二人目
ジノーファがクワルドに命じていた兵站を専門に取り扱う部署、「兵站計画部」の設立は順調に進んでいた。もともと、軍隊が組織として活動するために兵站は欠かせない。つまりこれまでも兵站の取り扱いはしていたわけで、経験者もいればノウハウもあるのだ。
ただ、これまで兵站は部隊毎や作戦毎の取り扱いだった。兵站計画部は、これを一本化するための部署だ。作業の効率化や、仕入れのコストカットだけが目的ではない。兵站計画部の設立は、イスパルタ王国近衛軍の完全な常備軍化を視野に入れてのことだった。
ただ、一本化したために組織が硬直してしまい、それぞれの部隊編成や作戦行動について柔軟性が失われてしまっては、元も子もない。何より、現場のことは現場の人間が一番よく分かっている。それで、どこにどれだけの裁量を認めるのか、ということが重要な課題となっていた。
「今はまだごたついていますが、建国祭までには大枠ができあがるかと思います。もっとも、その後も試行錯誤は続きますが……」
「進めてくれ。必要なことだ」
クワルドから説明を聞くと、ジノーファは一つ頷いてそう告げた。兵站計画部の設立は、近衛軍の形を大きく変えることになる。問題が出てくることは避けられない。むしろそういう問題を解決していくことで、組織として成熟し、またより良い形へ収斂していくのだ。比較的平和なこの時期に、是非ともやっておかなければならない。
「それで、常備軍の規模はどの程度になりそうだ?」
「スレイマン卿とも相談してみたのですが、まずは二万、可能なら三万と考えています」
「それはすごい」
ジノーファは素直に感嘆した。彼はクワルドから「近衛軍の戦力は二万」と聞かされている。この内のおよそ半分は徴兵した兵であるから、平時における近衛軍の戦力はおよそ一万と思って良い。
つまりクワルドが口にした二万という数字は、「有事並の戦力を平時から保有しておく」ことを意味している。しかも兵の全てが常日頃から訓練を重ねる職業兵になるわけだから、数字の上では同じ二万でも、実質的な戦力はさらに増すと思って良い。
ただしそれだけ人数を増やすのだから、当然相応に金がかかる。クワルドがスレイマンと相談したのも、その辺りの事だろう。つまり交易による収入で十分に賄える、と判断されたわけだ。
さらに三万という数字まで出ている。交易による収入増加の見通しは明るい、ということだ。もっとも、イスパルタ王国は建国したばかりで必要とされるものは多く、全体としてみれば予算は足りていない。その中で二万や三万という数字を出せたのは、ひとえに予算配分において軍が優遇されているからだ。
「陛下には、感謝しております」
クワルドはそう言ってジノーファに一礼した。軍の優遇はジノーファの方針だ。そのために彼は様々なものを後回しにしていた。
その最たるものは王城である。今の王統府は、元はマルマリズの太守府であり、要するにただの役所でしかない。王とその家族が生活する場所としては相応しくなく、実際後宮とも言うべき王妃マリカーシェルの生活空間は王統府の外に設けられた。
この状況がイスパルタ王国の威信に関わると考える者は少なくない。マルマリズの太守、ムスタファーもその一人である。彼は以前、ジノーファにこう進言していた。
『現在の王統府は、陛下のお住まいとして相応しくありません。それでトゥユズ湖の北に王城と城下町を新たに整備されますように。陛下に相応しき王城を得てこそ、イスパルタ王国は各国より一目置かれるというものです』
要するにムスタファーは北マルマリズの建設を上奏したのだ。北マルマリズが建設されれば、太守たる自分の影響力はさらに増すと考えたのだろう。ただ彼のそういう個人的な思惑は別にしても、王城が必要であることはジノーファもまた認識していた。
実際、少し先の未来において、北マルマリズは実際に建設されることになる。ただジノーファはこの時点で北マルマリズを建てようとはしなかった。そのためには多額の予算が必要になるからだ。
王城と城下町を建てようとすれば、近衛軍の改革が遅れることになる。ジノーファは後者を選択し、予算を集中投下することにしたのだ。選択と集中。これもまた彼が本を読んで学んだ事柄だった。
「ガーレルラーンとの決戦は避けられない。そして我々は勝たなければならない」
ジノーファはクワルドの目を真っ直ぐに見てそう告げた。近衛軍の改革を優先した理由は、結局のところコレだ。
来たるべき決戦に勝利を収め、イスパルタ王国の独立を確たるものとする。そのために近衛軍の予算を優遇しているのだ。そしてそのことは、クワルドもまた十分に理解していた。
「承知しております。必ずや近衛軍を、ロストク帝国の皇帝直轄軍に勝るとも劣らぬ、精強な軍隊に仕上げてご覧にいれまする」
「期待している。帝国に援軍を求めることもできるが、これは我々の戦争だ。まずは我々の力で勝てるようにしよう」
「御意」
「うん。……ところで、諜報部隊のことなのだけど」
そう言って、ジノーファは話題を変えた。諜報部隊は今のところ、表向きはジノーファが、実質的にはシェリーが中心になって編成と訓練を行っている。ただ、そこに所属している人員はほとんどが近衛軍からの引き抜きだった。
ジノーファの求めている諜報員とは、ただ単に身のこなしが軽ければ良いというものではない。読み書きは当然として、情報を収集して自分なりに分析し、さらにそれを元にして次の行動を考えられるような、そういう人員をジノーファは求めているのだ。
だがそれほどに優秀な人員を一から育てるのは容易ではない。一方で諜報部隊は今すぐにでも必要なのだ。それである程度能力が保証されている者を、近衛軍から引き抜いたのである。
その関係もあって諜報部隊は結局、書類上では近衛軍の一部隊ということになっている。ただし国王であるジノーファ直属の部隊であり、近衛軍を統括しているクワルドにさえその指揮権はない。近衛軍の中にあって、完全に独立した部隊なのだ。
「シェリーがそろそろダンジョンに潜らせて訓練を行いたいと言っているんだ」
「分かりました。手配しておきましょう」
「うん、頼んだ」
ジノーファは笑みを浮かべてそう言った。いくら直属の部隊についてとはいえ、本来であれば国王であるジノーファがこんな細かいところまで話を通す必要はない。だが諜報部隊はいまだ訓練段階であり、要するに部隊を指揮する部隊長がいないのだ。
いや、指揮する能力のある人間はいるのだ。シェリーや、彼女がロストク帝国から連れてきた細作たちだ。ただ彼らはもともとシェリーの指揮下にある。そうなると部隊長の適任者はシェリー一人。そして彼女は表に出ることを避け、影でジノーファを支えることに徹している。
こうなると、表に出られるのはジノーファしかいない。まあ、実務的なことはシェリーと彼女の部下たちがやってくれている。彼のやることと言えば、書類に判子を押すことと、こうしてクワルドやスレイマンに話を通すことくらいだ。
それも、人が育つまでのことである。今、諜報部隊で訓練している者たちは、全て将来の幹部候補だ。そしてそのことを、ジノーファは直々に彼らへ伝えてある。彼らが隊をまとめられるようになれば、ジノーファが直接手を出すことも減るだろう。それまでの事と思い、彼は今の状況を結構楽しんでいた。
諜報部隊の訓練自体も、順調に進んでいるとジノーファは聞いている。ダンジョンでのレベルアップが一段落すれば、いよいよ国外に送り込んで情報収集をさせるつもりらしい。少しずつだが、形は整いはじめている。
諜報部隊が動き始めれば、必要な情報を正確に、そして素早く入手することができるようになるだろう。それだけではない。敵を流言飛語によって混乱させたり、噂によって疑心暗鬼にしたりと、諜報部隊の使い道は幅広い。
いくらロストク帝国の後ろ盾があるとは言え、イスパルタ王国は小国だ。生き残るためには、情報収集はもちろん、武力を使わない戦い方も必要になるだろう。諜報部隊はそのための手足となるのだ。
「他にも、防諜はもちろんとして、直接的な破壊工作や暗殺なども将来的には……」
「クワルド」
ジノーファは少し呆れたように彼の名前を呼んだ。諜報部隊と聞けば、確かにやらせたいことは山ほどある。だが今はまだ小さいのだ。あれもこれもやらせることはできない。それこそ、選択と集中が必要だ。そしてジノーファは当面、諜報部隊は情報収集を中心に使うと決めていた。
「申し訳ありません」
「いや、いい。将来的にはそう言う仕事もあり得るだろう。諜報部隊の者たちは影からこの国のために働くことになる。だが、だからといって彼らを日陰者にするつもりはない。それだけは覚えておいてくれ」
ジノーファがそう言うと、クワルドは「御意」と答えて一礼した。それから二人は打ち合わせを続けた。兵站計画部も、常備軍も、諜報部隊も、全ては来たるべき決戦のために。明確な目的を持って、イスパルタ王国の近衛軍はその姿を変化させようとしていた。
□ ■ □ ■
「どうやら、身ごもったようです」
ジノーファがシェリーからそう告げられたのは、マリカーシェルの輿入れを間近に控えた三月末の、ある夜の事だった。突然の報告に、ジノーファはやや唖然とする。シェリーは少し恥ずかしげにしながら、そんな彼に微笑んだ。
「そう、か。うん、目出度い」
ジノーファはそう言って微笑むと、シェリーをそっと抱き寄せた。彼の腕の中で、シェリーは嬉しそうに目を細める。しばらくそうして抱き合った後、二人は一度身体を離した。そしてソファーに隣り合って座ってから、ジノーファはまたシェリーの肩を抱いた。
「ありがとう、シェリー。嬉しいよ」
「はい。わたしも嬉しいです」
そう言って、シェリーはジノーファの胸に頭を預けた。彼女の髪を、ジノーファは優しく撫でる。
「二人目、だね」
「はい。二人目、ですわ」
そう言い合って、二人はそれぞれ可笑しそうに小さく笑った。当たり前のことが、今のジノーファにはひときわ幸せに思える。同時に、まだ小さなあのベルノルトが、今度は「お兄ちゃん」になるのだと思うと、何だかとても不思議に思えた。
シェリーの出産に関して、ジノーファは特に心配はしていない。彼女はダンジョンでレベルアップを続け、ついには成長限界に達している。さらに一人目の時も安産だったし、今回もきっと大丈夫だ。本人もその経験があるからなのか、精神的にも落ち着いているように見えた。
「男の子でしょうか、それとも女の子でしょうか?」
シェリーはお腹を撫でながら楽しげにそう呟いた。そんなことを考えられるのも、余裕がある証拠だろう。
「ジノーファ様は、どちらが良いですか?」
「そうだねぇ……」
ジノーファはゆっくりとした口調でそう応えてから、シェリーの頭に頬を寄せた。口調にも声音にも出さなかったが、彼の目には苦悩が浮かんでいた。
女の子。先ほどジノーファはそう答えそうになった。それを慌てて飲み込み、さらにそれを悟らせないためにゆっくりとした口調で応えたのだ。そして考えるふりをしながら、時間を稼いで心の態勢を整えている。
なぜ女の子なのか。それは、一人目が男の子だったから二人目は女の子、という理由ではない。女の子であれば王位の継承から遠くなる。後継者に関わる問題が、無くなりはしないだろうが小さくなる。そう思ってしまったのだ。
シェリーは側妃だ。そして正妃はマリカーシェルである。マリカーシェルの産んだ子供こそが、ジノーファの後継者となって次のイスパルタ王国国王となる。男子が優先されるが、男子がいない場合には女王が立つことになる。
これはマリカーシェルの輿入れが正式に決まった時、同時に取り決められた約束である。ロストク帝国の皇族の血を引く者が次のイスパルタ王国の王となること。それが両国の同盟の条件であると言って良い。
だが現実問題として、マリカーシェルはまだ正式に輿入れしていない。ジノーファの子供はベルノルト一人。そしてこの度、シェリーが二人目を身ごもった。さらに言えば、マリカーシェルに子供が生まれるのか、生まれたとしてその子は無事に育つのか、それさえも定かではない。
この状況をどう見るのか。イスパルタ王国の貴族は、元はアンタルヤ王国の貴族であり、つまり自主自立の気風が強い。ロストク帝国との同盟が必要であると理解はしているだろう。だがその血が頂点に立ち、自分たちの頭を抑えることに忌避感を覚える者がいたとして、何ら不思議はないようにジノーファには思えた。
今、男の子が生まれれば、ロストク帝国も内心穏やかではあるまい。だが女の子であれば、仮にマリカーシェルに子供が生まれなかったとしても、改めて帝国から皇族の血を引く婿養子を迎えるなど、形式を整えることはできる。シェリーはダンダリオンの養女であり、彼女の娘と皇族の男子が結婚するのであれば、帝国も納得するだろう……。
そんなことを、ジノーファはつい考えてしまったのである。考えたことそれ自体は、王として正しい事なのかも知れない。だが子供の誕生をただ素直に喜ぶことができないとは、何と薄情な父親だろうか。
思えば、ベルノルトの時、子供の性別を話題に出したのはジノーファの方だった。あの時は本当に、男の子でも女の子でも、どちらでも良かったのだ。子供ができたことがただ嬉しくて、身体がなんだかふわふわとしていたことを覚えている。
今回は違う。違って、しまった。嬉しいことは本当だが、同時に頭の中に冷徹な部分があって、そこが政への影響を計算している。それは二人目で余裕があるからとか、そういうわけでは決してない。立場の変化が、彼にそうさせるのだ。
「…………どちらでも、どちらでもかまわないさ。無事に生まれてくれさえすれば」
たっぷりと時間をかけてから、ジノーファはできる限り穏やかな声でそう答えた。その言葉は本心だ。だが、そうとしか答えられなかったとも言える。
都合の悪い部分は隠し、話しても良いことだけを口にする。シェリーを相手にそんな綱渡りのような会話をしているのが愚かしくて、ジノーファは内心で自嘲した。
「子供の性別は天が決めること。男の子でも女の子でも、わたしとシェリーの大切な子供だよ」
「はい」
シェリーは嬉しそうにそう応えると、目をつぶってジノーファに身体を預けた。ふれ合う彼女の体温が暖かい。ジノーファは幸せだった。幸せだからこそ、辛くて苦い。
「ジノーファ様」
やおら、シェリーがジノーファの名前を呼んだ。彼が「どうかしたのか?」と尋ねると、シェリーは目をつぶったまま穏やかな声でこう続けた。
「わたくしは幸せです」
「それは、良かった」
「はい。こうして二人目も授かることができました」
「うん。それも、良かった」
「覚えておられますか? 初めて出会ったときのことを」
「もちろん。シェリーは花に水をあげていたね。じょうろを振り回しながら」
ジノーファがそう言ってクスクスと笑うと、シェリーは「もう」と言って、彼の胸に頭をぐりぐりと押しつけた。
「今だから申し上げますが、あの時、はしたないところを見られてしまって、恥ずかしかったのですよ」
「それは気づかなかった。見とれてしまっていたから」
「まあ。お花に?」
「いいや、君に」
ジノーファがそう答えると、シェリーは嬉しそうに笑ってさらに彼の方へ身を寄せた。ジノーファも彼女をしっかりと抱きしめる。彼の腕の中、シェリーは小さく身じろぎしてさらにこう言葉を続けた。
「たまに、思うのです。全部、夢なんじゃないか、って……」
「それは困るな。シェリーもベルもお腹の子も、夢幻と消えてしまっては」
「はい。わたくしはここにおります。ずっと……」
ささやくようにそう呟くと、シェリーの身体からスッと力が抜けた。ジノーファが「シェリー?」と呼びかけても、返ってくるのは寝息ばかり。無防備なその寝顔を見て、ジノーファは小さく笑みを漏らした。
「ありがとう、シェリー」
そう言って、ジノーファはシェリーの額にそっと口づけを落とした。
シェリーの一言報告書「二人目ができました。男の子でしょうか女の子でしょうか。まあどちらでも素晴らしく可愛くて凜々しくて聡明で気立てが良くて歴史に名を残す子になるでしょう間違いないです」
ダンダリオン「落ち着け。そして句読点を入れろ」




