会談3
「……あね、ユリーシャ夫人が、苦しんでおられる?」
「苦しんでおられると言うよりは、悲しんでおられると言うべきかも知れませぬ。某もクルシェヒルで小耳に挟んだだけなのですが、ジノーファ陛下とガーレルラーン陛下が争われることになり、ユリーシャ夫人はそれを嘆いておられるとか。
この上、イスファード殿下までガーレルラーン陛下と争うことになれば、ユリーシャ夫人のご心痛はいかばかりでしょうや。ジノーファ陛下は必ずしもクルシェヒルに良い感情をお持ちではないかも知れませぬが、ユリーシャ夫人とは仲がよろしかったはず。此度の講和がなれば、ユリーシャ夫人のご心痛も和らぐものと存じまする」
カスリムはそう言って慇懃に畏まり、ゆっくりと頭を下げた。一方のジノーファは一瞬ぽかんとした顔をした後、可笑しそうに肩をふるわせて笑う。そして笑いながら、彼はこう言った。
「将軍。貴方は、本当に……」
そこまで言い、言葉が見つからないのか、ジノーファは笑みを浮かべたまま頭を振った。しばらくして笑いが収まると、彼はカスリムの方を向いてこう言った。
「さて将軍、貴方の弁論はなかなかのものだったが、わたしとしては幕僚たちの意見も聞いてみたい。彼らとも相談したいので、少し席を外してもらえるだろうか?」
御意、と答えたカスパルがユスフに案内されてテントを出て行く。それを見送ってから、ジノーファは幕僚たちを見渡し、そして彼らにこう声をかけた。
「どう考えるか、意見を聞かせてくれ。イスファードとエルビスタン公爵の申し入れも勘案して考えて欲しい」
「失礼ながら、その、陛下はガーレルラーンが求める休戦のほうに、乗り気なのではありませぬか?」
幕僚の一人が遠慮がちにそう発言すると、やはり躊躇いがちに頷く者たちがちらほらと見受けられた。笑い声を上げていたジノーファを見て、かなりの程度心が動いていると、彼らは思ったのだろう。「城を攻めるは下策。心を攻めるは上策」というわけだ。
実際、ジノーファはずいぶんと愉快な気分だった。ユリーシャの事を持ち出された時は多少癇にさわったが、しかしカスリムは駆け引きの道具にしたわけではない。そもそもユリーシャのことは、ジノーファも気がかりだったのだ。
あの弁舌は、まさにジノーファのためだけのものだった。きっと悲しませてしまっているに違いないと思っていただけに、そのことをずばりと指摘され、ジノーファはむしろ笑ってしまったのである。その意味では、カスリムの説得はクリティカルであったと言って良い。
ただ、だからといって、ジノーファは自分の考えだけで物事を決めようとは思っていなかった。ユリーシャを悲しませてしまっていることは心苦しいが、今のジノーファはイスパルタ王国の国王なのだ。個人的な感情だけで国益を無視することは許されない。それでジノーファは幕僚たちにこう答えた。
「それとこれとは別問題だ。今のわたしがまず考えるべきは、国と民のこと。……卿らにも、見放されたくはないしな」
ジノーファが冗談めかしてそう付け加えると、それぞれ笑みを浮かべたり、安心した表情を浮かべたりした。そしてそのおかげで、テントの中の空気が明るくなる。幕僚たちは口々に自分の意見を述べ始めた。
「ガーレルラーンめは、かなり焦っている様子ですな。一日も早く、クルシェヒルへ引き返したいと思っておるのでしょう」
「いや、私は逆に、それをいぶかしく思う。あのガーレルラーンが、こんなにもたやすく内心を読ませるだろうか」
「ううむ……、確かに。イスファードらの軍勢は、多くとも三万という話。いまだ四万以上の兵を有するガーレルラーンが、焦りを露わにするとは思えませぬ」
「しかし、賠償金は取り下げてきたぞ?」
「そこはカスリム将軍の言うとおり、最初から求めてはいなかったのでは?」
「ここは様子見をしては如何でしょうか? 焦れているのは、間違いなく向こうです」
「いや、討伐軍の戦力には余裕がある。軍事的に考えれば、対岸に二万ほどを残し、残りを率いてクルシェヒルへ戻れば、十分に北の反乱軍と戦えます」
「クルシェヒルの城壁は高く、そして堅牢だからな……」
「つまり、あまり交渉を引き延ばせば、向こうが降りてしまうと、そういうことか?」
「対岸に二万も残されては、我々も退くに退けんぞ」
「かといって、現在の戦力で二万の敵を撃破し、さらにガーレルラーンの後を追うと言うのは、現実的ではない」
「そうですな。クルシェヒルに籠もられては、攻略は困難を極めましょう。イスファードらとの共闘も、どこまでアテになるものやら」
幕僚たちの議論は活発だったが、しかしなかなか結論は出ない。ジノーファはそれを見て取り、軽く手を掲げて議論を一度打ち切らせる。幕僚たちの注目を集めてから、彼は落ち着いた口調でこう言った。
「少し、状況を整理しよう」
現在、イスパルタ軍はリュクス川を挟んでガーレルラーン二世率いる討伐軍と交戦中である。戦況は、睨み合ったまま膠着中。趨勢は不利というほどではないが、有利とも言えない。
そんな中、北ではイスファードとエルビスタン公爵は反乱を起こした。反乱軍の戦力は、多く見積もっても三万。これは防衛線を抱えているためである。ガーレルラーン二世を討つ戦力としては心許なく、そのため彼らはイスパルタ軍に連携を呼びかけている。
連携の条件は「イスパルタ王国が主張する国境線の追認と、三年間の相互不可侵条約」。加えて進軍に際し、天領以外であれば物資の現地調達を黙認すると彼らは言っている。ただし、連携は口約束である公算が高く、彼らがイスパルタ王国を主権国家として認めるかどうかも不透明だ。
一方、ガーレルラーン二世もまた、この情勢をただ座視しているわけではなかった。恐らくはイスパルタ軍よりも早く、彼は北の反乱を察知していたのだろう。書記官のハムザを送り、休戦の交渉を行わせた。
一回目の交渉は失敗したが、三日後にカスリムが訪れ、現在二度目の交渉を行っている。休戦の条件は「イスパルタ王国が主張する国境線の追認と、二年間の相互不可侵条約」。イスファードらにどう返事をするかも含め、現在対応を協議中、というわけだ。
「……こうしてみると、両方とも条件は似たり寄ったりですな」
ダーマードがぽつりとそう呟くと、ジノーファも小さく頷いた。イスファードもガーレルラーン二世も、条件面での差はほとんどない。となれば、別のところで優劣を付けるより他にないだろう。
「イスファードと組めば、我々は戦い続けることになる。だがガーレルラーンの申し出を受ければ、兵を退いて少なからず時を稼ぐことができる」
ジノーファがそう指摘すると、幕僚たちも同意して頷いた。大きな違いはそこだろう。それをどう評価するかによって、結論は変わってくる。
「陛下、ここはガーレルラーンと講和するべきと考えます」
畏まってそう進言したのはクワルドだった。ジノーファは一つ頷き、そして彼に続きを促す。彼はこう語った。
「確かに今の状況は、ガーレルラーンを討つ千載一遇の好機に思えます。ですがそもそも、我々の目的は彼を討つことではなかったはずです。我々の目的とはイスパルタ王国の独立を確たるものとすることであり、それを周辺諸国に認めさせる事だったはず。そうであるなら、ガーレルラーンと交渉した方が周辺国は我が国のことを認めるでしょう。
また、イスファードに与したとして、彼は我々が新たな領土を得ることを認めないでしょう。また陛下におかれましては、どこであっても略奪などお許しにならないはず。言ってみれば、我々はただ働きさせられるようなものです。彼のために無意味な戦いをする必要はありますまい。
加えて、イスパルタ王国の内情は未だ安定しているとは言いがたいものです。今の我々に必要なのは、国内を固めるための時間のはず。地味な内政には気乗りされないかも知れませぬが、戦場での働きと同じかそれ以上に、これもまた大切なことでございます」
「地味な内政のほうが、わたしは好きだぞ」
ジノーファが真面目にそう応えると、幕僚たちは声を上げて笑った。そして笑い声が収まると、彼らは次々にクワルドに賛同する声を上げていく。ただそれは幕僚としての意見と言うより、領地を治める貴族としての判断が強い。
要するに、これ以上戦っても得るものはない、と彼らは判断したのだ。そして軍は維持するだけでも多額の金が必要になる。独立が確たるものとなるなら、得るもののない戦争はさっさと切り上げたい。それが彼らの腹の内だ。
ついでに言えば、ガーレルラーン二世と戦うのはやはり恐ろしい。先送りできるなら、そうしたいのだ。ジノーファの心の奥底にも、同様の気持ちがくすぶっている。それに、内戦が起こればアンタルヤ王国は少なからず疲弊するはず。戦うなら、それを待ってからでも良いはずだ。
ともかくこうして、イスパルタ軍としての方針は討伐軍との講和に傾いた。当然、イスファードの提案は蹴ることになる。ジノーファがダーマードにそれで良いのか確認すると、彼は重々しく頷いた。
「そうなると、後はこちらが提示する条件ですな」
幕僚の一人がそう発言すると、周りの者たちも頷いた。向こうが提示してきた条件で、イスパルタ王国が望む最低ラインはすでにクリアしている。交渉をまとめること自体は難しくない。あとはどれだけ積み増しができるかだが、あまり欲張ればガーレルラーン二世にそっぽを向かれてしまうかも知れない。
賠償金については要求しない方がよいだろう、ということになった。求めるのは、相互不可侵の期間を延ばすことくらいか。その辺りのことはジノーファに一任ということになり、改めてカスリムがテントに呼ばれた。
「さて、カスリム将軍。少し卿に聞きたいことがある」
「何でございましょうか?」
「我がイスパルタ王国との通商に関して、ガーレルラーン陛下はいかがお考えであろうか?」
「通商、でございますか……?」
思いもしない切り口だったのだろう。カスリムは怪訝そうな表情を浮かべて小さく首をかしげた。そんな彼に、ジノーファは一つ頷いてからさらにこう告げる。
「そうだ。国境線を画定させるということは、我がイスパルタ王国を主権国家として認めると言うことであるはず。その上、相互不可侵条約を結ぶのだ。両国の間では少なからず、人や物の流れが生じるだろう。その時、通商に関わる取り決めが何もないではお互いに困ると思うのだが、その点に関してガーレルラーン陛下はどうお考えなのだろうか?」
「……申し訳ありませぬが、某は答えを持ち合わせておりませぬ。一度持ち帰り、ガーレルラーン陛下にご確認して参りたいと存じます」
ジノーファは一つ頷き、それを許可した。カスリムはテントを後にすると討伐軍本陣へ、ガーレルラーン二世のもとへ急ぐ。そして彼にジノーファからの言葉を伝えた。
「通商分野の取り決め、とな……」
ガーレルラーン二世は小さくそう呟くと、珍しく悩むような素振りを見せた。そしてたっぷりと五分ほど考え込んでから、彼はカスリムにこう返答した。
「この場で話し合うにはいささか煩雑である故、改めて協議の場を設ける事とする」
カスリムは畏まって一礼し、またジノーファのもとへ急いだ。そして彼にガーレルラーンの返答を伝える。それを聞き、ジノーファは一つ頷いた。
「妥当なところだな。では将軍。それを前提として、こちらの条件を伝える」
ジノーファが出した条件は「国境線の画定と、五年間の相互不可侵条約」だった。カスリムはこれを持ち帰り、ガーレルラーンに伝える。「五年ではなく三年」というのがガーレルラーン二世の返答で、カスリムはそれを急ぎジノーファに伝えた。
「分かった。それでいい」
ジノーファがそう応えると、カスリムは安堵の息を吐き、深々と頭を下げた。調印は明日。リュクス川の中州の一つで、それぞれが代表者を出して行うことになった。討伐軍側の代表者はカスリムだとのことで、イスパルタ軍からはクワルドが赴く事になった。
カスリムが帰ると、ジノーファは一つ息を吐いた。そして幕僚らに命じて、撤退の準備を始めさせる。それを受け、幕僚たちはそれぞれに立ち上がり、テントから出て行く。その中の一人に、ジノーファは声をかけた。
「ああ、ダーマードは残ってくれ。ユスフ、シャガード卿とメフメト卿をここへ」
そう言われ、ダーマードが座り直す。少し待っていると、ユスフに案内されてシャガードとメフメトが現れる。
長らく待たされたせいか、メフメトは少し苛立っているようだった。シャガードの方は少し不安げな顔をしている。ジノーファは二人を正面に座らせると、率直に結論から述べた。
「待たせてしまい、申し訳ない。それでイスファード殿下からの申し出だが、我々としてはこれを受けることはできないと結論した」
「な……!? なぜですか!?」
「ガーレルラーン陛下から、改めて休戦の申し入れがあった。そして我々はそれに応じた。そうである以上、イスファード殿下に協力することはできない」
「い、いつ……!?」
「イスファード殿下の提案を検討している最中に、カスリム将軍が使者として来たのだ。そなたらを呼ぶのが遅くなったのは、そちらの検討もしていたからだ」
そう言って、ダーマードはさらに詳しい事情を説明した。それを聞き、シャガードは唖然となる。しかし彼としても、ここで簡単に諦めることはできない。イスパルタ王国の協力が得られないとなれば、イスファードは圧倒的に不利な状況に置かれる。その危機感が、彼をこう叫ばせた。
「ガーレルラーンを信用なさるのですか!? 陛下を十五年のもの間だまし続け、あまつさえ最後には見殺しにした男ですよ!?」
そう言われ、ジノーファの顔が僅かに歪んだ。シャガードはそこへ、さらにたたみかけるようにこう述べる。
「ガーレルラーンを信じてはなりません。また裏切られるだけでございます。ガーレルラーンは今ここで討つべきです! それが陛下とイスパルタ王国の御為です!」
「イスファード殿下とエルビスタン公爵の為、ではないのか?」
ジノーファがそう尋ねると、シャガードは一瞬言葉を詰まらせた。それでも彼は何か話そうと口を開くが、ジノーファはそれを手で制する。そして彼にこう告げた。
「そもそもガーレルラーン陛下は、自分を信用して欲しいとは思っていないだろうし、わたしのことも信用などしていないだろう。……イスファード殿下はどうなのだ?」
「それは、無論、殿下はジノーファ陛下のことを信用して……」
「そうか。では、わたしがここでガーレルラーン陛下との約束を反故にしても、イスファード殿下はわたしのことを信用されるのだろうか?」
今度こそ、シャガードは言葉を失って呆然とした。どれだけ言葉を並べても、ジノーファを翻意させることはできないと悟ったのだ。その様子に申し訳なさを感じつつ、ジノーファは彼にこう尋ねた。
「それで、卿はこれからどうされる? イスパルタ王国の国内に留まりたいというのなら、それでも構わないが」
「……イスファード殿下のところへ戻りまする。この件をお伝えしなければ」
「そうか。ではダーマード、手配してやってくれ」
ダーマードは「御意」と応えると、二人を連れてテントを出て行く。それを見送ってから、ジノーファはユスフにお茶を一杯求めた。給仕のために彼がテントの外へ出ると、ジノーファは「ふう」とため息を吐く。
(結局……)
結局、ガーレルラーン二世と直接対峙することなく、戦争は終わりそうだ。出生の秘密も聞けずじまいである。けれどもそのことに安堵している自分がいて、ジノーファは小さく苦笑を浮かべた。
ユスフ「ガーレルラーン二世を信じるか、イスファードを信じるか、それが問題だ」
クワルド「究極の選択だな……」




