マルマリズ掌握
あまり大きな声では言えないが、マルマリズの太守ムスタファーは不正を働いている。つまり帳簿を操作して、本来王都クルシェヒルへ送るべき税収の一部を懐へねじ込んでいるのだ。また一部の商人から賄賂を受け取るようなこともしていた。
あまり、派手なことはしていない。つまり、帳簿の数字を大きく操作することはしないし、一部の商人をことさら優遇することもない。民衆に重税を課すなど論外だ。そんなことをすれば、一時的には大金が舞い込むものの、身の破滅を招くことになる。彼はそれを弁えていた。
露見しないように少しずつ、彼は不正を重ねて私腹を肥やしていった。一方、太守の仕事に手を抜くことはない。マルマリズが栄えていた方が、彼の懐に舞い込む金も多くなるからだ。国のためではなく、民衆のためでもなく、自分のために彼は太守の仕事に勤しんだ。
実際、ムスタファーは有能だった。ここ十年ほどのマルマリズの繁栄は、彼の手腕によるものと言っていい。ただ、だからこそ、彼は不正に手を染めたのかもしれない。「自分の仕事の成果を自分の懐に入れて何が悪い」。そういう意識があったのだろう。
そんな彼にも、警戒しなければならない相手がいる。マルマリズの守備隊長だ。現在はクワルドがその職についている。
これは一般論だが、太守と守備隊長は相互に監視し合う間柄だ。国法でそのように定められているのである。逆を言えば、守備隊長の目さえ誤魔化せれば、太守の不正が露見することはほとんどない。
この点、ムスタファーにとって理想的な守備隊長は、クワルドの前任者だった。彼はムスタファーの不正に加担していたのである。しかしその前任者は更迭され、代わりにクワルドが赴任してきた。
前任者の更迭理由は、「東域に跋扈する盗賊の取締りを怠ったため」。要するに職務怠慢であり、ムスタファーと共謀して働いた不正については触れられていなかった。とはいえ後ろ暗いところがあるわけだから、クワルドが赴任してきた当初、ムスタファーは彼を大いに警戒した。
さらにクワルドが盗賊団を速やかに討伐したことで、ムスタファーの警戒はさらに増した。彼が正義感に溢れる、暑苦しいタイプの守備隊長ではないかと思ったのだ。しかし、そうではなかった。
ムスタファーの見たところ、クワルドは典型的な武人である。戦うことこそが本分であり、政治には興味を持たず、また関わろうとしない。
魔の森に対する防衛線に援軍を送ろうとしているのも、端的に言えば戦いたいからであろう。ムスタファーはそう思っている。困ったものだと思いつつ、ムスタファーはクワルドの好きにさせている。彼が自分の見立て通りの人物であることに、ムスタファーはホッとしていた。
無論、マルマリズの守備隊長は要職であるから、政治と無関係ではいられない。太守と打合せをすることもある。クワルドはそういう仕事に手を抜くことはしなかったが、同時に熱心なようにも見られなかった。
「放っておけば、こちらに関わってくることはあるまい」
ムスタファーはそう結論した。関わってこないのであれば、それはそれで都合がよい。ムスタファーはクワルドを警戒しなくなり、また彼にとって不利な報告を王都へ送ることも避けた。
彼が更迭された場合、その後任がどんな人物になるのか分からないからだ。品行方正で高潔な人物が赴任してくるよりは、このままクワルドが守備隊長でいてくれたほうが、ムスタファーにとっては都合が良かったのである。
このように、ムスタファーにとってクワルドは都合のいい人物だった。少なくとも、今日この時までは。
この日、ムスタファーは西マルマリズにある太守府で執務に励んでいた。今日しているのは不正な数字の操作ではなく、真っ当な太守の仕事である。ランヴィーア王国とイブライン協商国の戦争のおかげで、ウファズを中心とした交易が一層盛んになっている。おかげでマルマリズの景気もよく、彼の懐も暖かい。
ムスタファーが景気のいい数字が並ぶ書類を見て機嫌を良くしていると、秘書官が執務室の扉を開けて「守備隊長が来ている」と告げる。ムスタファーは「珍しいこともあるものだ」と思いつつクワルドの入室を許可したが、その際彼は秘書官の顔が強張っているのを見逃してしまった。そして秘書官と入れ違いに、クワルドが部屋の中に入ってくる。
「失礼いたします、太守」
「ああ、守備隊長。今日は何用ですかな?」
「はっ……。それはそうと、何やら晴れやかなご様子。何か良いことでもございましたか?」
「ああ、交易が順調な様子でして。この調子なら、ずっと戦争をしていて欲しいくらいです」
本当に機嫌がいいのか、ムスタファーはそんな冗談まで口にした。クワルドとは必要最低限の付き合いと事務的な会話しかしてこなかったので、こんな会話をするのも珍しい。クワルドもその会話に乗って、こんなふうに言葉を返す。
「なるほど。では、マルマリズはさらに栄えますな」
「左様、左様」
「そして太守の腹もさらに肥えるという寸法」
「は、はは。た、確かにこの頃は下っ腹が肥えてきましたわい」
会話の行き先に不穏なものを感じたのか、ムスタファーの口の端が強張る。しかしそれでも彼は腹をポンと叩きつつ、努めて明るい声でそう応えた。しかしクワルドはその逃げを許さない。彼は厳しい声でこう言った。
「その下っ腹が脂肪で肥えているだけなら、小官は何も申しませぬ。ですが、金貨が詰まっているようであれば、看過することはできませぬ」
「な、何を……」
「この帳簿について、お伺いしたいことが山ほどあります」
そう言ってクワルドが取り出した帳簿を見て、ムスタファーの全身から血の気が引いた。それは厳重に保管しておいたはずの裏帳簿。不正の決定的な証拠である。
「そ、それ、それを、どこ、で……!?」
「やはり何か知っているご様子。拘束しろ。詳しい話は地下牢で聞かせていただく」
クワルドが命じると、守備隊の兵士たちが部屋に雪崩れ込んできてムスタファーを拘束する。彼は抵抗したが、あっという間に取り押さえられた。床に押し付けられた彼の視線の先では、秘書官が同じように拘束されている。この逮捕劇が周到に準備されたモノであることを、ムスタファーは薄っすらと悟った。
彼のその直感は当っていた。この同時刻に、リストアップされていた容疑者はほぼ全て逮捕されている。ムスタファーの私邸にも兵が差し向けられており、彼の夫人や子供たちが軟禁下に置かれた。
さらに、この他にも不正に関わった者たちがいるかもしれず、「彼らが都市外へ逃れるのを防ぐため」という名目で、都市への人の出入りが規制された。これにより、ムスタファーが不正を行っていたことが、マルマリズの全住民に明らかになったのである。
さらに警備が強化されことで、抜け荷などの不正を行っていた商人の摘発など、別方面でも成果があった。とはいえ、これは余談であろう。
「鮮やかな手並みだな、クワルド」
「はっ。ですが全てはここからです、ジノーファ様」
クワルドの言葉にジノーファは頷く。ダーマードをはじめとする東域の貴族たちには、すでに手紙を送っている。事の次第を説明し、マルマリズで独立と建国の宣言を行うと記した手紙だ。手紙を届けてくれるのは守備隊の伝令兵たちで、表向きはクワルドからの書状と言う事になっている。これでジノーファの言いたいことは伝わるはずだ。
「……賽は投げられた。準備を進めよう、クワルド」
「ははっ」
たとえ書状を送った貴族が誰一人来なかったとしても、独立と建国を宣言し東域を制圧する。ジノーファはその覚悟だった。
□ ■ □ ■
マルマリズ守備隊の伝令兵が屋敷を訪れ、守備隊長クワルドからの書状を差し出したとき、ダーマードは胆をすりつぶされるような想いを味わった。そして封を破り、中身を検めてそれがジノーファからの手紙であると気付いたとき、彼の心臓は爆発しそうになった。
「なっ……、い、一体……!?」
全身から汗が噴き出る。頭が混乱して、考えがまとまらない。それでもともかく手紙を読み進め、一度読んだだけでは信じられず二度三度と読み返し、どうやら自分の読み違いではなさそうだと理解したところで、彼は脱力してソファーに座り込んだ。
「なんとも、まあ……」
ダーマードは乾いた笑みを浮かべる。もはや笑うしかない。ただそのおかげで、少しだけ混乱が収まった。それから彼はもう一度手紙を読み返す。そこにはおおよそ次ぎのようなことが書いてあった。
『独立とイスパルタ王国建国の件だが、マルマリズ守備隊長のクワルドも協力してくれることになった。すでに太守のムスタファーは拘束してある。ついてはマルマリズで独立と建国の宣言をするので、こちらまで来て欲しい』
マルマリズは東域の中心都市。ここをどうやって落すかは、独立後の最大の懸案だった。幸い、クワルドとジノーファの間には浅からぬ縁があるので、その筋で彼を調略できれば、とダーマードは考えていた。
考えていたのだが、手紙を読む限りでは、ジノーファがさっさと自分でやってしまったらしい。軍事的な観点から見れば、大変喜ばしいことだ。なにしろ、あの難攻不落のマルマリズを攻めなくて済む。あくまで、手紙が本当であれば、だが。
「ともかく、対応を相談せねばならんな……」
そう呟き、ダーマードは腰を上げた。ただ、事が事だけに、滅多な相手に相談するわけにはいかない。それで彼が相談相手に選んだのは二人、叔父と息子だった。
いや、実のところダーマードが助言を期待しているのは叔父の方だ。息子のメフメトは、どちらかというと経験を積ませる意味合いの方が強い。これから先、ダーマードに何かあったときには、彼がネヴィーシェル辺境伯家を背負って立たねばならないのだから。
まあ、それはそれとして。叔父の名前はスレイマンという。彼の兄、つまりダーマードの父とは十四も歳が離れていて、兄よりも甥のほうに歳が近い。それでダーマードも子供の頃は、この叔父を歳の離れた兄のように慕っていた。
スレイマンは高官として王宮に仕えていたことがある。子供はおらず、妻に先立たれたのを機に、王都から辺境伯領へ戻ってきたのだ。およそ四年前のことである。以来、彼は悠々自適の隠居生活なのだが、高官として働いていた彼の知見はダーマードにとっても貴重なもの。それでダーマードは困ったことがあると、彼に相談するようになっていた。
「なるほどのぅ」
ダーマードから一通り話を聞くと、スレイマンは整えられた顎鬚を撫でながらそう呟いた。そしてそのまま考え込む。ダーマードは彼が口を開くのを待ったが、彼より早く口を開く者がいた。メフメトである。彼は憤慨した様子で、ダーマードにこう言った。
「勝手にこのようなことを仕出かすとは……! ジノーファ卿は父上をないがしろにしています! 抗議の意思を示すためにも、行くべきではありません!」
目を怒らせる息子の姿を見て、ダーマードは「若いな」と思った。ただ「ないがしろにしている」というのは、あながち的外れではない。ダーマード自身、そう思わないわけではないのだ。
建国の誓詞に名前を連ねた自分たちに一言の断りもなく、ジノーファはクワルドを口説き落としてマルマリズを手に入れてしまった。その上、そのまま独立と建国の宣言までするという。メフメトの言うとおり、これはダーマードらをないがしろにする行為である。少なくとも、面白くはない。
「むう……」
「だいたい、なぜジノーファ卿なのですか!?」
腕を組んで唸るダーマードに、メフメトはそう詰め寄った。そしてさらにこう言葉を続ける。
「東域を独立させ、新たな王国を建国するのであれば、発起人である父上こそが王となるべきではありませんか! 我がネヴィーシェル辺境伯家は、もとを辿ればこの地を治めた王家の血筋。再び王権を司るになんの不思議もありませぬ。
ですがジノーファ卿は、いかに聖痕持ちとはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ輩です! しかも一欠けらの領地も持ちませぬ。英傑を招いて将として遇するならともかく、浪人を王として迎えるなど、正気の沙汰とは思えません!」
「口を慎めっ、メフメト!」
さすがに、ダーマードはメフメトを叱責した。身内しかいない場だから良かったようなものの、これが外へ漏れ聞こえれば、辺境伯家はあっという間に孤立してしまう。その先にあるのは滅亡であり、それだけは避けなければならない。
「……ジノーファ様を王としてお迎えするのは、皆で話し合って決めたこと。あの方のほかに、全員が納得できる者はいないのだ」
「ですが父上、このやり様は……!」
「……そのジノーファ様のなされたことについてだが、ダーマードよ、此度の一件で辺境伯家は何か不利益を被ったか?」
父と子のやり取りに割って入り、そう尋ねたのはスレイマンだった。ダーマードは少し考えてからこう答える。
「……いえ、不利益は被っていません。それどころか、マルマリズ攻略のために見込んでいた予算が丸ごと浮きました」
「うむ。仮にマルマリズを攻略したとして、そこは天領となる。であれば、ジノーファ様はご自分の領地をご自分で切り取られたのじゃ。我らが目くじらを立てる理由がどこにある?」
「ですが大叔父上、これは面子の問題であって……」
「面子の問題など、今はどうでもよろしい。そもそも、これまで散々手を貸していただいたのじゃ。今更、取り繕う必要もあるまい」
「ですな……」
叔父の言葉に苦笑を浮かべながら、ダーマードは小さくそう呟いた。スレイマンの言う通り、ジノーファには事あるごとに世話になってきた。彼に対し辺境伯家は、恩はあれども貸しはない。であれば、実害もないのに面子がどうのと言っている場合ではないだろう。
「では、やはり……」
「うむ。マルマリズへ行くのが良かろう」
ダーマードとスレイマンはそう結論を出した。メフメトは承服しかねる様子ではあったが、一度決まってしまった結論は覆らないと分かっているのだろう。苦々しい顔をしつつ、ため息を吐いてこう言った。
「では、兵の手配を……」
「いや、それには及ばぬ。兵は最小限の護衛のみ。馬を駆けさせるゆえ、馬車も要らぬ」
ダーマードはそう言ってメフメトを制した。彼は腹を据えていた。こうなったら、とことんジノーファを支持する。そう覚悟を決めたのだ。
「ですが父上、それではネヴィーシェル辺境伯家の威厳を示すことができません! それにこの件自体が罠かも知れないのですよ!? いざという時に兵がいなくては……!」
「罠ということはあるまい。罠を張るのであれば、わざわざジノーファ様の名前を使うような、手の込んだ真似はしないはずだ。逆に警戒されてしまう。今のお前のようにな」
ダーマードがからかうようにそう言うと、メフメトは「うっ」と言葉を詰まらせ、面白くなさそうな顔をした。そんな息子に、ダーマードはさらにこう告げる。
「それに、叔父上も言ったであろう。面子など、今はどうでもよい。今は一刻も早く、マルマリズへ赴くことこそが肝要なのだ」
ダーマードの言葉にスレイマンも頷く。どうやら彼も同じ意見のようだ。それを見てダーマードは自信を深めた。
その日のうちに、ダーマードは準備を整えてマルマリズへ出発した。建国の誓詞を携え、十騎にも満たない護衛を引き連れて、彼はマルマリズを目指す。
メフメトは同行していない。万が一のことを考え、彼には留守居役が命じられていた。さらに兵を集めて軍備を整えることも任されている。この先、必要になるからだ。その点に関しては、メフメトも異論はなかった。
ダーマード「おったまげた……」




