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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
大アンタルヤ王国

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野心と手紙


「遠征、かぁ……。言われてみれば、確かにそうおかしな事ではないわね」


 シャガードからの報告を聞き、ファティマは少々自嘲気味にそう呟いた。相互不可侵条約の失効に合わせて軍事行動を催すのは、何ら不思議なことではない。ただ正直に言って、彼女はほとんどその可能性について、これまで考えていなかった。


 より正直に言えば、ジノーファが自分から戦争を仕掛けるとは思っていなかったのである。ファティマの知る彼は、身の置き場のない不安げな顔をした、どこか主体性のない少年だった。そのイメージが強くて、戦争というところへなかなか結びつかなかったのだ。


(失敗、ね……)


 ファティマはそれを認めなければならなかった。そもそも主体性のない人間が、分離独立などという大それたことをしでかすはずもない。あの日から今日までの道のりが、ジノーファを変えたのだ。彼女はそれを見誤った。


 とはいえ、致命的な失敗というわけでもない。はっきり断ってこないということは、イスパルタ王国側も休戦交渉を有力な選択肢の一つと考えているのだろう。このタイミングでそれを提示できたことは大きい、はずだ。


「それでファティマ殿下。この件はイスファード陛下にお伝えいたしますか?」


「……今はまだ、伝えないでおくわ」


「しかし……」


「シャガード。それでは聞くけれど、この情報は本当に真実なのかしら?」


 ファティマにそう問い返され、シャガードはハッとした。確かに裏を取ったわけではない。メフメトが全て真実を話しているという保証はないのだ。そもそも遠征の情報ともなれば、普通おいそれと外に漏らすことはできない。それを口頭で伝えてきたと言うことは……。


「情報操作しようとしている……?」


「かも知れないわね」


 ファティマは肩をすくめてそう答えた。私貿易を通じて入ってくる情報は、もともと酷く偏っている。イスパルタ王国にとって都合のいい情報だけが伝えられていると考えるべきで、今回の遠征の話もその一つであろう。しかも話が大きい分、軽々に動くわけにはいかないのだ。


「では、遠征はウソ……?」


「ウソかは分からないわ。でも、どこからどこまでが本当なのかも分からない」


 北アンタルヤ王国を罠にはめるための計略かも知れず、よく調べもせずにそのような情報をイスファードのところへ送るべきではない。ファティマにそう説明され、シャガードは硬い表情をして頷いた。


「ところで遠征のことだけど、ロストク軍のことは何か言っていたかしら?」


「いえ、何も言っていませんでした。ということは、やはり……」


「少なくとも、まだ話していないことはあるのでしょうね。あるいは、メフメト卿も全てを把握しているわけではないのかも知れない」


 シャガードの言葉に一つ頷き、ファティマはそう応えた。正妃マリカーシェルが輿入れした際、ロストク帝国は彼女とイスパルタ王国のために三万の兵を動かした。それだけ帝国はこの西の同盟国を重視しているのだ。


 そもそもイスパルタ王国には、ロストク帝国の西征のための尖兵という側面がある。イスパルタ王国が西へ進むというのに、ロストク帝国が何ら援軍を出さないというのは考えにくい。であればやはり、メフメトは全てを話しているわけではないのだ。


「幸い、矛先を向けられているのは我が国ではないわ。慌てる必要はない。できる範囲で、情報を集めましょう」


 ファティマの言葉にシャガードは頷く。その後、幾つかの指示を受けてから、彼は退室した。その背中を見送ってから、ファティマは小さくため息を吐く。なかなか思うとおりにはならない。彼女はそう思った。


 イスパルタ王国が遠征を行うとなれば、今後数ヶ月は足並みを揃えて休戦交渉に入ることはできない。これを契機にして南アンタルヤ王国と独自に交渉するという手もあるが、ガーレルラーン二世がどこまで譲歩してくれるのかは不透明だ。


 仮に独自に交渉して休戦が成立したとして、稼げる時間は恐らく一年に満たない。ファティマが考えるほどの時間は稼げないだろう。何より、その休戦はイスパルタ王国との戦争のためのもの。ジノーファの目に利敵行為と映れば、その後にイスパルタ王国と足並みを揃えることは恐らく不可能になる。


 慎重に慎重を期さねばならない。ファティマは自分にそう言い聞かせた。ここで舵取りを誤れば、北アンタルヤ王国は滅亡しかねないのだ。だからこそ彼女は、イスファードにはまだ遠征の情報を伝えないことにしたのである。


 イスファードは今、非常に大きなストレスを抱えている。圧迫され続け、打開策も見いだせない。状況が好転する見込みもなく、むしろ徐々に苦しくなっている。北アンタルヤ王国は窒息寸前であり、他でもない彼がその責任を負わねばならないのだ。それは大変な苦痛であることは察するにあまりあるし、やり取りする手紙の文面にもそれは如実に表れている。


 そのイスファードが遠征のことを知ったらどうなるか。千載一遇の好機と捉え、兵を東へ差し向けかねない。それが唯一の希望に思えれば、彼はそれを断行するだろう。そしてそれに賛同する者も、少なからずいるのだ。


 ファティマの従兄弟であるジャフェルもその一人だ。むしろ彼はもっと急進的な考え方をしている。「決戦を挑み、勝利によって状況を打破すべし」というのが彼の主張だ。手紙の中で「外へ打って出るための物資を今から集めておくべきだ。そのためなら防衛線に回す物資を減らしても構わない」とさえ書いているのだ。


 そして恐らくジャフェルはイスファードとも手紙のやり取りをしており、その中で同様の主張をしているに違いない。彼の考えにイスファードが感化されたのか、それともイスファードの考えに彼が同調し迎合しているのか。いずれにしてもファティマは危ういものを感じざるを得ない。


 実際、現実的な話として、戦力が足りないし、準備もできていない。またそれ以前の問題として、罠であるかも知れないのだ。ロストク軍のことなど分かっていないことも多く、決戦を挑む条件が揃っていないのは明白である。


 しかしそれでも、遠征の事を知ればイスファードは動きたがるだろう。「まだ動けるうちに動くべきだ」と彼は考えているのだ。それだけが北アンタルヤ王国の生き残る道であると信じて。


 短絡的、と責めるのは簡単だ。だが事実としてこれまで二年間、イスファードは耐えてきた。いつ来るかも分からない好機を待ち続けてきたのだ。そして今回を逃せば、次の機会はいつ来るのか分からない。北アンタルヤ王国がそれまで生き延びられるかも。


 正直に言えば、「動くべき」という考えはファティマの中にもある。いや、「一定程度理解は示せる」と言うべきか。だがやはり、「決戦などまだするべきではない」というのが彼女の考えだ。だからイスファードには遠征の情報は伝えない。少なくとも、今はまだ。


(バレたら、怒られてしまうわね……)


 内心でそう呟き、ファティマは苦笑を浮かべた。むしろ怒られるだけで済めば御の字だろう。危険な選択であることは分かっている。イスファードもカルカヴァンも、彼女にそこまでの判断は求めていないこともまた。


 だがそれでも。イスファードも北アンタルヤ王国も、ファティマはどちらとも愛しているのだ。その両方を守る道はこれしかないと、彼女もまた思い定めていた。



 □ ■ □ ■



 イスパルタ軍の遠征について、さらに情報を集める。それがファティマの示した方針だった。当然、彼女の部下であるシャガードも、その方針に沿って動くことになる。だが彼が情報収集できる場など限られている。つまり私貿易だ。


 そしてシャガードが接触できる人物の中で最も情報に通じているのはメフメトであり、要するに彼から話を聞くのが一番確実で手っ取り早い。だが馬鹿正直に「もっと教えてくれ」と言っても、教えてくれる範囲には限界があるだろう。


 それにメフメトが本当のことを教えてくれるのかも分からない。ウソが混じっているかも知れないし、情報が偏っているためにシャガードの側が誤解してしまうこともあり得る。それで彼はまずこういう聞き方をした。


「……ところでメフメト。誘引作戦は順調なのか?」


 誘引作戦の継続に際し、要求された煌石はすでに支払っている。作戦はすでに再開されているはずだし、実際北アンタルヤ王国側の防衛線にもその効果は及んでいる。ただ斥候を出して様子を確認させることも難しい。それでシャガードがそう尋ねるのも決して不自然ではない。


「順調だが……。どうしてそんなことを聞く?」


「いや、近衛軍は撤収したのだろう? それがどう影響したのか、こちらとしても心配で、な」


 シャガードがそう応えると、メフメトはムッとした表情をした。そしてその表情のまま、メフメトはこう応える。


「我々だけでは作戦を遂行できないと、そう言いたいのか?」


「いや、そうじゃない。だが現実問題として戦力は減ったのだろう? だがそれに合わせてモンスターの数が減るわけではない。負担が大きいのではないかと思ったのだ」


「無用な心配だ。そもそも近衛軍が撤収したのは、十分な数を間引いたと判断したからだ。頻度は落としたが、増員もしている。モンスターごときに後れはとらぬ」


「そう言えば、増員すると言っていたな。どれくらい増やしたのだ?」


「二五〇〇」


 メフメトは端的にそう答えた。それを聞いてシャガードは「ほう」と驚いたような声を上げる。そしてこう言葉を続けた。


「さらにそれほどの戦力を追加できるとは。さすがはネヴィーシェル辺境伯家だな」


 シャガードはあえてバラミール子爵家の名前を省いた。全てをネヴィーシェル辺境伯家の手柄にして、持ち上げてやったのだ。メフメトもまんざらではない様子で、頷く彼の口元は小さく緩んでいる。それを見ながら、シャガードは素早く頭を巡らせた。


 近衛軍五〇〇〇が撤収し、代わりに二五〇〇の兵を追加で増やしたということは、現在誘引作戦に従事している兵の数は七五〇〇ということになる。ここに遠征のことを合わせて考えれば、この戦力がただモンスターを間引くためだけのものでないのは明らかだった。


 この戦力は明らかに、北アンタルヤ軍を警戒してのものだ。イスパルタ軍が西へ動くのと同時に、北アンタルヤ軍が東へ動くことのないよう、牽制するのが真の目的であろう。誘引作戦それ自体にも、同様の狙いがあるに違いない。


(やはり誘引作戦は遠征に絡んでの動き……)


 シャガードは内心で一つ頷く。考えてみれば、誘引作戦のことはジノーファも知っているに違いない。クルシェヒルを狙うのであれば、一兵でも多くの戦力が欲しいはず。それにも関わらず七五〇〇もの戦力を割いたと言うことは、彼が油断していないことの証拠と言っていい。ジノーファは決して、北アンタルヤ王国を侮ってはいないのだ。


 実際、中途半端な戦力を動かしては、手痛い逆撃をくらいかねない。私貿易のチャンネルも閉じられてしまうだろう。北アンタルヤ軍が東へ動くとすれば、イスパルタ王国と雌雄を決するだけの覚悟が必要になる。


 だが現実問題、動かせるのは一万が精一杯だろう。決戦に向けたもろもろの準備も間に合わない。事実上、北アンタルヤ軍は動きを封じられているのだ。なかなか手堅い駒の進め方だ、とシャガードは思った。


「それにしても、イスパルタ軍は余裕があるのだな。七五〇〇も誘引作戦に割くとは……」


「さて、どうかな。まあ、東の国境に兵を割かなくていいのは大きいだろうな」


 メフメトはそう答えた。イスパルタ王国に東にある国と言えば、ロストク帝国とイブライン協商国だ。両国とも、イスパルタ王国に侵攻する可能性はほぼない。イスパルタ王国はその全軍を西へ向けられるのだ。


「……ところでシャガード。私も一つ聞きたいことがある」


「何だ?」


「例の件、イスファード陛下にはお伝えしてあるのか?」


 メフメトは声を潜めてそう尋ねた。言葉をぼかしてはいるが、要するにイスパルタ軍の遠征のことだ。すぐにそれを察し、シャガードの視線がスッと鋭くなる。彼は呼吸一つ分の間を取ってから、逆にこう聞き返した。


「……なぜ、お前がそんなことを気にする? そもそもこの私貿易はエズラー男爵を通じてのものだ」


「今更そんな建前を気にするのか?」


 メフメトはそう言って冷笑した。確かにファティマの名前を明かした以上、エズラー男爵がこの私貿易を取り仕切っているというのは、有名無実な建前でしかない。シャガードが黙っていると、メフメトはニヤリと嗜虐的な笑みを浮かべてさらにこう続けた。


「だがその様子では、まだお伝えはしていないようだな……。慎重になるのは当然だが、疑われたのだとすれば心外だ。私にそちらを騙す意図などない。むしろ北アンタルヤ王国のことを思えばこそ、この重要な情報を提供したというのに」


 メフメトはそう言って大げさに嘆いて見せた。だが彼が全てを話していないのもまだ事実だ。それもあり、シャガードはやや憮然としてこう応えた。


「疑っているわけではない。だが軽々に動くわけにもいかん」


「ふむ。それはお前の考えなのか、それともファティマ殿下のお考えなのか……。いずれにしても、それを判断するのはイスファード陛下だと思うが……」


 呟くようにそう言って、メフメトは考え込む仕草を見せた。余裕を滲ませるその態度に、シャガードは内心でわけの分からない焦りを覚える。次に彼が何を言うのか。聞きたくないような気もするし、聞かなければならないような気もする。そんなシャガードの内心には恐らく気付かないまま、メフメトはさらにこう述べた。


「もしや警戒しているのか? イスファード陛下が短慮を起こすのではないか、と」


「いや、そうではない」


 シャガードは慌てて否定する。だがメフメトにそれを信じた様子はない。彼はますます嗜虐的な笑みを深くした。そして彼はシャガードの耳元でこう囁いた。


「大丈夫だ。イスファード陛下は短慮など起こさぬ。いや、短慮になどならぬ。ネヴィーシェル辺境伯家がそうさせぬ」


「……っ!」


 一瞬、シャガードはその言葉の意味が分からず唖然とした。腹の奥には重苦しい衝撃が残っている。横目でメフメトを窺うと、彼は口の両端をつり上げるようにして笑った。それを見て、シャガードは唾を飲み込む。


「な、何を言って……」


「我が辺境伯家が王権を握れば、北アンタルヤ王国にはさらなる援助ができるだろう。休戦交渉のことだけではない。足並みを揃えて、南アンタルヤ王国と戦うこともできるだろう。このこと、今度こそイスファード陛下に伝えてくれよ」


 そう言って、メフメトは一通の手紙をシャガードの懐にねじ込んだ。シャガードは呆然と立ち尽くしている。そんな旧友の肩を、メフメトは二度三度軽く叩いた。そして最後に彼はこう囁いた。


「将来的に、お前がイスファード陛下のお側にいてくれれば、私もいろいろとやりやすい。二人で国を、いや世界を動かしてやろうじゃないか」


 それだけ言うと、メフメトは返事も聞かずにその場を離れた。彼の足音が遠くなってから、シャガードは慌てて懐に手を入れる。そこにはねじ込まれた手紙が確かにあって、シャガードは腹の中に石を詰め込まれた気分になった。



ファティマ「秘密は女を綺麗にするのよ!」

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― 新着の感想 ―
[一言] >「秘密は女を綺麗にするのよ!」 綺麗になって見せるべき相手がそれどころじゃない件
[一言] ダーマードさん、こりゃどっちにしろ覚悟決めないといけないねぇ… せっかく建国してのこれからって時なのにかわいそ… がんばれメフメト! お前の近くには陛下に恩感じてる聖痕持ちがいるぞ!
[一言] 現当主は釘挿してたんだけどなぁ 一族郎党か
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