顛末1
「まいったね、これは……」
シェリーから渡された手紙を読み、ジノーファは肩を落としてそう呟いた。手紙の差出人はメフメト。宛先はイスファード。これだけも十分に剣呑だが、手紙の中身はさらに危険で看過できないものだった。
『ジノーファは近々、南アンタルヤ王国への遠征を行う。兵の大半が動員され、マルマリズは手薄になる。これを強襲し、王権を奪取するために協力して欲しい。成功したあかつきには、北アンタルヤ王国へのさらなる援助と協力を約束する』
手紙にはそのような事が書かれていた。臣下の全てが心から自分に臣従しているとは、ジノーファも思っていない。だがこうして謀反の企みを報らされると、怒りより先に無力感と心細さを覚える。これまでやってきたことを否定されたように思え、ジノーファは深々とため息を吐いた。
「ジノーファ様……」
気遣わしげに、シェリーが彼の傍に寄り添う。彼女がそっとジノーファの手を握ると、彼はようやく小さな笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。報せてくれてありがとう、シェリー」
「いえ。お役に立てたのなら、嬉しいです」
そう言ってシェリーは微笑んだ。密偵の男がシャガードから受け取ったメフメトの手紙。それがなぜ彼女の手元にあるのか。それはそもそも密偵の男が、シェリーと一緒にイスパルタ王国に来た、ロストク帝国の細作であるからだ。
シェリーがダンダリオン一世から預けられた細作の内の一人を、ジノーファは彼女に頼んで私貿易の最初からそこへ送り込んでいたのである。ジノーファの発案とは言え、敵国との間で物資のやり取りをするのだ。これを監視するのは当然のことだった。
この細作の男は流石に優秀で、これまでずっと私貿易の様子をつぶさにシェリーに報告していた。そしてシェリーがその報告をジノーファへ回すことで、彼は私貿易の様子をかなりの程度把握していたのだ。
これまでは何も問題はなかった。細作からの報告と、オズデミルやダーマードからの報告に齟齬はなかったからだ。だが今回の一件は違う。ジノーファは二人から何も聞いていない。それにも関わらず、メフメトがこんな手紙を出した。
誰がどこまで関わっているのか、それはまだ分からない。だが仮にメフメトが一人で企んだことだとしても、ダーマードやオズデミル、そしてスレイマンに至るまで、責任と影響は免れない。
ジノーファとしても、これを問題にしないわけにはいかない。これがガーレルラーン二世であれば、「犬が川に落ちた」と喜ぶのだろうか。ジノーファはとてもそんな風には考えられず、むしろ気が重かった。
「……それで、シェリー。この手紙以外の動きは?」
「今のところはないようです。ただ、そもそも北に割いていた人員は少ないので……」
「手落ちがあるかもしれない、か……。分かった、人を回す」
二年前にジノーファがシェリーに頼んだ諜報部隊は、今はずいぶんと形になってきている。なにぶん若い部隊なので人手不足は否めないが、それでも北アンタルヤ王国方面に増員するだけの余裕はある。
実際に北アンタルヤ軍が動くとして、その戦力を引き抜けるのは北の防衛線か、南のシュルナック城のいずれか。シャガードは手紙をすぐに細作の男に渡したという話だし、そこに動きがなければイスファードはまだ謀反の計画を知らないと思っていいだろう。
「シェリー。分かっていると思うが、この件は他言無用だ。情報収集も秘密裏に行ってくれ」
「はい。心得ております」
シェリーは真剣な顔をして頷いた。国内最大の貴族とその右腕たる貴族、さらには宰相までが関わる問題だ。情報が漏れればどれほどの騒動に発展するのか、想像も付かない。下手をすれば、それを発端として国家転覆などという事態にもなりかねない。
シェリーと別れて執務室へ戻る途中、ジノーファはユスフに命じて隠密衆、つまり諜報部隊を動かすように指示を出す。ちなみにユスフは例の手紙のことは知らない。ただ何かあったようだとは思ったらしい。表情を引き締めて一礼し、すぐさま身を翻した。
ユスフと分かれて執務室に戻ると、ジノーファはすぐにクワルドを呼んだ。彼が来ると、ジノーファは人払いをした上でメフメトの手紙を見せる。彼は差出人と宛先を見て驚愕し、中身を読んで目を血走らせた。
「陛下っ! これは……っ!」
「落ち着け、クワルド」
声を荒げようとするクワルドを、ジノーファはそう言って抑えた。クワルドはこみ上げる怒りを抑えきれない様子だったが、歯を食いしばり目をつぶってそれに耐える。彼は最後に大きく息を吐いた。
「……失礼いたしました」
「構わない。……それで、どうするべきだとう思う?」
「処断するべきでありましょう。メフメト、ダーマード、オズデミル。最低でもこの三名には死を賜り、領地も大きく削るべきであると考えます。スレイマン卿が関わっているとは思いたくありませんが、しかしそれでも宰相職は返上していただかねばなりますまい」
「しかしだ。メフメトはともかく、ダーマードとオズデミル、それにスレイマンが関わっているという証拠はないぞ。全てはメフメトが一人でやっている事かもしれない」
「そうだとしても、監督責任というものがございましょう。そもそも手紙の中では、ネヴィーシェル辺境伯家が王権を取ると書かれています。さらにこれは私貿易の中でのこと。ダーマードとオズデミルに責任がないとは言えますまい。そして辺境伯家が罪に問われれば、スレイマン卿に宰相職を続けさせることは不可能です」
クワルドの主張にジノーファは一つ頷いた。彼の言うことはもっともだ。しかしそれでも、ジノーファは彼に同意せずにこう言った。
「クワルド。わたしはこの一件、できるだけ穏便に済ませたいと思っている」
「陛下っ!」
「シャガードは受け取った手紙をすぐにこちらへ渡してきた。北にはまだ、この話は伝わっていないはずだ。今ならまだ実害は出ていないし、穏便に済ませられる」
「私は反対です! 一罰百戒。例え実害が出ておらずとも、謀反を企む者を厳しく罰することで国内は粛然とするのです。温情をかけるべき相手を間違えてはなりませぬ!」
「あまりに厳しく当たれば、ダーマードもオズデミルも、本当に北へ通じかねない。それでは逆効果だ」
「例え二人が北と手を結ぼうとも、討伐は可能です!」
「もちろんだ。だが国は乱れる。遠征どころではないだろう。ガーレルラーンがそれを見逃すとは思えない」
ジノーファがそう説明すると、クワルドは表情を険しくした。内乱の最中に南アンタルヤ軍が攻め込んで来れば、イスパルタ王国はたちまち窮地に立たされるだろう。二正面作戦を戦う体力は、まだこの国にはないのだ。
無論、ロストク帝国の力を借りるという手はある。だが帝国は現在、ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争に介入する時機を見計らっている。イスパルタ王国の不手際で戦力を割かれるのは嫌がるだろう。
となれば、よほど上手くメフメトとダーマードとオズデミルを処断しなければならない。だがそれが出来たとしても、二人の領地はどうしても混乱する。これが原因で防衛線に影響が出ては元も子もない。
仮に全てが上手く行ったとしても、私貿易を続けることはできない。補給線を断たれ、北アンタルヤ王国は窮乏を極めることになる。自壊するのが早いか、それとも南アンタルヤ王国に攻め取られるのが早いか。どちらにしても、イスパルタ王国としては望ましくない展開だ。クワルドは思わず、うなり声を上げた。
「陛下は……、陛下はお怒りではないのですか?」
「怒りはそれほどないな。それよりも落胆のほうが大きい。正直に言えば、やけ酒でも飲みたい気分だ」
遠慮がちに尋ねるクワルドに、ジノーファはあえて肩をすくめ、軽い口調でそう答えた。だがクワルドの表情は険しいままだ。もっともそれは主の内心を慮れなかった、自分の迂闊さに対してのことだったが。
「出過ぎた真似をいたしました。申し訳ございませぬ」
「いや、構わない。クワルドはわたしの代わりに怒ってくれたのだと思っている」
「恐縮でございます。……とまれ、申し上げるべきは申しました。後は陛下の御心のままに。ですがもし、メフメト以外の者もこの件に関わっているという証拠が出てきたのなら、その時にはしかるべきご判断を」
「分かっている」
ジノーファは表情を引き締めてそう応えた。そうやって二人が話していると、ユスフが執務室に戻ってきた。諜報部隊の隊長に、きちんと指示を伝えてくれたようだ。詳しい話はシェリーとするそうだと伝えられ、ジノーファは満足げに頷いた。
それからジノーファは別の者を遣わして、スレイマンを執務室に呼んだ。彼が来るまでの間に、ジノーファはユスフにもメフメトの手紙を読ませる。声を上げようとしたユスフを抑え、ジノーファは彼に傍に控えているよう命じた。
「陛下、スレイマンでございます」
「入ってくれ」
しばらく待つと、スレイマンが執務室に来た。ジノーファが入室を促すと、彼は「失礼いたします」と言ってから中に入る。室内の空気が重いことを感じ取ったのだろう。スレイマンは一瞬、いぶかしげな顔をする。しかし彼はすぐにそれを消し、ジノーファに一礼してこう尋ねた。
「陛下。それで、何用でしょうか?」
「うん。ひとまずこれを読んでくれ」
ジノーファはそう言ってスレイマンにメフメトの手紙を差し出した。彼はそれを受け取り、何気なしに差出人と宛先を見る。次の瞬間、彼は目を見開いた。
「陛下! これは……!」
「まずは読んでくれ」
もう一度ジノーファに促され、スレイマンは震える手で封筒から手紙を取りだし読み始めた。読み進めるうちに、彼の顔から血の気が引いていく。その様子が、ジノーファは少し哀れに思えた。
「……言いたいことがあるなら聞こう」
スレイマンが手紙を読み終えたタイミングで、ジノーファは彼にそう言った。スレイマンはぎこちない動きで顔を上げたが、目の焦点が定まっていない。数秒視線を彷徨わせてからジノーファと目が合うと、急速に焦点が定まった。
「陛下っ! 平に、平にご容赦下さいっ!」
スレイマンはその場に平伏し、床に額ずけて慈悲を乞うた。それを見下ろすジノーファの目に冷たさはない。むしろ憂いややるせなさを映しているように、ユスフには思われた。そしてジノーファは一つため息を吐いてから、スレイマンにこう尋ねた。
「スレイマン、正直に答えてくれ。卿はこの件に関わっているのか?」
「滅相もございません!」
スレイマンは即座に関与を否定した。だが本当だろうかとユスフは思う。スレイマンはネヴィーシェル辺境伯家の重鎮で、さらに宰相職にある。謀反を主導しているのが辺境伯家そのものであるなら、当然彼を味方に引き込もうとするはずだ。彼を抱き込めれば、遠征計画をはじめ、マルマリズの動きは筒抜けになるのだから。だがジノーファはスレイマンの返答を疑うことはせず、代わりにこう尋ねた。
「では辺境伯家が謀反の計画を匂わせて来たことは?」
「それもございませぬ。ダーマードとは手紙のやり取りをしておりますが、アレがそのようなことを匂わせて来たことは一度も。そもそも甥は陛下とイスパルタ王国に何ら不満を抱いてはおりませぬ」
スレイマンはそう言い切った。ダーマードからの手紙を全て見せてもいい、とまでいう。それを聞き、ジノーファは少しだけ口元をほころばせた。
「ではこの一件、誰が主導していると考える?」
「……普通に考えるならば、ダーマードでしょう。ですが……」
「信じられない、か」
「はっ……」
「ネヴィーシェル辺境伯家を庇っていると受け取られかねない」と思ったのか、スレイマンがやや言いにくそうにしながらジノーファの言葉に頷いた。とはいえ、ジノーファの顔色に不快げなところはない。彼はただ思案げな顔をして、それからスレイマンにこう声をかけた。
「顔を上げてくれ、スレイマン」
スレイマンは一瞬、肩をびくりと震わせた。老いた彼の身体は、今はことさら小さく見える。彼は恐るおそる顔を上げたが、ジノーファの表情が思いのほか柔らかいのを見て、安堵の息を吐いた。いつもの彼であれば、そのようなことは表に出すまい。余裕がないのだ、とジノーファにも分かった。
「スレイマン。近いうちにダーマードとオズデミルを呼び寄せ、事情を聞くことになる。それでしばらくの間、ネヴィーシェル辺境伯家及びバラミール子爵家との、私的なやり取りは一切禁じる。この場でのことも、他言無用だ」
「ははっ」
「卿に言うべきことは以上だ。戻ってもらって構わない」
ジノーファがそう言うと、スレイマンは「は……?」と呆けたような声を出した。そして忙しく視線を彷徨わせ、ジノーファの視線とぶつかると息を呑んだ。何度か躊躇ってから、彼は遠慮がちにこう尋ねた。
「……その、恐れながら陛下。陛下は私に、これからも宰相として働けと、そう仰るのですか……?」
「そうだ。スレイマン、卿のことは信頼している。今後も宰相として、わたしを助けて欲しい」
その言葉を聞き、スレイマンは感激した様子だった。珍しいことに、目に涙を浮かべている。だが感激しても彼は冷静だった。スレイマンはジノーファにこう告げる。
「恐悦至極に存じまする……。されど、それはなりますまい。少なくとも今回の一件、メフメトが関わっていることは明白。であれば、私が宰相職に留まるわけには……」
「スレイマン。卿を処断すれば、ダーマードも処断しなければならなくなる。オズデミルもだ。ネヴィーシェル辺境伯家もバラミール子爵家も混乱するだろう。私貿易も閉ざさざるを得なくなる。遠征を目前にしてそれは避けたい。国のため、家のため、のみ込んで欲しい」
「御意に、ございます……」
涙声になりながら、スレイマンはそう応えてまた頭を伏せた。彼のことを気遣い、ジノーファがあえてこういう物言いをしたのだと察したのだ。彼はしばらく顔を伏せていたが、次に顔を上げたときには目に力があった。
「陛下、一つお願いがございます。私に監視を付けて下さいますように」
「監視か……。分かった。ユスフ、しばらくスレイマンの下で学ばせてもらうといい」
「御意」
「それからスレイマン、隠密衆の者たちにも監視させる。それで良いな?」
「ご配慮、感謝いたします」
スレイマンがまた頭を下げた。監視は「叛意はない」と証明するためのものだ。同時に彼自身のためのものでもある。監視が付いているのだから、あとはおかしなことをしなければ、何が起こっても罪に問われることはない。
監視を願うことで、改めて忠誠を誓ったとも言えるだろう。ジノーファは満足げに一つ頷いてから、最後にこれまで沈黙を守っていたクワルドにこう尋ねた。
「クワルド、異論はあるか?」
「いえ、ございません。御意のままに」
クワルドがそう答えたことで、スレイマンの処遇は決まった。最後に深々と一礼して、スレイマンはユスフを伴って退室する。それを見送ってから、ジノーファは一つ息を吐いた。そしてクワルドにこう命じる。
「召喚令状をしたためる。ダーマードとオズデミルのところに送れ」
騒動はまだ、終わっていない。
シェリーの一言報告書「ぶ っ 殺 し て や る」
ダンダリオン「落ち着け。筆圧が濃いぞ」




