しかない。
(援軍は来る。だが……)
問題はそれまでバイブルト城が持ちこたえられるか、だ。バイブルト城の戦力は三五〇〇に満たない。そして見たところ、敵は三万以上。十倍弱の戦力差だ。おまけに味方の士気は低い。この状況で、果たして何日耐えられるだろうか。絶望的な計算を、城砦司令官は頭の中で繰り返した。
□ ■ □ ■
遠征軍がバイブルト城に降伏を促す使者を送ったその翌日。東の空が白んできても、バイブルト城の城門は閉じられたままで、白旗が掲げられる事もない。その様子を見てジノーファは小さく嘆息した。どうやら敵は戦うことを選んだらしい。
「できれば降伏してもらいたかったところですが、致し方ありませんな」
ジノーファの隣りに立つクワルドが、顎先を撫でながらそう呟く。それを聞いてジノーファは無言のまま頷いた。ガーレルラーン二世がエルズルム城から出陣した、という報告はまだない。だが遠からず、彼は手勢を率いてバイブルト城の救援に来るだろう。
問題はいつ来るのか、だ。エルズルム城へ向かっていた伝令の兵は捕らえることができた。だが派遣されたのが彼一人という保証はない。時間的なことを考えれば、最悪ガーレルラーン二世はもうすでにバイブルト城へ向かっているかもしれないのだ。
ガーレルラーン二世が率いる南アンタルヤ軍の主力が押し寄せてくる前に、遠征軍としてはバイブルト城を落とす必要がある。降伏してくれればそれが理想的だったのだが、なかなか上手く行かないものである。
ただ理想的ではないとはいえ、現状は遠征軍に極めて有利だ。先日、ハザエル率いる別働隊が、バイブルト城から出陣したと思われる南アンタルヤ軍を撃破した。圧倒的な大勝であったと言い、バイブルト城の戦力はかなりの程度削られているはずなのだ。
さらに、遠征軍がこの場に現われたことそれ自体が、敵兵の心を痛烈に攻め立てている。彼らはエルズルム城がまず戦場になると思っていたのだ。それが一転、敵は目の前にいる。きっと「自分たちは計略にはまった」と思っていることだろう。戦略上においても、戦術上においても、自分たちが不利な状況にあると思っているはず。彼らの士気は低い。
もっとも、遠征軍の優位は薄氷の上のモノでもある。バイブルト城を落とす前に南アンタルヤ軍の主力が到着すれば、遠征軍は前後から挟み撃ちにされる。そうなる前に、城攻めを終わらせる必要がある。
「準備ができ次第、攻撃を開始する」
「御意」
ジノーファの言葉に、クワルドは恭しく一礼した。そして太陽が十分に高くなった頃、遠征軍三万はバイブルト城に対して戦闘隊形を取る。かすかに吹くそよ風は季節的に肌に冷たく、また僅かに鉄の臭いを含んでいるように感じた。
「攻撃開始」
ジノーファが馬上から命令を下す。その命令はすぐさま全軍に伝えられた。銅鑼が打ち鳴らされ、ラッパが鳴り響く。鬨の声が上がり、昨晩のうちに組み立てられた四つの攻城櫓が動き出す。それに合わせ、兵士たちもゆっくりと前進を開始した。
バイブルト城から弓矢が放たれる。その中には火矢も含まれていて、狙いはもちろん攻城櫓だ。だが火矢が使われることは織り込み済みで、そのための対策もしてある。四つの攻城櫓は火矢をものともせず進んだ。
遠征軍からも弓矢が放たれている。弓矢が双方向に飛び交う。バイブルト城の城門は固く閉ざされていて、打って出てくる様子はない。そして一定の距離まで近づくと、遠征軍から幾つかの部隊が突出してバイブルト城へ向かった。
その内の一つは、破城槌を持っている。当然そこに弓矢が集中したが、周囲には大盾を持った兵士たちがいて、破城槌を持って走る味方を守った。そして破城槌が勢いよくバイブルト城の城門に叩きつけられる。
ドンッ、と大きな音がした。城壁の上にいた兵士たちは、振動さえ感じたのかも知れない。一瞬、弓を射る手が止まった。その隙に破城槌はさらに二度三度と城門を打ち据え、さらに攻城櫓が城壁に迫った。
攻城櫓の一つに、油の入った壺が投げつけられる。四つの中で、一番城壁に近づいていた攻城櫓だ。壺は見事に命中し、攻城櫓の側面にべっとりと油をまき散らした。そこへ間髪入れずに火矢が撃ち込まれる。たちまち、炎が燃え上がった。
それでも攻城櫓は止まらない。前進を続け、そしてついに城壁のすぐ近くまで来た。だがそれまでの間にも油と火矢は追加されていて、攻城櫓はすっかり火だるまだ。しかしその攻城櫓を、一人の男が猛然と駆け上る。櫓の一番上へ登ったその男は、そこから躊躇うことなく城壁の上へ飛び移った。
城壁の上にいた兵士たちには、その男がまるで黒煙の中から現われたかのように見えただろう。彼は着地すると、間髪入れずに右手に持った漆黒の大剣を振り抜く。その一振りで南アンタルヤ兵が三人斬り捨てられ、それを見た兵士たちの間に動揺が走った。
「ひ、一人だっ! 殺せっ!」
隊長らしき人物が、上ずった声でそう命じる。それに応じて数人の南アンタルヤ兵が動いた。腰間の剣を抜いて斬りかかるが、その刃は全て漆黒の大盾に阻まれた。それどころか斬りかかった者たち全員が、次の瞬間に弾き飛ばされる。体勢を崩した彼らを、また漆黒の大剣が切り裂いた。
「ひっ……!」
「おおおおおおおお!」
誰かが上げた短い悲鳴を、男の雄叫びがかき消す。同時に、男の分厚い胸板に獅子のたてがみにも似た紋様が現われる。その紋様は黄金色に輝いていた。そして男、ラグナからまるで暴風のようなプレッシャーが放たれる。
「す、聖痕……!」
おののきと共に、誰かがそう呟いた。その呟きが耳に入り、ラグナはにやりと獰猛な笑みを浮かべる。その笑みを見た者たちは、一人残らず腹の底から震え上がった。獅子は獲物を前にして笑うのか、それは分からない。だが今の彼らが狩られる側であるのは事実で、彼ら自身がそれを自覚していた。
顔を青くした南アンタルヤ兵に、しかしラグナが同情を覚える義理はない。彼は敵が怯えたのを見て取ると、その呼吸を逃さずに猛然と動いた。棒立ちになった南アンタルヤ兵を弾き飛ばして包囲を破ると、城壁の上で弓を引く者たちを次々になぎ倒していく。哀れな南アンタルヤ兵たちは、まるで羊のように逃げ惑った。
ラグナのこの活躍で、バイブルト城の抵抗が弱まった。この機を逃さず、二台目の攻城櫓が城壁に接近する。すぐさま橋桁がかけられ、イスパルタ兵が城壁に乗り移った。そこから先は一方的な展開だ。
遠征軍は城壁の上を確保し、そこから城内にいる敵兵を散々に狙撃した。城門が内側から開けられ、イスパルタ兵が一気に中へ雪崩れ込む。この瞬間に戦いの趨勢は決したと言っていい。
「武器を捨てろっ。降伏すれば、命は保証する!」
城内に突入したイスパルタ兵は口々にそう叫んだ。これはジノーファの命令だった。降伏勧告に応じなかった以上、根切り、つまり皆殺しにするべきという強硬な意見も出たが、彼はそれを却下していた。
血を流すのを厭うた、ということではない。いや、それもあるのだろうが、それだけが理由ではなかった。敵も味方も、もともとは同国人なのだ。言ってみればこれは内戦のようなモノで、禍根を残すべきではないと考えたのだ。
加えて、徹底抗戦を選んだ場合、南アンタルヤ軍はバイブルト城に火をかけるだろう。遠征軍としては、それでは困るのだ。この城は今後、イスパルタ王国の防衛線として機能するべき場所であり、廃墟にしてしまうために戦争をしているのではない。
また、城内には兵糧をはじめとする物資が備蓄されている。これらの物資を手にいれるためにも、ジノーファは降伏を促したのだ。その甲斐もあり、南アンタルヤ兵は次々と降伏していった。
敵兵の足音が近づいてくるのを、城砦司令官は司令室で聞いていた。室内には数人の参謀がいるが、皆不安げな顔をしている。もはや打つ手はない。ここにいる全員がそれを分かっていた。
彼が降伏を選択しなかったのは、一言で言えばガーレルラーン二世を恐れたからだ。降伏すれば、命は助かるだろう。ともすれば厚遇してくれるかも知れない。イスパルタ軍が勝てばそれでよし。だが講和などによってバイブルト城が南アンタルヤ王国へ返還された場合はどうか。
戦わずに降伏した城砦司令官を、ガーレルラーン二世は処断するだろう。彼はそれを恐れたのである。
降伏を促す手紙を受け取った後、彼はもう一度エルズルム城へ伝令を出していた。夜の闇に紛れさせ、さらに一度西へ大きく迂回するように命じておいたので、今度は敵軍に見つかることなくたどり着けるはずだ。
来援が間に合うとは、彼も思っていなかった。まして勝てるとは。ただ二、三日耐えることができれば、「良く戦った」という事実は残る。後詰めが間に合わなかった以上、降伏はやむを得ないと多くの人が考えるだろう。加えて、城砦司令官の武将としての面目も立つ。
(それが、まさか……)
まさか、たった半日でこの城が落ちるとは。城砦司令官は心の中でそう呟いた。戦力差があったことは事実だが、あまりにも早すぎる。やはりあの敗戦が痛かった。そう思うが、不思議と怒りはわかなかった。
「全ての責任は私が取る。諸君は降伏しろ」
「閣下……」
自分を見つめる参謀たちに、城砦司令官は一つ頷く。それからゆっくりと剣を鞘から引き抜く。
イスパルタ兵が司令室の扉を蹴り破ったのは、彼が自刎したそのすぐ後の事だった。
ラグナ「ふはははは! 遠征軍最強の攻城兵器とは、我が輩のことである!」




