北アンタルヤ王国2
ガーレルラーン二世が人質制度を明文化したと聞いても、イスファードもカルカヴァンもそれほどの危機感は覚えなかった。上手くいかないと思ったのだ。アンタルヤの貴族は伝統的に自主・自立の気風が強い。そしてそれを侵されることを嫌う。人質制度はその最たるものと言っていい。
ましてこれまで、人質は要求されていなかったのだ。貴族たちにしてみれば、いきなり首輪を付けられたようなものである。当然、不満に思うだろうし、反感を抱く。そのことは容易に想像できた。
無論、猶予として与えられた一ヶ月の間に、どこかの貴族が北アンタルヤ王国に通じたり、ガーレルラーン二世に叛旗を翻したりすることはないだろう。だが不満や反感は、付け入る隙になる。調略のための良い糸口となるだろう。イスファードとカルカヴァンはそう考えた。
人質を取られているのに調略に応じるのか、という問題はある。だがこの点についても、二人は楽観視していた。何しろ、家の興亡がかかっている。人質の命とは比べものにならない。
そもそも、どの貴族の家であっても、血生臭い権力闘争はやっているものだ。権力のためならば親兄弟子供であっても切り捨てる。それをやるのが貴族だ。自分にとって不都合な人物がいればそれを人質にするとか、それくらいのことはするだろう。その場合、切り捨てることに躊躇などするまい。
北アンタルヤ王国が優勢であるとはっきり分かれば、大多数の貴族は人質を切り捨ててでも北に通じるだろう。利があり、さらに感情を満足させられる選択なら、趨勢が決まる前に寝返りを決める家もあるに違いない。
イスファードとカルカヴァンはそう見込んでいた。いや、期待していたというべきかも知れない。いずれにしても、事態は二人の思うようにはならなかった。
およそ一ヶ月後。ファティマを介し、ヌーフがまた情報を伝えてきたのだ。それによると、何とルルグンス軍六万が南アンタルヤ王国に対して越境侵犯し、ガーレルラーン二世はそれを迎え撃つべく軍勢を率いて西へ向かったという。それを聞いたとき、イスファードとカルカヴァンは揃ってなんとも言えない顔をした。
ルルグンス軍が動いたのは、間違いなくイスファードが連携の要請をしたからだ。六万もの軍勢が動いてくれたことは、素直にありがたい。ガーレルラーン二世もこれを軽く考えることはできなかったようだ。だが動くタイミングがあまりにも遅い。
「なぜ今なのだ……」
呆れ果てたと言わんばかりの口調で、イスファードはそう呟いた。カルカヴァンも笑えば良いのか嘆けば良いのか分からないような顔をして一つ頷く。北アンタルヤ軍が王都クルシェヒルを目指して南下していた時、それに合わせてルルグンス軍が動いてくれれば、あるいはガーレルラーン二世を討てていたかも知れない。少なくとも、すごすごと軍を引き返す必要はなかった。
それなのに彼らは今になって、しかも単独で動いた。北アンタルヤ軍が撤退したことを知らないのだろうか。それともクルシェヒルが空だと考えたのか。何にしても事前にしっかりと情報を集めて動いたとは思えない。それでガーレルラーン二世と戦うのは、はっきり言って自殺行為だ。
「まったく……。そんなことだからルルグンス軍は弱いと嘲られるのだ」
イスファードはそう吐き捨てた。兵の質はともかく、六万という数はとてつもなく大きい。それが今、無駄に消費されようとしている。いや、情報が伝わる時間差を考えれば、すでに蹴散らされた後かも知れない。
もしその指揮権が自分にあれば。イスファードはそう思わずにはいられなかった。そうすればガーレルラーン二世だろうがジノーファだろうが、それどころか炎帝ダンダリオン一世だろうが、負けることはないのに。そして最初にタイミングさえ合わせてくれていたら、ルルグンス軍もまた自分が指揮することができていただろうに。本当に、口惜しいことだった。
「まあ、なってしまったことは仕方がありません。六万ともなれば、ガーレルラーンと言えども鎧袖一触というわけにはいきますまい。多少なりとも時を稼げれば御の字です。……それよりも問題なのは、南の貴族たちですぞ」
「ああ、そうだな」
カルカヴァンに宥められ、イスファードは頭を切り替えた。ヌーフが伝えてきた情報は、ルルグンス軍のことだけではない。そのことに関連してガーレルラーン二世が出した勅命もまた、彼は伝えていた。
『北アンタルヤ王国を名乗る叛徒どもの領地については、切り取り自由とする。ただし天領については、後日相応の対価と引き換えに王家へ返還されるものとする』
これがガーレルラーン二世の出した勅命だった。命令と言うよりは許可と言うべきかも知れない。いずれにしても、ガーレルラーン二世はこの勅命によって、南アンタルヤ王国の貴族たちを北アンタルヤ王国へけしかけたのだ。
「来ると思うか?」
「恐らくは。すでに前兆らしき動きが確認されています。防衛のための備えだと思っていたのですが、この勅命を合わせて考えれば、攻め込んで来るつもりなのでしょう」
カルカヴァンがそう答えると、イスファードは顔をしかめてうなり声を上げた。南アンタルヤ王国の貴族たちは人質の件でガーレルラーン二世に不満を持っているはずだ。だがそれでも、彼らは北アンタルヤ王国に通じるのではなく、むしろ積極的に敵対する道を選ぼうとしている。
「調略は、無理か……?」
「全ての家が我々に敵対的というわけではないはずです。まして切り取り自由となれば、利害の衝突が生じましょう。付け入る隙になるはずです。ですがどこに隙があり、どこなら調略に応じるのかは、今のところ判然としません。時間が必要です。しばらく様子を見て、情報を集める必要があるでしょう」
「そう、だな……」
やや不満げな顔をしながら、イスファードはそう応えた。それを見て、カルカヴァンは内心でため息を吐く。イスファードは成果を求めているのだ。だから「待つ」という選択肢があまり気に入らない。
(成果が必要であることは、認めるが……)
カルカヴァンは心の中でそう呟いた。イスファードは北域にあった天領を全て制圧している。それを持って成果と言えないことはないのだが、討伐軍編成のためにそれらの天領にはほとんど兵が残っていなかった。大半は戦う前に降伏してしまったし、また勝って当たり前の戦いでもあった。そのため、華々しい戦果とは言いがたい。イスファードもそれを気にしているのだ。
「……陛下。敵が攻めてくると言うのであれば、我々は戦わざるを得ません」
「そうだな。その通りだ」
「ガーレルラーンが直率しているのでなければ、敵は所詮烏合の衆です。我々は負けません。我々は勝ちます」
「うむ、当然だ」
「そして勝ったのであれば、敗走する敵の背中を追って南へ攻め上ることもできましょう。無論、クルシェヒルを攻め取るのは難しいでしょうが、それ以外なら……」
カルカヴァンが思わせぶりにそう言うと、イスファードはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。義父の言わんとしたところを察したのである。つまり逆撃する形で南を切り取るか、暴れ回って略奪にいそしむ、と言うことだ。
思いがけず明るい見通しを聞かされ、イスファードはすっかりその気になった。彼は建国以来、状況は悪くなる一方だと感じていた。今回の勅命もその流れで捉えていたはずだが、見方を変えれば逆にチャンスにもなり得ると気づいたのだ。
もちろん、本当にそう上手くいくのかは別問題だ。だがたまには景気のいい話もしなければ、イスファードは気を病んでしまうだろう。北アンタルヤ王国の厳しい戦いは、恐らく長引く。彼はそれに耐えなければならない。カルカヴァンはそう思い、さらにもう一つ明るい見通しを語った。
「それに、切り取り自由の勅命が出たとなれば、北の者どもは警戒しましょう。南から調略の手が伸びてきたとして、それに乗ることはあり得ない。国内の結束は強まるでしょう」
カルカヴァンがそう言うと、イスファードは明るい表情で「そうだな」と応じた。カルカヴァンも表面上はにこにことしていたが、しかし内心には懸念を抱えていた。
確かに南アンタルヤ王国からの調略には応じないだろう。しかしイスパルタ王国からであったら、どうか。追い詰められているところに手を差し伸べられれば、靡くものは出てくるだろう。そして一人寝返れば、後は雪崩を打って、ということも考えられる。警戒は必要だ。
「国内の貴族たちに手紙を書いてはいかがでしょうか? 勅命の件はすぐに伝わるはず。そこで陛下が結束を呼びかければ、皆心を一つにいたしましょう」
「うむ、そうしよう。国内をまとめてこそ、外へ打って出られるというものだ」
鷹揚に頷いてから、イスファードはそう言った。彼はペンを持つと、早速手紙を書き始める。このとき、彼はまだ北アンタルヤ王国を大きくすることができると考えていた。いや、大きくしてみせると思っていた。そしてカルカヴァンも、困難ではあるが可能性は十分にあると見込んでいた。
言ってみれば、このときの彼らにはまだ余裕があった。独立宣言はしたものの、まだ本格的な戦争状態には突入していなかったからだ。だがその余裕は徐々に剥ぎ取られて行くことになる。
二人がこの話をした少し後。南アンタルヤ王国の貴族たちが、ついに北アンタルヤ王国への侵略を開始したのである。イスファードはこれを撃退するべく、麾下の軍およそ八〇〇〇を率いて出撃。見事に勝利を収めた。
「見たか! 二度と馬鹿なことを考えられぬよう、鉄槌をくれてやる!」
敵軍を退けたイスファードは、その背中を追って南へ逆侵攻しようとした。しかしその時、彼のもとへ急報がもたらされる。何と、別の場所にまた敵軍が現れたという。掲げている旗からして、いま彼が追っているのとはまた別の貴族であろうと思われた。
良いところで水を差され、イスファードは忌々しげに舌打ちしたが、この新たな敵を放っておくわけにはいかない。すぐさま軍を引き返し、迎撃に向かった。幸い、敵の規模はそれほど大きくなく、一戦して退けることができた。
だがイスファードは喜ぶことができなかった。敵を退けはしたものの、逆侵攻するだけの余力が残っていなかったからだ。補給も兼ねて、一度シュルナック城に戻る必要がある。彼は一度大きく息を吐いて気を鎮めた。機会はまた来る。自分にそう言い聞かせて。
実際、敵はまたすぐに来て、イスファードは出撃した。ただし、またしても逆侵攻はかなわない。散発的な侵攻が延々と続き、イスファードと北アンタルヤ軍はそれに振り回された。そして振り回されながら、彼らは徐々に疲弊していったのである。
さて、大統暦六四〇年の年の暮れが迫ってきたある日の事。シュルナック城のイスファードとカルカヴァンのもとへ、衝撃的な報せが飛び込んできた。報せてきたのはファティマであり、それは私貿易の窓口となっているヌーフからの情報だった。
なんと、ガーレルラーン二世がルルグンス法国を降したという。
ガーレルラーン二世は四万五〇〇〇の兵を持ってルルグンス軍六万を撃破。そのまま法国領内へ攻め入り、法都ヴァンガルを無血開城させた。法王ヌルルハーク四世は額を地面に擦りつけて彼に許しを乞うたという。
その哀願が功を奏したのか、ヌルルハーク四世は死を免れた。だがルルグンス法国の未来は決して明るくはなかった。ガーレルラーン二世は二五州の割譲と、年に金貨五〇〇〇枚の貢納金を求めたのである。そして法国とヌルルハーク四世に、これを拒否する力は残されていなかった。
これにより、南アンタルヤ王国の版図は五〇州を数えることになった。北アンタルヤ王国が三十州だから、倍近い。動員できる兵の数は、おそらく七万を超えて八万に近い。無論、その全てが一度に動くことはないだろう。だが四~五万程度であればあまり無理をせずに動かせるだけの国力を、ガーレルラーン二世は手に入れたのだ。
この報せを聞いたとき、イスファードはのし掛かられるような圧力を感じた。ジノーファも同様だったが、彼が覚える危機感はより深刻だったと言って良い。何しろ彼の手元にある戦力はたったの一万五〇〇〇。限界まで積み増したとして、二万五〇〇〇は越えないだろう。それなのに両国はすでに戦争状態に突入していて、もはや引き返すことはできないのだ。
「なぜだ……。なぜ……」
イスファードはそう呟いてうなだれた。沈黙が彼の執務室を支配する。このとき、彼は何を嘆いていたのだろう。ルルグンス軍の脆さだろうか、それとも自らの逆境だろうか。だが今の彼にただ嘆くだけの贅沢は許されない。
「…………備えを、備えをしなければなりませぬ、陛下」
鉛を溶かし込んだかのような空気の中、カルカヴァンはイスファードにそう告げた。彼の声も多少強張っていたが、震えてはおらずはっきりと響く。その声に力づけられるようにイスファードはゆっくりと頭を上げ、そして頷いた。
「……そうだな。備える必要がある。武器が必要だ。あとは、兵糧も」
「国内だけでは、賄いきれませんな。私貿易を通じて手配しましょう。多少金はかかるでしょうが、致し方ありません」
「頼む。だがオズデミルの方が果たして用意できるのか? イスパルタ王国の国力からすれば、国中からかき集めることになる。多額の金と大量の物資が動くのだ。一つ間違えば私貿易が露見するぞ」
「それは、なんとも……。ですが他に方法がありません。発注するだけしてみるより他にないでしょう」
カルカヴァンの言うとおりであり、イスファードは表情を険しくしながらも一つ頷いた。このときの彼はまだ、状況が好転する未来を思い描けていたかも知れない。だが彼と北アンタルヤ王国の長く厳しい戦いは、まだ始まったばかりだった。
□ ■ □ ■
大統暦六四一年の年明けを、ファティマは多忙の中で迎えた。北アンタルヤ王国は現在、厳しい情勢下に置かれている。それでこの王国を支えるべく、彼女もまた多くの仕事を抱えているのだ。
ただ多忙な一方で、彼女は充実を覚えてもいた。少なくとも王太子妃としてクルシェヒルにいた頃よりも、今の生活は苦しくはあるが充実もしている。綺麗なドレスを着てお茶会をしているより、こうして領地と領民のために働いている方が、彼女にとっては自分の人生を生きているように思えるのだ。
(子供がいれば、また違ったのかしら……)
このところ、ファティマは時々そう考える。彼女とイスファードとの間に、子供はまだ生まれていない。そしてこのように離れて暮らさざるを得ない状況が続くのであれば、子供をもうけることはしばらく無理だろう。
そのことに寂しさを覚えないわけではない。だが子供がいれば、こうして領主代行になることはなかっただろう。この点に関して、ファティマの内心は複雑だった。
(もしも……)
もしも、もっと早い段階で子供が生まれていれば、イスファードは独立などという軽率な道は選ばなかったのだろうか。彼女はたまにそう考えることがあった。そしてもし今子供が生まれれば、幸福になる道が開けるのだろうか。
「はあ……」
ファティマは小さくため息を吐くと、ゆっくりと頭を左右に振った。どんな未来が最良なのか、それは今も分からない。今はただ、未来が途切れてしまわないよう、全力を尽くすのみ。そう頭を切り替え、彼女は書類を手に取った。
さて、彼女が任せられている仕事のなかで最も重要なものの一つは、私貿易のバックアップである。これは実質的な管理と言ってもいい。北アンタルヤ王国の生命線を維持する、とても大切な仕事だ。
ファティマが手に取ったのも、私貿易に関する資料だった。これまでに提供された物資とその価格の一覧表である。それを眺めながら、彼女はふと違和感を覚えた。
「…………?」
ただ首をひねってみても、その違和感の正体がつかめない。ただ嫌な感じはしないし、睨めっこしている時間もなく、ファティマはひとまずその違和感を棚上げすることにした。そして白紙を広げ、そこへ次に発注する物品とその数を書き連ねていく。
武器や医療品が多いことに気付き、彼女は激しい戦火を予感した。果たして来年を迎えられるのだろうか。誰もが感じているであろうその不安を、彼女もまた押し殺してペンを滑らせた。
ファティマ「兼業王妃、もしくはキャリアウーマン。どちらがいいかしら?」




