ジノーファの帰還2
「ガーレルラーンとの戦はどうだった、ジノーファ殿?」
そう尋ねながら、シュナイダーはジノーファのグラスに赤ワインを注ぐ。ジノーファは礼を言うと、ボトルを受け取ってシュナイダーのグラスにもワインを注いだ。ボトルを置いてグラスを持つと、口を付ける前にジノーファはこう答えた。
「疲れました。ほとんど睨み合っているだけだったのですが、いつも気が休まりません。正直、攻めるなら早くして欲しいと思っていたくらいです」
ジノーファは苦笑しながらグラスに口を付けた。香りは青々しく、味も爽やかだ。イスパルタ王国のワインだが、ガルガンドーで飲んでいたワインとはやはり味わいが違う。最近になって、ようやくそんな所にまで気が回るようになった。
二人が酒を飲んでいるのは、王統府にある小部屋の一つだ。ジノーファの方からシュナイダーを誘い、こうして晩酌を共にしている。シュナイダーは最初ジノーファを「陛下」と呼んでいたのだが、本人が「止めて下さい」と懇願したので、ガルガンドーにいた頃のように話している。
「はは。まあ、そうやって焦らすのも戦術の一つだからな。そう言えば、一計を案じて敵を誘い出したと聞いたぞ?」
「翌日は濃い霧になるだろうと思ったので……。ですが、霧のために追撃はままなりませんでした」
ジノーファは正直にそう答えた。クワルドら幕僚たちはジノーファが策を弄し、ガーレルラーン二世をまんまと欺いたと方々で吹聴している。だが本人はそれを過大評価だと思っていた。プロパガンダとしての意味はあるだろうから何も言わないが、こそばゆいのを通り越して少々申し訳ないくらいだ。
実際、誘い出したからと言って大打撃を加えられたわけではなかった。当然、追い払うこともできず、その後も睨み合いは続いた。ただその後、討伐軍が大規模攻勢に打って出ることはなかった。その点については、意味があったと言えなくもない。
もっとも、ガーレルラーン二世は時機を見計らっていたはずだ。あの後も睨み合いが続いていれば、どこかで動いていただろう。しかしそうはならず、両軍は講和してそれぞれ陣を引き払った。アンタルヤ王国の北部で騒乱が起こったからだ。
「まさかイスファードが謀反を起こすとは、な。聞いたときは驚くよりも呆れたもんだ」
シュナイダーはニヤニヤと笑いながらそう言った。父と子が王座を巡って争っているのだ。端から見れば醜聞以外の何物でもない。せいぜい酒の肴にしてやろうと、彼は意地悪く考えていた。
「王太子ではなくなり、そこへ別の後継者の名前が挙がった。焦ったかな?」
「焦ったくらいで、こうも簡単に兵を挙げるものでしょうか?」
ジノーファは怪訝な顔をしてそう尋ねた。だがシュナイダーは苦笑するばかりで何も答えない。実際、焦っただけではないのだろう。ガーレルラーン二世はジノーファと戦っていた。それはイスファードの目に好機と映ったはずだ。そしてこのような好機は二度とないと思ったに違いない。もっとも焦っていたので、短絡的にそう考えてしまった、とも言える。
「……それにしても、どうしてイスファードではなくガーレルラーンを選んだんだ?」
ワインを一口飲んでから、シュナイダーはジノーファにそう尋ねた。イスパルタ王国を主権国家として認めるか否かが大きな分かれ目となった、というのは彼も分かる。だがどう考えても、手強いのはイスファードよりもガーレルラーン二世だ。
「この機を逃さず、ガーレルラーンを討つ。それは考えなかったのか?」
「それこそ、後世の歴史家に『焦った』と言われるのではありませんか?」
ジノーファが逆にそう問い返すと、シュナイダーは肩を竦めて笑った。仮に戦うことを選んだとして、勝てば「英断」と讃えられるのだろう。しかし旗色が悪くなるようなことがあれば、たしかに「焦った」と酷評されるに違いない。
ただ、ジノーファがイスファードではなくガーレルラーン二世と講和したのは、もちろん後世の歴史家の評価を気にしてのことではない。主権国家うんぬんの他に彼が考えていたのは、北アンタルヤが抱える魔の森に対する長大な防衛線の事だった。
「あのまま決戦に雪崩れ込んでいたら、イスファード殿もガーレルラーン王も退くに退けなくなっていたでしょう。するとイスファード殿は、防衛線から戦力を引き抜くことを考えたはずです」
「まあ、そうだろうな」
シュナイダーは一つ頷いてジノーファの意見に賛同した。絶対に負けられないと思えば、そういうこともするだろう。だが防衛線を手薄にすることは、人類にとって悪手だ。魔の森が拡大し、人類の生存圏が圧迫されるという事態を招きかねない。
それはジノーファが常々懸念していることだった。彼がガーレルラーンを選んだのは、言ってみれば逸るイスファードに冷や水をぶっかけるためだったのである。彼に軍事行動を諦めさせ、北へ戻って冷静さを取り戻して欲しかったのだ。
「ただ、それで正しかったのかどうか。自信がありません」
ジノーファは苦悩を滲ませてそう呟いた。ガーレルラーン二世は北の反乱を許さないだろう。イスファードが退いたのであれば、踏み込んでこれを鎮圧しようとするはずだ。そして北アンタルヤは地の利を生かしてこれに対抗するに違いない。
結局、戦いは続くのだ。それも防衛線のすぐ近くで。これから北アンタルヤは疲弊するだろう。その時、防衛線を支え続けることができるのか。いずれ誰かが騒乱を収めたとして、人の住めない土地が残されては意味がないのだが。
「あまり気負うな。そっちの防衛線について責任を負うべきなのは、ジノーファ殿じゃない。そうだろう?」
「影響は、受けるのですが……」
「なら、アンタルヤ王国を全て征服してしまうことだ。そうすれば防衛線を全てジノーファ殿の管理下における。どうする?」
シュナイダーがそう問いかけると、ジノーファは静かに首を横に振った。今は内政に力を注いで国内を安定させるべき。それが彼の考えであり、スレイマンやクワルドも同じ意見だ。
「まあ帝国としても、その方がありがたいな」
そう言いながら、シュナイダーはジノーファのグラスにワインを注ぐ。そして自分のグラスにも注ぐと、つまみのチーズを一つ口へ運ぶ。彼の口調にうんざりとしたものを感じ取り、ジノーファはこう尋ねた。
「……ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争は、相変わらずですか?」
「ああ。相も変わらず膠着状態だ」
イスパルタ王国が独立を宣言する以前に始まった両国の戦争は、今も睨み合いが続いていて終わる気配がないという。そしてその戦争に、ロストク帝国は三万の援軍を出しているのだ。
幸い、占領地統治を行っているので、そこからの税収で費用はかなりの程度賄われている。ただ、戦況の推移が見通せない。ロストク帝国としては予備戦力を確保しておく必要があり、イスパルタ王国へ大軍を貸し与えることは、できれば避けたいのだ。
そもそもアンタルヤ王国へ差し向ける兵がないので、イスパルタ王国の建国を容認したという側面もある。そしてイスパルタ王国がウファズという貿易港を確保した以上、これ以上戦線を拡大させないで欲しい、というのがロストク帝国の本音だった。
「ま、ウチも戦争ばっかりやってるわけにはいかないというわけだ。その点、今回の通商交渉は有意義だった」
「それは、良かった」
そう言ってジノーファは微笑んだ。スレイマンからも通商交渉は大筋で合意に達したと報告を受けている。合意内容はジノーファが事前に指示しておいた内容に沿ったもので、これでイスパルタ王国とロストク帝国の間の交易は活発になるはずだ。両国の経済分野における繋がりは、深く強固なものになるだろう。
「あとはマリーの輿入れだな」
シュナイダーのその言葉に、ジノーファも一つ頷く。皇女マリカーシェルの輿入れは、今回シュナイダーから正式に打診された。ジノーファも喜んで承諾する旨をその場で返答している。
以前から九割九分決まっていた話で、二人のやりとりも一種芝居じみたものになったが、ともかくこれで本決まりとなったわけだ。ここから準備は急ピッチで進んでいくことになる。正直、ジノーファはスレイマンが過労で倒れないか心配だった。
ただ、季節はこれから冬の本番になる。イスパルタ王国はともかく、ロストク帝国ではすでに雪の降っている場所もあるという。皇女が旅するのに相応しい季節とは言えず、マリカーシェルの輿入れは年が明けて、春になってからと言うことになった。
「この辺りはちょうど、花々が咲き誇る美しい季節です。マリカーシェル皇女殿下にも、お喜びいただけると思います」
「伝えておく。……それにしても、これでようやくマリーも結婚が決まったか。年齢的には行き遅れに片足突っ込んでるんだけどな。まあ、童顔だしちょうどいいだろ」
シュナイダーはそう言って、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。ジノーファはこの発言をマリカーシェルへの手紙に書いてやろうかと思ったが、下手に飛び火しては困ると思い直す。代わりに、彼は悪戯っぽくシュナイダーにこう告げた。
「これで結婚されていないのはシュナイダー殿下だけですね。これからは皇后様の矛先も、殿下のほうに向かうのではありませんか?」
「止めてくれ。今でさえ、必死に逃げ回ってるんだぜ」
途端に、シュナイダーはげんなりとした顔と口調になった。どうやらアーデルハイト皇后は息子が「放蕩皇子」などと呼ばれているのがたいそう気に入らないらしい。それで、息子に素行を改めさせるには身を固めさせるのが一番だと考え、事あるごとにその話を持ち出すのだという。
今までは、マリカーシェルのことが優先だった。加えて、シュナイダーの婚姻にはどうしても皇位継承の話が絡んでくる。皇太子ジェラルドの嫡子ジークハルトがまだ幼かったこともあり、アーデルハイトも無理に話を進めようとはしなかった。
だがこれからは違うだろう。アーデルハイトもシュナイダーの婚約者探しに本腰を入れるに違いない。この件に関して言えば、ダンダリオンはアテにならない。むしろ面白がって息子を差し出すだろう。
「まさか、今回使節団の代表になったのも、その話から逃げるためですか?」
「もちろん、それもある」
シュナイダーがしれっとそう答えるものだから、ジノーファは楽しげに声をあげて笑った。ジノーファを笑わせて満足したのか、シュナイダーは満足げにグラスを空にする。そしてまた新しいワインを注ぎつつ、話題を変えてこう言った。
「そう言えば、ウチと通商条約をまとめたが、他所はどうなんだ?」
シュナイダーの言う「他所」とはつまり、イスパルタ王国が国境を接している、ロストク帝国以外の勢力の事だ。ジノーファは特に交易を盛んにすることで、国を富ませようとしている。その基盤となる通商条約は、最優先事項と言って良い。
「アンタルヤ王国、ガーレルラーン王とは交渉を行うことで合意しています。イブライン協商国については、これから打診することになりますね」
「どちらも、厳しい交渉になりそうだな」
シュナイダーの感想に、ジノーファは苦笑しながら頷く。アンタルヤ王国とは完全に敵対している。そしてイブライン協商国から見てイスパルタ王国は間接的な敵国だ。敵視せざるを得ないだろう。両国と通商条約が締結されたとして、かなり規制が厳しくなるに違いない。
ただ、アンタルヤ王国については、現在南北に割れてしまっている。この内戦の行方次第では、イスパルタ王国にとって有利な影響が出るかも知れない。また内戦が長引くようなら、北アンタルヤとの間で取引を行うという手もある。
もっともこの場合、ジノーファが矢面に立つとイスファードがいい顔をしないだろう。チャンネルを持つ貴族間での取引という形が良いかもしれない。
「なるほどなぁ」
ジノーファの話を聞き、シュナイダーは感心したようにそう呟いた。前途多難、と思ったのだろう。それはジノーファも同じ気持ちだ。ただそれでも、彼はそれほど追い詰められているようには感じていなかった。
その理由は主に軍事的な周辺情勢だ。まず西だが、アンタルヤ王国との間では三年間の相互不可侵条約が締結されている。もっとも、ガーレルラーン二世が本当に三年間という期限を守ってくれるかは不透明だ。国境の監視と情報収集は続けていかなければならないだろう。それでも油断さえしなければ、大抵の事態には対処できるはずだ。
ただ、イスファードがこの相互不可侵条約を認めるとは思えない。彼は「そんなもの自分には関係ない」と主張するだろう。とはいえこの情勢下だ。彼とてガーレルラーン二世と戦う上で、イスパルタ王国には最低限動かないで欲しいと思っているはず。こちらも油断はできないものの、手を出さなければ優先順位は低いと見て良い。
そして東だが、前述した通りイブライン協商国はランヴィーア王国との戦争を抱えている。そこへイスパルタ王国が誕生したことで、協商国はなんと三方を敵対勢力に包囲される格好になってしまった。
この状況でイスパルタ王国に喧嘩を売り、二正面作戦を戦う愚は冒さないだろう。通商条約で妥協できずとも、武力衝突だけは回避したいと思っているはずだ。つまりイブライン協商国との間では、暗黙の了解で相互不可侵が実現する公算が高い。国境は寂しいことになりそうだが、安定さえしてくれれば、イスパルタ王国としては御の字である。
「なるほどな。形式上はともかく、実質的には東西の国境もそれなりに落ち着いてくれるはず、と見込んでいるわけだ」
「はい。しばらくは内政に力を注ぐつもりです」
ジノーファはシュナイダーにそう答えた。イスパルタ王国の、外側の形はなんとか固まる目処が立ってきた。これからは国の内側を整えていかなければならない。そう語るジノーファを見て、シュナイダーは目を細めた。
「立派に王様やってるじゃないか」
「ありがとうございます。でも、シュナイダー殿はもっと真面目に皇子をやった方が良いと思います」
ジノーファにそう言われ、シュナイダーは声を上げて笑った。笑いすぎて、目の端に涙が浮かんでいる。
「『真面目に皇子をやった方が良い』って、そんな家業みたいないい方……」
「家業みたいなものでしょう? 王様も、皇子様も」
ジノーファの物言いが気に入ったのか、シュナイダーは天井を見上げつつ額に手を当て、また楽しげに笑った。そしてひとしきり笑ってから、今度はワインではなくウィスキーに手を伸ばす。そして新しいグラスに氷を入れ、そこへ琥珀色の液体を注ぐ。芳醇な香りを漂わせるそれを一口楽しむと、シュナイダーは口を開いてこう言った。
「じゃあ、この家業の先達として、ジノーファ殿に一つアドバイスだ」
「はい、何でしょうか?」
「もう少し、狡さを学んだ方が良い」
正直なだけでは、国を守ってはいけない。シュナイダーはそう言った。政の世界というのは、基本的に汚いのだ。
ただ、シュナイダーは何も「卑怯な真似をしろ」と言っているわけではない。喰い物にされたくないのなら容易な相手になってはいけない、と言っているのだ。
「その点、ガーレルラーンは上手いと思うぞ」
ガーレルラーン二世は内心を悟らせない。そのため、周囲は「なにかあるのではないか」と勘ぐらざるを得ない。苛烈な処分をいとわないことも合わせて考えれば、彼を侮ることのできる者はいなくなる。
ただ、シュナイダーのその話を聞き、ジノーファはいささか不本意そうな顔をした。彼にとってガーレルラーン二世は確かに強敵だ。しかしその一方で、尊敬できるかと言えばそうではない。
それなのにまるで「ガーレルラーン二世を見習え」と言われたように聞こえたのだ。むくれたようにも思えるジノーファの様子を見て、シュナイダーは喉の奥をならすようにして笑った。そしてこう、言葉を付け加える。
「つまり、舐められるな、ってことさ」
「それなら、まあ、はい。分かります」
ジノーファはようやく一つ頷いた。しかし舐められないためにどうすればよいのか、いまいち良い考えが浮かばない。
「やっぱり、髭でも生やしましょうか?」
今度こそ、シュナイダーは腹を抱えて笑った。
シュナイダー「まだまだ独身貴族は止められんよ。皇族だけどな」




