北アンタルヤ王国1
「イスファード、ああ、イスファード! 一体、何ということをしてくれたのです!」
イスファードの姿を認めると、メルテムは顔に悲壮な表情を浮かべてそう声を上げた。彼女が息子を叱ったのはこれが初めてだ。
長男であるエルドアンは生まれてすぐに死んでしまい、叱ることなどできなかった。息子と言うことになっていたジノーファに、彼女は叱るほどの関心は示さなかった。そしてイスファードが王家に戻ってきてからは、彼が愛おしすぎてやんわりとたしなめるのが精々だった。
そのメルテムが今、イスファードの胸ぐらを両手で掴んで詰め寄り、険しい顔をして声を上げている。それだけ逼迫し、後がない状況なのだ。ガーレルラーン二世はイスファードを討伐するつもりでいる。
一度口に出した以上、彼がそれを躊躇わないことを、メルテムは知っていた。こうして説得を許してもらえたことだけが、一縷の望みだ。だが時間は限られている。ガーレルラーン二世が軍勢を動かす前に、この馬鹿げた反抗を止めさせなければならない。彼女は必死の形相でこう言い募った。
「なぜこんなにも乱暴な仕方で王座を求めたのですか!? わたくしは手紙に書いたはずです。貴方は必ず王太子の位に戻れる、だから短慮を起こさず今は休みなさい、と。なぜ母のいうことを聞いてくれないのです!?」
「…………」
言葉を重ねるごとに、メルテムは頭に血が上っていくようだった。その様子を、イスファードは逆に冷めた面持ちで見下ろす。だがメルテムは息子のその視線に気づかないまま、彼女はさらに言葉を重ねる。
「すぐに陛下のもとへ参りますよ。きちんと謝罪し、許していただくのです。わたくしも口添えをします。そうだ、ユリーシャにも頼みましょう。そうすれば、陛下も……!」
メルテムはそう語りながらイスファードの手を引いて歩き出した。しかし彼に動く気配がないのを見て、彼女は言葉を切っていぶかしげに振り返った。そしてその時初めて、彼女は息子の顔に何の表情も浮かんでいないことに気がついた。
「イスファード……? 何をしているのです、早く……」
「無益です、母上」
母親の言葉を遮り、イスファードは短くそう言った。その冷たい声音に、メルテムは僅かにひるんだ。
「何を言っているのです、イスファード……。時間がないのです、とにかく今は……」
「父上が私を容赦することなどあり得ません。よしんば容赦したとして、私は生涯幽閉でしょう。王座につくことなど、決してかなわない。そして私に与した貴族たちも、ことごとく領地を没収されることになる。それは討伐されるのと同じです。
お分かりか、私はもう後には退けないのです。王となるには戦い、そして勝たねばならない。戦って、勝ち取ってこそ、強い王となれるのです。王座とは元来、そう言うものであるはずだ」
「イスファード……」
「母上と一緒に行けば、命は助かるかも知れない。だが私は笑いものだ……! 私は行かない! 王座を諦め、笑いものにされて生きるくらいなら、俺は謀反人として死ぬことを選ぶ!」
そう叫び、イスファードはメルテムの手を振り払う。その瞬間、メルテムは大きく目を見開いた。そして一拍の後、彼女の美貌が絶望に染まる。
「イスファード!」
「母上には今しばらくこちらに滞在していただく。少々不自由かも知れませぬが、なに、それも悪くはありますまい。……連れて行け」
イスファードは酷薄にそう命じた。メルテムは両脇を屈強な兵士に抱えられて連行される。彼女は何度も息子の名前を叫んだが、彼はそれを無視した。
メルテムはエルビスタン公爵家の別邸に軟禁された。彼女が再び歴史の表舞台に姿を表すのは、この数年後のことである。
この後あまり日を置かず、イスファードは北アンタルヤ王国の独立を宣言し、その王を名乗った。このとき彼が被った王冠は、エルビスタン公爵家に代々伝わっていたもの。要するに公爵家が小さいとは言え一国の主として治めていた頃の王冠だ。新たな王冠を準備する時間がなかったのである。
これが悪手であったことを指摘する歴史家は多い。公爵家伝来の王冠を使った為に、北アンタルヤ王国はその実、エルビスタン公国の流れを受け継ぐ国なのではないかと思われたのだ。もっとも、そのために情勢が決定的に変化したことを示す資料は見つかっていないが。
さて独立宣言の後、イスファードはシュルナック城にその居を移していた。シュルナック城は北アンタルヤ王国の中央からやや南寄りの位置にあり、南アンタルヤ王国との国境を睨むのにちょうど良い。
もともとは大同盟以前の時代に築かれた城で、その内部で覇権が争われた時には、アンタルヤ王家に敵対する勢力がこの城を用い、それ以上の北上を妨げたという。この城を落としたことで、アンタルヤ王家は国の北域を掌中に収めたと言って良い。
そしてシュルナック城攻略の際に多大な貢献をしたのが、他でもないエルビスタン公爵家(当時は公国)だった。王家に協力を約束した当時の公王は、城の北側に軍勢を展開した。補給線を切られ、さらには南北から挟み撃ちにされたことで、シュルナック城を守っていた兵士たちの心は折れたのである。
その後、シュルナック城のある州は天領とされ、城は近衛軍の管理下に置かれた。ただ、北域のまとめ役はエルビスタン公爵家だったし、最も兵が必要になる防衛線はさらに北にある。国家としてのアンタルヤ王国が誕生した時点で、シュルナック城の戦略的な価値は失われていた。
そのため、アンタルヤ王国時代にシュルナック城に置かれた兵の数は少なかった。そしてイスパルタ王国が独立を宣言し、ガーレルラーン二世がこれを討つため軍を催した際、城に置かれていた兵は全て討伐軍に組み込まれた。
その結果、シュルナック城は空になり捨て置かれた。そしてイスファードが北アンタルヤ王国の独立を宣言した際、南へ、王都クルシェヒルへ向かうための橋頭堡としてこの城に入ったのである。彼が軍を引き返した時にまず向かったのもこの城だ。
そして今、イスファードはシュルナック城を拠点にして南アンタルヤ王国と、ガーレルラーン二世と戦おうとしている。この城の歴史的な経緯からすると、その戦略的な価値が復活したとも言えるだろう。この点について、後世の歴史家はこんなふうに語っている。
『シュルナック城を巡る歴史的な推移は、まことに運命的と言える。かつてこの城を抑えることで、アンタルヤ王家は北域を支配下に置いた。そしてこの城を奪われることで、ガーレルラーン二世は北域を失ったのだ。それは歴史的に見てあまりにも当然のことだった。
しかしながらそうやってシュルナック城を拠点に南へ叛旗を翻したのが、あろうことかエルビスタン公爵家であったことは、まさに皮肉としか言い様がない。かつて公爵家はこの城の攻略に貢献することで、北域における中心的な立場と王家からの絶大な信頼を得た。そしてイスファード王子に娘を嫁がせ、王家の外戚という臣下としての頂点を極めたところで、満を持するかのように叛旗を翻したのだ。見方によっては、建国以来ずっと、王家に成り代わる機会を窺って来たようにも見えるだろう。
また別の見方をすれば、王家と公爵家は常に力を合わせ、シュルナック城を舞台に歴史を動かしてきたとも言える。イスファードがアンタルヤ王国を再統一していれば、そのように評価されたのかも知れない。何にしてもこのとき争っていたのはアンタルヤ王家直系の二人であり、だからこそ状況はさらに皮肉的だった。かつて王家の権威を一躍高めたシュルナック城が、父と子が争う内乱という、最悪の政治的失敗の舞台となったのだから。そしてその両方に、エルビスタン公爵家が大きく関わっていたのだから……』
まあそれはともかくとして。イスファードがシュルナック城を北アンタルヤ王国の王城と定めたのは、軍事的な理由によるところが大きい。だが彼はもはや、軍事のことだけを考えていれば良い立場ではなくなった。王となったからには国家の差配を行わねばならぬ。そうなると、彼の傍らにあって万事を補佐する人間が必要だった。
当初イスファードはその立場に、義理の従兄弟であるジャフェルを望んだ。しかしカルカヴァンがこれに難色を示し、結果として彼自身が宰相としてイスファードを補佐することになった。
「では、ジャフェルはどうするのだ? 有能な人材を遊ばせておく余裕はないぞ」
「ジャフェルには防衛線を任せましょう。我々はアンタルヤ大同盟の正当な後継者です。これを疎かにはできません」
カルカヴァンはそう進言したことで、ジャフェルは北方にて防衛線の指揮を執ることになった。イスファードからすれば信頼する義理の従兄弟に背中を任せた格好であり、異論はなくむしろそれを喜んだ。だがそれを進言したカルカヴァンの思惑は少し違う。
彼は若く急進的なジャフェルを、イスファードの傍から遠ざけたかったのである。これから北アンタルヤ王国は常に圧迫される中で戦うことになる。そのストレスに参って短慮を起こし、「乾坤一擲、起死回生の決戦を!」などとイスファードに吹き込まれてはたまらない。
ただそうなると、本拠地である公爵領の面倒を見る人間がいない。カルカヴァンは家令に任せるつもりだったが、ここで意外な人物が手を上げた。ファティマだ。彼女はイスファードの妃であり、何よりカルカヴァンの実の娘。彼女に任せるのが、確かに最も収まりが良くはある。
「お父様、ぜひわたしにお任せ下さい。わたしも何かお役に立ちたいのです」
「お前が利発な娘であることは認めるが……」
一晩悩んだ末、カルカヴァンはファティマを領主代行に任命した。家令に補佐させれば、十分に務まると判断したのである。彼女は領内をよく治めた。イスファードが戦い続けられたのは、彼女の働きによるところが大きい、と指摘する歴史家は多い。
エズラー男爵とバラミール子爵の私貿易について、表向きは知らぬふりをするようイスファードを説得したのもファティマだった。彼女のその助言は地域情勢を踏まえてのモノだった。
バラミール子爵オズデミルからエズラー男爵ヌーフに対して私貿易の打診があったとき、男爵はそのことをすぐにイスファードとカルカヴァンに伝えた。ちなみに、この時カルカヴァンはまだ公爵領におり、彼を通じてファティマもこの話を知ることになった。
私貿易の話を知ると、イスファードはこれをことのほか喜んだ。私貿易ということはジノーファの許可を得ていないことになる。彼の目にそれは、イスパルタ王国の中にシンパがいる、つまりジノーファではなく自分を選んだ者たちがいる、と映ったのだ。少なくとも、ジノーファに不満を持つ者が現れたのは確実だ、と彼は思った。
加えて、これから北アンタルヤ王国は南アンタルヤ王国との厳しい戦いを覚悟しなければならない。その中で必要な物資を手に入れる点でも、この私貿易は有用である。それで当初イスファードは、この私貿易を国の管理下に置こうと考えた。
物資、つまり兵站を国が管理することで、国内の貴族に対する統制を強めようと考えたのだ。また国が出て行くことで、バラミール子爵に対し優位に立ち、私貿易の主導権を握りたいという思惑もある。さらに言えば、北アンタルヤ王国側の唯一の窓口となることで、エズラー男爵の発言力が並外れて大きくなるのでないか、という危惧もあった。
それでイスファードはカルカヴァンがシュルナック城へ来ると、すぐ彼にこの件について相談した。そしてその時、彼がイスファードに見せたのがファティマの書いた意見書だった。
『バラミール子爵領は独立戦争のおり、王太子軍によって少なからず被害を被っています。国としての権威を前面に出して私貿易に臨めば、オズデミルは気分を害して窓口を閉じてしまうでしょう。
またこの私貿易はあくまで秘密にするべきものであり、あまり大っぴらにやってしまうと、ガーレルラーンに勘づかれる恐れがあります。南アンタルヤ王国から圧力をかけられれば、相互不可侵条約を維持したいイスパルタ王国は私貿易を止めさせるに違いありません。
そもそもエズラー男爵とて、この私貿易を一人で管理できるとは考えておられません。他の貴族の要望を取りまとめるなどすれば、私貿易を間接的に国が管理することは可能でしょう。以上のことを考え合わせれば、国として直接管理することは避けるべきと考えます』
意見書には上のような内容が書かれていた。イスパルタ王国に気を使っていることが文面から伝わってきて、イスファードは面白くなさそうに鼻を鳴らした。ただその一方で、この私貿易がガーレルラーン二世に露見するとまずい、という部分には同意せざるを得ない。ジノーファがガーレルラーン二世の圧力をはね除けられるとは思えなかったからだ。
(それに……)
そもそもジノーファからすれば、この私貿易は裏切り行為に見えるだろう。知れば必ずや介入し、止めさせようとするに違いない。イスファードはそう思った。であればジノーファに対しても露見しないようにする必要がある。まさかこの私貿易がジノーファ本人の発案であるなど、彼は想像の埒外だった。
ともかく、国として兵站を握っておくことは重要だが、それ以上に重要なのは補給線を確保しておくことである。そのためには国としてこの私貿易に関わることはあまりしないほうが良い。カルカヴァンにもそう言われ、イスファードはファティマの意見を容れてそう決断した。
そうであるなら、国としての関与はむしろ最小限にするべき。イスファードとカルカヴァンはそう話し合った。例えば定期的にシュルナック城に大量の物資が持ち込まれ、またそこから各地へ分配されていることが知られれば、ガーレルラーン二世はこれを訝しむだろう。忘れてはならない。シュルナック城は南方を睨む本拠地でもあるのだ。当然、敵の監視も厳しいはずだ。
シュルナック城で私貿易に関わることは避けねばならない。だがヌーフ一人でこの私貿易を管理しきれないのもまた明白。それでイスファードとカルカヴァンはヌーフのバックアップを、ファティマに行わせることにした。彼女なら自分たちの意向にしっかりと従ってくれるはず、と考えてのことだ。
私貿易の実質的な責任者として、ファティマはその仕事を十全に果たした。代価を計算しつつ必要な物資とその量を見極め、北アンタルヤ王国が枯れ果ててしまわないよう、補給線を維持し続けた。
国内の貴族との折衝もファティマの役割だった。無茶な要求のために私貿易が破綻しないよう、彼女は貴族たちを抑え続けた。私貿易では基本的に足下を見られるため、購入する物資は基本的に割高だ。そのために不満を抱える貴族たちを、彼女は宥め続けた。
立場上、暴利を貪ることもできたが、ファティマは公爵家の懐を肥やすような真似は一切しなかった。カルカヴァンにそのことを匂わされてもしなかった。それどころか資金難に陥った貴族を援助することさえした。
加えて、ファティマはヌーフを筆頭に国内の貴族を監視する役割も負っていた。私貿易を利用してイスパルタ王国が国内の貴族に調略を仕掛けないか、あるいは寝返る動きが出ないか、監視していたのである。
この点について彼女がどんなことをしていたのか、それが分かる資料は少ない。ただ歴史的な事実として、北アンタルヤ王国においてイスファードに叛旗を翻す動きは出なかった。無論、複数の要因があってのことだが、それでも彼女が有能であったことの証拠と言えるだろう。
先ほど、「イスファードが戦い続けられたのは、彼女の働きによるところが大きい」と書いたが、それは私貿易の管理を含めての話である。加えて防衛線もまた、物資が足りなければ維持することはできない。防衛線もまた彼女の働きで維持されていたと言って良いだろう。それくらい、後方を支える彼女の働きは大きかった。
さて、私貿易で得られるモノは物資だけではなかった。情報、特に南アンタルヤ王国に関する情報もまた、私貿易で北アンタルヤ王国へもたらされた。その中でイスファードらがまず大きな関心を寄せたのは、ガーレルラーン二世が貴族らに人質を求めたというニュースだった。
「カルカヴァン、どう考える?」
「まずは国内の引き締めを図った、と言うことでしょう。そうしなければ後に続く者が現れると思ったのかも知れませぬ。そして一人離反すれば、あとは……」
あとは雪崩を打つように、南アンタルヤ王国からは人が離れて行くだろう。カルカヴァンはそう語り、イスファードもそれに同意した。
「では、先手を打たれたか」
「そうとも限りますまい」
人質の件は貴族たちにとって大いに不愉快であるはず。ならばそこを突いて調略を行えば良い。カルカヴァンはそう語った。ガーレルラーン二世は国内を引き締めたつもりで、実際には付け入る隙を作ったのだ。このときの二人はそう思っていた。
メルテム「息子が反抗期……!」




