遠征 -渡河-
その日、ジノーファは王統府の小さな中庭にいた。日当たりの良い場所にベンチが置いてあり、そこに座って休憩しているのだ。隣りには真っ白な毛並みの狼、ラヴィーネが伏していて、また近くでは彼女の産んだ子狼たちが元気よく駆け回っている。
子狼は全部で五匹。白い子狼が三匹で、黒い子狼が二匹だ。ラヴィーネの相手は前回と同じらしい。もっとも、ジノーファもそのことに驚きはない。ロロが北から足繁く通ってきていたのを知っているからだ。大抵は邪険にされた挙句に追い返されていたのだが、それでも彼は諦めなかった。惚れた弱みというのは、獣にもあるらしい。
隣に伏せるラヴィーネの頭を撫でながら、ジノーファははしゃいで駆け回る子狼たちの様子を眺める。その、麗らかな日差しの下の長閑な光景は、すりむけた彼の心に油を塗ってくれるかのようだった。
メフメトが死んだ。世間には病死と発表されている。急な病に倒れ、回復せずにそのまま死んだのだ、と。だが例の手紙のことを知っている者たちは誰もそれを信じていない。実際、後日ダーマードが王統府へ来たのだが、「逆上したメフメトに首を絞められたので、やむなく自分が手を下した」と説明していた。
「はあ……」
ジノーファはため息を吐いた。特別、メフメトの死を悼んでいるわけではない。彼は謀反を企て、北アンタルヤ王国に通じようとした。それが露見した以上、死罪はむしろ当然だ。だが当然なら、それはジノーファが命じて行うべき事だった。
(わたしは……)
甘かったのだろうか。ジノーファはそう自問する。やはり甘かったのだろう。ただそれでも、親に子を殺させるその所業を止めたのは、決して間違いではなかったと思っている。結果的にそれが無駄だったとしても。
甘かったのは見通しだ。ジノーファはメフメトが大人しく静養してくれると思った。だが謀反を企むような者が、失敗した時に潔く身を退くはずがなかったのだ。そこを見誤った。そして処断が避けられないのなら、ジノーファがそれをやるべきだった。
ただその一方で、結果的にメフメトが暴発し、ダーマードが手を下したことを、クワルドやスレイマンは「悪くない」と思っている。ジノーファは最初、メフメトを助命するつもりだった。慈悲を見せたのだ。
しかしメフメト本人がそれをはねつけた。あまつさえ、父であり当主でもあるダーマードを殺そうとした。これだけでも二重の大罪だ。生かしておくことはできない。結果としてジノーファは手を汚すことなく慈悲深い主君としての評価を得、ダーマードは息子を切り捨てることで忠義を示し、メフメトが全ての業を負うことになった。
さて、ダーマードは王統府で事の次第をジノーファに直接説明したわけだが、そうすることが彼の主な目的ではなかった。彼がマルマリズへ来たのは、後継者の問題を片付けるためだったのである。
メフメトはすでに結婚しており、彼は嫡子がいた。その嫡子をダーマードの養子とした上で、ネヴィーシェル辺境伯家の世子とすることを認める。それがジノーファの下した決定であり、ダーマードもそれを喜んで受け容れていた。
アンタルヤ王国では元来、後継者は当主の一存で決められるのが通例だった。事後報告はするものの、国王の承諾など必要ないし、当然明文化もされていない。それはイスパルタ王国においても同様だった。
だが万が一にもジノーファがネヴィーシェル辺境伯家に悪感情を残してはならないと思ったのだろう。ダーマードは後継者の問題について、ジノーファの承諾を得るという形を取ることにした。そうすることによって、辺境伯家の忠誠を示したのだ。
またダーマードは世子となる孫に、例の秘匿された王笏を見せた上で、メフメトの謀反の企てについて全てを話してあった。王家とジノーファに大きな借りがあることを理解させ、ただひたすらに忠義を尽くすよう、命じたのである。
さらにダーマードは、ネヴィーシェル辺境伯家の秘宝たるその王笏を、世子の件を願い出るその時にジノーファへ献上した。これにはジノーファのみならず、クワルドもユスフもスレイマンも驚いていた。ジノーファが思わずこう尋ねてしまった程だ。
『本当に良いのか、ダーマード? これはネヴィーシェル辺境伯家にとって、命よりも大切な物なのではないのか?』
『しかしこのような物を後生大事に抱えていたために、メフメトは愚かな野心を抑えることが出来ませんでした。此度のようなことを二度と起こさぬためにも、どうか陛下にお受け取りいただきたく存じます』
そう言われ、ジノーファも王笏を受け取った。このようにしてダーマードは、ネヴィーシェル辺境伯家が永劫王家の忠臣であることを宣言したのである。自主・自立の気風が強いアンタルヤの貴族としては異例のこと、と言っていい。
これをジノーファの側から見るとどうか。王家は貴族の後継者問題に口を出すことができた。しかも大貴族たるネヴィーシェル辺境伯家にそうできたのだ。今後、他の貴族はこれを無視できなくなるだろう。
さらに献上された王笏は、アンタルヤ王家には献上されなかった物である。「ネヴィーシェル辺境伯家はアンタルヤ王家よりもイスパルタ王家を重んじた」。そういう見方もできる。何にせよこの二つのことで、ジノーファの権威は飛躍的に高まったと言えるだろう。
ちなみにダーマードは王笏と同時に、三五〇〇枚の金貨と大量のポーションを献上していた。「遠征のためにお使い下さい」というのが彼の言葉だったが、要するに今回の一件に対する詫びだ。これに遅れること八日、オズデミルも同じように金貨一五〇〇枚を献上している。合計で金貨五〇〇〇枚が献上されたわけで、これは実際に遠征のための戦費に充てられた。
終わってみれば、ジノーファにとって悪くない結果だ。ただ彼個人としては、穏便に済ませようとしたのに、ほうぼうを圧迫したかのようにも思える。それもまた、彼の気を重くしている一因だった。本当に、権力という物は劇薬だ。
ともあれ、こうしてメフメトの手紙に端を発する一連の騒動は幕を閉じた。結果だけ見れば、遠征を一ヶ月先延ばしにしただけの甲斐はあったと言えるだろう。ダーマードとオズデミルは信頼できる。あの二人になら、背中をまかせておけるだろう。
加えて、遠征のための小細工もできた。イスパルタ王国が遠征の準備をしていることに、ガーレルラーン二世はさすがに気付いている。だが気付いてなお、彼はクルシェヒルから動かない。ということは、エルズルム城とバイブルト城を防衛線としてイスパルタ軍を防ぐつもりなのだろう。
ジノーファらにとっても、それは望むところだ。エルズルム城とバイブルト城を奪取し防衛線を押し上げること。それが今回の遠征の目的だからだ。ただ戦力的に考え、二城を同時に攻略することは難しい。まずはどちらか一方に戦力を集中させなければならないだろう。
そうなるとエルズルム城とバイブルト城のどちらを先に攻略するのか、その選択がこの遠征における重要なポイントになる。そしてガーレルラーン二世もその展開を見込んでいるに違いない。その情報を得るために、彼は神経をとがらせているはずだ。
そこでジノーファは、噂を流すことにした。「イスパルタ軍の第一攻撃目標はエルズルム城」。そのように噂を流したのである。この噂は隠密衆を使ってクルシェヒルにも流したので、当然ガーレルラーン二世の耳にも入っているはずだ。
さらにもう少しすれば、ロストク帝国からの援軍がマルマリズに到着する。そうなればいよいよ遠征の始まりだ。そして季節はこれから本格的な冬に向かう。ロストク帝国の冬に比べれば暖かいし、準備もしっかりと行った。だがそれでも、恐らくは厳しい戦いになるだろう。ジノーファはそれを覚悟していた。
「さて、と」
小さくそう呟いてジノーファはベンチから立ち上がる。休憩は終わりだ。やるべき事は多い。彼はしっかりとした足取りで中庭を後にする。ベンチの上には、うたた寝をするラヴィーネだけが残った。
□ ■ □ ■
大統暦六四三年十一月三日。イスパルタ王国王都マルマリズより、南アンタルヤ王国を討つべく遠征軍が出陣した。遠征軍の戦力は全部で三万五〇〇〇。ただしこの内五〇〇〇は徴兵によって集められた兵であり、後方で物資の運搬などの任務に当たることになっている。それで純粋に戦力として計算できるのは、三万と考えておいた方がいいだろう。
三万の内訳を大雑把に見ると、まず主力である近衛軍が二万。遠征に協力する貴族らの兵が五〇〇〇、ロストク軍が五〇〇〇だ。ロストク軍の五〇〇〇と言う戦力は、決して少ないわけではないものの、多少の不満が残るのは事実だ。ただこれを率いているのはルドガー将軍で、この人選にはジノーファも喜んでいた。
さらに遠征には加わらないものの、ロストク軍さらに五〇〇〇がマルマリズを守っている。北の表層域では七五〇〇の戦力が誘引作戦を継続しており、これは北アンタルヤ王国への備えをかねていた。全体でみれば、イスパルタ軍だけで四万近い戦力が動員させており、まさに総力戦と言えるだろう。
ちなみに、自身が遠征軍に加わらない代わりに、ダーマードはラグナとアヤロンの民を数名、ジノーファのもとへ送ってきた。「護衛に使って欲しい」とのことだ。
ラグナを欠いて誘引作戦は大丈夫なのかとジノーファは心配したが、回数を重ねたことでエリアボスクラスの出現数は減っているという。また聖痕持ちが遠征に同行してくれる意味は大きい。それでジノーファはありがたくラグナにも協力してもらうことにした。
「ジノーファ様、ご武運を」
「ご武運を」
マリカーシェルとシェリーにそう言われ、ジノーファは笑みを浮かべて頷いた。今回、シェリーは遠征に同行しない。側妃なのだから当然なのだが、しかし本人は同行を希望していた。しかしジノーファはマルマリズに留まるよう、頼んだのである。
シェリーには安全な場所にいて欲しかった、というのももちろんある。ただそれが主な理由ではなかった。最大の理由は、万が一の時にマリカーシェルや子供たちを逃がすためである。その采配を、ジノーファはシェリーに頼んだのだ。
ダーマードとオズデミルのことを、ジノーファは信頼できると思っている。だが他人の心の中ほど、理解と想像の及ばない場所はないだろう。彼らが絶対に叛旗を翻さないとは言い切れないのだ。
あるいは、この二人が忠義を尽くしたとしても、肝心の遠征軍本隊が壊滅的敗北を喫してしまうかも知れない。その場合、イスパルタ王国本土が蹂躙されることもあり得る。当然、王都マルマリズも危ないだろう。
そういう場合、マリカーシェルと子供たちはロストク帝国に逃がすのが一番安全だ。その道中を護衛するのは、もちろんマルマリズに残るロストク軍五〇〇〇になるだろう。だが彼らは他国の軍。イスパルタ王国の国内には必ずしも通じていない。それでシェリーがいた方がいいだろう、とジノーファは思ったのだ。
ジノーファは決して油断していなかった。北アンタルヤ王国のことや謀反が計画されていたことを、軽く見たりはしなかったのである。五〇〇〇もの兵を後方に配置したのもそれが理由だ。
この部隊は物資の運搬などを行うことになっているから、五〇〇〇の兵全てが一カ所に集まっていることはほとんどないだろう。だがマルマリズが危険にさらされた時には、この内のいくらかはロストク軍に合流できるはずだ。
彼らは農兵だが、アンタルヤ王国時代も含め、従軍経験のある者も多い。ロストク兵には及ばないかも知れないが、それでも十分に戦力として計算できる。もっとも、この五〇〇〇は遠征軍の予備戦力もかねているので、全部が全部後方への備えというわけではないのだが。
さて、マルマリズから出陣すると、遠征軍は一路西へ向かった。同時に斥候を走らせ、リュクス川の様子を確認させる。戻ってきた斥候の話によると、南アンタルヤ軍は対岸に布陣していないという。それを聞き、ジノーファは一つ頷いた。
「やはり敵はエルズルム城とバイブルト城を防衛線として我らを防ぐつもりのようですな」
クワルドの言葉に、イスパルタ軍の幕僚たちも明るい表情で頷く。遠征軍としては想定通りであり、望ましい展開と言える。しかしジノーファは小さく首を横に振り、彼らを戒めるようにこう言った。
「そう決めつけるのは早計だ。斥候は対岸を目視で確認しただけだというし、その時点でまだ布陣していなかっただけかも知れない」
主君が述べる厳しい予想に、幕僚たちは表情を引き締めた。戻ってきた斥候は一人だが、放った斥候は一人ではない。残りの斥候はリュクス川を渡り、対岸周辺のようすを調べている。おっつけ次の報告が来るだろうから、それを受けてからまた考えようと言うことになった。
そしてまた次の報告がきた。やはり敵軍はリュクス川の対岸周辺にはいないらしい。その結論に達すると、ジノーファは一つ頷き、本隊に先んじて先遣隊を送った。リュクス川の西岸に橋頭堡を確保するためである。
「ハザエル将軍、頼んだぞ」
「ははっ、お任せ下さい」
先遣隊として先行する事になったのは、ハザエル将軍率いる近衛軍五〇〇〇の部隊だ。この部隊は表層域の誘引作戦でも活躍しており、先遣隊を任せることに不安はない。ハザエルはただちに部隊を率いて先行し、リュクス川を渡った。
リュクス川を渡れば、そこはもう敵国だ。ハザエルは当然、敵の襲撃を警戒した。斥候からの報告では、この辺りにまとまった敵部隊の姿はない。だが戦況は時々刻々と変化するものだ。油断はできない。
もっとも、先遣隊が敵の襲撃を受けることはなかった。そして遠征軍本隊がリュクス川の東岸に到着する。そこは河岸段丘になっており、独立戦争の折りに、ジノーファはここに布陣してガーレルラーン二世と戦ったのだ。
あの時は講和によって両軍が兵を退き、決着はつかなかった。ジノーファは負けたとは思っていないし、実際にイスパルタ王国は独立を勝ち取ったのだから、戦略目的は果たしたといえる。
しかしその一方で、ガーレルラーン二世もまた自分が負けたとは思っていないだろう。攻守が逆転した此度の戦争で、彼はジノーファを手ぐすね引いて待っているに違いない。リュクス川の向こうから圧力を感じたように思えて、ジノーファは手綱を強く握りしめた。
遠征軍本隊がリュクス川を渡り始める。率直に言って、渡河には手間取った。兵糧などの物資が多いからだ。橋頭堡を確保していたとはいえ、渡河の途中に襲撃されていたら、苦戦は免れなかっただろう。
結果的に襲撃はなかったわけだが、その静けさがかえって不気味でもある。ガーレルラーン二世が渡河中の攻撃を考えなかったとは思えない。だが彼はそれを一切しなかった。そして勝手に先走る部隊もない。全軍をしっかりと統御しているのだ。
さて、全軍が渡河を終えると、時刻は昼過ぎになっていた。行軍する時間はまだあったが、しかしジノーファはそうせず、遠征軍はリュクス川の近くで夜を明かした。そして翌朝、しっかりと朝食を取ってから、遠征軍は再び移動を始めた。
「北西に進路を取れ」
ジノーファはそう命じた。遠征軍から見て北西にあるのはエルズルム城だ。一方でバイブルト城は南西にある。つまりジノーファはエルズルム城への進路を取ったと言っていい。しかも最初から北西に向かったと言うことは、進路を偽装するつもりはなく、最短距離でエルズルム城へ向かう意図が窺える。
ジノーファの命令に従い、遠征軍は粛々と北西へ進路を取った。ただし全軍で向かったわけではなく、補給線を確保するため、二〇〇〇の兵を残した。もっとも、この二〇〇〇は後方部隊から割いた兵なので、二城攻略のための戦力は減っていない。
さて、この動きを注視していた者たちがいた。それは言うまでもなくガーレルラーン二世であり、また南アンタルヤ王国の東側に領地を持つ貴族たちだ。遠征軍がエルズルム城へ向かったのを見て、彼らもまた行動を開始する。遠征は次の局面に入ろうとしていた。
シェリーの一言報告書「夫の留守を守るのも、妻の勤め……!」
ダンダリオン「そんな血を吐くような……」




