96.十六年前、混乱のとき
十六年前、アンタレス国は混乱を極めていた。
国王が心労で倒れたという情報は、まず上流階級に広まり、それから労働者階級にまばらに広まった。
議会にて、国王が持つ全ての権限を王太子であるローリーに委ねることが決定したとき、ウィレット家の当主であるハデス伯爵は人知れず悪態をついていた。
珍しい宝石目当てに田舎娘のサラと結婚したことが不運の始まり。教育のなっていない小娘を淑女に仕立てるなど到底無理な話だったのだ。
手際の悪いサラはお茶会すら満足にこなせず、おまけになかなか身ごもらない。結婚して五年でようやく誕生した子供は、家督を継げない性別であった。
不運は続く。過熱するシャウラ国との戦いに騎士として参戦し、危うく死にかけた。
お次は国王が倒れて、十九歳の王太子が国を動かす権限を持ったと言う。成人したばかりの子供に国を任せるなど、正気の沙汰ではない。
壊滅状態である国軍が回復するまでの間、下等な人間を集めて戦場に送り込み、時間稼ぎをするという作戦がある。国王はせめて、作戦の実行を許可する書状にサインしてから倒れてくれればよかったのに。
現在、作戦の許可を出せるのは王太子ただひとり。世間知らずの彼がサインを拒めば、自分は負傷した身で再び死地に赴かなければならない。そこで命を落とせば、忌々しい従兄弟が爵位を継ぐことになる。
娘を出産してから、サラは体調が芳しくなかった。立て続けに子を産むことは難しいと医者は言った。だがそんなこと、気にしていられるか。王太子が決断を下す前に、何としてでも跡継ぎをもうけなければ。
「あなたと出会う少し前に産んだ、息子がおります」
伯爵からのプレッシャーに耐えきれなかったサラは、泣きながらそう打ち明けた。
それは、サラが名のある家の当主に見初められたことで、舞い上がった親族が存在を隠した子供だった。伯爵に夢中だったサラが、あえていない者として扱った子供だった。
子供の父親は、サラの幼馴染みだ。彼はとても物分かりのいい、それだけが取り柄だと言える人だった。子供が出来たと知ったときは迷わず結婚しようと言ってくれたし、遊びのつもりだったからそんなつもりは無いと言うと、すぐに理解してくれた。
伯爵家に嫁ぐから息子をお願い、と頼んだときはさすがに殴られると思ったが、彼は少し困った顔をして、幸せになれよと言ってくれた。
息子の名はジェイミー。
今は亡き祖母と、同じ名前。サラは彼女のことが、世界で一番大好きだった。
シャウラ国との戦い。
負傷した貴族たち。
国王の不調。
国政を引き継いだ若き王太子。
生身の盾として集められた民兵たち。
十六年前、アンタレス国は混乱を極めていた。
そう、あの時代、アンタレス国は狂っていたのだ。
◇◇◇
「旦那様! 取り返しのつかないことです。どうかもう一度真剣にお考え下さい!」
「従僕の分際で何様のつもりだ! 文句があるならこの屋敷から出ていけ!」
従僕としてウィレット家に仕えるエミールは、主人である伯爵にそれ以上もの申すことが出来なかった。
他の使用人は全員、何の問題も起こっていないというふりをしている。ここを追い出されれば職を失うのだから、仕方ない。
エミールは恐怖と良心の狭間で揺れていた。
告発しようか。しかし学のない自分の言葉を誰が信じる。屋敷を追い出されることは確実な上に、推薦状は当然、書いてもらえないだろう。百歩譲って書いてもらえたとして、主人の秘密を漏らすような使用人など、誰も雇わない。
だがそれでも、のたれ死ぬ覚悟をしてでも、この恐ろしい状況を改善しなければならないのではないか。誰かがあの少年を救ってやらなくては。それは自分の役目だと、エミールはそう思った。
「ジェイミー様。はじめまして、エミールと申します」
伯爵夫人の寝室の扉に背を預け、廊下で膝を抱えている小さな少年は、目を真ん丸にしてエミールを見返した。
「はじめまして。ねぇ、この部屋の女の人、ぼくのお母さんなんだって」
突然知らない場所に連れてこられたにしては、ジェイミーは案外けろっとしていた。
「はい。あなたのお母様ですよ」
「泣いてたよ。助けてっていわれた。どうすればいいの? お父さんに聞いてきてもいいかな」
エミールは深呼吸したあと、ジェイミーの肩にそっと手を置いた。
「ジェイミー様。よく聞いて下さい。お父様のところに戻りたいのなら、私がお手伝い致します」
「お母さんもいっしょにもどる?」
「いえ、お母様は一緒ではありません。お父様のところに戻れば、お母様とはお別れです」
「でも、助けてっていわれたよ。どうすればいいかお父さんに聞いてから決めてもいい?」
「それは出来ません。今、自分で決めなければいけません」
自分を見上げる瞳が、今にも泣き出しそうになった。
エミールは内心舌打ちする。七歳の子供に判断を委ねるなど、馬鹿げたことだろうか。
そのときだった。
ジェイミーが泣き出すより先に、大きな泣き声が屋敷に響き渡った。
「お母さんかな」
よほど驚いたのか、ジェイミーは飛び上がってエミールの腕に抱きついた。この甲高い泣き声はもちろん、伯爵夫人のものではない。
エミールはとりあえずジェイミーの手を引いて、力強い泣き声の持ち主に会いに行くことにした。
「あらあら、リリー様、ご機嫌ななめですか?」
乳母がリリーをあやしているところを、ジェイミーは食い入るように見つめていた。
「どこか痛いのかな」
「リリー様、お兄様が心配しておいでですよ」
お兄様、という乳母の言葉が、ジェイミーはいたく気に入ったようだった。身を屈めた乳母に近付き、リリーの柔らかい髪を恐る恐る撫でている。
「ねぇ」
服の裾を引かれ、エミールは身を屈めた。
「何でしょう」
「やっぱりここにいようかな」
「お父様のところに帰りたくはありませんか?」
「かえりたいけど、そういえばここに来る前、お母さんを助けてやれってお父さんにいわれてたんだった。だからここにいようかな」
それだけ言って、ジェイミーは再びリリーの頭を撫でる。リリーは泣きながらも時々眠そうにあくびをするので、ジェイミーはへんなの、と言ってくすくすと笑った。
エミールはその場にひざまずき、事態の深刻さを理解していない少年の名を呼んだ。知らず緊張して、大きな声を出してしまう。ジェイミーは驚いた顔でエミールを見た。
「どうしたの?」
「大事な話です、ジェイミー様。本当にここにいたいですか? お父様のところには戻りませんか?」
そのとき、小さなぬいぐるみを抱いていたリリーの手が、ジェイミーの手を強く掴んだ。ジェイミーは満面の笑みで、うん、と頷く。
「ここにいたらだめなの?」
「いえ、構いません。ただ、聞いていただきたい話があります」
エミールはジェイミーの両肩をつかみ、真剣な表情を浮かべる。
「あなたはお父様と、二度と会えなくなるかもしれません。それでもここにいるとおっしゃるのなら、お約束します。私は今よりずっと偉くなって、この屋敷では決してあなたに不自由はさせないと誓いましょう」
「えらくなるって、どれくらい? 王さまくらい?」
「いえ、さすがにそれは……」
苦笑すると、ジェイミーは何かが面白かったのか、あははと笑った。
エミールは決心した。必死に努力すれば、使用人を統率出来るくらいにはなれるかもしれない。そうなれるように、今日から必死に頑張ろう。
せめて使用人だけでも、彼のことを敬うように。せめて使用人だけでも、この少年を傷付けないように。
エミールは目の前の小さな体を抱き締めた。ジェイミーが「がんばって」と言いながら肩を叩いてきたので、エミールはくすくすと笑い声をたてた。それから、結局は怖じ気づいてしまった自分に対して、少しだけ悔し涙を流した。




