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Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
道化と冠 中編

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143/364

リュクス川の戦い1


 王都マルマリズから出陣したジノーファは、二万七〇〇〇の軍を率いて西へ向かった。彼らがまず目指すのは、アイクル子爵率いる三〇〇〇の部隊との合流だ。合流すれば、イスパルタ軍の戦力は合計で三万になる。


 ガーレルラーン二世率いる討伐軍五万には及ばないが、一方的に不利というわけではない。加えてマルマリズでは宰相スレイマンが中心となって、さらなる増援を募っている。あまりアテにしすぎることはできないが、戦力差はさらに縮まる可能性があり、ジノーファらの気持ちを幾分軽くしていた。


「陛下、お待ちしておりました」


「アイクル子爵。出迎えご苦労だ」


 合流したジノーファらを、アイクル子爵が出迎える。子爵が布陣していたのは、リュクス川のほとりだった。リュクス川は南北に長く、イスパルタ王国の西の国境はおおよそこの川に沿って定められている。


 それでアンタルヤ王国からイスパルタ王国へ(もちろんその逆の場合も)国境を越えるには、リュクス川をどこかで渡河する必要がある。アイクル子爵は討伐軍の動きを監視して進路を調べた。そして彼らが渡河してくる場所を予測し、そこに陣を張ったのである。


 これは極めて重要な選択だった。イスパルタ軍は討伐軍に数の上で劣っている。また敵軍を率いるのはガーレルラーン二世だ。何の備えもなく正面からぶつかっては分が悪い。勝利のため、確実を期するには準備がいる。


 その点、アイクル子爵の布陣した場所は都合が良かった。リュクス川は河岸段丘を形成しているのだが、その場所の特に川の東側にははっきりと段丘が見られた。子爵はこの段丘を利用して防衛線を構築し、討伐軍の襲来に備えていたのである。


 陣中に入ったジノーファは、段丘の一番上から西方を望んだ。そこには無人の平原が広がっている。討伐軍の姿はまだない。青々とした草が生い茂る、のどかな光景だ。そのことに彼は内心で安堵の息を吐いた。


「何とか、先んじることができたな。備えも抜かりない。アイクル子爵、見事だ」


「はは。お褒めに預かり、恐悦至極に存じます!」


 ジノーファの言葉に、アイクル子爵は片膝をついて拱手し応じた。彼らの眼下では、土塁が盛り上げられ、柵が幾重に建てられている。こうして防備を整え、さらにリュクス川を天然の水堀として敵を防ぐ。それがイスパルタ軍の基本戦略だった。


 もっとも、歩いて渡河できることから分かるように、水位はそれほど深くない。川幅は広いが、その全面に水が流れているわけではなく、幾つもの中州が川面に覗いている。堀として考えれば、「無いよりはまし」といった程度のものだ。あまりアテにはできない。段丘に整えた防備こそが頼みの綱になるだろう。


 このように、邪魔さえ入らなければ渡河は容易だ。だがアイクル子爵は川を越えることはしなかったし、ジノーファもそれを許さなかった。アンタルヤ王国内へ侵入すれば、戦線が際限なく拡大する恐れがある。それはジノーファの望むところではない。


 また討伐軍との戦いに焦点を絞っても、下手をすれば川を背に戦うことになる。背水の陣という考え方もあるが、最初から兵士たちの士気を当てにするのは、指揮官としてどうなのかとジノーファは思っていた。それなら川や段丘という地形を利用して防衛線を構築した方が良い。


 ただ無論、ここで決戦になると決まったわけではない。討伐軍が突然進路を変える恐れはある。リュクス川を渡河できる場所は、ここだけではないからだ。討伐軍が別の場所を目指せば、ここでの準備は無駄になる。


 とはいえ、ガーレルラーン二世は十中八九はここへ来るはず。アイクル子爵からの報告を勘案し、ジノーファやクワルドらイスパルタ軍の幕僚らはそう考えていた。


 理由は幾つかある。第一に、王都クルシェヒルから最も近い渡河の可能な場所がここなのだ。大軍というのは基本的に身動きが悪い。奇襲をかけるのでもない限り、最短ルートを選ぶのが常道だ。


 そしてこれまでの様子からして、ガーレルラーン二世が少なくとも当初は、ここから渡河するつもりでいたのは明白だ。今から他の場所へ向かうとなれば、結果としてかなり大回りをすることになり、その分時間と兵糧を消費する。


 特に、五万の兵を養うとなれば、大量の兵糧が必要だ。時間をかけ過ぎれば、いざ戦端が開かれたとき、兵糧が足りないということになりかねない。長期戦も予想される中、ガーレルラーン二世としてもそれは避けたいだろう。


 また大軍というのは基本的に動きが遅い。数が多くなればなるほど、遅くなるのだ。特に討伐軍は新兵や老兵を含むと予想されている。その動きは鈍いだろう。これまでの行軍速度を見ても、やはり特別早いとは言えない。


 数が少ないことも関係しているのだろう。行軍速度だけを比べれば、イスパルタ軍の方が早い。ジノーファたちはそう判断していた。よって、討伐軍が進路を変えることがあれば、イスパルタ軍こそがリュクス川を渡河し、彼らの後背に襲いかかる。そういうことも可能なはずだ。


 ガーレルラーン二世もイスパルタ軍がここに布陣していることは承知しているはず。イスパルタ軍が取り得る軍事的な選択肢も頭にあるはずだ。となればこのまま真っ直ぐこちらへ向かってくるはず。それがイスパルタ軍首脳部の判断だった。


(さて、どうなるかな……)


 決戦に備え、急いで作業を進める兵士たちを眺めながら、ジノーファは胸中でそう呟いた。高い確率でここでの決戦になる。彼もその判断に異論はない。だが「敵の思惑を外すことが戦略の常道」とも言うし、何より相手はあのガーレルラーン二世だ。油断はできない。斥候の数を増やそう、と彼は思った。


 ただその一方で、ジノーファの心は不思議と落ち着いていた。焦ってはおらず、猛りすぎてもいない。待ちわびているわけでは決してないが、怯えて震えているわけでもない。平静を保つことができている。


(もう虚像に振り回されるのは十分だ……)


 ジノーファは内心でそう呟く。ガーレルラーン二世は心の内を読ませない。ゆえに周りの人間はあれこれ考える。だがそれが真実かは分からない。結局は虚像が膨らんでいくだけ。しかし実際に相対すれば、虚像の奥の実像が少しは見えてくるだろう。


 ジノーファは視線を上げ、西方を眺めた。彼が見ているのは、無人の平原のさらにその先だ。地図を頭の中で思い浮かべれば、この先に王都クルシェヒルがある。それを思い出し、彼はふと気づいた。そう言えば追放されて以来、最も王都へ近づいたことになる。


 帰りたいと思ったことはない。楽しい思い出よりも、辛い思い出の方が多かった。それでもジノーファにとって故郷と呼べる場所は王都しかない。近づいたと思えば、やはり懐かしさを覚える。そんな自分の心に、彼は苦笑した。



 □ ■ □ ■



 イスパルタ軍に遅れること三日。ガーレルラーン二世率いるアンタルヤ王国の討伐軍五万が到着した。彼らは万端に整えられたイスパルタ軍の防衛線を見たはずだが、対岸から見た限りでは動揺した様子はない。ジノーファらが見据える先で、彼らは堂々と陣形を整えていく。


「仕掛けますか?」


 ジノーファの隣でそれを見ていたクワルドが、彼にそう問いかける。ジノーファは少し考え込んでから、首を横に振った。対岸のさらに奥の方には、戦闘隊形を組んだまま待機している部隊が幾つかある。


 表面で慌ただしくしているように見えるのは、恐らく誘いだろう。のこのこ出て行けば、手痛い逆撃をくらうに違いない。せっかくこうして、準備を整えたのだ。拙速に戦う必要は無い。


「御意。警戒を怠らぬよう、指示を出します」


「頼む」


 ジノーファに一礼し、クワルドは下がった。その背中を見送ってから、ジノーファはリュクス川の対岸へ視線を戻した。戦闘隊形を整える部隊。その中央に位置しているのが、恐らくはガーレルラーン二世の本陣だ。


 そう考えた瞬間、ジノーファは言い知れぬ圧力を感じた。ガーレルラーン二世の、かつて父と呼んだ男のあの冷たい視線が、まざまざと脳裏によみがえる。それを悟られぬよう、彼は拳を強く握った。そして深く息を吸う。息を吐き出すと、圧力は消えていた。


「緊張しておりますかな、陛下」


「少し、な。ダーマード、卿はどうだ?」


「武者震いをしておりますとも」


「心強いことだ」


 ジノーファはそう言って小さく笑った。ダーマードの言葉は強がりだ。だが特別な事ではない。皆がそうやって、自分を奮い立たせている。


 その日、討伐軍は攻撃を仕掛けてこなかった。イスパルタ軍は夜襲を警戒していたが、それもない。大軍同士がにらみ合っているとは思えないほど、静かな夜だった。討伐軍が動いたのは、その次の日の事だった。


 日が十分に高く昇った頃、討伐軍が攻撃の構えを見せた。それに対し、イスパルタ軍も迎撃の態勢を整える。やがてリュクス川の西側から銅鑼とラッパの音が鳴り響き、討伐軍が動き始めた。


 討伐軍の全軍が動いたわけではない。動いたのは歩兵ばかりが五〇〇〇ほどか。隊列を整えて、次々に川へ入っていく。それを見て、イスパルタ軍も直ちに迎撃態勢を整える。緊張は高まり、破裂寸前だった。


 弓を引き絞り、合図を待つ。イスパルタ軍の陣地は痛いほどの静寂に支配されていた。隣で唾を呑む音がはっきり聞こえ、敵軍が川を渡る水音も少しずつ近づいてくる。そしてついに命令が下された。


「放てぇぇぇぇえええ!!」


 敵兵が射程に入ると、一斉に弓矢が放たれた。弓なりの軌道を描き、銀色の雨が鋭く降り注ぐ。討伐軍の兵士たちは盾を構えてそれを防ぐが、全てを防げているわけではない。倒れる者も現れたが、それでも彼らは前進を続けた。


 そして先頭の兵士が、リュクス川の東側へ上陸する。後続の兵士たちも続々と上陸していく。彼らは雄叫びを上げながら攻めかかった。イスパルタ軍の側もそれを座して見ているわけではない。兵を出してこれを迎撃させる。戦いはいよいよ、本格的な人と人のぶつかり合いになったのである。


 優勢なのはイスパルタ軍の側だった。川には深みや浅瀬、中州もある。通りやすい場所は自然と限られ、そのため討伐軍は川を渡ってくる段階で隊列を乱した。上陸してもすぐに立て直すことはできず、人数と圧力をかけて戦うことができない。槍衾に突き当たり、川から上がった順に蹴散らされた。


「ふむ。こうしてみると、川を越えないのは正解でしたな、陛下」


 戦況を眺めながら、ダーマードはそう感想を述べる。それに対し、ジノーファも険しい視線で戦いの様子を見ながら頷いた。


 歩いて渡河することが可能な場所だけあって、ここは川の水深がそれほど深くない。よってリュクス川が水堀として機能することは、あまり期待されていなかった。ただこうして見る限り、敵の動きを阻害する働きは十分にある。数で上回る敵と戦うにあたり、これは重要なことだった。


 動きが阻害されれば、大軍が一度に渡河することはできない。隊列はどうしても乱れ、圧力は減じる。渡河のルートは自然と定まり、そうなると上陸する場所も決まってくる。結果として少ない戦力を逐次投入するような格好となり、迎撃はやりやすい。例え数で劣っていようとも、そう易々と防衛線を破られることはないだろう。


(それは、向こうも分かっているはず……)


 ジノーファは胸中でそう呟いた。そして彼らが戦況を見守る中、リュクス川の西側からラッパの音が鳴り響く。撤退の合図だ。討伐軍の攻撃の波が、すっと退いていく。攻撃にこだわる様子は見せない。命令が行き届いているのを感じさせた。


 イスパルタ軍も追撃するが、深追いはしない。川に少し入ったところで足を止めた。弓矢による追撃は行われているが、それもすぐにやむ。やがて討伐軍の攻撃部隊が完全に撤退すると、リュクス川はまた静かに水を流すのみとなった。


 川の東岸から勝ちどきが上がる。それを聞きながら、ジノーファは戦場となった川岸を見下ろした。物言わぬ骸が、無数に転がっている。ただし無数ではあるが、少ないと言わなければならない。これからさらに、増えるのだから。


 ジノーファはやはり、勝利を素直に喜ぶ気にはなれなかった。自分はもしかしたらそういう性質(たち)なのかも知れない。そんなことを考え、彼はため息を吐いた。これで勝ったなど、おこがましい。


「クワルド」


「はっ」


「今回の攻撃、敵の意図は何だと思う?」


「様子見、でしょう。戦場の特性を見極め、こちらの様子を探る。それが目的かと」


 クワルドの見立てに、ジノーファは頷いた。他の幕僚たちも同じように頷いている。確かにそれ以外の目的はないように思える。だがジノーファはあえてこう命じた。


「念のため、斥候を出して周辺を探らせてくれ」


「陽動だったとお考えですか?」


「分からない。何もないなら、それでいい」


「御意」


 直ちに斥候が出された。彼らは主にリュクス川の周辺を探索したが、異常は認められず、その旨が報告された。それを聞き、ジノーファは小さく頷いた。


 この日から討伐軍は散発的な攻撃を続けた。顕著な変化は見られないものの、手を替え品を替え、様々な方法を試しながら彼らは攻撃を仕掛ける。イスパルタ軍は振り回され気味だったが、しかし堅実な防御でそれを撃退していった。


 イスパルタ軍は防ぐばかりだったわけではない。彼らの側からも攻撃を仕掛けた。大きな戦果を挙げずに撃退されたものの、無理をしなかった為に被害は小さい。


 もともと、敵に損害を与えることを目的とした攻撃ではないのだ。打って出る姿勢を見せることで、その選択肢を排除していないと知らしめることで、敵にプレッシャーを与える。それが狙いだった。


 一連の戦闘を客観的に分析すれば、多くの者はイスパルタ軍有利の判断を下すだろう。明らかに討伐軍はイスパルタ軍を攻めあぐねている。未だ全軍を動かしてはいないが、現状では動かせないと言った方が正しいだろう。大きな損害を与えられていないのはイスパルタ軍も同じだが、防衛線を構築している分、彼らには余裕があった。


 さらに王都マルマリズから、援軍が到着していた。数は二〇〇〇ほどだが、多量の補給物資を一緒に持ってきてくれた。これによりイスパルタ軍の戦力はおよそ三万二〇〇〇となり、持続力の点でも当面不安はなくなったのである。


 ただ、彼ら自身がその余裕を実感しているかというと、実はそうではなかった。むしろ彼らは気味の悪さを覚えていた。何しろ敵はガーレルラーン二世だ。無意味に思える攻撃の裏で、一体何を狙っているのか。敵の、いや彼の意図が分からず、イスパルタ軍の幕僚たちは苛立った。


「後手に回るから、振り回されるのだ。いっそ、こちらから全面攻勢を仕掛けるべきではないか? 一隊を別の場所から渡河させて後背に回り込ませ、挟み撃ちにするのだ。成功すれば、多少の数的不利は問題にならぬ」


 そう言う意見も出たが、いささか性急と言うべきだろう。浮き足立つ幕僚たちを、ジノーファはこう言って落ち着かせた。


「ガーレルラーンとて、魔術師ではない。腹の内はともかく、打てる手は現実の諸要素に制限される。無理に彼の思惑を読もうとするな。現実に敵軍が取り得る方法を模索し、そこに対処していけば良い」


 ただそうは言ったものの、ジノーファもまた敵の動きに不可解なものを感じていた。妙に消極的であるように思うのだ。防御が堅いと見て、機を窺っているのだろうか。もし、そうであるのなら……。


 ジノーファは空を見上げた。雲一つ無い空は、西の方から赤く染まり始めている。この調子なら、夜もまた澄み渡り、瞬く星がよく見えるに違いない。きっと明日の朝は気温が下がるだろう。


(誘ってみよう、かな……)


 ジノーファは幕僚たちの方を振り返った。



ダーマード「そう、これは武者震いなのだ!」

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― 新着の感想 ―
[一言] 帝国に3度負けてる弱い国。2度目は約束を破り、3度目は少数で未経験の王太子。 外から見れば馬鹿にしか見えない。
[良い点] 個人として活動していた頃も面白かったけど、いよいよ戦記としての動きが出てきて続きを楽しみにしています!
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