激震
――――激震が走った、と言うべきだろう。
大統暦六四〇年の年の暮れも迫った頃、マルマリズにある情報が寄せられた。ルルグンス軍六万が突如として南アンタルヤ王国に対して越境侵犯したのだ。ただ越境侵犯の件それ自体は、少し前に情報が入っている。
今回もたらされたのは、その続報と言うべき情報だ。越境侵犯したルルグンス軍に対し、ガーレルラーン二世が四万五〇〇〇の軍をもってこれを迎撃。一撃の下に敵を粉砕したという。
それだけではない。彼はさらにルルグンス法国へ逆侵攻した。法都ヴァンガルは無抵抗で南アンタルヤ軍を迎え入れ、法王ヌルルハーク四世はガーレルラーン二世の足下で額ずいて許しを請うたという。
ガーレルラーン二世によるルルグンス法国への仕置きは苛烈だった。侵略を主導した三人の枢機卿は火刑に処された。ただしこれは、ヌルルハーク四世の意向が強いとも聞く。要するにスケープゴートにされたのだろう、というのがジノーファらの見解だ。
さらにルルグンス法国は二五州を南アンタルヤ王国へ割譲することになった。法国の版図は四二州であるから、およそ六割を奪われた格好になる。加えて今後、法国は毎年金貨五〇〇〇枚の貢納金を納めることになった。
これによりルルグンス法国の版図は十七州となり、南アンタルヤ王国の版図は五〇州となった。ガーレルラーン二世はこの一帯で再び、最も大きな勢力を持つようになったのである。これが僅か二ヶ月ほどの間に起こった。まさに急転直下と言って良い。
「ガーレルラーンは、狙いを法国へ移したと思うか?」
「……あり得ますな」
ジノーファの問い掛けにそう応えたのは宰相のスレイマンだった。ルルグンス法国の兵は弱い。それは今回、兵の数で勝るルルグンス軍があっさりと蹴散らされた事からも明らかだ。さらに今回、版図を大きく削られたことで、法国の力はさらに弱まった。
経済封鎖によって北アンタルヤ王国を締め上げるのにも、多少の時間はかかるだろう。その間に弱いところを喰らい、国力を回復させる。ガーレルラーン二世がそう方針を変えたとしてもおかしくはない。
スレイマンがそう説明するのを聞き、ジノーファは一つ頷いた。そして今度は同席していたクワルドに視線を向け、彼にこう聞いた。
「クワルドは、どう思う?」
「ガーレルラーン二世の狙いはあくまで北でしょう。法国は適当に弱らせ、このまま西方への盾に使うのだと思います」
「その根拠は?」
「今回、法国は全面降伏しました。完全併合するつもりなら、そうしていたはずです。しかしガーレルラーンは法国という国自体は残した。法国よりもさらに西方の国々と国境を接することを避けたのだと思います」
版図の拡大より、西方の安全保障を優先したのだ。そして東のイスパルタ王国とは相互不可侵条約が結ばれている。となればやはり、ガーレルラーン二世の狙いは北アンタルヤ王国であろう。
さらに、法国には貿易港があるのだが、今回ガーレルラーン二世はそれを求めなかった。つまり法国がある程度の経済力を持つことを許したことになる。クワルドはこれを「盾が役立たずでは困る」ということなのだろうと解釈していた。
「ガーレルラーンの目的は、戦力の維持でしょう」
クワルドはそう語った。繰り返しになるが、ルルグンス法国の兵は弱い。ガーレルラーン二世もアテにはしないだろう。だが国土が広くなればそれだけ税収が増える。その分だけ、養える兵の数は多くなる。
「今後は貢納金も定期的に入ります。今ガーレルラーンの手元にある四万五〇〇〇は、そのまま常備軍にしてしまうつもりかも知れません」
そしてひとたび軍を動かすとなればさらに徴兵を行うか、あるいは傭兵を雇うかしてさらに戦力を積み増す。南アンタルヤ王国の最大動員数は八万を超えるだろう、とクワルドは推測した。
「八万か。凄まじいな」
ジノーファは瞠目した。無論、八万全てが一度に動くことはないだろう。だが六万程度なら無理なく動かせる、ということでもある。そして六万といえば、リュクス川の戦いでガーレルラーン二世が動員したのよりもさらに多い。イスパルタ王国にとっては、いかにも重い戦力だ。
「ガーレルラーンは国力をほぼ以前の状態へ回復させた、と見るべきでしょうなぁ」
スレイマンは嘆息気味にそう呟いた。彼の言う「以前の状態」とは、イスパルタ王国が独立する前ではなく、それ以降でアンタルヤ王国が南北に分裂する前の事を指す。ちなみにイスパルタ王国の独立前であれば、アンタルヤ王国の最大動員数は十万を超えて十五万に迫る。ロストク帝国の南方進出をずっと阻んでいたのは伊達ではない。
もっとも、それほどの大軍が催されたのは、アンタルヤ王国の有史以来一度もない。ただしそれ以前、大同盟の時代にはある。人間との戦いは覇権争いだが、モンスターの戦いは生存競争なのだ。
まあそれはそれとして。ガーレルラーン二世が、南アンタルヤ王国が力を回復させた。あるいは、させつつある。そのことは執務室の雰囲気を重くした。その上、ガーレルラーン二世が人質制度を明文化したことも、少し前にマルマリズへ伝わっている。
そのことも合わせて考えると、彼が着実に国内を固めている様子が伝わってくる。ジノーファはのし掛かられるような圧力を感じた。相互不可侵条約があるとはいえ、ガーレルラーン二世が三年間大人しく待っていてくれる保証はない。こうなると、相対的に北アンタルヤ王国の重要性が増した。
「オズデミルを通じて、このことを北に報せよう。簡単にやられてしまってはたまらない。備えをしてもらわなければ」
「よろしいのですか?」
そう尋ねたのはクワルドだった。彼の顔に非難の色はない。反対しているわけではなく、もう少しジノーファの考えを聞きたいのだろう。ジノーファは一つ頷くと、さらにこう言葉を続けた。
「人質制度のことは伝えた。それに我々が教えなくても、いずれは伝わるだろう。なら、早いほうが良い」
ガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国に対し、経済封鎖をすると共に情報封鎖も行っているはずだ。だが今回のコレは事が大きすぎる。いずれはイスファードの耳にも入るはずだ。
その時、私貿易を行っているはずのオズデミルはなぜ教えてくれなかったのか、とイスファードは不満を覚えるだろう。それだけなら良いが、南アンタルヤ王国に協力していると見なして敵対的な態度を取られるのはまずい。
そうなれば、イスパルタ王国も相応の対応を取らなければならない。南と東に敵を抱えれば、北アンタルヤ王国はすぐにでも滅亡するだろう。そうなればガーレルラーン二世は矛先を東へ向けるだろうし、また滅亡の混乱の中にあって防衛線が決壊するようなことにもなりかねない。
北アンタルヤ王国が滅びるのは勝手だが、その滅ぼし方には細心の注意が必要なのだ。しかし現状、イスパルタ王国として手を下すわけにもいかない。その辺りのことが、ここ最近のジノーファの悩みである。だが彼はそれを表には出さず、肩を竦め、あえて軽い口調でこう言った。
「北はお得意様だ。末永くお付き合いしたいものだ」
スレイマンとクワルドが揃って笑い声を上げた。私貿易が続けば、北アンタルヤ王国からは富の流出が続くことになる。一方でイスパルタ王国は富を溜め込むことができる。それを使い、イスパルタ王国も備えをしなければならないだろう。
「それにしても、ルルグンス法国は一気に弱ったな……」
「はい。それこそが戦の恐ろしさでありましょう」
ジノーファの言葉に、クワルドが笑いを収め、真剣な様子で頷きながらそう答えた。ジノーファも神妙な面持ちで頷く。軽率な気持ちで戦をしてはならない。彼はその想いを新たにする。それから彼は少し考え込みながら、呟くようにこう言った。
「法国のさらに西にも、当然だが国はある」
「はい。バルツァーやオスロエル、ルミニアと言った国々ですな。ただ、どれもそう大きな国々ではありませぬ」
そう応えたのはスレイマンだった。それらの国々があまり大きくなれなかった理由は二つ。そこが大陸の端であったことと、北に遊牧民がいたことだ。要するに、農耕に適した土地があまり残されていなかったのだ。
西と南は海であり、北の土地は痩せていて農耕に向かない。彼らが大きくなるには、東へ向かうしかなかった。だが東にはルルグンス法国があり、アンタルヤ王国がある。国力が違うこともあり、彼らは今まで東へ進むことができなかった。
「だが法国が弱った。彼らはこれを好機と見ないだろうか?」
「……あり得ますな。そして法国が侵略を受ければ、ガーレルラーンも座してはいられないはず」
「彼の目が西へ向くなら、北への圧力は減りましょう」
ジノーファの問い掛けに、スレイマンとクワルドがそう答える。ガーレルラーン二世は今回、大きく勢力を回復させた。だが同時に、その分だけ新たな火種に近づいたとも言える。その火種が業火へと育つのか、それともくすぶるだけで終わるのか。それを予測するには、少々情報が足りない。
「何とかならないかな?」
「西から、それらの国々から来た船も、ウファズにはありましょう。それらの者たちから話を聞けばよろしいでしょう」
「何でしたら、人を送り込めばよろしいかと。噂話を集めたり、大まかにモノの値段を調べたりするくらいなら、訓練された隠密を使うまでもないでしょう」
「分かった。ウファズにはすぐに人をやってくれ。実際に人を送り込むかは、それでどれくらいの情報を得られるのか、確かめてからにしよう」
ジノーファがそう言うと、二人は「御意」と答えた。そう言えばウファズにはクワルドの次男であるバハイルがいる。彼は商人たちとも繋がりがあるから、何か情報を持っているかも知れない。持っていないとしても、彼ならウファズで動きやすいだろう。
ジノーファがクワルドにそう言うと、彼はもう一度「御意」と応え、それから「アレの尻を叩いておきましょう」と言った。そしてしかめっ面をして、さらにこう言葉を続ける。
「アレは少々怠け癖がありますからな。ウファズには歓楽街も多い。今頃は遊び呆けているかも知れませぬ」
「シュナイダー殿と、気が合いそうだな」
「お止め下さい。つけ上がります」
顔をしかめ、クワルドはそう言った。その様子を見て、ジノーファとスレイマンは笑い声を上げた。
「ところで陛下。マリカーシェル皇女殿下のお輿入れのことですが」
ひとしきり笑ってから、スレイマンがそう言って話題を変えた。彼女の輿入れの準備は急ピッチで進められている。その中でロストク帝国とも頻繁にやりとりがされている。
「皇女殿下の嫁入り道具やドレスは、全て帝国側が準備します。ただ、王妃のティアラだけは、こちらで準備した方が良いのではないか、と」
王妃のティアラはマリカーシェルだけのものではない。今後、イスパルタ王国歴代の王妃が、そのティアラを被ることになる。その謂われがロストク帝国から持ち込まれたものとあっては、イスパルタ王国の威信に傷がつくというものだ。
「傷つくほど立派な威信は、まだないと思うのだが……」
「陛下!」
スレイマンが声を上げる。ジノーファは大げさに肩を竦めた。
「冗談だ。だが大丈夫なのか? あまり時間がないように思うが……」
「幸い、王冠の方はほぼ仕上がっております。急いで取りかからせれば、何とか」
「ではすぐに始めてくれ。素材は白金にしよう。ティアラの一つ分くらいなら、わたしのところにあったはずだ。後でユスフに届けさせる。デザインはシェリーやカミラ女史と相談して決めて欲しい」
ジノーファがそう言うと、スレイマンは「御意」と言って頭を下げた。それを見て、ジノーファは一つ頷く。それからふと思い出した様子で、彼はさらにスレイマンにこう尋ねた。
「推薦してもらった人材の登用はどうなっている?」
「現在、内定を進めております。近衛軍のほうは、クワルド将軍に任せておりますが……」
「こちらも順調です、陛下。新年の参賀には間に合うでしょう」
スレイマンに目配せされ、クワルドはそう答えた。二人とも表情は明るい。良い人材がいたのだろう。
ところで新年の参賀というのは、年明けに貴族らが国王に挨拶を行うことを言う。ただ新年の一月一日に行うわけではない。貴族らの多くは新年を領地で家族や親族と迎える。そののち王都に集まり国王に新年の挨拶をするのが、アンタルヤ王国時代からの伝統だった。
それで新年の参賀は、毎年一月の末頃に行われていた。その時にジノーファは推薦された者たちにどの役職で働いてもらうことにしたのか、公表するつもりでいた。ただし、公表してそれで決まりではない。これはあくまで内定であり、本人が承諾して初めて確定することになる。
ただ人事の目玉、つまりロストク帝国に派遣する大使と空席になった天領の代官職については、すでに内定したことが該当者に告げられている。これを断られてしまうと、格好がつかないからだ。幸い、該当者からは承諾の旨がすでに伝えられている。公表の際、彼らにはジノーファから直接職を授けられることになっていた。
ちなみに、アンタルヤ王国時代の伝統では、参賀の後で祝賀パーティーが開かれる事になっている。しかしジノーファはこれを大幅に簡素化することにした。別室にお茶と軽食を用意するだけにしたのである。
表向きの理由は、忙しいからだ。ただでさえ多忙な中、祝賀パーティーまで開けば、王等府で働く者たちはことごとく倒れてしまうだろう。それでジノーファはスレイマンとも相談し、簡素化することを決めたのである。
『新年の祝賀パーティーは、長年守られてきた伝統でございます。これを途切れさせては、陛下と国家の威信に関わりましょう。どうかご再考を……』
そう進言する者もいたが、ジノーファは首を横に振った。
『イスパルタ王国は建国したばかりの国。長年守られてきた伝統などないはずだ』
ジノーファはそう答えたという。アンタルヤ王国の流れを受け継いでいるからといって、何もかもを同じにするつもりはない。彼はそう言ったのだ。同じにするつもりであるなら、建国事業など行わなかっただろう。
以前、ジノーファはクワルドに「旧来のやり方では限界が来ているように思う」と語った。しかし人間は本来、保守的な生き物だ。変わることを、変えることを拒む傾向がある。まして一度はアンタルヤ王国の法を踏襲したのだ。これを変えようとすれば、必ずや反発が生まれる。
『小さく、影響の少ないところから、始められませ。変わることに皆を慣らしていくのです。イスパルタ王国はアンタルヤ王国ではない。皆にそのことを分からせるには、時間が必要になりましょう』
スレイマンはジノーファにそう助言していた。要するに祝賀パーティーを取りやめたのは、「アンタルヤ王国のやり方をそのまま引き継ぐつもりはない」という、ある種の宣言であったのだ。
もっとも、ジノーファは祝賀パーティーを取りやめてそれで終わりにしたわけではなかった。代わりに建国記念のパーティーを催すことにしたのである。定められた日付は六月十七日。彼が建国を宣言したその日である。
新年から数えてちょうど半年後であり、その頃には人手も増え、今の忙しさも一段落しているはずだった。もっとも、新たな問題に頭を悩ませているかも知れず、ジノーファもスレイマンもあまり期待はしていなかったが。
閑話休題。話し合いを終え、クワルドとスレイマンがジノーファの執務室から退席する。その背中を見送ってから、ジノーファは椅子の背もたれに身体を預けた。
当面、この地方はガーレルラーン二世と南アンタルヤ王国を中心にして、その情勢を推移させて行くだろう。国が三つに割れても、彼は主導権を手放さなかったのだ。そのことには、素直に感嘆するより他にない。
(大きい、な)
ジノーファはそう思った。皮肉な話だが、敵として相対するようになって初めて、彼の本当の大きさを知ったような気がする。父と呼んでいた頃には気づかなかったのに。未熟だな、と思いジノーファは自嘲気味な笑みを浮かべるのだった。
ユスフ「隣国にして敵国の国土がいきなり倍になってしまった。悪夢より質が悪い」
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今回はここまでです。
続きは気長にお待ち下さい。




