マルマリズの守備隊長2
顔を洗ってまいります、と言ってクワルドは一度席を外した。戻ってきたときにはもう彼の涙は止まっていたが、眼は赤いまま。だがそれを気にせず、彼はジノーファに対して一礼した。
「お見苦しいところをお見せしました。……改めまして、ジノーファ様。ようこそ当家へお越しくださいました。それで、いかなるご用件でしょうか?」
いささか視線を鋭くして、クワルドはジノーファにそう尋ねた。彼はここ、アンタルヤ王国において国外追放処分とされている。つまり彼が今この場にいることそれ自体が、一つの犯罪行為だ。
無論、クワルドにそれを取り締まるつもりはない。だが大きな危険を冒してまで、ジノーファは彼に会いに来た。その用件が、重大でないはずがない。
「実はクワルド殿。今日は貴方に、助力を頼みに来た」
「助力、でございますか?」
クワルドはそう聞き返した。いぶかしんだわけではない。会話を進めるための、ただの相槌だ。だが次に続くジノーファの言葉は、彼の想像の範疇を超えていた。
「そうだ。わたしはアンタルヤ王国の東域を独立させ、新たな国を建てる。ついてはクワルド殿、わたしに力を貸して欲しい」
「なん、と……!?」
ジノーファの言葉を聞き、クワルドはさすがに絶句した。彼だけではない。ジノーファとユスフを除くその場の全員が、彼と同じように驚いて言葉を失っている。そんな彼らに、ジノーファは詳しい事情を説明した。
「……ネヴィーシェル辺境伯が、そのようなことを……」
ジノーファの話を聞いて、クワルドはそう唸った。次男バハイルからの報告で、ダーマードとジノーファの間に繋がりがあることは知っていた。しかしまさかこんな大それた事を企んでいたとは、想像さえしなかった。
「…………幾つか、お伺いしたいことがあります」
何度か口を開けたり閉じたりした後、クワルドはまずそう言った。ただ質問することによって、事の是非を見極めてやろうなどとは思っていない。正直、ジノーファの話が大きすぎて、彼の頭の中はまだ混乱しているのだ。質問は時間稼ぎの意味合いが強かった。
「もちろんだ。何でも聞いてくれ」
「ではまず、ジノーファ様はどのようにして辺境伯と誼を得られたのですか?」
「それを話すと少し長くなるのだけど……」
そう前置きしてから、ジノーファはダーマードと誼を得るに至った事情を説明した。最初の接触はダーマードからだったこと。当初彼と会うつもりはなかったこと。しかしダンジョンの隠し通路を見つけるなど偶然が重なり、結果として防衛線で彼と面会することになったのだ、とジノーファは話した。
「なるほど……、そんなことが……。それで辺境伯とはどんな話をされたのですか?」
「あの頃、ダーマードは防衛線の維持に四苦八苦していた。それで、その負担を軽くしたいから、協力して欲しいと言われたんだ。具体的にはダンジョン攻略だな」
ジノーファのその言葉は、クワルドにとって納得できるものであると同時に、驚くべきものだった。ダーマードが防衛線の維持に苦慮していたのは事実だから、その件についてジノーファに相談するのは理解できる。
問題はその後だ。報告によれば、ダーマードが維持している防衛線の負担は、実際に軽くなっている。ということはつまり、これまでの話からして、その立役者はジノーファという事ではないか!
「ジノーファ様が魔の森を鎮められたのですか!?」
「そんな大それたことはしていないさ。まあ、その取っ掛かりに関わるくらいのことは、したかもしれないけれど」
身を乗り出すクワルドに、ジノーファは苦笑しながらそう答えた。そしてラグナとの出会いや、アヤロンの民を辺境伯領へ移住させたことを話す。それらの話を聞き終えると、クワルドはしみじみとこう呟いた。
「やはり、全てはジノーファ様のおかげだったのですね……」
「いや。一番偉いのは、いま現実に防衛線で戦い、そして魔の森のダンジョンを攻略している人たちだ。わたし一人がやったことなど、たかが知れている」
ジノーファは小さく首を振りながらそう応えた。彼に謙遜のつもりはない。きっかけぐらいは作ったかもしれないが、それだけで防衛線の負担が減ったわけではないのだ。実際に防衛線で戦い、ダンジョンの攻略を進めた人たちがいたからこそ、その結果につながったのである。その手柄全てがジノーファのもの、というのは過大評価だろう。
だがクワルドは、そうは思わなかった。話を聞く限り、ジノーファがいなければ現在の結果は導かれなかっただろう。彼の代わりとなって、同じ働きができる者がいたとも思えない。ジノーファは唯一の働きをしたのであり、それは彼が考えている以上に評価されるべきものだ。
ただ、そう言ってもジノーファは謙遜するばかりだろう。加えて、今はそういう話をしているわけではない。クワルドは口を開きかけ、そのままつぐんだ。そして少し考えこんでから、彼は続いてこう尋ねた。
「ですが、こう言っては失礼ですが、辺境伯がそれだけのことで、ジノーファ様を王として国を興そうと考えるとは思えません。何か、別の縁があったのではありませんか?」
「密貿易だな。最近はそちらで関わることの方が多かった」
さらりとそう告げられ、クワルドは絶句した。そんな彼に、ジノーファは悪戯が成功した子供のようにはにかむ。それからジノーファは密貿易についても、彼に説明した。
「……なるほど、表層域と収納魔法を利用した密貿易、ですか」
難しい顔をしながら、クワルドはそう呟いた。辺境伯領へ流れる物資の量が多くなっていることは、彼も掴んでいた。ただそれは、ダーマードの派閥が拡大したことで、防衛線の維持に物資を潤沢に使えるようになったのだろう、とクワルドは解釈していたのだ。
実際、そういう側面があったのは事実だ。ただ、それを隠れ蓑にして、密貿易も行われていた。クワルドはそれに気付けなかったことになる。
(まあ、今更か……)
そう思い、クワルドは内心でため息を吐いた。密貿易が防衛線維持のために役立っていた側面もあり、彼としては複雑な心境だ。守備隊から援軍を出せていれば、ダーマードも密貿易に手を出そうなどとは思わなかったかもしれない。
それにこの際、重要なのは密貿易そのものではない。密貿易で利益を見せつつ進められていた、ロストク帝国による調略のほうが大きな問題だ。その責任者はシュナイダー第二皇子。帝国側の本気が窺える。
東域にはすでに、ずいぶんと深くロストク帝国の手が伸びているに違いない。だからこそ貴族たちは、独立に際し帝国の助力を期待しているのだろう。仮に独立の陰謀を阻止したとして、今度はロストク軍がやって来るだけだ。東域の情勢は、クワルドが思う以上に差し迫っていた。
それからさらに、クワルドはジノーファに幾つかの質問をした。一通りの説明を聞き終わり、クワルドは腕を組み改めて考え込む。背景となる情報は、大よそ聞くことができた。それでいよいよジノーファの真意を確かめるべく、クワルドは彼にさらにこう尋ねた。
「ジノーファ様は何を思って、そして何をするために、国を興そうと思われたのですか? まさか辺境伯らの利益を守ってやるためではありますまい」
「これはダンダリオン陛下にも話したことだが、わたしはなるべく混乱の少ない方法を選びたいと思っている」
「……それは、ロストク帝国が武力侵攻してきた場合を念頭においての話でしょうか?」
「それもある。あとはやっぱり、魔の森のことだな」
そう言うと、ジノーファは少しだけ身を前に乗り出した。そして真剣な顔をしてクワルドを見て、こう言葉を続けた。
「この機会だ。クワルドにはもっと詳しく話そう。わたしは魔の森について、もっと危機感を持つべきだと思っている」
「危機感、とおっしゃいますと……?」
「魔の森の活性化は、干ばつや洪水と同じ、天災だとわたしは思う。だが知ってのとおり、表面的には人の力で対処が可能だ。だからこそ皆、その脅威の度合いを見誤っているように思うんだ」
干ばつや洪水は、一度起これば人間は何もできない。だが魔の森の活性化は、ともかく武器を持って立ち向かうことができる。それが「魔の森はコントロールできる」という幻想を、為政者に抱かせているのではないかとジノーファは思う。だからこそ、それを政争の具にして派閥争いなどやっていられるのだ。
「カルカヴァンもダーマードも、ともかく水際での対処ができているから、今度はその状況を利用しようと考えるんだろう。ガーレルラーン二世もそうだ。この状況を利用して、貴族の力をそごうとしている」
「……やはり、ジノーファ様もそうお考えでしたか」
そう言って、クワルドは少々苦いため息を吐いた。ジノーファが言ったことに、クワルドもまた薄々勘付いていたのだ。
ガーレルラーン二世は、王太子イスファードとエルビスタン公爵カルカヴァンに対し、全国の貴族から人員や物資を徴発する権限を与えた。二人はそれを最大限活用し、防衛線維持のために必要な分以上の富を集め、それによって派閥を強化している。
またクワルドに対し、ダーマードに援軍を送ることを禁じた。これにより、ダーマードは自身の派閥の力だけで、防衛線を維持しなければならなくなった。ジノーファの活躍もあってその負担は軽くなったとはいえ、その状況は現在に至るまで変わっていない。
さて、この状況を俯瞰し全体を眺めていると、防衛線は主に貴族たちの力によって支えられていることが分かる。イスファードに近衛軍から部隊を貸し与えている以外、ガーレルラーン二世は何もしないで力を温存しているのだ。
しかもガーレルラーン二世は優良な貿易港を天領として確保しており、そこから莫大な富を得ている。無論、その全てが彼の権勢を強化するために使われているわけではない。ただ相対的に見て、貴族の力は弱くなり、一方王家の力は強くなっている。
無論、貴族の力を殺ぐことだけが、ガーレルラーン二世の目的ではないだろう。彼の思惑のすべては、やはり読みきれない。だが彼が魔の森の活性化を利用してこの状況を作り出したことは、ほぼ間違いない。ジノーファとクワルドの意見は、この点で一致していた。
「つまりジノーファ様は、そういう陛下のやりようが危ういと思われるので?」
「いや、もっと根本的な話だ。魔の森は突然活性化した。なら今のバランスだって、いつ崩れるか分からない。そして表層域にのまれた土地は、元には戻らない」
それを聞いて、クワルドはジノーファの懸念を理解できたような気がした。きっとジノーファには、魔の森がいつ決壊するか分からない堤防のように見えているのだろう。そして一度決壊すれば、その堤防を修復することは不可能なのだ。水浸しになった土地は、つまり表層域にのまれた土地は、彼の言うとおり元には戻らない。
少なくとも、現在元に戻す方法は見つかっていない。アヤロンの民やロストク軍が魔の森でダンジョンの攻略を進めているが、多少の鎮静効果はあったものの、表層域を元に戻すことはできていないのだ。
一度表層域にのまれたら、もう取り返しはつかない。それなのにアンタルヤ王国の有力者たちは、派閥争いや勢力争いで躍起になっている。傍から見ているジノーファにすれば、「そんなことをしている場合ではないのに」と思ってしまうのも当然だろう。
「防衛線が持ちこたえている今のうちに、次の手を打たなければならない。わたしはそう思う」
「……つまりジノーファ様は、それをなさるために国を興されるわけですか?」
「いや。魔の森だけが気がかりなら、わたしはきっとダンダリオン陛下の下で戦っていたよ」
予算と権限を貰い、対策を講じるのだ。そうすれば、魔の森のことだけを考えていられる。だが国王ともなれば、魔の森のことだけを考えていればいいわけではない。そしてジノーファもまた、魔の森のことだけを考えていたわけではなかった。
「ロストク帝国にいる間、いろいろと見聞きしたし、本も読んだ。時間はあったからな。……試してみたいことは、結構あるんだ」
「どのようなアイディアがあるのか、お伺いしても?」
「ああ、まずは……」
ジノーファはロストク帝国にいた間に暖めておいたアイディアを、クワルドに話して説明していく。経済政策に、貧困対策、識字率向上のための方策に、中央集権化を進めるための策略まで。
考えても実行に移す日は来ないと思いつつ、気付けばそんなことばかり考えていたような気がする。そしてこうして口に出して語ることで、あやふやだったそれらのアイディアは明確に輪郭を持ち始めているように、彼は感じた。
「なる、ほど……」
若干仰け反りながら、クワルドはそう相槌を打つ。次々と話されるアイディアと、それを説明するジノーファに、彼は圧倒されていた。
クワルドは武官だ。政を語るのは専門ではない。しかし完全な門外漢では、マルマリズの守備隊長は務まらない。太守の話についていける程度には、その知識を有している。
そのクワルドをして、ジノーファの話は聞くだけで精一杯だ。彼とまともに議論を交わせる人間がマルマリズに、いや王都クルシェヒルにさえ、一体何人いるだろうか。
「……もちろん、わたしが生きている間にこの全てを実現できるとは思わない。だけど魔の森の活性化のことも含めて、旧来のやり方ではもう限界が来ているんだと思う。新しい体制が必要だ」
「……そこでなぜ、イスパルタ王国の建国、という話になるのでしょうか? アンタルヤ王国を内側から改革していけばよいのではありませんか?」
クワルドは最も気になっていたことをそう尋ねた。王座に着きたいのなら、わざわざ国を興す必要はない。ガーレルラーン二世を追い落としてしまえばよいのだ。ロストク帝国の後ろ盾と戦力があれば、それも可能だろう。しかしジノーファは首を横に振ってこう応えた。
「それも、考えた。だけどやはり、わたしはアンタルヤ王国に何の権利も持たぬ者だ。国法に沿わぬ仕方で王冠を被れば、それは悪しき先例となる。それに、いたずらに戦火を拡大させるのは、わたしとしても望むところではない。ガーレルラーン二世との間で講和が実現するなら、それはそれで良いと考えている」
つまりガーレルラーン二世がイスパルタ王国を正式に国と認め、不可侵条約などを結ぶつもりがあるのであれば、必ずしもアンタルヤ王国全体を狙うつもりはない、と言うことだ。ただそれを聞いても、クワルドは少々懐疑的だった。
「陛下が交渉に応じるとは、思えませんが……」
「まあ、その時はその時だ。……あとはそうだな、個人的な気分の問題かな?」
「と、おっしゃいますと?」
「簒奪者と呼ばれるよりは、侵略者と呼ばれるほうが、まだ気が楽でね」
ジノーファが肩をすくめてそう話すと、クワルドはつられるようにして小さく笑う。張り詰めていた肩から、ふっと力が抜けた気がした。
「話すべきことは、だいたい話した。クワルド殿、返答を聞かせてくれ」
「期待以上のお答をいただきました。もとよりこの命はジノーファ様に救われたもの。不肖クワルド、非才の身ではありますが、誠心誠意、お仕えさせていただきます」
「ありがとう、クワルド。これほど心強い味方はいない」
ジノーファはほっとした様子で微笑み、そう言って傅くクワルドの手を取った。クワルドもまた、彼の手を強く握り返す。
この日、ジノーファは片腕となる忠臣を迎え、クワルドは生涯の主のもとへ納まった。
ユスフ(へぇ、ジノーファ様はそんなこと考えてたんだ……)




