私貿易
イスパルタ王国と南アンタルヤ王国の通商交渉は、難航することもなく比較的短期間で終わった。ベースとなったのはフスレウが持ってきた南アンタルヤ王国の条件案で、この内イスパルタ王国に不利と思われる条項や文言の言い回しを書き換え、両国の通商条約は締結された。
ちなみにイスパルタ王国が示した条件案は、交渉のテーブルに上ることもなかった。もっとも、だからといって無意味だったわけではない。フスレウは必ずやこの条件案をガーレルラーン二世に見せる。イスパルタ王国とロストク帝国の強い結びつきを改めて知らしめる事になるだろう。
さて、フスレウら南アンタルヤ王国の使節団が帰国の途につくと、ジノーファは二人の男をマルマリズの王統府に呼んだ。ネヴィーシェル辺境伯ダーマードと、バラミール子爵オズデミルだ。二人ともすでに領地へ戻っていたので、彼らが王統府に来るまで幾分時間がかかった。
さて、ダーマードとオズデミルが揃ってジノーファの執務室に入ると、そこへさらにスレイマンが呼ばれた。そしてジノーファがスレイマンに命じ、先日締結されたばかりの南アンタルヤ王国との通商条約について説明させる。その条約がイブライン協商国並なのものであると知り、二人は驚いた様子を見せた。
「叔父上を疑うわけではありませんが、何か裏があるのではありませぬか? ガーレルラーンがこれを認めたというのは、少々信じられませぬ」
ダーマードがそう言うと、ジノーファとスレイマンは揃って頷いた。そしてクワルドを交え、三人で話し合った推察について話す。それを聞くと、ダーマードとオズデミルは一転、納得げな表情を浮かべた。
「なるほど。狙いはあくまでも北、というわけですな」
オズデミルがそう言って何度も頷いた。この点、ガーレルラーン二世の方針は一貫している。考えが読みやすくなったが、それだけ余裕がないと言うことなのかも知れない。
「それで、陛下。今回、我々を呼ばれた理由をお聞かせ願いたい」
「うん。北アンタルヤ王国のことだ」
ジノーファがそう応えたのを聞き、ダーマードとオズデミルはわずかに顔を強張らせた。二人の領地はそれぞれ北アンタルヤ王国と境を接している。ただでさえ、拙速に蜂起し独立を宣言したため、北アンタルヤ王国の情勢は不安定だ。混乱が波及し、自分たちの領地に被害が出ることを彼らは懸念している。
一方で彼らの目に、北アンタルヤ王国は柔らかい肉のようにも映っているだろう。兵をもって切り取るのは難しくない。そう思っているはずだ。だから彼らは懸念すると同時に期待もしている。あるいは切り取り自由の許可が出るのではないか、と。だがジノーファは武力を用いようとは思っていなかった。彼が考えていたのは、もっと別のことである。
「ガーレルラーンは北に狙いを定めた。そして北の征服を終えたら、次は我々に矛先を向けるだろう。そうなると、北アンタルヤ王国には頑張ってもらった方が、我々としては都合が良い」
「北を援助するおつもりですか!?」
オズデミルが声を上げた。非難するような響きはないから、純粋に驚いたのだろう。そんなに驚くようなことだろうかと思いつつ、ジノーファは小さく苦笑して首を横に振る。そしてこう答えた。
「援助というほどのことはしない。兵を貸すつもりもない。だが早々に攻め滅ぼされるのも具合が悪い。防衛線のこともある。だから物資を流してやろうと思っている」
ガーレルラーン二世は北アンタルヤ王国を枯らすつもりだ、とジノーファは見ている。北アンタルヤ王国が倒れれば、次の標的はイスパルタ王国だ。だから枯れ果てないように物資を流す。それがジノーファの考えだった。
幸い、北アンタルヤ王国には金がある。イスパルタ王国が独立する前、「防衛線維持の為」として、全国の貴族や有力者から巻き上げた金だ。だが金はそのままでは役に立たない。必要な物資を手に入れるため、気前よく払ってくれるだろう。
「ですが、イスファードがそれを受け入れますかな……?」
ダーマードはそう懐疑的な見方を示した。イスファードはジノーファを目の敵にしている。手を差し伸べられれば、感情的になってその手を払いのけかねない。その可能性が高いことは、ジノーファも承知している。それで彼は一つ頷いてからこう答えた。
「その懸念は理解している。大騒ぎされて、ガーレルラーンに勘付かれるのも面白くない」
同様の理由で、国として北アンタルヤ王国と交易するつもりは、ジノーファにもなかった。ではどうやって物資を流そうというのか。彼はその方策をこう話した。
「オズデミル、北の貴族との間にパイプがあるな?」
「はい、まあ……、同じ国の貴族であった期間の方がずっと長いわけですから、それ相応には……」
オズデミルは少々言いにくそうにしながらそう答えた。内通を疑われたと思ったのかも知れない。だが無論、ジノーファはそんなことは考えていない。彼は笑ってさらにこう言葉を続けた。
「頼もしいことだ。そのパイプを使って北に物資を流す。卿にはその窓口になってもらいたい」
つまり国同士の交易ではなく、貴族間の私貿易にするのだ。北アンタルヤ王国側の窓口が誰になるのかは分からない。だがイスファードへの説明はその者が上手くやるだろう。味方が必要であることは、彼ら自身が一番よく分かっているはずだ。
あるいは「ジノーファには黙ってやっている」ということになるのかも知れない。だが、それで話がまとまるならそれでもいい。重要なのは北アンタルヤ王国の命脈を保ち、それによってガーレルラーン二世の注意をそちらへ惹きつけておくことなのだ。
「それから、貿易と一緒に情報も集めてくれ」
ジノーファはそれも命じた。北の情勢がどのように推移しているのか。その点にはイスパルタ王国としても大きな関心がある。私貿易だからこそ得られる情報もあるに違いない。また将来的に調略を行うかも知れず、その場合にもやはり情報は重要だ。
「畏まりました」
「うん。……そしてダーマードには、北へ流すための物資を集めてもらいたい」
ジノーファはダーマードの方を向いて彼にそう告げた。ネヴィーシェル辺境伯領ではもともと、防衛線維持のために大量の物資を必要としている。ノウハウもあるだろうし、不審に思われることもないはずだ。
「なるほど。お任せ下さい」
「よろしく頼む。それから私貿易で得た利益だが、そのまま二人の懐に入れてもらってかまわない」
「……よ、よろしいのですか?」
オズデミルが恐縮した様子でそう尋ねた。小さいとは言え、一国との交易を独占するようなものだ。一体どれほどの利益が出るのか。ダーマードも目を丸くして驚いている。だがジノーファは笑ってこう答えた。
「うん。ほら、先の戦で、二人の領地には被害が出ただろう? その補填に使ってくれ。ダーマードは防衛線も抱えていることだしな」
「あ、ありがとうございます!」
「ご配慮、感謝いたします」
そう言って、オズデミルとダーマードは揃って頭を下げた。ジノーファは満足げに頷き、それからこう言葉を付け足した。
「ただ、特に仕入れに関しては、他の者たちにも旨みがあるようにしてやって欲しい」
「はっ。必ずや」
ダーマードが畏まってそう応える。それを見て、ジノーファは笑みを浮かべた。それからジノーファは次にスレイマンの方へ視線を向ける。そして彼にこう尋ねた。
「それから塩のことだ。スレイマン、塩はどの程度北へ回せる?」
「国内に影響のない範囲でとなると、二万トンほどでしょうか。備蓄分を吐き出せば、一時的にはもう少し出せますが……」
スレイマンはすぐにそう答えた。具体的な数字を上げる当り、さすがである。ジノーファもそのことには感心したが、年二万トンでは足りないだろう。しかし増産を命じたとしても、すぐさま不足分を補うことは不可能だ。
「どうしたものかな……」
ジノーファは顎先に手を当てて考え込んだ。どれだけ物資を供給したとしても、塩が足りなくなれば北アンタルヤ王国は戦えない。だとすればどうしても塩を用意してやらなければならない。
「不足分は、ロストク帝国から輸入するかな」
「それしかないかと」
ジノーファの意見にスレイマンが同意する。南アンタルヤ王国から塩を買えば、「製塩所があるはずなのになぜ?」と疑念を持たれるだろう。それは避けたい。イブライン協商国との間にはまだ国交がなく、この件で頼れるのはロストク帝国だけだ。ジノーファはそう思ったのだが、ここでダーマードが思わぬ意見を口にした。
「アヤロンの民は魔の森で塩をどうしていたのか、一度ラグナ殿に確認して見ましょうか?」
「それは良い」
ジノーファはそう言って大きく頷いた。アヤロンの民は魔の森で暮らしていた。そうである以上、どこからか塩を得ていたはずだ。もしかしたら魔の森には塩湖か岩塩があるのかもしれない。もし十分な量が得られるなら、それを北アンタルヤ王国へ流せば良い。
余談になるが、ダーマードがラグナに確認したところ、アヤロンの民が塩を得ていたのはダンジョンだった。大きな塩湖があり、年に一度、そこから一年分の塩を取ってくるのが、彼らの重要な祭事であったという。
ただ、塩湖があるのは下層のさらに下、深層に近い場所だという。それで武芸に秀でた者だけが、塩を取りに行くことを許されていたそうだ。当然、その筆頭は聖痕持ちである御使いラグナ。ここ数年ほどはずっと、彼がパーティーを率いて塩を取りに行っていたという。
塩湖であるから、塩は最初、ビチャビチャの状態だ。それで水魔法を駆使して脱水し、塩を乾かすのだという。運搬には当然、収納魔法が用いられた。目的が塩であることを除けば、通常のダンジョン攻略と大きな差はない。
アヤロンの民は三〇〇人ほどしかいなかったので、一年分とは言えそれほど大量の塩は必要なかった。だがこれからは何百万人分という量が必要になる。当然、一回の攻略では賄い切れないだろう。
とはいえ、一回で間に合わせる必要などない。作業自体も簡単だし、収納魔法の容量にも余裕がある。何なら使い手を複数人連れて行けば良い。量が必要ならいくらでも取ってくる、とラグナは豪語したそうだ。
ともかく、こうして塩の確保には目処がついた。新たな収入源ができた、とラグナも喜んだという。ダーマードにとっても、自前で塩を確保できる利点は大きい。こうしてアヤロンの民はその重要性をさらに増すことになった。なお、ダンジョンから採れるこの塩は「アヤロンのピンクソルト」と呼ばれるようになる。
閑話休題。私貿易の話し合いを終え、ダーマードとオズデミルはジノーファの執務室から退席した。そして二人は連れ立って王統府の廊下を歩く。オズデミルは興奮した様子だ。これから得られるはずの利益に、胸を躍らせているのだろう。そんな彼に対し、ダーマードはこう注意を促した。
「オズデミル卿、この私貿易で我らは大きな利益を得ることができよう。だが決して慢心せぬ事だ」
「それは無論、わきまえております。ダーマード卿」
オズデミルがそう応えると、ダーマードはやや嘆息気味に頭を振った。そしてこう話を続ける。
「よいか。今回の私貿易は、表向き我々の独断で行うことになる。見方によっては、北に通じたとも受け取れよう」
「それは!」
「その上、我らが富を得れば、必ずやそれを妬む者が現れる。その者たちは必ずや陛下にこう讒言しような、『あの二人は北に内通している』と」
「ですが、陛下は……」
「ああ、陛下は信じないだろう。だがそれを信じたがる者はいるはず」
「我らを排除しようとする勢力が現れる、とおっしゃる?」
オズデミルは「信じられない」といった様子でそう尋ねた。ダーマードがゆるゆるとまた頭を振った。
「そういう可能性もある、ということだ。ゆえに、立ち振る舞いには気をつけねばならぬ。まあ、仕入れの段階で利益を分配してやれば、そうひどいことにはならぬと思うがな」
ダーマードはあえて口調を明るくしてそう言った。北アンタルヤ王国へ流す物資の仕入れは、主にダーマードの責任で行うことになる。こう言っているからには、彼は他の貴族たちにも気を遣って仕入れを行うだろう。
ただ、窓口となるのはあくまでもオズデミルだ。暴利を貪るような真似は、慎まなければなるまい。彼の表情が引き締まったのを見て、ダーマードは一つ頷く。そしてさらにこう言った。
「それともう一つ。本当に北へ通じようとする者たちが、我らに接触してくるかも知れぬ。特に卿は直接の窓口。注意することだ」
つまり私貿易をしている彼らが北アンタルヤ王国に通じたと思い、橋渡しを依頼してくる者たちがいるかも知れない、と言うことだ。オズデミルは表情をさらに硬くした。
「そのような事が本当にありましょうか? そもそもイスパルタ王国は、北への反発の為に独立したようなものなのですぞ」
「ないとは言い切れぬ。であればその時どうするのか、考えておく必要がある。下手をすれば、我らは売国奴の一派にされてしまう」
ダーマードがそう言うと、オズデミルは険しい顔をして頷いた。ジノーファがそこまで考えているかは分からない。だがスレイマンなら考えているだろう。そしてジノーファにその旨を伝えているはずだ。
不穏分子が二人に接触してくる可能性を指摘され、それでもジノーファは私貿易をやらせることにした。ダーマードとオズデミルのことを信頼したのだ。そのことは純粋に嬉しく思う。だが何も手を打っていないとは思えない。
ジノーファは二人を監視するはず。正確には、二人に接触してくる者たちを監視するはずだ。要するにダーマードとオズデミルは、不穏分子をあぶり出すための囮でもあるのだ。そのことは肝に命じておかなければならない。
「なかなか、大変なお役目を賜ってしまったようですな」
「うむ。だがそれを補ってあまりある利益が出よう。今度は我らが北からむしり取ってやるのだ」
ダーマードがそう言うと、二人は揃って笑った。「むしり取る」というのは言い過ぎだろうが、北アンタルヤ王国にとってこの私貿易は文字通りの生命線になる。他に物資を仕入れる先はないだろうし、逆に彼らから何かを買うこともほぼないだろう。必然的に北アンタルヤ王国の富はイスパルタ王国へ流れることになる。
まだイスファードが王太子で、イスパルタ王国がアンタルヤ王国の一部だった頃。国の富はカルカヴァンの一派に吸い上げられていた。それを今度はイスパルタ王国がもらい受けるのだ。あの頃はまさかこのような事になろうとは、誰も考えていなかったに違いない。
「……それと、人材の推薦についてだが」
ひとしきり笑ってから、ダーマードは話題を変えてそう言った。ジノーファが求めた推薦リストの提出は、すでに大半の貴族たちが終えている。ダーマードとオズデミルも同様だ。現在は履歴書を希望する分野ごとに割り振り、書類選考を始めているという。
「我らは、あまり期待せぬ方がよいだろうな」
「そうですな」
そう言ってダーマードとオズデミルは苦笑し合った。二人はすでに私貿易の黙認という、大きな利権を得た。人材の推薦に論功行賞の代わりという側面がある上、二人が推薦した人材は後回しにされても仕方がない。
「そちらへの手当ても、必要かもしれんな」
「私貿易を始めれば仕事は増えまする。それを任せれば良いでしょう」
オズデミルがそう言うと、ダーマードは「そうだな」と言って頷いた。そう言う意味では今回、人材の推薦リストをまとめたのは無駄ではなかった。
誰にどの仕事を任せるのか。リストにあった名前を思い出しながら、ダーマードはつらつらと考え始めた。
あるアヤロンの民「こっちに来て何に驚いたって、塩が白いことが一番の驚きさ!」




