表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Ash Crown ‐アッシュ・クラウン‐  作者: 新月 乙夜
道化と冠 中編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

142/364

ユリーシャの憂鬱


「はぁ……」


 王都クルシェヒルにあるヘリアナ侯爵の屋敷。その庭に設けられた東屋で、ユリーシャは物憂げにため息を吐いた。子供たちには決して見せない姿だ。用意させた紅茶は、すっかり冷めてしまっている。今日は爽やかな陽気のはずなのだが、彼女の心はちっとも晴れやかではなかった。


「ユリーシャ、どうしたんだい?」


 そんな妻の様子を見かね、夫であるオルハンは東屋に入ると、彼女の肩に手を置いて優しくそう問いかけた。ユリーシャは夫の手に触れつつ、振り返って彼の顔を見上げる。そして今にも泣き出しそうな声でこう呟いた。


「父上が、陛下が出陣なさいました。あの子と戦うために」


 それを聞いて、オルハンはユリーシャが何に心を痛めているのか理解した。父王ガーレルラーン二世と弟のように思っているジノーファが戦う。彼女にとってはこの上もない悪夢だろう。


 ジノーファがイスパルタ王国を建国したという話を聞いたとき、ユリーシャがまず覚えたのは「なぜ?」という疑問だった。なぜ、ジノーファはこんな大それたことをしたのか。彼は帝都ガルガンドーで暮らしていたのではなかったのか。なぜ、どうして。形にならない疑問ばかりが浮かんだ。


 混乱が収まり、ユリーシャが次に感じたのは深い悲しみだった。ヘリアナ侯爵家は政に関わらない家だし、彼女自身も決してその世界に精通しているわけではない。むしろ侯爵家に嫁いでからは、意図的に距離を置いてきた。


 だが彼女とて元は王女。王家に育った人間として、これだけははっきりと分かる。父王ガーレルラーン二世はジノーファとイスパルタ王国のことを決して認めない。彼の立場からすれば、認めることなどできないのだ。


 イスファードとメルテムもまた同じであることは、火を見るより明らかだ。ユリーシャにとっては家族が争うことになる。実際、イスファードは軍勢を率いてイスパルタ王国に攻め込んだ。敗北を喫し、さらには大怪我をしたと聞き心配していたが、ファティマが内々にそれは嘘であると教えてくれ、ユリーシャはようやく安堵の息を吐いたものである。


 オルハンが仕入れてきた話を聞く限りでは、ジノーファも無事だという。ユリーシャはそのことを喜んだが、しかし安心はできなかった。アンタルヤ王国とイスパルタ王国の戦いはこれからも続くだろう。それがとても悲しい。


 ジノーファがイスパルタ王国を建てたことに、ユリーシャは怒りや憤りを覚えてはいない。どうして彼を責められようか。アンタルヤ王家の血を引く者に、そのような資格はないのだ。


 だがその一方で周囲のことを鑑みれば、喜ぶことなどできるはずもなかった。ユリーシャも彼女の家族も、アンタルヤ王国にいるのだ。その側から見れば、ジノーファは侵略者に他ならない。


 責めることもできず、喜ぶこともできず。ユリーシャにできたのは、ただ悲しむことだけだった。ジノーファやイスファードらに争って欲しくないと願いつつ、それが叶わないことも分かっている。ただ見守ることしかできないのがつらい。


「わたしは何もできません。いえ、わたしは何もしない方が良いのでしょう。でも、それでも……」


「あまり、そう自分を責めるものじゃないよ」


 オルハンはそう言ってユリーシャの肩に手を回し、彼女を横から抱きしめた。ユリーシャも素直に彼の胸へ頭を預ける。彼女の艶やかなプラチナブロンドの髪を撫でながら、オルハンはさらにこう言葉を続けた。


「それに、ユリーシャだからこそ、できることもあるかも知れない」


「そのようなことが、本当にあるでしょうか……?」


 夫の言葉は単なる慰めだと思ったのだろう。ユリーシャの声は懐疑的だった。しかしオルハンはただの慰めを口にしたつもりはない。穏やかだがはっきりとした口調で、彼はこう言葉を続けた。


「イスパルタ王国の背後にはロストク帝国がいる。陛下といえども、そう簡単には勝てないだろう。国内もそう余裕があるわけではないと聞くし、そうであるなら講和が成立するかもしれない」


「講和、ですか……?」


「そう。そしてジノーファ陛下に最も影響力があるのは、たぶんユリーシャ、君だ。なら君が講和の使者に選ばれてもおかしくはない、と思うよ」


「そのようなことが、あり得るのでしょうか……?」


 ユリーシャはどこか信じられない思いでそう呟いた。そもそもオルハンとて憶測を述べているに過ぎないのだ。仮に講和が成立したとしても、ユリーシャが使者に選ばれることは、現実的に考えてほぼあり得ない。


 だがもしも。もしも本当にそんなことがあり得るならば。それはジノーファと一緒に過ごしたあの数年の時間が、決して無駄ではなかったことの証となるのかもしれない。そのために自分は彼と出会ったのだと、そう言えるのかも知れない。


 それはささやかな希望だ。だが例え小さくとも希望があれば、悲しむだけの毎日はきっと変わる。ユリーシャはオルハンの胸から身体を離すと、彼に小さく笑って見せた。まだぎこちない笑みだったが、彼女の眼差しは確かに未来へ向けられていた。


 そんな妻の様子を見て、オルハンは小さく微笑んだ。だが彼はすぐに表情を真剣なものに戻す。そしてユリーシャの隣に腰を下ろし、「落ち着いて聞いて欲しい」と前置きしてから、さらにこう言葉を続けた。


「一つ、話しておきたいことがある。イスファード殿下が王命に背いたとして、王太子位から廃されたことは知っているだろう?」


「はい。それがどうかしましたか?」


「その後釜として、ルトフィーの名前が挙がっている。一度陛下の養子とした上で、王太子として冊立されるのではないか、という話だ」


「それは、どうして……!?」


 ユリーシャは驚きと困惑の声を上げた。ルトフィーというのは、彼女とオルハンの長男のことだ。将来的にはヘリアナ侯爵家を継ぐとばかり思っていた息子が、しかし王太子になるかも知れないというのは、彼女にとって全く寝耳に水だった。


「だってお母様は、いずれイスファードがその地位に戻ると……」


「王妃様がそうお考えなのは、私も知っているよ。だが実際に陛下がそう仰ったわけではない」


「そんな……」


 ユリーシャは絶句した。ルトフィーが王太子として冊立された場合、イスファードの立場はどうなるだろうか。彼にはエルビスタン公爵家の後ろ盾があるのだ。王家の中で軋轢が生じるのは目に見えている。血で血を洗う争いに発展するかも知れない。そう思い、彼女は青ざめた。


「もちろんこれは、推測の域を出ないただの噂話だ。陛下は王太子位について『空位とする』としか仰っていないわけだからね」


 オルハンはそう言ってユリーシャを宥めた。ただ、火種のないところに煙は立たない。噂が語られるには、やはりそれ相応の理由があるのだ。


 最大の理由は、やはり王命の無視がそれだけ重大な罪であるということだ。あまつさえイスファードは大敗を喫している。死を賜ったとしても不思議はない。そのような者が果たして王位継承者として相応しいのか。そして玉座についたとして、国内をまとめることができるのか。人々は疑問に思っているのだ。


 さらに、ガーレルラーン二世が見せた怒りの激しさが、その推測に真実味を持たせていた。あれほどの怒りを見せたのだから、彼はイスファードを決して許すまい。多くの人がそう考えているのである。


「ファリクを王太子にと言っても、王妃様は決してお認めにならないだろうからね。だがルトフィーなら、王妃様にとっても血の繋がった孫だ。内心では面白くないかも知れないけれど、そう強くは反対しないだろう、と」


 それが、オルハンがサロンで聞いてきた話であるという。メルテムにしてみれば、最低限自分の血筋が王となるのだ。「ファリクを」という話よりは受け入れやすいに違いない。だがそれを聞いて、ユリーシャの眼差しは不安げに揺れる。それを見て、オルハンは彼女の手を取って謝罪した。


「すまない。今はまだただの噂話だし、話すかどうかは迷ったのだが……」


「いえ、教えていただけで良かったです。ですがもしも、本当にそのようなことになった場合は……?」


「当家としては、応じるより他にない。そもそもヘリアナ侯爵家とは、そのための家だ」


「そう、ですわね……」


 ユリーシャは力なくそう呟いた。ヘリアナ侯爵家の役割とは、王家の外においてその血筋を保持すること。そして万が一の場合には、侯爵家から王家に養子を迎えるのだ。イスファードが王太子位に戻れず、ファリクも認められないのであれば、確かにルトフィーを王家に入れるより他ない。


 ユリーシャとしてはもちろん、そんなことを望んではいない。ジノーファの例を見ても分かるように、王家というのは寒々しい場所だ。ルトフィーを、お腹を痛めて産んだ子を、そのような場所にやりたくはない。せっかく政から離れていられる場所に生まれたのだ。このまま穏やかに生きて欲しいと、彼女は願っている。


「ルトフィーの話が現実味を帯びるかは、此度の戦の結果に左右されるかも知れない」


 妻の内心を察したのか、オルハンは思案する様子を見せながらそう言った。仮にガーレルラーン二世が勝てば、彼の発言力はかつてなく高まる。エルビスタン公爵家とその派閥の反発を抑え込み、ルトフィーを王太子にすることも可能だろう。


 逆にガーレルラーン二世が負けた場合、イスファードを強く責めることはできなくなる。彼を溺愛しているメルテム王妃にも、配慮しなければならないだろう。軋轢覚悟でルトフィーを王太子に冊立するのは憚られるに違いない。恐らくはイスファードをその地位に戻すことになるだろう。


(もしそうなら、わたしは……)


 ユリーシャは内心で葛藤した。ガーレルラーン二世に勝って欲しいのか、それともジノーファに勝って欲しいのか。内心でさえ、それを言葉にすることができない。


(願わくば……)


 願わくば、二人が無事でありますように。ユリーシャはただ、それだけを祈った。



 □ ■ □ ■



 出陣前夜。王都マルマリズの私室で、ジノーファは真剣な顔をしながら数枚の紙を見比べていた。描かれているのは、全て王冠のデザイン画。そう、彼は今、イスパルタ王国の国王が戴く、冠のデザインを選んでいるのだ。


 ジノーファはすでに、寝間着姿になっている。明日の出陣に備え、今夜は早く休むつもりでいたのだ。そこへ恐縮しながらデザイン画を持参したのは、宰相のスレイマンだった。曰く「出陣する前に王冠のデザインを決めて欲しい」。


 出陣すればいつ帰ってこられるか分からない。だがデザインさえ決まってしまえば、ジノーファがいなくても王冠は作れる。そして後々のスケジュールのことを考えれば、その方がスムーズに事が進むのは事実だ。ただ、この大切な時に彼を煩わせてしまい、スレイマンは恐縮しきりだった。


「申し訳ございませぬ、陛下」


「なに、後は寝るだけだったのだ。かまわない。スレイマンこそ、こんな遅くまで仕事をしていて大丈夫なのか?」


「お気遣い、感謝いたします、陛下。ですがご心配なく。限界はわきまえておるつもりです」


「そうか。なら良かった」


 そう言って柔らかく微笑むと、ジノーファはまたデザイン画に視線を落とした。当初全部で十七個あったデザインは、スレイマンと彼の部下たちの手によって、五つにまで絞り込まれている。ジノーファが見比べているのはその五つのデザインであり、やがて彼はその中の一つを選んでテーブルの上に置いた。


「うん、コレにしよう」


 ジノーファが選んだのは、シンプルなデザインだった。帯の端と端をつなぎ合わせたような、サークル状の王冠で、その側面に十二個の宝石をはめ込むデザインになっている。また彫金による細工も施される予定だ。


「はっ、かしこまりました。ではこのデザインで職人たちに作らせましょう」


「ああ、頼んだ。それと……、ユスフ、アレを持ってきてくれ」


 ジノーファがそう頼むと、ユスフは一礼してから部屋の隅の棚の上に置いてあった、鍵付きの箱を持ってきてテーブルの上に置いた。三十センチ四方と言った大きさだろうか。片手で持つには幾分大きい。テーブルに置いた時の音からして、ずいぶんと重いのだろうと推測された。


 ジノーファに指示され、ユスフがその箱を解錠して蓋を開ける。中をのぞき込んで、スレイマンは思わず息を呑んだ。箱の中には、黄金と宝石がぎっしりと詰まっていたのである。しかも宝石はどれも大粒だ。この一箱で豪邸が三つと言わず五つは建ちそうだな、とスレイマンはどこか人ごとのように考えた。


「陛下、これは……」


「王冠を作るのに使ってくれ。これが使えれば、素材を集める費用も時間も短縮できるだろう?」


 少し楽しそうにしながら、ジノーファはそう言った。確かにその通りではある。しかしこれだけのモノをどうやってと考え、スレイマンはすぐ内心で頭を振った。そんなもの、ダンジョン攻略をして集めたに決まっている。


 より正確に言えば、ダンジョン攻略をして手に入れたモノを、換金せずにそのまま取っておいたのだろう。そう言えば、オズディール城から帰還した際に、ずいぶん多くの私物を持ち帰ったと聞いている。イスファードからどれだけ分捕ったのかと冗談交じりに考え、全てジノーファの収納魔法の中に保管してあったモノだと知り、スレイマンは驚いたものだ。


 これらの宝物も、その時に持ち帰ったモノなのだろう。基本的にダンジョンというのは、深い場所ほど貴重な物品がでる。このレベルのモノが他にもまだあるのだろうと考え、スレイマンは聖痕(スティグマ)持ちの凄みを思い知った気がした。


 それだけの能力があれば、煩わしい雑事を抱え込むこともなく、十分に裕福な生活を送ることができただろうに。スレイマンはそう思う。そうイスパルタ王国の建国などしなければ、国王になどならなければ。


(言えるはずもないのぅ……)


 スレイマンは内心で嘆息した。ジノーファがなぜ建国を志したのか。その理由はすでにクワルドから聞いている。なるほど、と思ったものだ。「旧来のやり方では限界に来ている」というジノーファの言葉に、数年前まで王宮に仕えていたスレイマンは頷かざるを得ない。


 イスパルタ王国の建国はダーマードら貴族たちが自主と自立を守るために構想した。あるいはそれさえも、ジノーファの目には危うく映ったのかも知れない。スレイマンの目からすれば貧乏くじでしかない玉座を、彼は受け入れた。


 本来であるならば、アンタルヤ王国自身が変わらなければならなかったのだ。その責任を、本来負わせるべきではない者に負わせてしまった。スレイマンはそのことに忸怩たるものを覚えずにはいられない。


 だがそれを口に出すことこそ、ジノーファに対する侮辱だろう。彼は王族として育てられた。「三つ子の魂、百まで」というが、彼はその生き方しかできないのかも知れない。翼を持つ鳥に、「地面を耕して生きよ」と言っても、それが不可能であるのと同じように。ならば、スレイマンにできることは一つしかない。


「王冠制作のために見込んでいた予算が、これでかなり浮きまするな」


「結構なことだ。歴史上、最も安上がりな王冠を目指そう」


 ジノーファが大真面目にそんなことを言うものだから、スレイマンは思わず声を上げて笑ってしまった。こんな王に仕えるのも悪くはない。そう思いながら。



ユリーシャ「はぁ……」

オルハン(憂いげなウチの嫁さんも美人)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 関税はともかく、関所を完全になくすというのは、この作品中の環境では危険だと思います。スパイや外部からの犯罪者、内部からの逃亡犯を捕まえるフィルターとしての役割もあるので。
[良い点] 更新してくれたこと [一言] このジノーファさんの不器用な生き方が、思わず手を貸したいと思えちゃうんですよねぇ まぁ、私は一読者に過ぎないのですが 汗
[良い点] 相性ばっちりな姉夫婦
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ