北アンタルヤ盟約
エルビスタン公爵家の屋敷に、急遽、派閥の貴族たちが集められた。彼らに対し、イスファードはジャフェルに命じて現状を説明させる。「ルトフィーを次の王太子に」という動きがあることは彼らも知っていた。だがそれが思っていた以上に現実味を帯びていることを知ると、彼らは驚いたり嘆息したりした。
「こんなことになるのであれば、全力を挙げてジノーファを討つべきでしたな……」
一人の若い貴族がそう言ってため息を吐く。イスファードが王太子軍を組織して動かした際、派閥の貴族たちはそれに協力しなかった。だがもしあの時、派閥が総力を挙げて協力していれば、大きな戦功を得ることができていたかも知れない。
そうなれば、いかに王命を無視したとは言え、イスファードの次期国王としての地位は、盤石なものになっていただろう。ルトフィーの名前が対抗馬として出てくることなど、無かったに違いない。
ぽつりぽつりと、若い貴族の発言に賛同するような声が上がる。賛同しているのは、主にイスファードと同年代の若い貴族たちだ。当主になっている者は少ないが、いずれもすでに重要な仕事を任されている者たちで、父親世代の者たちといえども、彼らの声は無視できない。
その様子を見て、イスファードとジャフェルは小さく視線だけ交わした。実際のところ、先ほど発言した若い貴族はイスファードのシンパである。賛同している者たちも同様だ。発言の内容も、ジャフェルを介してイスファードが依頼したものだった。
イスファードと派閥が置かれている苦しい立場は、出兵に協力しなかった者たちのせい。若い貴族の発言は、暗にそういう意図を含んでいる。これをイスファードが口にしていたら、貴族たちは内心で反発を覚えただろう。だがこれは、いわば身内の発言だ。まったく的外れというわけでもなく、貴族たちはどこか気まずそうな表情を浮かべた。
この瞬間、イスファードは敗戦の責任を、派閥の貴族たちに転嫁することに成功した。無論、実際に兵を率いて負けたのは彼である。その事実と責任はなくならない。だが「貴族たちが協力していれば負けなかった」と主張することで、イスファードは自らを被害者の立場に置いたのだ。
言い方を変えれば、貴族らはイスファードに対して負い目、あるいは借りを作ったことになる。実際に証文などがある訳ではない。あくまで心情的なものに過ぎないが、貴族社会ではそれだけで十分に意味がある。
心理的に優位に立った、とまではいかないだろう。だがこれで貴族たちも、イスファードの敗戦についてとやかく言い辛くなった。おかげでこの後の話が進めやすくなる。イスファードは貴族らの顔をゆっくりと見渡してから、やおら口を開いてこう言った。
「まあ、過ぎたことをとやかく言っても仕方がない。問題はこれから先、どうするかだ。そうであろう?」
「ま、まさしく」
「その通りでござる」
貴族たちの間からそう声が上がる。彼らとしても後ろめたいものは感じていたのだろう。話題が変わり、どこかほっとした様子を見せていている。そんな彼らに、イスファードはさらにこう言葉を続けていった。
「だが将来の話をするためにも、現状は正しく受け止めねばならん。そしてジャフェルが説明したとおり、我々が置かれている状況は思わしくない。このまま何もしなければ、私は臣籍に下ることになり、お前たちも今までのようにはいかないだろう」
影響が最も出るのは、防衛線維持のための人員や物資の徴発だろう。これまではイスファードが王太子だったからこそ、国内の貴族に対して少々強引な徴発を行うことができた。しかし彼が王子ですらなくなれば、同じようにはできないだろう。彼らがこれまで享受してきた、有形無形問わず種々の特権についても同様だ。
人間は何かを失うことを嫌がるものだ。それが特権や権利であるならなおさらだろう。それを取り上げられることを“不当”と考え、自らの怒りを“正当”とするのだ。貴族らの顔色にははっきりとそれが現れていた。ただ、だからと言ってすぐさま暴発するわけではない。比較的年嵩の貴族が落ち着いた口調でイスファードにこう尋ねた。
「恐れながら殿下。まことに殿下の仰るようになるのでしょうか? ルトフィー様のことを含め、全ては噂と推測に過ぎませぬ。一方で、メルテム王妃殿下が殿下の王太子復帰を強く望まれていることはすでに周知のこと。ならば、紆余曲折あったとして、これまで通りと言うことも……」
「甘いな。川に落ちた犬は叩く。それが父上の、陛下のやり方であること、もう忘れたのか?」
イスファードは冷たくそう答えた。質問した貴族も沈黙せざるを得ない。思い出すのはイスファードの初陣と敗戦、そしてその仕置きについてのことだ。
質問した年嵩の貴族も、あのイスファードの初陣に兵を率いて従っていた。そして敗北を喫し、ロストク軍の捕虜となった一人である。屈辱であり、それだけでも忘れることはできない。だが何より悔しく、そして腹立たしかったのは、その後のガーレルラーン二世の仕置きの方だった。
実際のところ、敗戦で被った被害より、仕置きによる損害の方が大きかった。これはどの家も同じである。ガーレルラーン二世は捕虜となった者たちを哀れむどころか、厳しく責任を問うことを優先したのである。それがどれだけ彼らを打ちのめし失望させたことか。当事者にしか分かるまい。
ちなみに、比較的若い者たちの発言力が大きくなったのも、このためである。捕虜となったことや仕置きのために力をそがれたことが、当主であった者たちの権威を失墜させたのだ。そしてそういう経験があるので、この場に集まった貴族たちは誰一人として、そうカルカヴァンでさえも、イスファードの言葉を否定できなかった。
「このまま行けば、卿らを待ち受けているのは再びの窮乏だ。数年もすれば脱することができると、甘いことは考えぬ事だ。少なくとも陛下が崩御するか、ルトフィーに王位を譲るかするまでは、それが続くであろうな」
イスファードのその言葉に、貴族たちはついにうなり声を上げた。そんな彼らに、今度はジャフェルがこう告げる。
「それでも我々は、魔の森と相対し、国を守らねばなりません。我々は貴族です。父祖より受け継いできた土地と誇りを捨てて逃げることはできない。ですが陛下がそれに報いて下さるとは、残念ながら期待できないのです。わたしはアンタルヤ貴族として、それが何よりも悲しい!」
それを聞いて、その場にいた者たちは一様に眉をひそめた。ただしそれは、大げなさ身振りで演説するジャフェルに対してではない。彼らが渋い顔をしたのは、ジャフェルの言うとおりだったからだ。
今はまだ、全国から物資や人員を徴発することができている。しかしイスファードが臣籍に下れば、それもできなくなるだろう。その時、北部の貴族たちは自分たちだけで防衛線を支えなければならなくなる。
そうなった時、しかしどれだけ魔の森から国を守っても、ガーレルラーン二世がそれに報いてくれるとは思えない。特権を取り上げられ、さりとて恩賞があるわけでもない。すりつぶされることが目に見えた、暗い未来だ。それを想い、悲痛な顔をする貴族らを、イスファードはこうたき付ける。
「このままで良いのか!? このまま、座して破滅を受け入れるのか!? 私が王となれば、今よりもさらに繁栄できる。今まではそれが約束されていたはずだ! それを諦め、ガーレルラーンに喰われるのを待つつもりか!?」
「不当だ! それは不当なことだ!」
「ガ、ガーレルラーンはアンタルヤ大同盟の精神を蔑ろにしている!」
「ガーレルラーンに国王たる資格なし! それに与する者どもも同罪だ!」
貴族たちは口々にそう叫んだ。それは不満というより、不安の爆発だった。目を背けることもできない魔の森の脅威。今にもこぼれ落ちそうなイスファードの王位。そして、好転する兆しのない未来。何もかもが不安で、その不安が彼らを駆り立てた。
「イスファード殿下は大同盟の精髄を理解しておられる。イスファード殿下こそ、王位に就くべきです!」
ついにその声が上がった。声を上げたのは、やはり若い貴族だ。しかしすぐに、世代にかかわらず全ての者たちが賛同の声を上げていく。それを聞きながら、カルカヴァンは説得がもはや無意味であることを悟った。
「良いのか? 私は王太子ではない。そしてその地位に戻れる可能性も低い。その私を王にするというのであれば、陛下に弓引くことになるぞ」
「覚悟の上です! 我々は国を守る盾であり、そして矛。我々はそのことに誇りを持っています。ですが陛下がその盾を割って矛を折り、我々の誇りを汚そうと言うのなら、我々は戦わねばなりません!」
貴族たちの中から、また賛同の声が上がった。熱気を帯びた空気の中で、今や彼らは公然と謀反を叫んでいる。カルカヴァンでさえ、何か行動を起こすべきだと考え始めていた。そんな中で、イスファードが手を掲げて貴族たちの注目を集める。一転して静まり返った室内。まさに革命前夜とも言うべきその空気の中で、彼は貴族たちにこう語った。
「卿らの気持ちは分かった。私としても、これまで苦楽を共にしてきた卿らを見捨てるのは忍びない。無論、これは困難な道だ。しかし私と君たちなら成し遂げられると確信している。共に栄光の道を歩もう。その道の果てに、私は玉座に就くであろう!」
割れんばかりの歓声が上がった。この日、アンタルヤ王国北部の貴族たちは、イスファードを王とするための盟約を結んだ。後の世に言う「北アンタルヤ盟約」の締結である。魔の森の活性化を源流に、イスパルタ王国の独立と言う形で顕在化した騒乱は、ここへ来て新たな局面を迎えようとしていた。
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北アンタルヤ盟約が結ばれたからと言って、イスファードらがすぐさま王都クルシェヒルへ進軍を開始したわけではなかった。そのためにはまず、兵を集めなければならない。だが彼らの戦力の大部分は防衛線に回されている。無理に戦力を引き抜けば、防衛線はあっという間に崩壊するだろう。
まずは王都クルシェヒルへ進攻するための戦力を集めなければならない。幸い、想定される敵の戦力は少ない。戦力の大部分はガーレルラーン二世と共に、イスパルタ王国の討伐へ向かうだろうからだ。その隙を突いて王都を掌握する。それがイスファードらの基本戦略だった。
とはいえ、王都を掌握したあかつきには、引き返してきた討伐軍を迎え撃たねばならない。王都の城壁は堅牢だが、あまりに味方が少なければ、ガーレルラーン二世の猛攻を跳ね返すことはできないだろう。
一度謀反を決めたからには、中途半端に日和見ることは許されない。北アンタルヤの貴族たちは必死になって兵をかき集めた。新兵から老兵にいたるまで、男手はことごとくかき集めたと言って良い。その数は総勢で二万を超えた。
この二万という数は、防衛線の戦力を除いてのものである。何だかんだ言いつつ、二万人を集めるだけの余力が、彼らにはまだあったのだ。言い方を変えれば、今までは出し惜しみをしていたと言うことであり、その分の負担を余所へ押しつけていたと言うことでもある。
北アンタルヤの貴族たちは、「自分たちが防衛線を支えているのだ」と主張していた。地理的な条件からしてその言葉には真実味があったし、そうであるならその負担を彼らだけに負わせるのは忍びない。またアンタルヤ大同盟の精神からして、負担は国全体で分担するのが筋であろうと、全国から人員や物資を徴発する権限が与えられたのだ。
しかし結果だけ見れば、彼らはそれを悪用したと言って良い。支えがあるのを良いことに、自分たちは力を抜いたのだ。そして全国から富を吸い上げた。そうやって自らは肥え太ったのである。アンタルヤ大同盟の精神からすれば、堕落以外の何物でも無い。
その彼らが、ガーレルラーン二世のことを「大同盟の精神にもとる」と言って批判し、謀反の大義名分としているのだから、端から見たときに納得できないのは当然だろう。尤も、イスパルタ王国の場合もそうだが、独立や謀反の大義名分というのは、往々にして一方的で自分勝手なものだ。それを取り繕えるかは、独立や謀反が成功した後の話になるのだろう。
閑話休題。北アンタルヤでイスファードは二万の戦力を集めた。ただ、彼はこれをまず防衛線に投入した。モンスター相手ではあるが、実戦経験を積ませるためである。
また王都で討伐軍が編成されるのに伴い、防衛線に投入されていた近衛軍の部隊はすでに撤収することが決まっている。その穴を埋めるためと言っておけば、それほどおかしな話ではない。要するにガーレルラーン二世に不信感を抱かせない為であり、さらにはそうしている間に別の手を打つためでもあった。
「万が一の場合に備え、王都にいる派閥の者たちを領地へ引き上げさせましょう」
カルカヴァンの提案を聞き、イスファードはすぐに頷いた。万が一、王都の掌握に失敗すれば、そこにいる派閥ゆかりの者たちは殺されてしまうだろう。そうでなくとも、攻囲中に人質にされれば、味方の攻撃が鈍るかも知れない。
加えて、ファティマのことがある。彼女は現在クルシェヒルの王宮にいるが、イスファードの謀反が明らかになれば、当然彼女の身も危ない。カルカヴァンにとっては一人娘であり、イスファードにとっても妃に当たる。見殺しにはできない。事を起こす前に、王都から脱出させる必要があった。
王都からの脱出は、それほど難しくないはずだ。何しろアンタルヤ王国は貴族らに対し、「王都クルシェヒルに人質を置くこと」を求めていない。
より正確に言うと、王家は何度もそれを成文法にしようとしてきたのだが、その度に貴族らが強硬に反発してそれを阻んできたのだ。イスパルタ王国があれほど簡単に独立を宣言できたのも、その辺りのことが関係している。
よって王都にいる貴族やその縁者がそこを離れたとしても、それを咎められる者は誰もいない。とはいえ一斉に引き上げれば、それを不審に思う者も現れよう。特にガーレルラーン二世が不審に思えば、謀反は起こしづらくなる。
そこでカルカヴァンは小細工を弄した。彼は派閥の貴族たちに手紙を書くよう命じたのだが、その際、ガーレルラーン二世が出陣するのを待って実際に行動を起こすようにと、言い含めたのだ。
そのタイミングなら、王都の警備も緩くなっているだろう。また使用人に変装するなどすれば、注目を集めることもあるまい。最悪、ガーレルラーン二世の目さえ欺ければ、それで十分だ。
「王都にいる者たちはこれで良いとして……、後はイスパルタ王国ですな」
「……本当に奴らと手を組むのか?」
イスファードは眉間にシワを寄せて、カルカヴァンにそう尋ねた。心底嫌がっている様子だが、怒鳴り散らすことはしない。それが必要であると、彼も頭では分かっているのだ。それでカルカヴァンもこうたたみかけた。
「無論です。王都が落とされたと知れば、ガーレルラーンは急いで引き返して来ましょう。その背後を襲わせるのです。むしろそれができなければ、王権の奪取など叶うはずもありませぬぞ! やるなら徹底的になさいませ!」
「叔父上の言うとおりです、殿下。この際、敵の敵は味方でありましょう」
「……分かった。あの道化を頼ると思うから気分が悪いのだ。その後ろにいる、ロストク帝国と手を組むのだと思えば、少しはむかつきを抑えられるだろう」
カルカヴァンとジャフェルに説得され、イスファードはイスパルタ王国との連携の道を探ることにした。幸い、派閥内にはイスパルタ王国の貴族らとの伝手がある。独立前、ダーマードの派閥とは対立が先鋭化していたが、だからこそ交渉のための窓口はあった。それを使い、イスパルタ王国の上層部に連携を持ちかける事になった。
「それで、いかなる条件を出されますか?」
「……奴らが主張する国境線の追認と、三年間の相互不可侵だ。天領以外でなら、略奪を認めてやっても良い。奴らも喜ぶだろうよ」
あざ笑うかのように、イスファードはそう言った。きっと喜んで略奪にいそしむに違いない。彼はそう思ったが、そのように考えることこそ、彼の視野が狭いことの証明だろう。ただ良いエサになると考えたのはカルカヴァンも同じで、彼はそれには触れず、別の点をこう尋ねた。
「正式に同盟を結ぶことはなさらないので?」
「当然だ。奴らが不当に占拠しているのは、我がアンタルヤ王国の国土。いずれは奪い返さねばならん!」
イスファードのその言葉に、カルカヴァンも小さく頷いた。国の面子を考えるなら、彼の言うことはもっともだ。
「了解いたしました。では、その方向で早急に話をまとめます。それと、ルルグンス法国にも使者を出すということでよろしいですか?」
「ああ、頼んだ」
イスパルタ王国の時と比べ、イスファードは気楽な様子で許可を出した。ルルグンス法国と公爵家の派閥の勢力地は、直接境を接していない。加えて法国との間に軋轢や因縁もないので、彼も連携に抵抗がないのだろう。
イスファードに一礼してから、カルカヴァンは部屋を出た。イスパルタ王国とルルグンス法国の両方が動けば、東西からガーレルラーン二世を攻めることができる。ただ、本命はやはりイスパルタ王国だ。そして彼らと協力することになれば、それこそ本当にもう後へは引けない。カルカヴァンは意を決して歩を進めた。
イスファード「お前も策士だな」
ジャフェル「いえいえ、殿下ほどでは」




