ジノーファの帰還1
リュクス川を挟んでイスパルタ軍と討伐軍が睨み合っていた頃、王都マルマリズにロストク帝国の使節団が到着した。使節団の団長は第二皇子のシュナイダーであり、三五〇〇の兵が護衛として同行していた。ちなみにこの内の三〇〇〇はさらに西へ向かい、援軍としてイスパルタ軍に合流することになっている。
使節団の目的は、両国の間に通商条約を締結することだった。イスパルタ側の代表者は宰相のスレイマン。彼は事前にジノーファから指示されていた方針に従い、シュナイダーらとの交渉に臨んだ。
「ふむ、ずいぶん踏み込んだ内容だな。ジノーファ陛下の指示か?」
「はっ。『やるなら徹底的にやるべき』と。国内の法整備も、これに準じる形で進めております。陛下は本気でございますぞ」
「そいつは重畳。後は……」
交渉はスムーズに進んだと言って良い。ロストク帝国は貿易港ウファズを最大限活用できるよう、自由な交易を望んでいる。イスパルタ王国は帝国の後ろ盾を必要としており、その意を汲んだ形で通商条約は締結された。
ただ、ロストク帝国の意を汲んだとはいえ、イスパルタ王国にとって不利な条約だったわけではない。むしろイスパルタ王国の側からすれば、自由な交易が保障されたことで、ロストク帝国という巨大市場の門戸が開かれたとも言える。この機会をどう生かすのか、それこそが重要であろう、とスレイマンは考えていた。
さて、使節団に同行する形で、シェリーもまた王都マルマリズに入っていた。ロストク帝国からイスパルタ王国へ居を移すためであり、当然、息子のベルノルトも一緒だ。
二人が同行していることは、セルチュク要塞で使節団に対応したクワルドの長男エクレムが早馬で王都へ報せた。同時に、このときようやく、イスパルタ側はシェリーがダンダリオン一世の養女になったことを知った。
二人のことは当初予定に含まれていなかったから、当然準備などできていない。しかし相手はジノーファの妻子。しかもダンダリオン一世の養女として来るのだ。粗略に扱うことなどあってはならない。急いで受け入れの準備を整える必要がある。対応に当たる役人たちは奇声を上げたという。
『宰相閣下。無理、無理です!』
『絶対に間に合いません! もしご不快にさせてしまったら……!』
『やるしかないのじゃ! 泣き言を言っている暇があったら動け!』
スレイマンは部下をそう叱咤したとか。とはいえ無理と言いたくなる気持ちも分かる。彼自身もずいぶん苦労した。ただそれでも、スレイマンはこの一件をむしろ喜んでいた。
そもそも二人がロストク帝国にいるということは、イスパルタ王国にとっては人質を取られているに等しい。帝国がいつ引き渡してくれるかは分からず、二人を早急に迎えることは、イスパルタ王国の重要課題の一つだった。それがこんなにも簡単に解決したのだから、むしろ諸手を挙げて歓迎するべきだろう。
幸い、使節団はゆっくりと移動したので、スレイマンらは受け入れの準備を整えることができた。いや、王の妻子を迎えるという観点から見れば、きっと準備不足だったのだろう。ただ、シェリー自身が最低限のことしか求めなかったので、何とか失態を曝さずにすんだ。
さて、シェリーがマルマリズに来たのは、もちろん本人がジノーファの傍にいることを望んだからだが、しかしそれだけが理由ではない。彼女はダンダリオン一世から「マリカーシェルのために奥を整えよ」と命じられていた。
「宰相閣下、ご協力いただけますか?」
「もちろんでございます。シェリー殿下」
シェリーは事情を説明し、スレイマンに協力を要請した。彼はそれを快諾する。スレイマンにしてみればむしろありがたい申し出だった。他にやることが多く、そこまで手が回らない状態だったのだ。
ちなみにシェリーはすでに側妃として冊立されており、殿下の敬称で呼ばれている。もっとも、彼女自身はずいぶんとくすぐったそうにしていたが。
さて。奥を整えよ、とはつまりマリカーシェルの受け入れ準備を行え、ということだ。マリカーシェルはロストク帝国の皇女であり、イスパルタ王国へ正妃として輿入れする。僅かな不備も許されず、入念な準備が必要だ。
しかしマルマリズに到着して早々、シェリーは大きな問題に突き当たった。マリカーシェルが暮らす場所、つまり後宮に相当する場所がないのだ。
ジノーファは今のところ、王統府に居を定めて寝起きしている。ただ王統府はもともと太守府と呼ばれていた場所。暮らせないわけではないが、王宮や宮殿とは異なり、役所としての側面が強いのだ。
実際、マルマリズの太守であったムスタファーも太守府では寝起きせず、別に屋敷を構えてそこで家族と暮らしていた。要するに生活の拠点として見た場合、特に王とその家族が暮らす場所として、王統府(太守府)は十分とは言えないのだ。
具体的に言うと、後宮として使えそうな区画が王統府にはない。部屋の一つや二つなら空けることは可能だが、一区画となると無理だ。仕事ができなくなる。空けられたとしても華やかさに欠ける。後宮としては寂しい事になるだろう。
「さて、どうしたものでしょうか……?」
悩んだ末、シェリーは王統府にはこだわらないことにした。外に屋敷を用意し、そこにマリカーシェルを迎えることにしたのだ。その方が形式も整うし、何かとやりやすいだろう。幸い、マルマリズは交易の中心地であり、部屋数が三六もある立派な屋敷を手配することができた。
ちなみにシェリー自身は、王統府に自分と息子のための部屋を用意した。自分の屋敷を用意する所まで手が回らなかったとか、マリカーシェルに遠慮したとか、理由はいろいろある。だが何のかんの言って、彼女はちゃっかりとジノーファに一番近い場所を確保したのだ。
まあ、それはそれとして。屋敷を手配してからもやるべき事は山ほどある。外観を美しくし、内装も整えなければならない。それも、ただ綺麗にすれば良いというものではない。女主人となるマリカーシェルの好みに合わせる必要がある。
ただ、シェリーはマリカーシェルの好みをよく知らない。それで彼女に長年仕えているメイドが一人、シェリーに同行してマルマリズに来ていた。カミラという名前のメイドで、マリカーシェルが生まれた時から仕えているという。マリカーシェルの好みも熟知しており、屋敷のあれこれについては、主に彼女が指示を出すことになる。
「よろしくお願いしますね、カミラ様」
「はい。マリカーシェル殿下のため、完璧に整えてご覧に入れます」
このカミラだが、彼女は最初シェリーのことが気に入らなかった。マリカーシェルは確かに正妃として嫁ぐが、しかしジノーファにはすでにシェリーがいて、さらに子供も生まれている。大切なお姫様が側妃に押しやられ、形ばかりの正妃になってしまうのではないか。カミラはそう心配していた。
さらに言えば、心配すると同時に侮ってもいた。シェリーは元細作。カミラは貴族だから、彼女を下に見る気持ちがある。まして皇女であるマリカーシェルと比べれば、十段は格下だろう。
無論、それを表に出して準備を滞らせるようなことはしない。だが何か対策を考える必要があるだろう。ジノーファ本人か、あるいは彼に影響力のある人物に近づき、マリカーシェルが粗略に扱われぬようお願いしておくのだ。
そして一度マリカーシェルを知れば、ジノーファも彼女に夢中になるに違いない。シェリーも目鼻立ちは整っているが、マリカーシェルの方が華やかで美人だ。なにより皇女として育てられた彼女には、凜とした気品と匂い立つ色香がある。細作上がりの年増に、女として負けることなどあり得ない。
(イスパルタ王家の奥の女主人はマリカーシェル殿下なのです。それをはっきりさせなければ……)
それからシンパを作り、イスパルタ王国内に影響力を確保する。幸い、マリカーシェルにはロストク帝国の強力な後ろ盾がある。難しくはないはずだ。カミラはそう思っていた。思っていたのだが、彼女の思惑はすぐに根底からぐらつくことになる。
それはジノーファがマルマリズに帰還したときのことだ。シェリーはいてもたってもいられない様子でジノーファを出迎え、そして人目を憚らずに彼に抱きついた。カミラはそのことでシェリーが叱責を受けるものと思っていたが、しかしそうはならなかった。
それどころか、ジノーファはシェリーに応えて彼女をきつく抱きしめた。シェリーがジノーファを「陛下」と呼ばなくても、彼はそのことで彼女を咎めない。むしろそれを望んでいる様子さえ見せる。
シェリーはジノーファから、無限の寵愛を得ているのだ。カミラはそれを理解せざるを得なかった。そうであるなら、そのことを考慮に入れて色々と考え直さなければならない。下手に動き、ジノーファとマリカーシェルの関係に悪影響を及ぼすわけにはいかないのだ。
シェリーのことを「気に入らぬ」などと言っている場合ではなくなっていた。彼女がジノーファに一番強い影響力を持っていることは明らかで、マリカーシェルのことを考えれば彼女を味方に付けるのが一番良い。まかり間違っても、敵に回すようなことは、あってはならない。少なくとも、現時点では。
それを理解してから、カミラはシェリーに敬意を払うようになった。カミラのその変化に、シェリーは当然気づいていただろう。カミラは隠していたつもりだったろうが、彼女は元細作だ。人の内心を読むことには長けているし、何より自分に向けられる悪意に気づかないはずはない。
ただ気づいても、シェリーは態度を変えなかった。気づいたことに気づかせなかったのだ。この点、彼女の方が上手だったといえるだろう。ともかく二人の間の隔意がなくなったことで、イスパルタ王家の奥は安定した。マリカーシェルの輿入れの前にそうできたことは大きく、これはシェリーのお手柄と言って良い。
さて、帝都ガルガンドーから王都マルマリズへ越してきたのは、シェリーとベルノルトの二人だけではなかった。ガルガンドーの屋敷で働いていたカイブとリーサ、そして二人の娘であるエマ、それから料理人のボロネスが同行していた。
ちなみに、ヘレナとヴィクトールは高齢を理由にガルガンドーに留まった。二人で屋敷の管理を行っている。金は十分に置いてきたので当面は問題ないはずだが、後でジノーファと相談しなければとシェリーは思っている。
それはともかく。マルマリズに来た彼らは、当然お客さんとして来たわけではない。リーサはシェリー付きのメイドになった。普段は主に、ベルノルトの面倒を見ている。エマは遊び相手と言うことになっているが、二人一緒に面倒を見ていると思えば良い。
カイブもひとまず、シェリーの指示で働いている。シェリーが奥を整える仕事で動き回っているので、それを助ける格好だ。なお、ジノーファが帰還してからは彼の従者になった。ユスフの部下という扱いで、彼が「よろしく頼みますよ、ぼっちゃん」と挨拶すると、ユスフは嫌そうな顔をしていた。
ボロネスは王統府の料理人になった。近い将来、厨房を取り仕切る立場になるはずだ。ただ当たり前の話だが、王統府の厨房にはもともと先任の料理長がいる。問題を起こしたわけでもないのに彼を押しのければ、禍根が残ってしまうだろう。
その問題を解決したのはシェリーだった。現在、マリカーシェルの為に屋敷を整えている。当然、そちらにも料理人は必要だ。それでそちらへ移る気はないか、と彼女は先任の料理長に持ちかけたのだ。
「その気がないのであれば、ボロネスにお願いしようと思っています。彼をジノーファ様の料理人に推薦したのはダンダリオン陛下ですし、好みも熟知しています。きっとそつなく務めてくれるでしょう」
まるでボロネスにやらせたがっているようにも聞こえて、先任の料理長はわずかに顔をしかめた。そもそも彼はボロネスに良い感情を持っていないのだ。自分の地位が脅かされると危機感を持っている。
ただいずれにしても、ボロネスの下で働くことだけはしなくて良さそうだ。シェリーの話を聞いてそれを理解すると、先任の料理長は内心で安堵した。すると今度は料理人視点で物事を見られるようになる。
王統府とマリカーシェルの屋敷。より腕を振るえるのはどちらか。ジノーファがいる時間が長いのは王統府だろう。だが王統府はあくまで役所。食事はどうしても手軽に食べられるものになりがちだ。
だがマリカーシェルの屋敷は、ジノーファにとってもプライベートな場所になる。食事を楽しむ頻度は、王統府に比べ格段に多いだろう。それにジノーファが足を向けずとも、マリカーシェルはいるのだ。華やかで手の込んだ料理を作る機会は、今までよりもずっと増えるはずだ。
一日考え、先任の料理長はマリカーシェルの屋敷に移ることに決めた。同時に王統府の厨房から何人か部下を引き抜いていく。これは簡単に認められた。そもそも一人では仕事にならないし、先任の薫陶篤い者が残っていてはボロネスもやりにくいだろう。
先任の決定をシェリーは喜んだ。そして後日、彼をカミラに引き合わせる。屋敷の厨房のことは、今後二人で相談することになるだろう。シェリーも後のことは任せてしまうつもりだったが、一言だけ彼にこう告げておいた。
「料理長の腕は疑っておりません。ですが、人には好みがございます。マリカーシェル殿下はもちろん、ジノーファ様のお口にも合う料理を作っていただかなければ」
「左様ですよ、料理長。ジノーファ陛下はお屋敷へくつろぎにいらっしゃるのです。料理が口にあわないからと、足が遠ざかるようなことがあっては困ります」
カミラからもそう言われ、先任はやや顔を青くした。責任の重さを改めて突きつけられたのだ。マリカーシェルの好みはカミラが熟知しているが、ジノーファの好みをよく知っているのはボロネスだ。結局、先任は彼を頼ることになった。
それにしても、ジノーファの好みと言えば、屋敷の内装にも同様のことが言える。ただ食事とは異なり、彼はそういうことには無頓着だ。よほど突飛な内装でもない限り、好みに合わないからと、避けてしまうことはないだろう。シェリーが気をつけるのは、あまり華美になりすぎないようにするくらいだった。
そして、そうこうしている内にジノーファが王都マルマリズへ帰還した。シェリーはジノーファが無事に戻ったことをことのほか喜んだ。ジノーファはシェリーがマルマリズにいることに驚いた様子だったが、思っていた以上に早く再会できたことは素直に嬉しい。二人は人目もはばからずに抱擁を交わした。
「そうか。ヴィクトールとヘレナはガルガンドーに残ったか」
「はい。二人とも、もう年だから、と」
その夜、ジノーファとシェリーは久しぶりに閨を共にした。そこでシェリーはヴィクトールとヘレナのことを話したのだが、二人がマルマリズへ来ないことを残念がった。ただ二人はそれだけを理由にガルガンドーに残ったわけではない。
「それでガルガンドーのお屋敷ですが、イスパルタ王国の大使館として使ってはどうか、とダンダリオン陛下が……」
「なるほど、大使館か」
ジノーファは感心したようにそう言った。大使館として使うのなら、空き家にしておくわけにはいかない。管理人が必要だ。二人はそのために残ったのである。
(近いうちに、大使の人選を決めないとだな……)
せっかくダンダリオンがそう言ってくれたのだ。それに大使を送り込めば、両国の関係を強めることができる。むしろダンダリオンは「早く大使を決めろ」と催促しているのかも知れない。この件もスレイマンと相談する必要があるだろう。
「それと、ジノーファ様がお集めになった蔵書ですが、ヴィクトールが後で送るよう手配してくれるそうです」
「それは良かった」
ジノーファが嬉しそうにそう応えると、シェリーはくすくすと笑った。
「ジノーファ様は本当に本がお好きですね。ガルガンドーの宮殿でも、よく図書室に出入りされていました」
「うん。マルマリズにも、いつか図書館を建てたい」
「まあ」
シェリーはまたおかしそうに笑った。自分の居城ではなく、図書館を建てたいという言う辺りが、いかにもジノーファらしい。そして彼が変わっていないことが、シェリーは嬉しかった。
シェリーの一言報告書「奥の準備は順調です。もちろん、二人分」
ダンダリオン「相変わらず抜け目のないことだ」




