かつて歩いた道
「どういう、ことだ。これは……!」
王都クルシェヒルから届けられた勅書。カルカヴァンから手渡されたその勅書を検めると、イスファードの顔には困惑が歪んだ。
勅書には彼を王太子位から廃すること、さらにこのまま公爵家の屋敷で蟄居謹慎を命じる旨が書かれている。エルビスタン公爵家の処分については、触れられてもいない。イスファードに全責任を負わせたのだろうか。だが王命を無視し、あまつさえ敗北を喫した者に対する処分としては、いかにも軽い。
ただ、処分が軽いことは、あらかじめ予想していたことでもあった。それでイスファードが困惑していたのは、その処分の軽さ故だけではなかった。処分が勅書という形で伝えられたことに、彼は困惑していたのだ。彼は王太子だ。本来であるなら、これらの沙汰は王都クルシェヒルでガーレルラーン二世より直々に下されるはず。それなのに、なぜ。
彼のその疑問は、その日のうちに氷解した。勅書から遅れること数時間して、今度は王妃メルテムからの手紙が届いたのである。そこには彼女がガーレルラーン二世に取りなしをしたことや、処分に対する彼女の考えなどが書かれていた。
『今はゆっくりと静養しなさい。再び王都であなたの立派な姿を見られる日を楽しみにしています』
そう結ばれた母からの手紙を、イスファードは握り潰した。彼の顔には悔しさとやるせなさと、そして無力感が浮かんでいる。
イスパルタ軍に敗北して公爵領へ戻ってきたとき、イスファードはすでに覚悟を固めていた。王命を無視した上に負けたのだ。予想以上に厳しい処分もありえるだろう。だがそれでも臆することなく父王の前に出て堂々と弁明を行い、いかなる沙汰を下されようとも潔くそれに従う。彼はそのつもりでいたのだ。
だがメルテムはその機会を奪ってしまった。あまつさえ、大怪我とそれに伴う高熱をでっち上げ、弁明はおろか王都へ赴くことさえ叶わなくした。しかも彼女は、それがイスファードのためであると信じて疑っていない。
そのことは手紙に連ねられた言葉の端々から伝わってくる。その思念はまるでイスファードに絡みついて来るかのようでうとましい。だがそのおかげで処分が軽く済んでいると思うと、イスファードは自分が情けなくて仕方がなかった。
「わたしは、わたしは……!」
自分は果たして、自分の力で立つことができているのだろうか。見え透いた嘘に守られ、責任を取ることすら許されず、ただ決められたとおり王座につく。それは結局のところ、お膳立てされた演劇と同じではないか。
イスファードは強く手を握りしめた。手紙がくしゃくしゃになって破れ、爪が手のひらに食い込む。赤い血がしたたり落ちた。だが彼はそれを気にする素振りさえ見せず、顔を歪めて虚空を睨む。彼の脳裏に浮かぶのは、旗を掲げ、馬上からこちらを見下ろすジノーファの姿だ。
ジノーファは王になった。担がれたにせよ、ロストク帝国の後ろ盾があったにせよ、彼は一国を建ててその王となったのだ。そしてあの戦いでイスファードの前に現れ、彼の軍勢を打ち破った。
イスファードにとってジノーファに負けたことは、はらわたがねじくれ返り血涙が流れ出るほどに悔しい。受け入れがたく、忸怩たる思いがする。いつか必ず殺してやると、彼は誓っていた。
しかしその一方で、ジノーファが自らの力で立っていることは、認めなければならなかかった。担がれ、傀儡となっているだけの者が、あそこに現れるはずがないのだ。彼は確かに、自らの力で、そこに立っていた。
イスファードもまた、そうあれかしと思っていた。だからこそ王命を無視し、敗北したからには、その責任を取るつもりでいたのだ。しかしその機会は奪われた。メルテムにとっては、そしてガーレルラーン二世にとっても、彼はまだ自立できない半端者なのだ。それが今回、如実に示された。
「くそっ!」
血の滴る拳で、イスファードは壁を殴りつける。だがそれさえも未熟者の証のような気がして、彼は歯を食いしばって顔を歪めた。脳裏にはやはり、あのときのジノーファの姿がちらつく。
ジノーファ。偽りの王子。イスファードに向けられるはずだった悪意と害意を引き受ける、生け贄の子羊。捧げられてこそ生け贄であろうに、どういうわけかジノーファは生き残り、そして彼の前に現れた。
奴は道化なのだ。己が何者かも分からず、笛を吹かれるまま、滑稽に踊り続ける道化。そしてイスファードはその道化を踊らせる側だったのだ。だが、道化が己の足で踊るのを、自分はなんと母の背から見ているというのか。
ことはもはや、戦の勝敗などという話ではなくなっていた。これは生き様に関わることであり、矜持の問題なのだ。道化を必要としたのがこの身の故ならば、道化に引導を渡すのもまた、この身でなければならない。
「貴様の舞台に幕を引くのは、このオレだ……!」
負けるわけにはいかない。イスファードはそう思った。そのためにはまず、彼自身が己の足で立たねばならない。そのためにはどうすれば良いのか。イスファードはそれを考え続けた。
□ ■ □ ■
イスパルタ王国の建国とジノーファの即位。その報がもたらされると、謁見の間が騒然とする中、ガーレルラーン二世は何も言わずただ口元に冷笑を浮かべたという。彼のその反応に廷臣たちは困惑し、この国家の一大事に対する驚愕や怒りはしぼんでいった。ある意味、ガーレルラーン二世は冷笑一つで彼らの混乱を鎮めたのだ。
『……陛下、いかがいたしましょうか?』
『知れたこと。ただちに兵を集めよ。反逆者は打ち払わねばならぬ』
ガーレルラーン二世の命令は当たり前のことだった。アンタルヤ王国にとって東域の独立など、到底容認できるものではない。交渉によって折り合いが付けられる段階はすでに過ぎており、事ここに至っては武力によって鎮圧するより他ないのだ。
ガーレルラーン二世の命令を受け、廷臣たちはすぐさま動き始めた。討伐軍の主力は、ガーレルラーン二世の直属部隊である近衛軍である。
というか現状、アンタルヤ王国には近衛軍以外に動かせるまともな戦力はないと言っていい。貴族たちの持つ戦力は、活性化した魔の森に対処するべく、徴発されて北方の防衛線へ送られている。どこの家も、ない袖はふれないのだ。
ちなみに、アンタルヤ王国の近衛軍とロストク帝国の皇帝直轄軍は、似ているようで微妙に性質がことなる。両方とも国王(皇帝)の直属部隊ではあるが、皇帝直轄軍が基本的に職業軍人のみで構成された軍隊であるのに対し、近衛軍は必要に応じて天領から農兵の徴用を行っている。
そのため、近衛軍を動かすためには、まずは兵を集めなければならない。すぐさま王都クルシェヒルとその周辺で、兵士の徴用が行われた。当初ガーレルラーン二世が指示した兵の数は三万。だが途中でこの数は変更されることになる。
東の国境を守るセルチュク要塞。この要塞を任せていたカスリムが、わずかな部下を率いて王都へ帰還したのだ。そして彼の口から無視できない報告が語られる。曰く、「ロストク帝国、動く」。
『ロストク軍の戦力はいかほどであったか?』
『恐らくは三〇〇〇ほどでありましょう。ただ単純な数よりも、この時期に動いた事実を重視するべきと考えます』
カスリムがそう答えると、ガーレルラーン二世も重々しく頷いた。今はまだイスパルタ王国の建国から日が浅い。国家として立ちゆくかは不透明だ。にもかかわらず、ロストク帝国は迅速に軍を派遣した。
兵の数は三〇〇〇。独立を後押しする戦力としては少ない。そもそも要塞には攻めかからなかったという。だがまさか見物のために兵を出したわけではあるまい。その目的はやはりイスパルタ王国との連携であろう。
そしてこの時期に連携を模索、あるいは強めると言うことは、イスパルタ王国とロストク帝国の間には、建国以前から密約があったのだ。そもそも国王となったのがジノーファである。ということはイスパルタ王国そのものが、ロストク帝国のいわば出先機関のようなものである可能性すらあった。
ランヴィーア王国とイブライン協商国が戦争状態にあり、ロストク帝国がそこへ援軍を出していることは、ガーレルラーン二世も当然知っている。ロストク帝国は長年大洋へ臨む貿易港を嘱望してきたが、この情勢下でアンタルヤ王国へ遠征するのは躊躇われるに違いない。下手をすれば二正面作戦を戦うことになるのだから当然であろう。
そこでイスパルタ王国なのだ。ジノーファを使って傀儡国家を建国し、それによって交易の甘い果実を貪る。それがロストク帝国の戦略であろうと、ガーレルラーン二世は看破した。
『なるほど、な。つまり真の敵は炎帝であるということだ』
ガーレルラーン二世は口元に冷笑を浮かべながらそう呟いた。居並ぶ廷臣たちも異議を唱えない。カスリムが要塞を死守することなく降伏したことについて、その責任を追及する声も上がっていたのだが、それももう聞こえなくなった。イスパルタ王国の建国は、本質的にはロストク帝国の侵攻なのだ。それを伝えることには、確かに大きな意義と価値がある。
そしてこの報告により、ガーレルラーン二世も予定を変更せざるを得なくなった。敵はジノーファとイスパルタ王国だけではない。炎帝ダンダリオン一世とロストク帝国のこともまた、考慮に入れる必要がある。となれば、三万では兵が足りないだろう。
『兵を増やさねばならぬな。五万だ』
『……御意。ただちに通達いたします』
廷臣の返事が一拍遅れた。五万というのは大きな数だ。集めるためには少々無理をしなければならないだろう。だがロストク帝国と、そして炎帝と事を構えるには、やはりこれくらいの戦力が必要だ。
ガーレルラーン二世もそう言った事情は理解しているのだろう。廷臣の返事を聞き、彼は厳しい表情で一つ頷いた。
ともあれ、さらに二万の兵を積み増しするとなると、それ相応に時間がかかる。人間だけを集めれば良いわけではないのだ。彼らが身につける装備、養うための兵糧、野営のためのテントなど、ありとあらゆる物を二万人分追加で用意しなければならない。
それで討伐軍の出陣は、当初の予定から一ヶ月程度遅れることになった。ただし、増員だけが遅れた理由ではない。王太子イスファードが王命に背いて出陣し、さらに大敗を喫したとの報告がもたらされたことも、遅れた原因の一つである。
ジノーファがイスパルタ王国の建国を宣言するとすぐ、北で防衛線を守っていたイスファードは、兵を率いてこれを討伐する許可をガーレルラーン二世に求めてきた。しかし彼はその願いを退けた。すぐに動かせるのは防衛線の戦力だけであることを認めた上で、しかし「動いてはならぬ」と命じたのだ。
その理由は「防衛線の守りを盤石なものとし、もって国家の安寧を守るため」だ。これは建前であると同時に、本音でもあった。
防衛線が破られ、モンスターが領内に侵入するようなことになれば、イスパルタ王国の討伐に全力を挙げることはできなくなる。時間が経てば経つほど、討伐は困難になるだろう。それどころか逆に侵攻を受けるかも知れない。後顧の憂いを断つためにも、防衛線は盤石でなければならないのだ。
またイスパルタ王国は独立と建国の誓詞のなかで、アンタルヤ王国について「アンタルヤ大同盟の精神は失われた」と言って批判している。ここで防衛線の守りを疎かにすれば、それは彼らの主張に真実味を与えることになるだろう。
下手をすれば、国内でさらにイスパルタ王国へ通じる者が現れかねない。その機を窺っている者もいるはずだ。彼らに反逆の大義名分を与えてはならない。防衛線を盤石にしておくことは、国内を引き締めることにも繋がるのだ。
また防衛線にイスファードがいれば、彼を通じて貴族たちの力は北へ注がれることになる。であれば、イスパルタ王国への対処はガーレルラーン二世が行うより他ない。討伐が完了したとき、東域は丸ごと天領となる。その時、王家の力はかつてないほどに高まるだろう。
だがしかし。イスファードは王命に背いて出陣し、そして大敗を喫した。同士討ちまでしたと言うから、彼の資質を疑う声も上がっている。それが高じれば、王家そのものへの批判にも繋がりかねない。
それに対処するべく、ガーレルラーン二世は討伐軍の出陣を先延ばしにしなければならなかった。イスファードが敗北したことで、彼の親征が既定路線となっていたからだ。子供の失敗は親が雪ぐほかないのである。
さて、話をカスリムが帰還した日に戻そう。ロストク軍の動向などについての報告を終えると、彼は少し言いよどむ様子を見せた。ガーレルラーン二世はそれを見て、カスリムにこう尋ねる。
『まだ何か言うべきことがあるのか?』
『……恐れながら、ジノーファより陛下に対し、言づてを預かっております』
『ほう。申せ』
『はっ。「いずれ出生の秘密を伺いに参上する。その日まで壮健なれ」。以上でございます』
カスリムがその言葉を伝えると、謁見の間には重苦しい沈黙が広がった。誰もが息を呑み、身じろぎの音すら立てない。
ジノーファにアンタルヤ王家の血が流れていないことは、すでに周知の事実だ。彼は生まれながらにして、影武者となるべく連れてこられた。しかしでは一体彼はどこの誰なのか、メルテム王妃を含め、そのことは誰も知らない。
知っているのは、彼を連れてきたガーレルラーン二世だけだ。ジノーファが出生の秘密を知りたいのであれば、確かに彼に尋ねるより他ない。だがこれまで彼は一度としてそのことに言及したことはなかった。それで、追放の経緯も相まって、人々は自然とこの話題を避けるようになっていた。
ガーレルラーン二世はどう応えるのか。緊張で張り詰める謁見の間で、誰もが彼の次の言葉を待った。そんな中、彼は玉座の肘掛けに頬杖を付き、いつもと変わらぬ様子で冷笑を浮かべ、こう述べたという。
『ふ……。秘密のまま終わる秘密はないという。だが全ての真実が劇的であるわけではない。秘密は秘密であるからこそ、特別に思えるのだ。例えそれが錯覚であっても、秘密が秘密である限り、それに気づくことはない。それはいっそ、幸せなことであろうよ』
ガーレルラーン二世のその言葉に応える者は誰もいなかった。皆が緊張した様子で黙り込んでいる。彼のその言葉はいかなる意味なのか。ジノーファの出生の真実は大したことがないと言う意味なのか。
いや、ガーレルラーン二世ははっきりとそう言ったわけではない。だが冷笑を浮かべる彼の顔色から、その内心を窺うことは困難を極める。結局、今はまだ秘密は秘密のままであり、だからこそ人々はそこに特別な関心を寄せるのだ。
全ては彼の言うとおりであり、彼の内心までもが秘密のベールに覆われていく。あるいはそれこそが、彼の狙いであったのかも知れない。しかしながらそれもまた、彼の内心に隠された秘密である。
さて、居並ぶ廷臣たちを十分に緊張させ、その上たっぷりと困惑させると、ガーレルラーン二世は改めて兵を積み増しするよう命じた。その命令を受けて、廷臣たちはどこかほっとした様子を見せる。はっきりとした命令が、この時の彼らにはありがたかった。
やがて軍備が整い、ガーレルラーン二世は馬上の人となった。先鋒を命じられたのは、セルチュク要塞の司令官であったカスリム。この重要な役割を任せることで、ガーレルラーン二世は彼の判断に満足していることを示したのだ。
五万の軍勢を率い、ガーレルラーン二世は東へ向かう。その道は、かつてジノーファを伴って進んだ道だった。
イスファード「しばらくフェードアウト!」




