下された処分
シェリーを養女とする話が決まり、マリカーシェルのことも頼んで、幾分気が楽になったのだろう。ダンダリオンは三杯目の紅茶を所望し、さらにテーブルの上の菓子にも手を伸ばした。そして菓子を紅茶で流し込んでから、多少気楽な調子でこう言った。
「マリカーシェルの輿入れはなるべく早く行うつもりだ。向こうとの調整は無論必要になるが、ジノーファも断るまい。ただ、そのおかげで関係各所は大わらわだ。余としてはもう少しイスパルタ王国が落ち着いてからと思っていたのだが、アーデルハイトが『それではマリーが行き遅れてしまう』と言ってなぁ」
「まあ」
シェリーは楽しげに笑った。それを見て、ダンダリオンも笑う。マリカーシェルはジノーファよりも二つ年下だ。皇族でそれくらいの歳なら、すでにどこかへ嫁いでいたとしてもおかしくはない。
それでもマリカーシェルが今までどこへも嫁がずにいたのは、きっとダンダリオンが早い段階でジノーファを相手に定めていたからだ。彼がそれに相応しい地位を得るまで、待たせていたのである。
マリカーシェル自身もそれを望んでいたのだろう。今まではそれが問題になることはなかった。むしろ、ジノーファ以外に嫁げと言われでもした方が大騒ぎになっていたかも知れない。
ただ、時間がかかりすぎていると、気をもんでいる者もいる。母親であるアーデルハイトはその筆頭なのだろう。そして輿入れが近づいたことで、今までは胸にしまっていた不安が、表に出始めたのだ。
「まあ、アーデルハイトの気持ちは分からんでもない。それに、本人も乗り気だ。向こうも目を回すかもしれんが、どのみち建国直後でばたばたしているのだ。大仕事が一つ増えたところで大差あるまい」
ダンダリオンはそう言って少々意地悪げに笑った。もしかしたらそこには、娘を他の男に取られる父親のやっかみも混じっているのかも知れない。彼の養女になったシェリーは、ころころと笑いながらそう思った。
「だがこちらとしても、投げっぱなしという訳にもいかん。そこで、だ。シェリー。やってもらいたいことがある」
ダンダリオンが表情を引き締める。シェリーも背筋を伸ばし、「はい」と応えて彼の次の言葉を待った。
「そなたはマリカーシェルに先だってイスパルタ王国へ入り、奥を整えよ。随行する者はこちらで選んでおく」
「かしこまりました」
シェリーはそう応えて恭しく頭を下げた。その声には、喜色が浮かんでいる。実際、彼女は喜んでいた。役割を与えられたことに、ではない。もうすぐジノーファに会える、と思ったからだ。
その後、ダンダリオンとシェリーはイスパルタ王国で行う準備について簡単な打ち合わせを行った。それが終わり、ぬるくなってしまった紅茶を替えさせてから、ダンダリオンはシェリーに視線を向けてこう尋ねた。
「それで、お前も用事があるのだろう。なんだ?」
「はい。実はジノーファ様から、コレを陛下にお返しするよう、お願いされていたのです」
そう言ってシェリーは小箱を取り出した。ダンダリオンは小箱を受け取ってそれを開ける。中に入っていたのは、紅玉鳳凰勲章だ。かつてダンダリオンがジノーファに授けた勲章である。
「イスパルタ王国の国王がロストク帝国の騎士ではまずかろう、と」
「で、あるか」
小箱の中の紅玉鳳凰勲章を眺めながら、ダンダリオンはそう呟いた。彼がジノーファにこの勲章を与えたのは、一切の身分を失った彼に「ロストク帝国騎士」という身分を与えるためだった。
しかし彼は自らの力で身分を得た。イスパルタ王国の国王という身分を。そうであるなら、この勲章はもう必要ない。それどころかジノーファがこれを持っていては、イスパルタ王国がロストク帝国の属国であるかのような印象を与えるだろう。
ジノーファは建国の英雄なのだ。英雄は自ら立たねばならない。ダンダリオンは感慨深げに一つ頷くと、勲章の入った小箱を懐にしまった。この日、シェリーが帰った後、ダンダリオンはこう話したという。
曰く「鳳凰は飛び立ったのだ」。
ちなみに、紅玉鳳凰勲章にまつわる話には続きがある。ジノーファはこの勲章を返還したわけだが、同じ勲章を他の者に与えるわけにもいかない。かといって死蔵しておくのも味気ないと思ったのだろう。ダンダリオンはこの勲章をマリカーシェルに持たせてイスパルタ王国へ送り出した。
紅玉鳳凰勲章には年金が付く。年に銀貨二四〇〇枚だ。マリカーシェルが存命中、ロストク帝国は毎年、このお金を彼女に届けた。マリカーシェルにとっては決して高額とは言えない額だが、それでも彼女はこのお金を受け取るのを楽しみにしていたという。
そのことを不思議に思う者は少なくなかった。そういう者たちに、マリカーシェルは楽しそうにしながら、その勲章のいわれを語ったという。そう、彼女が愛する聖痕持ちの物語を……。
□ ■ □ ■
「あの大馬鹿者め! 国王の勅命を無視した挙句、あろう事か惨敗を喫したというのかっ!」
イスファードが勝手に出撃し、そして敗北したことを知ると、ガーレルラーン二世はそう怒鳴って怒りを露わにした。いつもは感情を見せず、冷厳な態度を取る彼が、こうして感情を表に出すのは珍しい。
要するにそれだけ、彼の怒りが大きかった、ということだ。直接その怒りを向けられたわけではないのに、王宮の人々は震え上がった。そしてとばっちりを受けないよう、こそこそと逃げ出す。衛士たちはまさか逃げ出すわけにいかないから、血の気の引いた顔をしながらその場に立ち続けた。
幸い、ガーレルラーン二世は怒りにまかせて、誰彼かまわず暴れ回るようなことはしなかった。ただし、それは彼の怒りが収まったからではない。彼の目は怒りのために未だ血走っている。そして怒りのままに、さらにこう叫んだ。
「即刻イスファードを王都へ召喚せよ! 余が直々に沙汰を下してくれる!」
直ちに書記官らが動き出した。ただし忠誠のためと言うよりは、怒りを恐れてのことである。誰もがガーレルラーン二世から遠ざかろうとする中で、ただ一人だけ、転がるようにして近づき、その足下にひれ伏す者がいた。王妃メルテムである。
「陛下、陛下! お願いいたします。あの子を許してやって下さいませ!」
「ならぬ! イスファードは王命を無視した。これを許せば国体が揺らぐ。なんとしても厳罰を下さねばならぬ!」
ガーレルラーン二世はメルテムの嘆願を一蹴した。彼の言い分には筋が通っている。普段の冷厳な態度を知らない者が見たら、相手が自分の息子であることも含め、彼を公正明大で私情を差し挟まない優れた為政者であると思ったかも知れない。しかし普段の彼を知っている者からすれば、それは肉親の情を持たない冷たさであるように思えた。
メルテムもまたそう捉えたのだろう。彼女の顔が悲壮に染まる。このままでは、例え自らの息子であろうとも、ガーレルラーン二世はイスファードに厳罰を下すだろう。廃嫡どころか、死を賜ることになるかもしれない。それだけはなんとしても避けなければならない。それで彼女はこう叫んだ。
「陛下、イスファードは戦のために大けがをしているのです! それが原因で高熱を出し、ベッドの上で苦しんでいるとも聞き及んでおります。今、無理に王都へ呼べば、あの子は死んでしまいます! どうか、どうかご寛恕を……!」
メルテムはガーレルラーン二世の足下にひれ伏しながら、必死にそう嘆願した。ガーレルラーン二世はそんな彼女の様子を見下ろす。多少は怒りが収まったのか、その視線は冷たい。
ガーレルラーン二世は口元に小さく皮肉げな笑みを浮かべると、玉座へ無造作に腰を下ろす。そしてこれもまた普段の彼からすれば珍しいことに、いささか揶揄するような口調でメルテムにこう応えた。
「……ふん、大怪我か。軟弱なことよ。ならば致し方なし。王都への召喚は取り消す。だが王命を無視したことは重大であり、処罰は下されねばならぬ。よってイスファードを王太子位より廃し、さらにエルビスタン公爵の屋敷にて蟄居謹慎を命じる」
それを聞き、メルテムは息を呑んだ。王都への召喚は免れた。しかしイスファードは王太子ではなくなるという。だが、死を賜るよりはマシだ。何より、王子でなくなるわけではない。
「……寛大なお沙汰、感謝いたします」
「うむ。また空位となる王太子位であるが、イスパルタ王国を名乗る反逆者どものこともある。余はこれに対処せねばならぬ。しばらくは空位のままとし、反乱を鎮圧した後に改めて審議するものとする」
そう言うと、ガーレルラーン二世は玉座から立ち上がり、謁見の間を後にした。彼の姿がなくなったところで、跪いたままだったメルテムが立ち上がる。彼女の顔には安堵が浮かんでいた。
ガーレルラーン二世は新たに王太子を冊立することはせず、しばらくは空位のままとすると言った。メルテムはこれを、「蟄居謹慎が解けた暁には、イスファードを王太子に戻す」ということだと解釈した。そして王太子位に返り咲くことさえできれば、挽回は十分に可能だ。
「王妃様、陛下は……」
メルテムが謁見の間から出てくると、そこにはイスファードの妃であるファティマが心配そうな顔をしながら待っていた。メルテムは柔らかく微笑むと、彼女にこう応えた。
「心配ありません。重大なお沙汰だけは、避けることができました」
それからメルテムはガーレルラーン二世の下した沙汰と、自らの考えをファティマに話す。それを聞いて彼女はほっとした様子で胸をなで下ろした。
メルテムが寛恕を願い、それをこうしてファティマが待っていたのは、決して偶然ではない。実のところ、ガーレルラーン二世がイスファード敗戦の報を知るより一足早く、二人はカルカヴァンからの手紙によってそのことを知っていたのである。
イスファードが敗残の兵を率いて帰って来ると、カルカヴァンはすぐさま動き始めた。彼はまず王都にいるメルテムとファティマに手紙を書いた。事実関係を手短にまとめ、ガーレルラーン二世への取りなしを頼んだのである。
二人はすぐに顔を突き合せて相談を行った。万が一にも話が外へ漏れないよう、人払いをした上で、さらに肝心な部分はぼかして話をした。そしてガーレルラーン二世のもとに報せが届き、彼が激怒していることを知るや、直ちに彼の下へ駆けつけたのである。
「それにしても、本当に良うございました。王妃様、重ね重ね、御礼申し上げます。お任せして正解でした」
ファティマが笑顔でそう礼を言うと、メルテムも微笑みながら鷹揚に頷いた。本当なら、二人は揃ってガーレルラーン二世の前に出、そしてイスファードへの寛恕を願うはずだった。しかし直前でメルテムが「自分一人で行く」と言いだし、ファティマは謁見の間の外で待つことにしたのである。
メルテムが一人で赴くことにしたのは、激怒するガーレルラーン二世の様子に違和感を覚えたからである。無論、彼の怒りは本物であったろうし、メルテムもまた肝を冷やしながら真剣に嘆願を行った。
だがそもそも激怒したからと言って、あのガーレルラーン二世があんなにも感情を露わにするだろうか。また彼はイスファードのことしか責めていない。兵を出したエルビスタン公爵家にはまったく触れていないのである。
(これは、恐らくはつまり……)
これはつまり、エルビスタン公爵家にはまだ触れたくない、と言うことなのだろう。メルテムはそう解釈した。公爵家を処罰すれば、北方の情勢は不安定になる。防衛線を抱え、さらに東のイスパルタ王国にも対処しなければならない現在、それは避けたいということなのだろう。
しかしながら、王命を無視した上に反逆者に敗北したのだ。何の懲罰もなしにこの件を終わらせるわけにはいかない。そこでイスファードだ。
イスファードに矛先を向けてのことならば、ガーレルラーン二世も怒って見せることができる。そして王妃であるメルテムが寛恕を願うのも不自然ではない。そんな計算が働いていたのではないか。彼女はそう思っている。
ガーレルラーン二世から何か合図があったわけでも、まして事前に協議していたわけでもない。だがメルテムは自分の推測に自信があった。そうでなければ彼が見え透いた嘘に騙されるわけがないのだ。
そう、イスファードが大怪我をし、そのために高熱を出してベッドの上で苦しんでいる、というのはメルテムがあの場でとっさについた嘘だ。カルカヴァンからの手紙には、そんなことは一言も書かれていなかった。
そして王太子がそれほどの大怪我したのであれば、そのことはガーレルラーン二世への報告の中にも当然書かれているはず。ゆえに彼は、それがメルテムの嘘であると、すぐに気づいたはずなのだ。
だが彼はそれを指摘することなく、むしろ受け入れてイスファードの処分を決めた。つまりその方が彼にとっても都合が良かった、ということだ。彼はきっとイスファードを王都から遠ざけて、ほとぼりが冷めるのを待つつもりなのだろう。
実際、イスファードにとっては王都クルシェヒルよりも公爵領にいた方が、ストレスが少ないに違いない。王都であれば様々な雑音が気になろう。だが公爵領なら、周囲には味方が多い。蟄居謹慎といえども、監視の目は緩いだろうから、のんびりと過ごせるはずだ。彼にとっては生まれ育った土地であるし、ゆっくりと傷心を癒やせばいい。
さらに、ガーレルラーン二世は自ら討伐軍を率いて、反逆者を討つつもりでいる。イスファードが敗北した以上、彼が王家の汚辱を雪がねばならないのだ。そして討伐が完了したその時には、王家の権威はアンタルヤ王国の建国以来最も高まっているに違いない。
それほどまでの権威があれば、イスファードを王太子位に戻したとしても、誰も文句は言えまい。そしてエルビスタン公爵家に対しても、大きな貸しを作ることができる。その意義は大きい。
何にしても、これでイスファードは守られたのだ。次に彼が王都へ戻ってくるのは、彼が王太子に返り咲くときだ。それまで会えないのは寂しいが、彼の未来が守られたことに、メルテムは大いに安堵していた。
さらに彼女は息子の妃であるファティマに対し、内心で多少の優越感を覚えていた。今回、ガーレルラーン二世の思惑を察した上でイスファードを庇ったのは、他でもないメルテムだからこそできた芸当といえよう。
ファティマには、無理だったに違いない。エルビスタン公爵家をイスファードの後ろ盾とするために、ファティマは彼と結婚した。もちろん、この婚姻は彼にとって大きな力となっている。
だがそれでも。本当に肝心なところで彼を支え、守り、慈しむのは、他でもない母であるメルテムなのだ。それが母の愛であり、献身なのだ。メルテムはそう固く信じて疑っていない。
(イスファード、私の大切な坊や。貴方は私が守る。そして必ずや貴方をアンタルヤ王国の国王にしてみせる)
だから何も心配しないで、とメルテムは心の中で呟いた。そして今回の顛末についてイスファードに手紙を送るため、彼女は自分の居室へ向かう。彼女の足取りは軽かった。
メルテム「これが母の愛!」




