急転
大統暦六三八年。遠征軍が魔の森で戦った、その年の冬。ジノーファの屋敷は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。シェリーがいよいよ産気づいたのである。
すぐさま、医師と産婆が呼ばれた。そして彼らの指示で清潔なシーツとお湯が準備される。屋敷の中は、たちまち騒然となった。
そんな中で、ジノーファは一人、書庫にいた。諸々の手配は全て家令のヴィクトールが行っており、彼はやることがない。出しゃばっても邪魔にしかならないので、こうして書庫で静かにしているのだ。
だからと言って、彼が緊張していないわけではない。むしろやることがないからなのか、彼が屋敷の中で一番緊張していたし、また大きな不安を抱えていた。何しろ本を二冊、逆さまに読んでいるくらいである。シュナイダーがこの場にいたら、喉の奥を鳴らして笑っていたに違いない。
当然、内容はちっとも頭に入らない。そもそもジノーファは視線を本に向けてはいても、目で文字を追ってはいなかった。むしろ意識は耳のほうに集中している。ただ、そのせいで屋敷の中の喧騒も聞こえてしまい、それがまた彼の不安をかきたてた。
(シェリーは……)
シェリーは無事に子供を産んでくれるだろうか。出産が女性の一大事であることは、ジノーファも知識として知っている。その一大事に今、最愛の人が臨んでいるのだ。何もできない自分が、彼はもどかしかった。
もちろん、ヴィクトールが準備を万端に整えてくれていることは分かっている。彼の仕事に手抜かりはない。またシェリー自身もマナの吸収を繰り返し、成長限界に達している。その分、体力もあるし、身体も丈夫だ。望みうる限りの環境と条件は揃っている。だがそれでも。心配なものは心配なのだ。
じっとしていられなくなり、ジノーファは本をテーブルの上に置くと、書庫の中をウロウロと歩き回る。扉を少しだけ開けて部屋の外をうかがい、そしてまたそっと扉を閉める。そんなことを繰り返しているうちに、待ちに待った赤子の泣き声が屋敷の中に響いた。
「っ!?」
その瞬間、ジノーファは駆け出した。廊下を駆け抜け、シェリーのいる部屋を目指す。中へ駆け込もうとするが、しかし部屋の前でリーサが待ち構えていて、両手を突き出しながら彼を押し留めた。
「だ、旦那様! もう少し、もう少しだけお待ちください!」
ジノーファは一瞬頭に血が上りかけたが、しかしすぐに冷静さを取り戻した。部屋の中からは相変わらず元気な泣き声が聞こえてくるし、それに混じってシェリーの声も聞こえている。二人とも無事であることがわかり、胸を撫で下ろしたのだ。
「良かった……。二人とも無事そうで、本当に良かった……」
「はい、旦那様。シェリー様にも、そう言ってあげてください」
リーサの言葉に、ジノーファは小さく頷いた。そうこうしている内に、部屋の中からヘレナが顔を出し、ジノーファを中へ呼んだ。
ジノーファが部屋の中に入ると、シェリーはベッドの上で身体を起こしていた。腕にはおくるみに包まった我が子を抱いている。彼女はジノーファの姿を見つけると、その子を彼に見せながらこう言った。
「男の子ですわ、ジノーファ様」
そう告げるシェリーの顔は優しげで、達成感に溢れ、そして何よりも輝いていた。ジノーファはシェリーに近づくと、枕元に腰掛け、彼女の腕の中にいる生まれたばかりの赤ん坊を覗き込む。
「あ……」
ジノーファの口から声がこぼれた。くしゃくしゃのその顔は、お世辞にも可愛いとは言い難い。けれどもその子が、そして自分の子を産んでくれたシェリーが、ジノーファは愛おしくてたまらなかった。
ジノーファはシェリーを子供と一緒に抱きしめた。本当は力一杯抱きしめたかったが、それでは子供が潰れてしまうかもしれない。優しく、優しく、抱きしめる。それが嬉しいのか、シェリーは微笑みながら彼の胸に頭を預けた。そんな彼女に、ジノーファはこう告げる。
「二人が無事で、本当に良かった……」
「はい」
「それから、ありがとう。シェリー」
「はい、ジノーファ様」
この日、ジノーファの屋敷で新たな命が生まれた。薄っすらと生える髪の色は、シェリーと同じ黒。瞳の色はまだ分からない。あらかじめ決めていた通り、「ベルノルト」と名付けられた。
そしてジノーファは父親になった。
□ ■ □ ■
ベルノルトが生まれた大統暦六三八年の冬。その同じ冬のある日のこと、ランヴィーア王国の帝都駐在大使がロストク帝国皇帝ダンダリオン一世に謁見を申し入れた。申し入れが行われたのは朝早くで、その日の午後には謁見が実現している。普通、皇帝への謁見と言えば数ヶ月待たされることもザラだ。当日の午後に謁見が実現していることは、両国の強固な同盟関係を如実に表していると言っていい。
「それで、此度の謁見は何用かな、大使殿」
無理にスケジュールを調整した影響もあるのだろう。ダンダリオンは簡単な挨拶を済ませると、すぐさま本題に入るよう大使を促した。大使も心得たもので、一つ頷くと簡潔に要件をこう述べた。
「オーギュスタン二世陛下より、援軍の要請にございます」
「……援軍、とな。ランヴィーア王国が兵を動かしているとは、寡聞にして聞き及んでいないが」
「はっ。わたくしの言葉が足らず、申し訳ありません。つまり将来的に、具体的に申し上げれば来年の初夏の頃となりましょうか、オーギュスタン陛下は大規模に兵を動かされるおつもりです。つきましては同盟条約に基づき、我が国はロストク帝国に援軍の派遣を要請いたします」
大使の話を聞くと、ダンダリオンは「ふむ」と小さく呟き、思案げに顎先を指で撫でた。そして援軍の派遣についてはすぐには答えず、代わりにこう尋ねる。
「オーギュスタン陛下は、どこへ兵を送られるおつもりだ?」
「それは無論、イブライン協商国でございます」
「で、あろうな」
聞くまでもないことであった。ランヴィーア王国は内陸国だ。それで長年、海を欲している。特に貿易港と塩田。この二つを手に入れることは、ランヴィーア王国の悲願であると言っていい。オーギュスタン二世はその悲願を果たすべく、いよいよ大軍を催すつもりなのだ。
「相分かった。こちらでも準備を進めておこう」
「ははっ。こうしてダンダリオン陛下より格別のご配慮をいただいたこと、ランヴィーア王国を代表して御礼申し上げます」
「うむ。さすれば大使殿。本国より遠征計画について何かしらの報せがあれば、すぐに知らせてもらいたい」
「承知いたしました」
最後にオーギュスタン二世からの親書の受け渡しが行われ、ダンダリオンと大使の謁見は終わった。比較的短時間の謁見だったが、しかしその内容は重大である。ダンダリオンは執務室へ戻る途中、少々忌々しげに舌打ちをもらす。大使と話をしている間は我慢していたが、堪えきれなくなったのだ。
ダンダリオンは執務室に戻ると、机には向かわず、ソファーにどっかりと腰を下ろす。そして親書の封を切り、中身を確かめた。親書の内容は、大よそ大使が話したとおりの事柄。さらに「遠征軍は十万規模になる」とも書かれていた。
(よりにもよってこのタイミングか……!)
親書を読み、ダンダリオンは眉間のシワを深くした。正直、狙っているとしか思えない。ともあれここで激高しても何にもならぬ。ふう、と大きく息を吐いて気を落ち着かせ、少しの間考えをめぐらせる。そして考えがまとまると、彼は部屋の隅で縮こまっていた侍従にこう命じた。
「ジェラルドとシュナイダーを呼べ」
呼び出された二人が、揃ってダンダリオンの執務室に現れたのは、およそ三十分後のことだった。その時にはダンダリオンも平静を取り戻しており、二人の息子が現れたときには机に向かい、書類の決裁を行っていた。
「来たか。まあ、座れ」
ダンダリオンは二人の息子をソファーに座らせると、自身はテーブルを挟んだその反対側に座った。そしてお茶が用意されるのを待たず、彼らにオーギュスタン二世からの親書を見せる。親書を読んだジェラルドとシュナイダーは、それぞれこう反応した。
「これは……!」
「やるなぁ、あのおっさん」
少々不謹慎な発言をした弟を、兄がぎろりと睨む。シュナイダーが大げさに肩をすくめると、ジェラルドはもう一度親書に目を通した。そして眉間にシワを寄せ、文面を睨みつけながらこう呟いた。
「よりにもよって、このタイミングですか……」
それは奇しくも父ダンダリオンと同じ感想だった。彼らが同じ感想を覚えたのは偶然ではないし、まして親子だからでもない。ロストク帝国もまた、貿易港を求めてアンタルヤ王国へ侵攻する計画を立て始めていたのである。言ってみれば味方であるはずの同盟国から横槍を入れられた、あるいは機先を制された格好だった。
「まあ、このタイミングだからこそ、なのだろうよ」
ダンダリオンは苦笑を浮かべながらそう応えた。ロストク帝国とランヴィーア王国は興亡を共にする盟友ではない。共に貿易港を求めているために手を結んだ関係であり、利害で結びつく同盟だ。
無論、ロストク帝国第三皇子フレイミースとランヴィーア王国第一王女シルフィエラの婚姻によって、両国はかつてないほど深く、そして強固に結びついている。どちらかが一方的に同盟を破棄することはありえないだろう。しかしだからと言って、自国の利益よりも相手国を優先することなど、期待できるはずもない。
――――要するにランヴィーア王国はどうしても、ロストク帝国より先に貿易港を手に入れたかったのだ。
ロストク帝国は自らの力のみで、アンタルヤ王国から貿易港を奪取することができる。両国の国力や昨今の情勢を検討した結果、ランヴィーア王国の上層部はその結論に達した。そして恐らく、その結論は正しかった。少なくともロストク帝国はそのつもりでいた。
一方、自国についてはどうか。ランヴィーア王国は自らの力のみで、イブライン協商国から貿易港を奪取することができるだろうか。もちろん、不可能ではないだろう。しかしそのためには総力を挙げねばならぬし、それでもなお確実とはいい難い。確実を期するのであれば、ロストク帝国の助力が必要だった。
ではもし、ロストク帝国が先に貿易港を手に入れたらどうなるのか。彼らの眼は恐らく西へ向く。つまりアンタルヤ王国の他の地域へ触手を伸ばすだろう。完全併合を目指すかは分からないが、戦線は拡大するはずだ。
そうなると相対的に、同盟国への軍事支援には消極的になるだろう。戦略的に考えても戦線を二つ抱えるのは愚策であるし、ランヴィーア王国の上層部はそう信じた。要するに、援軍を送ってもらえなくなると考えたのだ。
ではなぜこのタイミングなのか。それはロストク帝国とアンタルヤ王国の間で結ばれた、五年間の不可侵条約がもうすぐ失効するからである。ランヴィーア王国にとっては、タイムリミットが迫っていたと言っていい。
また今年、皇太子ジェラルドが五〇〇〇の兵を率い、魔の森で大規模な軍事行動を取った。特に情報統制はされなかったし、むしろその戦果は大々的に宣伝されたから、ランヴィーア王国は当然それを知っていた。そして彼らはこの軍事行動を、アンタルヤ王国への侵攻に備えた、一種の軍事訓練であると受け取ったのだ。
その側面がなかった、とは言わない。モンスター相手とはいえ、実戦を繰り返すことは精兵を育てる上で大きな意味がある。とはいえ、ダンダリオンやジェラルドにその意図はなかった。あったとしても主眼ではなかった。彼らの主眼はあくまでも皇位継承に関わる問題であったからだ。
しかしながら前述したとおり、ランヴィーア王国の受け取り方は違った。彼らは、ロストク帝国はいよいよ本気でアンタルヤ王国を攻めるつもりだ、と解釈したのだ。状況証拠は揃っている。予想は確信に変わった。
もはや一刻の猶予もない。なんとしても、ロストク帝国より先に動かねばならなかった。それで彼らの動きが鈍る冬、ランヴィーア王国は早々に援軍を求める親書を送ったのである。そしてその目論見は当った。
「それで、どうされるおつもりですか?」
「帝国は同盟を必要としている。同盟を維持するために、援軍は出さざるを得ない」
ダンダリオンは厳かにそう答えた。彼らが西へ目を向けるためには、東を固めておく必要があるのだ。また援軍を出さなければ、ランヴィーア王国にいるフレイミースの立場が悪くなる。ダンダリオンも父親だ。それは避けてやりたかった。
「では、アンタルヤ王国への侵攻は……」
「計画は進める。だが実行に移すのは、この戦争の趨勢を見定めてからだ。二正面作戦を戦うつもりはない」
少々忌々しげにしながら、ダンダリオンはそう告げた。無論、ロストク帝国は援軍を送る立場であるから、今のところ、イブライン協商国と正面切って戦うつもりはない。ランヴィーア王国もそれは望んでいないだろう。
しかし戦争が長引き、その泥沼に引きずりこまれる可能性は否定できない。その時もう一つ戦線を抱えていては、両方が破綻しかねないのだ。それを避けるために、アンタルヤ侵攻はしばし延期せざるを得ない。それがダンダリオンの決定だった。
「父上が、そう言われるなら……。それで、援軍はどれほど出されますか?」
「ふむ、ランヴィーア軍は十万規模だと言うからな……。まずは二万、後詰で一万といったところか」
「合計で三万、ですか。大部隊ですね……」
ジェラルドは難しい顔をしてそう呟いた。三万と言えば、皇帝直轄軍のおよそ三分の一にあたる。これだけの大軍を東へ送るのであれば、確かに西へ攻め込むための戦力は足りなくなるだろう。
「致し方あるまい。いざ勝ったとき、貢献が少なくては、何を言われるか分からんからな」
「ならいっそ、全軍を送り込んで協商国を飲み込んでしまってはどうだ、親父殿」
そう提案したのはシュナイダーだった。イブライン協商国は複数の貿易港を持っている。この機会にランヴィーア王国とそれを分け合ってはどうか、というわけだ。
「それは無論、考えている。だが我々が本気になればなるほど、協商国も必死になろう。まずは頼もしき同盟国に矢面に立ってもらい、我々は戦況を見守ることにする」
要するにダンダリオンは、最も抵抗の激しいところをランヴィーア王国に押し付ける気なのだ。遠征軍の主力はランヴィーア軍なのだから、彼らもそれは覚悟の上だろう。そうやって戦況を眺めつつ、漁夫の利を得られそうなら、ロストク軍の主力を投入する。それがダンダリオンの意図だった。
「なるほど、えげつないな」
「国と国の関係など、そんなものだ。……それでジェラルド、以上のことを加味した上で、派兵部隊を組織しろ」
「畏まりました、父上」
「うむ。それからシュナイダー、お前にも働いてもらうぞ」
「俺もか? 何をやれって言うんだ、親父殿」
「アンタルヤ王国の東域を調略しろ」
ダンダリオンは簡潔にそう命じた。アンタルヤ王国への侵攻は延期せざるを得ない。だが延期したことで時間ができた。この時間を利用し、いざ侵攻が開始した時、ロストク軍が有利になるよう下地を作っておく。それがシュナイダーに任された仕事だった。
「方法は任せる。好きにやれ」
「了解だ」
シュナイダーがそう答えると、ダンダリオンは満足げに頷いた。騒乱の足音が近づいていた。
シェリーの一言報告書「これが、産みの苦しみ……!」
ダンダリオン「良くやった!」




