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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
道化と冠 中編

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153/364

そしてリュクス川の流れは静寂を取り戻す


 講和が成立すると、ガーレルラーンはすぐさま撤退を開始した。ただし、慌てた様子は少しもない。隙を見せずに整然と陣を引き払っていく。仮にイスパルタ軍が攻撃を仕掛けたとして、手痛い逆撃を喰らうだろう。そもそも攻撃する理由もなく、イスパルタ軍は静かに討伐軍を見送った。


「よし、こちらも撤退を開始する」


 討伐軍の三分の二ほどが対岸から遠ざかったのを段丘の一番上から視認すると、ジノーファは全軍に撤退の指示を出した。それを受け、イスパルタ軍も撤退を開始する。こうしてリュクス川を挟んで対峙していた両軍は、それぞれ陣を引き払ったのである。



 □ ■ □ ■



「馬鹿な……! ガーレルラーンがクルシェヒルへ向けて撤退を開始した、だと……!?」


 ガーレルラーン二世がリュクス川のほとりに敷いていた陣を引き払った、という情報はすぐにイスファードのもとへもたらされた。彼が率いる北アンタルヤ軍にとって、討伐軍の動向は何よりも重要なもの。それで望遠の魔道具を持たせた斥候を常に貼り付け、監視させていたのだが、その斥候が「討伐軍、撤退」を報せて来たのである。


 現在イスファードは二万の兵を率い、南へ急いでいる最中だ。何としてもガーレルラーン二世に先んじ、王都クルシェヒルを押さえなければならない。そうして初めて、彼に勝機が生まれるのである。


 とはいえ急いでいるとは言っても、それは歩兵の足に速度を合わせての話。兵を疲れ果てさせるわけにはいかないから、一日に何度か休憩を挟む必要もある。斥候がイスファードのもとへ駆け込んできたのも、そういうタイミングでの事だった。


「早すぎる……!」


 イスファードは呻いた。予定が大幅に狂ってしまったことを悟り、彼は髪を掻きむしって顔を歪ませた。


 ガーレルラーン二世が派遣してきた使者らを殺してから、イスファードらは大急ぎで軍を催した。幸い、徴兵は終わっている。新たに集められた兵士たちは全て防衛線に送られているから、そこから改めて引き抜けば良い。


 使者たちは北方の査察を行うことになっていた。そして査察には相応の時間がかかる。その間に音沙汰がなくとも、ガーレルラーン二世は不審に思うまい。彼の意識は東へ、イスパルタ軍に向いているはずだ。


 その隙を突いて兵を動かし、王都クルシェヒルを強襲して一挙にこれを攻め落とす。それがイスファードの目論見だった。しかしガーレルラーン二世は彼が予想していたよりもずっと早くに引き返して来てしまった。彼が使者らを別の者たちに監視させていたなど、イスファードにとっては完全に想像の埒外だ。


「それでイスパルタ軍はどうした!?」


「イスパルタ軍もまた、陣を引き払って東へ撤退を始めておりました。恐らく、今頃はもう……」


 マルマリズへ帰還するその途上であろう。誰に言われずとも、イスファードはそれを理解した。つまりイスパルタ軍は撤退する討伐軍の背中を襲わなかったのだ。ジノーファはイスファードとの連携を蹴ったのである。


「道化め……! せっかくこの俺が持ちかけてやったというのに……!」


 床几に座っていたイスファードは、怒りに身体を震わせながらそう呟いた。報告によれば、ガーレルラーン二世は殿軍を残していないという。ということは、討伐軍とイスパルタ軍の間で休戦が成立したに違いない。ジノーファはよりにもよって、イスファードではなくガーレルラーン二世を選んだのだ。


「馬鹿か、あの道化は!? あの男が本当に信じられると、本当に思っているのか!?」


「殿下、決めつけるのは早計にございますぞ!」


 ジノーファは一度兵を退いたと見せかけ、反転して討伐軍の背中を襲うつもりなのかも知れない。その方が討伐軍の油断を誘えるであろうし、リュクス川も安全に渡ることができる。カルカヴァンはそう言ってイスファードを宥めた。


「だがその保証もないぞ!」


 イスファードは立ち上がってそう叫んだ。そしてまたすぐに座ると、苛立たしげに爪をかむ。カルカヴァンの言うとおりであれば、北アンタルヤ軍にとっては僥倖である。だがもし本当に撤退しているだけなら、このまま進軍するのは危険だ。下手をすればクルシェヒルを落とす前に、ガーレルラーン二世が戻ってくる。


 進軍するべきか、それとも撤退するべきか。イスファードは大いに悩んで決めかねた。仮に撤退しても、ガーレルラーン二世は一度叛旗を翻した彼を許すまい。必ずや討伐のための軍を送り込んでくるだろう。


 これを撃退し、さらに再侵攻してクルシェヒルを落とすことは、果たして可能だろうか。地の利があるのだから、撃退は可能かも知れない。しかし討伐軍を文字通り全滅させられるわけではないだろう。例えば三万程度がクルシェヒルに籠城したとして、これを攻略するのは難しいと言わざるを得ない。


 あるいは時間をかければ何とかなるかも知れない。だが北アンタルヤは防衛線も抱えているのだ。本拠地を離れて補給線も長く伸びている。持久戦になった場合、不利なのはイスファードらのほうであろう。


 ちなみにその防衛線だが、一時的に二万もの兵を増員した結果、一人あたりの負担が減って余力が生まれていた。この結果、死傷者の数が減り、戦線に復帰する者も増えた。今ならば当面の間、防衛線の維持に問題はないと思っていい。


 つまり防衛線の状況からすれば、攻め時は今なのだ。だが前述した通り、ガーレルラーン二世の動きが早い。このタイミングだと、先んじてクルシェヒルを攻略できるのか、微妙なところだ。仮に攻略できたとしても、今度は守り通せるのか分からない。


(ジノーファぁあ……!)


 イスファードは胸中で忌々しげに道化の名前を呟いた。彼が確実に動いてくれるのであれば、勝機はある。しかし動かないとなると、北アンタルヤ軍はかなり苦しい。そして彼がどうするのか、まったく見通せないのが現状なのだ。


「主立った者たちを集めろ」


 イスファードはそう命じた。ただちに北アンタルヤ軍の主立った者たちが集められる。集まった幕僚たちに、イスファードは今しがた報告されたことを改めて説明させる。その上で進むべきか、それとも退くべきか、彼は意見を求めた。


「進むべきでござる! 事ここに至っては、撤退などあり得ませぬぞ!」


「左様! 兵を急がせれば、必ずや先んじてクルシェヒルを落とせます! 城壁を頼みとすれば、ガーレルラーンであっても退けることは可能です!」


 まず上がったのは「進軍するべし」という意見だ。ただ、これは感情的な意見でもあった。謀反というリスクを冒したのだから、それに見合うリターンが欲しい。簡単に言えばそういうことだ。


「だが、クルシェヒルに籠もって、それでどうする? ガーレルラーンがそれに付き合ってくれるかも分からないのだぞ」


「そもそも籠城戦とは、援軍をアテにして行うもの。援軍が来なければ、我々は絞め殺されて終わりです」


 その意見を聞いて、北アンタルヤ軍の幕僚たちは静まり返った。本拠地を離れての籠城戦。確かに援軍が来なければ、未来は明るくないだろう。


「殿下、援軍は来るのでしょうか?」


「分からん」


 険しい顔をしつつも、イスファードは正直にそう答えるしかなかった。彼らが援軍として期待できる勢力は二つ。つまりイスパルタ軍とルルグンス軍だ。両方とも連携を呼びかけてはいる。しかし今のところ、どちらからも返事はない。それどころかイスパルタ軍は撤退の動きさえ見せている。


「ルルグンス法国の弱兵など、アテにはなりますまい。ガーレルラーンの姿を見れば、奴らめ、戦うことなく逃げていきましょう」


 幕僚の一人が嘲るようにそう言うと、何人が同意して頷いた。頷かなかった者たちも、心の中では同意しているに違いない。イスファードもその一人だ。散々なものだが、アンタルヤ王国の、それも上層部の人間のルルグンス法国に対する評価など、この程度のものだった。


 そうなると、アテにできるのはやはりイスパルタ軍だけである。イスパルタ軍が動くのか、動かないのか。結局はそこに行き着いてしまう。そして今のところ、そこがはっきりとしないのだ。


「我々がクルシェヒルを掌握すれば、イスパルタ軍も好機と見て動くだろう。まずは我々が動くことこそが重要なのだ!」


 そういう意見も出たが、しかしあまり共感は得られなかった。「では動かなかったら?」と、皆そう考えてしまったのだ。北アンタルヤ軍だけでガーレルラーン二世と戦うのは、やはり恐ろしい。


 その後も意見は色々と出たが、どれも説得力には欠けた。イスパルタ軍の動向がはっきりとしないからだ。ジノーファに振り回されてしまっている。それが気に入らなくて、イスファードは顔をしかめた。


 ただ、この状況は多分にして自業自得だ。「兵は拙速を好む」と言うが、イスファードらの動きはあまりにも拙速で、場当たり的であったと言わざるを得ない。仕方のない面もあるとはいえ、誰が敵で誰が味方なのか、それがはっきりする前に動いてしまったのだ。


「殿下。いっそのこと、攻撃目標を変更されては如何でしょうか?」


 幕僚の一人がそう提案する。現在アンタルヤ王国国内には、ガーレルラーン二世率いる討伐軍以外に、彼らの脅威となり得る勢力は存在しない。ならばわざわざこれと戦うのではなく、もっと容易な相手と戦えば良い。


 そうすればクルシェヒルは掌握できずとも、北アンタルヤの勢力圏を広げることはできる。ガーレルラーン二世とは、力を増してから改めて雌雄を決すれば良いのだ。イスパルタ軍の動向に振り回されることはない。


「いや。それは駄目だ」


 しかしイスファードは首を横に振った。理由は北部にある天領だ。北部にある天領については、北アンタルヤ軍はこれを放置していた。いちいち掌握している時間がなかったからというのもあるが、何より討伐軍編成のためにまともな戦力が残っていなかったので、クルシェヒルさえ押さえれば問題にはならないと判断していたのだ。


 だがガーレルラーン二世がクルシェヒルに戻れば、彼はイスファード討伐の為に全国へ檄文を飛ばすだろう。天領がそれに呼応して後方を扼されたら、北アンタルヤ軍はたちまち干上がってしまうに違いない。


「で、ではガーレルラーン陛下と講和されては……?」


 そう発言した貴族の顔は恐怖に引きつっていた。このままではいずれ、不利な状態でガーレルラーン二世と戦わなければならなくなる。それは恐ろしい。ならばその前に講和を、と考えたのだ。


 幸い、まだどこにもまだ攻撃を仕掛けていない。何とか言いつくろえば、言い逃れられる可能性はあるように思える。何よりガーレルラーン二世は決して許せない敵であるはずのイスパルタ王国とさえ、休戦条約を結んだではないか。ましてイスファードは息子である。メルテム王妃にも取りなしを願えば、慈悲を得られると期待しても良いはずだ。


「父上がそれを許すと、本当に思っているのか!?」


 しかしイスファードはその甘い考えを一蹴した。あのガーレルラーン二世に慈悲という言葉ほど似合わぬものはない。


 彼がイスパルタ王国と休戦したのは、彼らの背後にはロストク帝国がいるからであり、これを短期間の内に征服するのは困難と判断したからだ。別の言い方をすれば、先に北アンタルヤの騒乱を鎮圧することにしたのだ。


 そうであれば、講和など受けるはずもない。受けるとして、その条件はイスファードやカルカヴァンをはじめ、主立った者たちの首だ。それは実質的に無条件降伏と変わらない。領地も大きく削られるだろう。ガーレルラーン二世らしい、冷徹で無慈悲な判断だ。


『そなた、実は疎まれているのではないのか?』


 かつてダンダリオン一世に言われた言葉が、イスファードの耳の奥によみがえる。あの時、彼はその言葉を必死になって否定した。だが改めて考えてみれば、否定できる材料などどこにもない。そのことに、彼は気づいてしまった。


(そうだ、今なら分かる。父上はオレを愛してなどいない……!)


 ましてイスファードは謀反という大罪に手を染めたのだ。ガーレルラーン二世がイスファードを許すことなどあり得ない。メルテム王妃が取りなしても、彼が翻意することはないだろう。なぜなら彼は、北の勢力が邪魔なのだ。これを潰す機会を逃すはずがない。


 そうである以上、イスファードが選ぶことのできる道は二つしかない。クルシェヒルを落とすか、ここで引き返して態勢を整えるか、だ。


「引き返すべき、でありましょう。不確実な要素を、当てにするべきではありませぬ」


 静かにそう述べたのはカルカヴァンだった。放置していた天領を降し、北部を平定するだけなら、現在の戦力だけでも可能だ。イスパルタ軍の動向を気にする必要はない。


「北部にある天領は決して少なくありませぬ。これを押さえ、北部をしっかりと固めれば、ガーレルラーンとも相対することもできましょう。周辺を調略し、味方を増やすという道もございます。一度決断したのです。例え苦しかろうとも、放り出すことは許されませぬ」


 カルカヴァンは淡々と、しかし力を込めてそう語った。直接的にはイスファードに対する言葉だが、彼はこの時これをこの場にいる全員に語っていた。一度叛旗を翻した以上、後戻りはできないのだ。


 ただその一方で、彼の言葉は貴族たちの欲望も刺激した。北部にある天領を制圧して分配してもらえれば、ひとまず利を確保することはできる。以前に取り上げられた土地を、取り戻せるかも知れないのだ。


『わざわざ今すぐに、ガーレルラーンと決戦をする必要はないではないか』


 貴族たちの脳裏にそんな考えがよぎる。イスファード個人としては、このまま進軍を続けたい気持ちが強かった。彼は王になるべく兵を挙げたのだ。だがここで兵を退いては王になれない。それどころか、これではまるで道化ではないか。


 だが彼に従う貴族たちは撤退に傾いていた。何よりカルカヴァンが明確に撤退を主張しているのだ。イスファードと言えども、これを無視することはできない。彼は拳を握り固めてうつむく。やがて彼は力なくこう呟いた。


「撤退する」



 □ ■ □ ■



「ジノーファ様!」


 軍勢を率い、西マルマリズの王統府に帰還したジノーファを、シェリーが出迎えた。イスパルタ王国と通商条約を結ぶため、ロストク帝国は使節団を派遣したのだが、彼らと一緒にシェリーもまたイスパルタ王国へ来ていたのだ。


「シェリー!?」


 髪を振り乱し腕の中に飛び込んできたシェリーを、ジノーファは驚きつつもしっかりと受け止めた。彼の胸に顔を埋めるシェリーは、涙を流している。そんな彼女の頭を、ジノーファは優しく撫でた。


「お会い、したかった……! ご無事で、ご無事で何よりです……!」


 泣きじゃくるシェリーを宥めていると、ジノーファの心の中に懐かしさと愛おしさがこみ上げてくる。


「うん。わたしも会いたかった」


 ジノーファの言葉に、シェリーが彼の腕の中で頷く。生きていて良かった。負けなくて良かった。彼は心底、そう思った。



ダンダリオン「遅効性の毒、というやつだ」(ドヤァ


~~~~~~~~~~


というわけで。「道化と冠 中編」でした。

ええ、中編ですとも。なんせ、また冠が出てきませんでした。

次こそは出てきます。


今年の更新はこれで最期です。後編は来年になってから投稿することになるかと思います。

少し早いですが、良いお年を。


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― 新着の感想 ―
[一言] 道化と冠 中編 戴冠がまだですから中編になってしまったのはしょうがないですね ボリューム満点です ガーレルラーンは結果として国を大きく割られてしまいましたが 魔の森と隣接しない安全な国土が…
[一言] >ジノーファはよりにもよって、イスファードではなくガーレルラーン二世を選んだのだ。 両方とも敵な関係な上で ガーレルラーンの方も条約破りとかで信用できないが、 イスファードの防衛線に穴を空…
[一言] もう今年度が終わってしまうのですか…よいお年を
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