強大なる南アンタルヤ王国
ルルグンス法国はアンタルヤ王国の西に位置する、女神イーシスを崇める宗教国家である。国土は四二州。アンタルヤ王国の八一州と比べると半分程度しかなく、そのため小国とみなされてきた。
逆にルルグンス法国の側から見れば、アンタルヤ王国は倍近い国力を持つ大国だった。その上、兵の質でも劣る。経済力はそれぞれ国力相応と言って良いが、ということはその分野においてもアンタルヤ王国は格上ということ。法国がこの隣国との良い関係を維持するため、腐心せざるを得ないのは当然だった。
ルルグンス法国にとっては幸いなことに、アンタルヤ王国の目は伝統的に東へ向いていた。すなわち大きな経済力を持つイブライン協商国との関係を維持し、さらに貿易港を求めて南下を試みるロストク帝国に対抗すること。それがアンタルヤ王国の基本戦略であり、そのためには西の国境が安定していることが望ましい。その情勢が法国と王国の関係を維持する基盤となっていた。
アンタルヤ王国との同盟は、ルルグンス法国にとって必ずしも服従的なものではない。ルルグンス法国はたびたび他国の侵略にさらされてきたが、その度に精強なアンタルヤ軍の助けを得ることができた。アンタルヤ王国はルルグンス法国を西方の盾として使っていたが、法国もまた王国を侵略者に対する剣として利用していたのである。
ただだからと言って、両国の同盟が対等なものだったわけではない。国力に差があるのは事実。実際、アンタルヤ王国はルルグンス法国を格下として扱った。時には一方的な要求をすることもあったから、法国はのし掛かるような圧力を感じていたに違いない。
しかしアンタルヤ王国の東域が独立を宣言すると、両国の関係にも変化が生じた。イスパルタ王国の国土は二六州。つまりアンタルヤ王国の国土は五五州に減ってしまったのだ。法国との国力差が縮まってしまったのである。
無論この時点ではまだ、ルルグンス法国内にアンタルヤ王国との同盟を見直す動きはない。何のかんの言ってもアンタルヤ王国は未だに強大であり、イスパルタ王国の独立はすぐに鎮圧されてしまうだろうと思われていたのだ。だからこそ、法国は物資の供出に応えるなど、アンタルヤ王国を支援したのである。
しかし情勢は、法国が見込んだようには推移しなかった。それどころか北アンタルヤ王国までが分離・独立を宣言したのである。この時点で強大であったはずのアンタルヤ王国は、見るも無残に三つの勢力へ分裂してしまった。
三つの勢力の有する版図は、それぞれ以下の通りである。すなわち……。
イスパルタ王国 二六州
北アンタルヤ王国 三〇州
南アンタルヤ王国 二五州
何と三つの勢力全てが、国の大きさでルルグンス法国に及ばない。しかも法国が直接国境を接する南アンタルヤ王国は、三つの中で最も勢力が小さいのだ。その上、北アンタルヤ王国のイスファードからは、連携の申し出がきていた。
正確に言えば、兵を挙げた時点ではまだ北アンタルヤ王国は独立を宣言していない。しかし蜂起する以上は同じ事。ルルグンス法国が長年感じてきた圧力は、この時点でかなりの程度霧散してしまったのである。
さて、イスファードの申し出に対してどう返答するかは、ルルグンス法国内でも意見が分かれた。アンタルヤ王国の力はかなり弱まっている。しかし戦うとなれば、相手はあのガーレルラーン二世だ。果たして、勝てるのか。
ルルグンス法国では法王の下に枢密院という輔弼機関が置かれている。ただし当代の法王ヌルルハーク四世は力が弱く、そのため昨今は枢密院の決定がそのまま法王の決定となることが多かった。
イスファードの申し出を受けるべきか、受けざるべきかの話し合いも、この枢密院で行われた。枢密院は六人の枢機卿によって構成されている。そして彼らは三対三に別れて激しい舌戦を繰り広げることになった。
いわゆる主戦派の主張は次のようなものだ。
「我がルルグンス法国は長年の間、アンタルヤ王国にまるで属国の如くに扱われていた。しかし今、その力関係は逆転したのだ! 今こそ、それを傲慢なアンタルヤ王国に分からせねばなるまい!」
「我々がこれまで、どれほど理不尽な要求を呑まされてきたのか、まさか覚えていないわけではあるまい。ここで立ち上がり、枷を振り払わなければ、我々は永遠に奴隷のままだ。それで良いのか!?」
「北が勝つにせよ、南が勝つにせよ、戦いが終わればその版図は再び五五州に戻る。今だけですぞ、アンタルヤ王国の力がこれほどまでに弱まっているのは! これはまさに千載一遇の、千年に一度の好機なのです!」
これに対し、非戦派の主張も負けてはいない。
「相手はあのガーレルラーン二世なのだぞ!? 彼がどれほどの武威を誇るのか、まさか知らぬわけではありますまい。我が国の兵士たちとて、彼を恐れておる。確実に勝てると言えるのか!?」
「同盟が結ばれて以来、アンタルヤ王国は一度として我が国に侵攻することはなかった。常に友好国の立場を崩すことはなかったのだ。にもかかわらず、我々の方から盟約を破るというのか。それは正義の道にもとるというものだ!」
「今、アンタルヤ王国を攻めれば、イスパルタ王国と国境を接する事になるかも知れぬ。ロストク帝国の影響が、すぐ近くにまで及ぶのだ。アンタルヤ王国の力が弱まったのなら、むしろそのまま盾としておくべきぞ!」
真っ二つに割れた枢密院の議論は白熱するばかりで、いっこうに煮詰まる気配がない。枢密院は機能不全に陥った。隣国の混乱に対処するという名目で兵を集めることだけは決まったが、それ以上のことが決まらない。確実に多数決が決するよう、定員を奇数にするべしという意見も出たが、肝心の議論の役には立たぬ。気がつけば時間ばかりが過ぎていった。
「法王猊下! 猊下は如何お考えですか!?」
「ぬ、ぬぅ……。そう、よな……」
こういう場合、法王ヌルルハーク四世がどちらかの側を支持すれば、それをもって結論は出ただろう。そうやって権威を示すことが、権力を取り戻す第一歩となったはずだ。しかしヌルルハーク四世は結局、自分の意思を明確に示すことができなかった。
時間ばかりが過ぎ、皆に嫌気が差し始めた頃、枢密院に言上される形でヌルルハーク四世はようやく結論を出した。その結論とは、分かりやすく言えば「一部の枢機卿の行動を黙認する」というものだった。
要するに、主戦派の枢機卿たちが独自の判断で軍を催し、法国と法王のあずかり知らぬところでアンタルヤ王国へ攻め込んだ、という形にするのだ。玉虫色の結論というか、詭弁というか。ただ出兵が容認されたわけだから、天秤は主戦派の方に傾いたのかも知れない。
結論が出るとすぐ、主戦派の枢機卿たちは動き始めた。幸いなことに兵はすでに集めてある。数は三万。ただガーレルラーン二世と戦うには少ないと判断され、さらにもう三万集めることになった。合計で六万であり、ルルグンス法国のほぼ全軍と言って良い。
ルルグンス軍の総大将となったのはザールジャング枢機卿。さらに主戦論を展開したもう二人の枢機卿も、副将として彼を補佐することになる。もっとも彼らは兵の動かし方など知らないから、実際に軍を運用するのはまた別の者たちだ。
「勇敢なる兵士諸君! これは正義の戦いである! ルルグンス法国の版図を広げ、もって女神イーシスの教えと光輝を全土へ知らしめるのだ!」
ザールジャングはそう言って兵士たちを鼓舞し、東へ向かって出陣した。それはイスファードがルルグンス法国に連携を呼びかけてから、およそ一ヶ月後のことだった。彼らが出陣するよりかなり以前にイスファードは軍を北へ戻しており、大分遅きに失した行動と言わざるを得ない。
□ ■ □ ■
ルルグンス軍が国境を越えてアンタルヤ王国領内へ侵入したことを知ると、ガーレルラーン二世は方針を転換せざるを得なくなった。彼は北アンタルヤ王国の討伐へ向かうつもりであったが、それを取りやめてルルグンス軍に対処しなければならなくなったのだ。
ただ、討伐の対象が変わっただけなので、それまでの準備はまったく無駄になっていない。ガーレルラーン二世は幾つかの指示を出すと、四万五〇〇〇の兵を率いて王都クルシェヒルから出陣。西へ向かった。
このとき彼が出した指示は、実のところこの後数年にわたり、分裂したアンタルヤ王国で大きな影響を及ぼすことになる。その一つは国内の貴族たちに対するモノで、命令と言うよりはある種の許可だった。その中身は次の通りである。
『北アンタルヤ王国を名乗る叛徒どもの領地については、切り取り自由とする。ただし天領については、後日相応の対価と引き換えに王家へ返還されるものとする』
要するに貴族たちに対し、領地を広げる機会を与えたのだ。これまでの恨みを晴らすこともかねて、貴族たちは勇んで領軍を催すだろう。そうすることで北アンタルヤ王国を牽制し、ルルグンス法国との戦いに集中することが、ガーレルラーン二世の目的だった。
またこの許可には、人質を差し出した貴族たちの、不満を和らげる目的もあったと言われている。実際、「切り取り自由」の命令が出されて以来、貴族たちの関心はそちらへ移っている。ガーレルラーン二世はいわば、ムチの後のアメを用意したのだ。
この後、北アンタルヤ王国は南アンタルヤ王国の貴族らによる侵攻に悩まされることになる。イスファードは侵略者を打ち払うべく、軍を率いて駆けずり回った。逆侵攻してクルシェヒルを狙う余裕はなく、ガーレルラーン二世の思惑はほぼ当たったと言って良い。
さらにガーレルラーン二世は、イスパルタ王国との間に締結される通商条約についても指示を出していた。休戦の際、後日改めて協議することを決めておいたのだが、その協議について指示を出していたのだ。そこには彼の戦略思想が色濃く反映されていたのだが、この点についてはまた改めて語ることにしたい。
さて、ルルグンス軍と南アンタルヤ軍はオルドゥナ平原で対峙した。南アンタルヤ軍に取っては想定通りだったが、ルルグンス軍に取っては想定外の対峙だった。ガーレルラーン二世はイスファードと戦っているはずで、その隙を突くというのが彼らの基本戦略だったのだ。それで彼らにとっては早すぎるタイミングでの遭遇だった。
「な、なぜここにガーレルラーンがいるのだ!? や、奴はイスファードと戦っているのではなかったのか!?」
ザールジャングはおののいてそう叫んだ。イスファードがすでに軍を引き返していることを、彼はこの期に及んでまだ知らなかったのだ。致命的なまでの怠慢と言って良い。そしてそのツケを、彼は最悪の形で支払うことになった。
「全軍突撃!」
剣を掲げ、ガーレルラーン二世が号令を下す。南アンタルヤ軍は猛然と突撃を開始した。ルルグンス軍も迎撃態勢を取るが、兵士たちは最初から腰が退けている。数の優位を生かすこともできず、鎧袖一触に蹴散らされた。
この猛攻を目の当たりにして、ザールジャングは腰を抜かした。南アンタルヤ軍の先頭に立って戦うガーレルラーン二世の姿は、まるで聖典に出てくる悪魔のようだ。到底、人がかなう相手とは思えない。彼は馬の首にしがみついて逃げた。
ただその有様で、馬をまともに走らせられるわけもない。そもそもザールジャングは乗馬が得意というわけではないのだ。それで彼は追跡する南アンタルヤ軍の騎兵隊に捕まった。副将を務めていた他二名の枢機卿も、それぞればらばらに逃げたはずなのだが、同じように捕まっている。そして彼らはガーレルラーン二世の前に引き出された。
「わ、私を殺すのか!? わ、私はルルグンス法国の枢機卿だぞ! わたしを殺せば、し、神罰が下るだろう!?」
ヒステリックにそう叫ぶザールジャングを、ガーレルラーン二世は冷ややかに一瞥した。そして「黙れ」と命じる。その声は決して大きくはなかったものの、腹の底に響いてザールジャングの心胆を寒からしめる。彼は陸に打ち上げられた魚のように、ただ口をパクパクとさせた。言葉を失った彼に、ガーレルラーン二世はこう告げる。
「卿らを殺すのは余ではない。卿らの女神が殺すのだ。せめて苦しまずに死ねるよう、せいぜい祈りを捧げることだ」
さて、ザールジャングら三名の枢機卿を捕虜にすると、ガーレルラーン二世はそのまま軍を進めてルルグンス法国の領内へ侵入した。抵抗はなく、南アンタルヤ軍は無人の野を行くが如くに歩を進める。目指すのは法都ヴァンガルだ。
ちなみに無抵抗であったために、ルルグンス法国は戦火を免れた。ガーレルラーン二世は街を焼いたり略奪を行ったりすることなく、真っ直ぐに法都ヴァンガルを目指したのだ。そこには無論、それなりの理由があったのだが、それはこの後で語ることにする。
法都ヴァンガルは城門を開いてガーレルラーン二世を迎え入れた。すでに使者を出して敵意のないことを説明していたが、それを態度で示した格好である。ガーレルラーン二世も全軍を率いてヴァンガルへ乗り込むことはせず、一〇〇〇騎のみを伴って法王宮へ赴いた。
法王宮では法王ヌルルハーク四世と非戦派であった三人の枢機卿が、平伏してガーレルラーン二世を出迎えた。馬上から四人を見下ろす彼に、ヌルルハーク四世は怯えの滲む声で改めて謝罪する。
「ガーレルラーン陛下、偉大なるアンタルヤ王国の王よ。此度のことはどれだけ謝罪しても足りませぬ。ですが一つだけ信じていただきたい。この出兵は決して法国の意思ではないのです。ザールジャングら三名の枢機卿が勝手にしでかしたこと。さすれば父祖たちが培ってきた両国の友誼と信義に免じ、どうかご容赦くださいますように……」
法国では枢機卿が勝手に六万もの兵を集めることができるのか、とでもガーレルラーン二世が皮肉を言えば、ヌルルハーク四世の顔色は蒼白となっていたであろう。しかし彼はそうせず、一つ頷いて馬を下りる。そして平伏するヌルルハーク四世らを見下ろしながらこう言った。
「謝罪は受けよう。だが責任は取ってもらわねばならぬ」
そう言ってから、ガーレルラーン二世はザールジャングら三名の枢機卿を捕らえたことを告げる。驚くヌルルハーク四世に対し、彼はさらにこう言った。
「この三名をそちらに引き渡す。貴国の法に従って裁かれよ」
「は、はぁ、よろしいので……?」
「時に貴国の聖典では、侵略を忌避していたはず。さらにいかなる聖典においても殺人は最大の禁忌。あの者たちは自らがその罪を犯すのみならず、多くの信徒を惑わして大罪を犯させたのだ。当然、厳罰は免れぬであろうな」
「は、ははあ! 仰せの通りにございます!」
つまり「確実に殺せ」と言われているのだと理解し、ヌルルハーク四世は全身に冷や汗を流しながら地面に額を押しつけた。ただ彼が理解した以上に、ガーレルラーン二世はずっと狡猾だった。
ルルグンス法国は宗教国家だ。その重要人物である枢機卿が異教徒によって殺されれば、信徒すなわち国民の心情はざわつくだろう。ともすれば侵略者であるはずの彼らが殉教者に祭り上げられ、将来的に根深い禍根となるかも知れない。
それを防ぐために、ガーレルラーン二世は三人の枢機卿を同国人の手によって、特に法王の手によって処断させることにしたのだ。彼らは女神イーシスの教えに背いた大罪人として処刑される。彼らが殉教者になることはない。法国民の反アンタルヤ感情も抑制できるだろう。
閑話休題。ザールジャングら三名の枢機卿に対しては、ヌルルハーク四世による即決裁判で、その日のうちに死刑が宣告された。それも斬首や毒杯などではなく、火刑が執行されることになった。ルルグンス法国の法に火刑は規定されていないのだが、ヌルルハーク四世がそれを押し通した。ひとえにガーレルラーン二世に対する恐れのためである。
その翌日、ザールジャングら三名の元枢機卿に対する、火刑が執行された。まず彼らが女神イーシスの教えに背いた大罪人であることが宣言され、それから薪に火が付けられた。生きたまま焼かれ、彼らは絶叫を上げながら死んだ。
ガーレルラーン二世に言われた通り、楽に死ねるよう彼らが女神に祈ったのか、それは分からない。ただ仮に祈ったのだとして、どうやらその願いは聞き入れられなかったようだ。
三人の処刑を見届けると、ガーレルラーン二世は本格的に戦後処理を始めた。ルルグンス法国の戦争責任を追及し、その賠償を求めたのだ。その結果、ルルグンス法国は南アンタルヤ王国に対して二五州を割譲し、さらにこれから毎年金貨五〇〇〇枚の貢納金を支払うことになった。
遠慮なく分捕った、と言うべきだろう。特に国土に関してはおよそ六割を割譲させている。ただそれでも三名の元枢機卿以外には処罰を求めることはしなかったし、法王の首をすげ替えたり、人質を取ったりもしなかった。他の捕虜たちも全て解放している。必要以上に冷酷ではなかった、と言えるかも知れない。
ちなみにガーレルラーン二世が法国国内で街を焼いたり、略奪をしたりしなかったのはこのためだった。つまり最初から大幅な国土の割譲を視野に入れていたのだ。自分のモノになる土地だから、そこを傷つけたり、反アンタルヤ感情を煽ったりしなかったのである。
さて、ガーレルラーン二世はルルグンス法国との戦争に勝利を収めた。その結果、この地域の四カ国の版図は次のようになった。
南アンタルヤ王国 二五州 → 五〇州
北アンタルヤ王国 三〇州
イスパルタ王国 二六州
ルルグンス法国 四二州 → 一七州
こうして南アンタルヤ王国とガーレルラーン二世は、この地域で再び最大の勢力を持つようになったのだった。
ある枢機卿「ウチの法王にあれだけ迅速な決断をさせるとは……! ガーレルラーン二世、恐るべし!」




