養女
「呼び立てて済まなかったな、シェリー」
「いいえ、陛下。どうかお気になさらず」
シェリーはにこやかにそう応えたが、ダンダリオンの呼び出しが急であったのは事実だ。何しろ事前の先触れもなく、いきなり使者が屋敷へやって来たのだから。しかもその使者がルドガーだったことで、シェリーはたいへん驚くことになった。
急いで支度を済ませ、ベルノルトをヘレナに預けると、シェリーは迎えの馬車に飛び乗った。そして馬車が動き出すのが早いか、彼女は心配そうにしながらルドガーにこう尋ねた。
『あの、ルドガー様。もしやジノーファ様に何かあったのでしょうか……?』
『ああ、驚かせてしまって申し訳ありません、シェリー様。ジノーファ殿は、いえもう陛下とお呼びすべきですね。ジノーファ陛下は順調に国内を固めておられる様子でしたよ』
ルドガーはそう言って、セルチュク要塞でジノーファと会ったことを話した。彼の無事な様子を聞くことができて、シェリーはほっと胸を撫で下ろす。気がかりが晴れて、彼女の表情は明るくなった。
『それは良うございました。……ですがそれならば、ダンダリオン陛下はわたくしに何のご用なのでしょう?』
『さて、それは私も……。ただ、やはりジノーファ陛下のことと何か関係はあるのでしょう』
なにしろ、ルドガーがジノーファのことを報告したその場で、ダンダリオンはシェリーを呼び出すことにしたのだ。となれば、ただ近況を伝えるだけではないだろう。それだけならわざわざすぐに呼び出す必要はないし、そもそもダンダリオンが直々に伝える必要もない。
それだけなら今しがたのように、ルドガーに伝えさせれば良いのだ。しかし彼はそれが呼び出しの用件ではないというし、また何用かも聞いていないという。シェリーもさすがに怪訝な顔になった。
『わざわざルドガー様がいらしたのですから、何か前もって教えて下さるのだろうと思っていたのですが……』
『私が使者になったのは、もっと個人的な用事です。実は、ジノーファ陛下からシェリー様へ、言付けを預かって参りました』
『まあ! それでジノーファ様はなんと?』
たちまち、シェリーは目を輝かせた。そんな彼女に、ルドガーはジノーファから預かってきた言葉を告げる。
『「わたしの方も心配はいらない、二人とも愛している」。そう伝えて欲しい、と』
『ジノーファ様……』
伝えられた言葉を聞いて、シェリーはうっとりとした表情を浮かべる。字面だけ見れば他愛もない言葉だが、今の彼女には何よりも贈り物だった。
さて、宮殿に到着し馬車から降りると、シェリーはルドガーに案内されてダンダリオンの執務室へ向かった。そして部屋に入ったところで彼とは別れ、ダンダリオンに勧められてソファーに座る。華やかな香りの紅茶を一口啜ると、ダンダリオンがこう切り出した。
「最近はどうだ? ジノーファが即位してから、何か困ったことはないか?」
「少し、困ったお客様が増えました」
シェリーは苦笑してそう答えた。ジノーファがイスパルタ王国を建国したことを知り、そこに金や利権の匂いを嗅ぎつけた輩が屋敷まで押しかけて来るのだ。中には強硬手段を取ろうとする者もいる。この手の輩は以前からいたが、やはりここ最近になって特に多くなった。
「ふむ、どうしている?」
「昼間に正門を通って来る方にはヴィクトールが、夜中に壁を乗り越えてやって来る方にはわたしが、それぞれ対応しています」
シェリーはにこやかに微笑んでそう答えた。一方のダンダリオンは苦笑を浮かべる。そしてそのまま、さらにこう尋ねた。
「夜中の来客は、よくあるのか?」
「よく、というほどではありませんが、度々はございます。実は先日も三人ほどいらしたので、手厚くもてなして差し上げました。とても喜んで下さったので、そのまま庭に埋めてあります」
それを聞いて、ダンダリオンは喉の奥を鳴らすようにして笑った。そして「容赦がないな」と言ってさらに笑う。ひとしきり笑い、それから表情を引きしめると、彼は少し視線を鋭くしてこう尋ねた。
「どこの手の者か、分かるか?」
「身もとが分かるようなモノはなにも。恐らく、金で雇われた者たちでしょう」
「ふむ。では、そもそも依頼人のことは聞いておらんな。拷問しても無意味、か」
ダンダリオンのその言葉に、シェリーは小さく頷いた。つまり依頼を受ける者と、依頼を果たす者が別なのだ。窓口になっている者は依頼者のことを教えないから、仮に実行する者が捕まっても依頼人のことは答えようがない。
「相手の狙いは?」
「わたしか、ベルノルトか、そのどちらかでしょう。両方ということも考えられます。何しろ、夜中にお客様が来られるようになったのは、つい最近のことですから」
つまりジノーファがイスパルタ王国を建国したから、ということだ。それを邪魔に思ったり、不愉快に思ったりしている者がいる、ということなのだろう。そう言った者たちがジノーファの妻子を狙う、というのは十分に考えられることだ。
「で、あるか。よし、細作を何人か貸してやる。屋敷の警備をさせろ」
「ありがとうございます。実は近々、お願いしようかと思っていました。わたし一人では、そろそろ限界でしたので」
シェリーはそう言ったが、ダンダリオンが見る限り彼女にはまだ余裕がありそうだった。そもそも普通なら、暗殺者を差し向けられた時点で助けを求めそうなものだ。しかし彼女はそうせず、これまで一人で対処してきた。
自信があったのだ。そして、恐らくは情報も。ダンダリオンから助けを借りれば、独自で作り上げた情報網を彼に知られることになる。あるいはそれを恐れたのではないか。そこまで考え、ダンダリオンは内心で苦笑した。
(考えすぎだな……)
シェリーがジノーファのことを最優先しているのは、もう疑いようがない。しかし同じくらいダンダリオンに対して忠誠を抱いていることを、彼は確信している。だから彼女は渋ることなく助けを受け入れたのだ。
それに、近い将来、シェリーはマルマリズへ居を移すことになるだろう。その時、ガルガンドーに作った情報網は持って行けない。それで、その情報網を自分に委譲することが、彼女の最後の奉公なのではないか。ダンダリオンはそんな風にも思った。
「それにしても、ラヴィーネがいてくれれば、わたしももっと楽だったのですが……」
「ほう。ラヴィーネというと、あの白い狼だな」
「はい。あの子は曲者を見つけるのが上手なんです。一番大変だったのは、襲撃のタイミングを見計らうことでしたから」
襲撃があることを事前に掴んでも、いつ来るのか、正確な時間は分からない。気を張って待ち受けるほかなく、シェリーに言わせれば敵を倒すことより、その間集中力を切らさないでいることの方が大変だった。ラヴィーネがいれば、その負担も軽くなっていたことだろう。
「これからはその苦労も減るであろう。しかし、ふむ。そういうことならラヴィーネはジノーファと一緒にいて正解だったかも知れんな」
そう言ってダンダリオンがニヤリと笑う。それを見て、シェリーは逆にいぶかしげな表情を浮かべた。
「ジノーファ様の方にも、やはり曲者が? しかし警備は厳重なのではありませんか?」
「寝所に忍び込むのが曲者だけとは限らんぞ。どこぞの令嬢が夜這いをかけているやも知れぬ。衛兵どもも、目のやり場に困れば、通してしまうかもしれんぞ」
「まあ、はしたない」
「そうだな。薄い肌着で寝所に忍び込んだあげく、それすら乱して逃げているのだろうからな。確かにはしたない」
そう言ってダンダリオンとシェリーは楽しげに笑った。なお、本当にどこかの令嬢がジノーファの寝所に忍び込んでいるのか、二人には分からない。だがそう言うことが起こっていても、おかしくはないだろう。そしてその時、ラヴィーネが怒って吠えるとしても、やはりおかしくはない。
「しかしそうなると、ふむ、ヴァイスとノワールも期待できるか……?」
ダンダリオンが思案げにそう呟く。ヴァイスとノワールというのは、ラヴィーネが産んだ子狼のことだ。そして今は皇太子ジェラルドの息子ジークハルトがもらい受けて育てている。
皇族ともなれば、暗殺の危険は常につきまとう。母親であるラヴィーネがそれほどに護衛として優秀なら、その子供たちも期待できるのではないか。ダンダリオンはそう考えたが、シェリーは否定的だった。
「どうでしょう……。ラヴィーネはずいぶんダンジョンに潜っていましたから」
「なるほど。溜め込んだ経験値が違う、というわけだ」
シェリーは小さく頷いた。ラヴィーネの探知能力が生来のものなのか、それともダンジョン攻略をする中で後天的に身につけたものなのか、それは分からない。だがいずれにしても、レベルアップすることでその能力を強化していたことは確かなのだ。それを無視して同じ能力を期待するのは愚かなことだろう。
ダンダリオンも頷いて、その言い分には理解を示した。そして顎先を撫でながら少し考え込む。「一緒にやらせてみるか……」と呟いたので、ジークハルトは二匹を連れてダンジョン攻略をすることになるのかも知れない。
さて、そんな話をしているうちに、二人は一杯目の紅茶を飲み干した。二杯目の紅茶の香りを楽しみつつ、シェリーは出された菓子をつまむ。そんな彼女に小さく笑みをもらしてから、ダンダリオンは表情を引き締めて本題に入った。
「さて、シェリー。ジノーファのこと、ルドガーから聞いたな?」
「はい。お元気そうで、安心いたしました」
「なら話は早い。遠からず、マリカーシェルをジノーファに嫁がせる。本人にはすでに話してあるが、近いうちに使節団を派遣して正式に打診する」
ダンダリオンがそう言っても、シェリーは驚かなかった。マリカーシェルを娶るという話は、すでにジノーファから聞いていたからだ。そして彼に話したとおり、そのことを受け入れている。反対する理由はないし、そもそも反対できる立場でもない。
だが本音を言えば、寂しさを覚えずにはいられなかった。ジノーファの愛を疑ってはいない。だが彼が自分以外の女と閨を共にするのだと思うと、そしてその夜自分は一人で眠るのだと思うと、胸が締め付けられるように感じるのだ。
そのことをシェリーは誰にも話していない。話してしまえば、彼は優しいからきっと心を痛めるだろう。輿入れの話を白紙に戻そうとするかも知れない。そうなればジノーファとダンダリオンの関係は一気に険悪なものになるだろう。それはだれも望まない未来だ。
シェリーは細作だ。自分を押し殺すことには慣れている。内心でどれだけ嫌悪を覚えていたとしても、顔には蕩けるような笑みを浮かべられる自信がある。けれどもジノーファの専属メイドとなってからは、細作の心得を鍛える必要はなかった。きっとそのせいなのだろう。押し殺したはずのものが、わずかにこぼれ落ちた。
「では、いよいよでございますね」
シェリーは明るくそう言ったつもりだった。しかし彼女の声には寂しさが滲んでいた。そのことに、他ならぬ彼女自身が一番驚く。その驚愕はなんとか表に出さずに済んだものの、先ほどの言葉は聞かれてしまった。その証拠に、ダンダリオンは真剣な顔をして彼女にこう言った。
「シェリー、お前には感謝している。お前がしっかりとジノーファを捕まえていてくれたおかげで、帝国は悲願の貿易港にもうほとんど手が届いた。だからこそ、ここで掴み損ねる訳にはいかん」
だからこそ、マリカーシェルをジノーファに嫁がせるのだ。そうすればロストク帝国とイスパルタ王国は子供の代になるまで強い縁で結ばれる。その間に両国の交易が定着してしまえば、帝国はずっと貿易港の恩恵を受けることができる。
ただ、ダンダリオンが考えているのは、将来のことばかりではない。もっと直近のこと、つまりイスパルタ王国とアンタルヤ王国の戦争のことも、彼は考えていた。もしイスパルタ王国が劣勢に陥るようなことがあれば、ロストク帝国は二人の婚約を理由にして兵を出す。彼はそのつもりだった。
「イスパルタ王国は小国である。その国土は三〇州にとどかない。他国の無用な干渉を排するためにも、帝国が後ろ盾となっていることを明確に示さなければならぬ」
「それはもちろん理解しております。ですから陛下、成すべきことをなさって下さい」
シェリーは少し慌てた様子でそう言った。自分の下手な一言のために、ダンダリオンに気をつかわせてしまった。そのことに恐縮しているのだ。だが次に彼が口に出したことは、シェリーの想像の範疇を超えていた。
「そうか。ではシェリー、余の養女になれ」
「……は、え、はあ?」
「だから、余の養女になれと言ったのだ」
動揺しているシェリーの様子がおかしいのだろう。ダンダリオンはニヤニヤと笑いながらそう繰り返した。シェリーはしばらく混乱していたが、彼に言われたことを徐々に理解するにつれ、その顔からは血の気が引いていった。
「あ、あの、その、養女とは、一体……」
「つまり養子になれ、ということだ。ただ皇位継承権はないぞ」
「当たり前です!」
シェリーはついそう叫んだ。おかげで、顔に血の気が戻るが、誰に叫んでしまったのかを思い出してまた血の気が引く。赤くなったり青くなったり忙しい奴だな、とダンダリオンは思った。
「も、申し訳ありません……。で、ですが、なぜわたしが陛下の養女に、というお話になるのでしょうか……?」
「それはな、シェリー。そなたに、マリカーシェルのことを頼みたいからだ」
真剣な声と表情で、ダンダリオンはシェリーにそう告げた。彼の本気さが伝わり、シェリーは唾を飲み込む。そんな彼女に、ダンダリオンはやや嘆息しながら、さらにこう言葉を続けた。
「マリーは少々純粋に育ちすぎた。アレには味方が必要だ。シェリー、娘の味方になってやってくれ」
「それは、無論でございます。ですが、それは一言そうお命じくだされば良いのではありませんか?」
シェリーがそう言うと、ダンダリオンは首を小さく横に振った。そしてこう答える。
「ジノーファが一途に愛しているのはそなただ。こればかりは少し誤算だった。そして周りに仕える者どもは、そういう主の胸の内を忖度する。疎まれれば、正妻といえども粗略に扱われよう」
そんなことはない、とはシェリーも言えなかった。ダンダリオンが気にしているのはジノーファのことではなく、彼の周囲の者たちのことなのだ。シェリーも彼らのことはわからない。そしてジノーファとマリカーシェルの関係が微妙なものになれば、それはイスパルタ王国とロストク帝国の関係にも影響する。
ダンダリオンにしても、他国の奥の事情にまで目を配ることはできない。だからこそシェリーなのだ。ジノーファの寵愛を受け、傍で影響力を持つシェリーがマリカーシェルの味方となれば、彼女はイスパルタ王国でも穏やかに暮らせるだろう。
「シェリー。ジノーファとマリーの間を取り持ってやってくれ。このようなことは、そなたにしか頼めぬ」
そう言ってダンダリオンは小さく頭を下げた。シェリーは恐縮したが、同時に納得もする。つまり養女の話は、報酬であり保険なのだ。
ダンダリオンの養女となりその後ろ盾を得れば、イスパルタ王国でもシェリーを軽んじる者はいなくなるだろう。またマリカーシェルとは義理の姉妹になる。主君の娘であることも踏まえれば、無下な扱いはするまい。そう考えたのだ。加えて、養女なら養父に手紙を書いてもおかしくはない。そういうしたたかな計算もある。
「陛下。頭をお上げください。妹の幸せを願わない姉がおりましょうか。例え義理の関係であっても、姉妹とはそう言うものではありませんか」
シェリーはそう答えて、ダンダリオンの申し出を承諾した。それを聞いて、ダンダリオンは少しほっとした表情を浮かべる。そしてこう言った。
「助かる。マリーのこと、頼んだぞ」
「お任せ下さい」
シェリーは力強くそう請け負った。
シェリー「お嫁に行っても報告書を書きますわ、義父上」
ダンダリオン「お前はもう人妻だろう……。報告書も惚気七割、愚痴二割、要件一割ではなかろうな?」




