〈伝研〉の風間さん
僕の通っている大学は、いわゆるFランク大学と呼ばれる大学で、立地条件とのんびりしているのだけが取り柄だ。
神奈川県F市にあるこの大学は、一応は理系の大学で、チャラ男が少ないのも気に入っている。女子も少ないんだけど。
僕は、山に囲まれた県出身で、父も祖父もそのまた爺さんも、この『海なし県』で生まれ育っている。
なので、海にはDNAレベルで憧れがあるのか、平日の空いている時間に湘南の海を歩くのが、僕のささやかな楽しみなのだった。
だって、漫画や歌とかに出てくるあの『湘南の海』だよ?
これを自慢したくなる気分は、地方出身じゃないと分からないのだろうね。
僕の神奈川県での下宿先は、昔ながらの『賄い付き下宿屋』で、僕の都会での一人暮らしを心配した両親がオーナーさんと面談してまで決めた場所だった。
オーナーさんは、会社務めを引退した老夫婦で、そこそこの資産家でもあるらしく、大きな邸宅に住んでいたのだけど、子供も独立し、広い空間と時間を持て余していることもあって、下宿屋に改装して、学生寮を始めたのだそうだ。
部屋数は八室。
洋館造りの外観で、奥さんが手入れしているイギリス風庭園まである。
人気物件らしくて、うちの両親とこのご夫婦に共通の友人いなかったら、僕はここに住めなかったかもしれない。生まれつき、くじ運は悪い方なので。
下宿生はみな同じ大学の学生で、仲が悪いという事は無いけれど、特に親しいというわけでもないという、微妙な距離感だった。まぁ、会えば挨拶する程度の間柄。
人見知りの田舎者である僕には、それが丁度いい。
朝、出かける時に、八つ並んだ郵便ポストの扉にぶら下がった札を裏返す。
その古ぼけた札は表の太陽の意匠の図柄、裏には三日月の意匠の図柄が描いてあって、夕食が必要な場合は太陽の面を、不要なら月の面を出すのがこの下宿のしきたりだった。
今日、僕は前期試験終了の打ち上げを、ゼミの連中と行う予定なのだ。なので、三日月の面を表にしておく。
僕の通う大学は、一種の徒弟制度みたいなものがあり、入学と同時にどこかのゼミに所属して、自分の研究分野の研鑽を先輩についてする仕組みだった。
煩わしいことも多いけど、古い参考書を融通してもらったり、試験問題の傾向を伝授してもらったりする利点はあった。
まぁ、四年間上手く立ち回るには、ゼミに溶け込むのが一番で、湘南での生活を楽しみつつ、実家の本業である『キノコ栽培』についての最新知識を得られれば、学費は無駄にならない。
私学の理系は、びっくりするほど学費が高くて、少し引け目を感じているのだ。僕の家は金持というわけではないからね。なので。少しでも還元しないとね。
「いってきます」と、ホールに声をかけて、下宿屋を出る。
ここは一種の学生街で、古い学生向けアパートなどが多くみられる。
環境はいいけど、交通の便は良くないので、大学を城に例えれば、その城下町のようにして、学生向けの居住地域が広がっているのだった。
僕が下宿している『学生寮』は、かなり上等な部類で、数あるアパートやマンションの中には、廃墟と見まごう物件もある。
同じゼミの同期に、そうした物件に住んでいる者がいるが、
「なんだか、鉄錆びの匂いがして、湿気が多くてね。家から持ってきた『中村君』が、一ヶ月でカビちゃったよ」
などと言っていた。
ちなみに『中村君』とは、拳大程の大きさに育ったウチワサボテンの事。
なんでも、同級生の『中村君』に似ているからついた名前なのだそうだが、僕には観葉植物に名前を付ける趣味は無いので
「そうかぁ」
……と曖昧な事を呟いたのを覚えている。
僕が選んだゼミは『森林生態ゼミ』で、木の病気、菌根菌、間伐などの林業全般、植樹といった分野の研究を行っていた。
僕の実家はキノコ栽培農家なので、菌根菌の研究がしたかったのだ。
ゼミ全体では六十人近くいるらしいけど、常連というか、真面目に毎日顔を出しているのは、僕を含めて十人くらいか。
それに、酔うと土佐弁になる指導教授と、胃痛もちみたいな苦悩顔の助教授が加わり、安居酒屋での打ち上げだった。
高知県出身の指導教官は若い頃は酒豪だったそうだが、今ではすっかり弱くなって、好きな酒の銘柄『酔鯨』一合で、もう顔が真っ赤だった。
一升瓶ごと持ってこさせようとして、助教授に止められていたが、
「酔うとらん。酔うとらんきに」
などと土佐弁で言っている。酔っている証拠だ。
僕は未成年なので、ウーロン茶などを飲みつつ、から揚げなどをつまんでいたが、下宿での食事の方が数倍いい。
オーナーは料理が趣味で、月に何度か彼が厨房に立つ日は、かなり本格的なフレンチを出してくれる。会社を定年退職後、調理師の免許までとっているのだ。
「せっかく腕をふるっても、ウチのときたら『おいしい』しか言わないのだもの」
と言っていた。なので、我々に料理をふるまうのが嬉しいのだろう。
具体的な感想を述べなければならないのが、煩わしいのだけども。
オーナーの奥さんは、小柄で可愛い感じのおばあちゃんなのだが、性格はサバサバしていて、けっこう男っぽい性格。なので、どちらかというと繊細な感じがするオーナーとは、それでバランスが取れているのかも知れない。
普段は、彼女が食事を作ってくれるのだが、これぞ『日本の食卓』というラインナップで、僕の様な田舎者にはうれしい。芋の煮ころがしとかが好きなのだ。
そういえば、今日はオーナーがフレンチを作る日だったなぁ、そっちが良かったなぁ……などと考えていると、いきなり後頭部を小突かれてしまった。
「おい、ぼ~っとしやがって、聞いてんのかよ?」
酒臭い息を吐いて僕に暴力(大げさか)を振るったのは、ウチワサボテンの「中村君」が枯れてしまった同期生、細川 一馬 という男だ。
苗字が『細川』で、九州小倉の出身なので、お殿様の御後胤かと思ったが、一般労働者階級諸君の一員らしい。同志よ。
「いいの? 酒なんか飲んで?」
後頭部をこれ見よがしにさすりながら、僕にしては嫌味ったらしく言う。
「いいんだ。俺、二浪だし。年齢はクリアしているモン」
そうなのだ。こいつは同級生なのに年上という、対処に困る奴だった。
「二浪して、Fランとか……。ひどいですね、細川さん」
僕のとどめの嫌味を受けて、胸を射抜かれたようなゼスチャーを、この酔っ払いはしやがった。うざい。
「やめて! 意外と傷つきやすいの、俺。 それに『さん』付けヤメテ! 距離とらないで!」
そんな芝居がかった台詞に、思わず吹き出す。コイツは馬鹿だが、憎めない奴なのだ。
「……で、話戻るけどさ、隣の部屋の萩原なんだが、ちょっと様子がおかしいんだよね」
手酌で日本酒を注ぎながら、細川が言う。
細川の隣に、同じゼミの同期生、萩原 真という男が下宿している。
何しに大学に来たのか? と思うような男で、出席カードを配る講義以外は、全部サボる。
それで何をやっているかというと、部屋に籠ってずっとパソコンをいじっているのだ。
やっているのは『将棋』。
通信対戦するタイプのサイトに入り浸っているらしい。
そこで、萩原はちょっと有名な『真剣師』なのだという。
『真剣』とは、金をかけて対戦する将棋のことで、それをする者を『真剣師』と呼ぶ。
もちろん、違法だ。
つまり、イリーガルな人々が運営している違法『真剣』サイトに、学業そっちのけで出入りしているということ。
サイトの仕組みは、会員制のカジノに似ている。
サイト内で通用する『仮想通貨』を現金で購入し、この『仮想通貨』をベット金として、対戦者とやりとりする仕組みだ。
サイト内には、ストアがあり、この『仮想通貨』を使って買い物もできる。
その商品の中には「金地金」があり、サイトの運営業者と提携した景品買取業者へ持こむと、現金化できるという。
僕はやったことないけど、パチンコ店等の『三店方式』の脱法ギャンブルと形式が似ているらしい。
詳しい事は、わからないのだけれども。
要するに萩原は、そのサイトでの違法ギャンブルにトチ狂っているというわけ。
金銭的に余裕がないのに、大学に通わせてもらっている僕の様な立場から言わせてもらうと、萩原のような男は大嫌い。
親に仕送りしてもらっている分際で、その仕送りをギャンブルに使うなんて、許せないのだ。
「自己責任。そして、何かあっても、自業自得」
タンとウーロン茶のグラスをテーブルに置いて、僕はそう宣言する。
「冷たいなぁ、モノちゃん、冷たいよぅ。俺、隣に住んでるのよ? そんな簡単に割り切れないよう」
まぁ、細川の言う事も一理ある。
あ、ちなみに『モノちゃん』というコイツが僕につけた仇名は、僕の苗字である物部に由来する。うちの近所は、物部姓が多かったので気にならなかったのだけど、一般的には珍しい苗字なんだってね。上京して初めて知ったよ。
「気持ちは分かるけど、僕たちは一介の学生だよ? 何が出来るというの?」
その僕の言葉を聞いて、細川の顔がぱぁっと輝く。
僕が乗ってきたと思ったのだろう。
「実は、萩原が利用しているサイトが、分かったんだよ。萩原宛てのサイトからの請求書が俺の部屋に誤送されてきて、宛名確認しないで開けちゃってさ。それで、サイト名が分かったっていうわけ」
僕はその話を聞いて、細川の頭頂にチョップを入れた。
「細川君、それ、犯罪だから」
まったく、コイツは軽いんだよ。
「知ってるよぅ。萩原には謝罪して、ちゃんと渡したモン」
そう言って、細川が唇を尖らす。これで、二つも年上とは思えない。
「……で、どうするの?」
「うん、そのサイトに登録してみようと思うんだ。萩原が何やっているか、把握しておいた方が、いいからね」
結局、覗き趣味か……と、思わないでもなかったけど、ちょっと興味が湧いてきたのも事実だった。
「というわけでさ、明日、俺の部屋に来いよ。俺のPC使えばいい」
その言葉を聞いて、途端に気が萎える。
コイツのアパートは何か陰気くさい上に、妙にじめじめしていて、なんとなく嫌な気がするのだ。それに、細川と二人っきりとか、冗談じゃない。
「細川君の部屋ねぇ……嫌だなぁ」
僕の呟きを聞いて、一丁前に細川は傷ついたような顔をした。
「なんだよ、俺をそんな風に思っていたのかよ。お前の部屋でもいいけど、お前の下宿は男子禁制じゃん」
両親が僕の下宿先として探してきたのは、女子寮。それにオーナー兼管理人が常駐しているというのが決め手なのだった。
僕は一人娘だし、心配で心配でしょうがなかったんだろうね。
髪はショートカットだし、ガーリーな格好しないし、一人称『僕』なのでよく間違えられるけど、僕の染色体はXX染色体です。
「変な事も一切しないって。俺ゲイだし。モノちゃんが女子と分かった途端、性的な興味なくなったから。安全、安心!」
二リットルペットボトルのウーロン茶 (コストパフォーマンスがいいからね)と、かっぱえびせんを持って、細川の部屋の前に来た。
男子の部屋に入るのは初めてだけど、その相手がゲイっていうのは、レアな経験になるのだろうか?
それにしても、外はこんなに明るいのに、このアパートだけはフィルターがかかったかのように、照度が低いような気がする。
トタンの雨避けの庇も、鉄製の階段も、趣味の悪い真緑のペンキが塗られたフェンスも、埃や錆びでくすんだように見える。
湿った土の様な匂いがする。土の中に腐乱した動物の死骸が埋められているような、不快な匂いだ。
目の端で何かが動いた様な気がして振り返っても、誰も、何も、いない。
「サボテンの『中村君』も枯れるわけだ」
そうつぶやく。
ここは、空気が淀んでいて、嫌い。
「正確には、カビて腐っちゃったんだけどね」
ドアの前で待っていたのか、細川がそう言いながら安物のペラペラのドアを開ける。
部屋から漂ってきたのは、丁子の香り。
お香を焚いていたらしい。
「どれだけ掃除しても、ずっとかび臭いんだよ。で、臭い消しにお香を焚いているんだけど、色々試して丁子が一番効果的だったんだ」
窓から陽光は差し込んでいる。
それに、蛍光灯も白い光を放っている。
なのに、部屋全体が薄暗い感じがする。
「ちょっと、暗いですね」
「だろ? もう俺は慣れたけどね」
六畳の和室に四畳半ほどの台所という一人暮らし仕様の部屋。
一応、トイレとバスは別になっているけど、かなり窮屈な造りだ。
部屋は、きれいに片付いていた。
ゲイはきれい好きが多いって聞いたけど、僕の部屋よりよっぽど整理整頓されている。
部屋の壁際には文机と座布団があり、細川のPCはそこに置いてあった。
けっこう高めのハイスペックノートPCだった。生意気。
「準備しておいたぜ。裏サイトだから、捨てアカウントも用意してある」
ビール会社の星マークが描かれたガラスのコップを二つ持ってきながら、細川が言う。
僕は、ペットボトルのキャップを捻って開けた。
コップにウーロン茶を入れている間に、省エネモードのPCを細川が起動させる。
メールアドレスを打ちこむ画面が開き、細川はそれにアドレスを書き込んでいた。
ウーロン茶が入ったコップを差し出すと、「ん」と言って受け取って、一口飲む。
首を左右に振る。ぽきぽきと骨が鳴っていた。
「これで、一般会員の登録は終わり。ここまでが年会費無料のサービスだね。将棋には参加できずに、観戦だけ出来る仕組みの様だよ」
誰と誰が対戦しているか、一覧で表示され、ざっと見ても百組以上が対戦しているらしかった。
検索機能もあり、細川は『五段以上』という条件を付ける。
萩原は、アマチュアにしてはかなり将棋が上手く、このサイトでのローカルなランク付けでは『五段』というかなり上位の肩書を持っているらしかった。
「あ、だめか……。無料の一般会員では、五段以上の対戦を閲覧すら出来ないみたい」
カチャカチャとキーボードを操作して、今度はストアの画面を展開する。
『貴金属』というカテゴリがあり、それをクリックすると、サイト内のローカル通貨二千五百ポイントで、『金地金』を購入出来るようになっている。
レートは一ポイントで一円なので、爪の先ほどの小さな金が二千五百円ということらしい。
「なるほど、賭け将棋でポイントを稼いで、このストアで『金地金』を買うわけね」
そんなことを呟きながら、細川は『プレミアム会員』のタブをクリックする。
「ここが、有料会員の入会案内なんだけど、ちょっとおかしいだろ?」
画面には、規約の文面とサービス内容の説明があり、入会の条件として長々としたアンケート項目があるのだ。設問は百以上ある。しかも、『必須』のマーキングがあり、このアンケートに全て回答しないと『プレミアム会員』とやらに入会できないようになっていた。
たしかに、おかしい。
入会金などで稼ぐネットでの商売は、いかに入会しやすくするかが、ポイントになっている。うっかりした奴がいつの間にか入会してしまったという仕組みが工夫された時期があったくらいだ。もう、規制されたけど。
「たしかに、おかしいね。これじゃ、モノグサな人は、入会あきらめてしまう」
入会の為の形態もおかしいが、設問もおかしい。
アンケートのデータが統計会社の資料になるなら、質問項目に『ファッションについて』とか『グルメについて』といった、ある程度の傾向がみられるはずなのに、この設問には全く統一感がない。
奇妙な図形が描かれていて「何を感じますか」といった、アンケートとしては違和感がある設問もある。
「アンケートっていうよりは、なんだか『選別』みたいだね」
ここで、一旦、サイトを閉じる。
有料コンテンツなので、財布と相談しなければならない。
入会金は一万円。貧乏学生には大金だ。
「萩原みたいなクズのために、貴重なゼニを使うかどうか、迷うところだよね」
僕がそう言うと、細川が頷く。
「たしかに。でもね、萩原のことはさておき、興味が湧いてきたのも事実なんだよね」
ずっと真面目に生きて来た僕にとって、こうした犯罪を垣間見るのは、とても刺激的だった。だが、関わるのは少し違うという気がする。
お金を払ってしまえば、その犯罪に加担したことになるから。
「俺のバイト先の常連さんに、TV局の人がいてさ。あの業界、多いのよゲイ。で、その人にこのサイトの話をしたら、『取材してくれたら、素材を買う』って言ってたんだよね。一人じゃ怖いけど、モノちゃん一緒にやってくれるなら……」
理系はびっしり基礎教養課程があるので、バイトは夜が中心。
それに「常連」「ゲイ」とくれば、細川がどこに務めているか、なんとなく想像がついた。
新宿行の定期券も持っているし。
僕の微妙な表情に気が付いて、細川が苦笑して手を振る。
「違う、違う、彼とはそんな関係じゃないってぱ。キスまでしか許してないもん」
…… おえ。
結局僕たちは、サイトに登録することになった。
金銭的云々は、『やらないために言い訳』であり、それが撤廃されてしまえば、人間の覗き趣味にボーダーは無いということなのだろう。
細川は、そのTV局の人との打ち合わせを兼ねて、新宿に行った。
僕は細川のノートPCを借りて、出来るだけサイトの下調べを担当することになった。
アンケート内容が気になるので、調べてみるつもりだった。
まず気になったのは、奇妙な図形だ。
細川の肩越しにちらっと見た時から、何かあるような気がしていたのだ。
僕は昔から『違和感』を察知することが上手で、例えば『間違い探し』のような、同じ絵が二つ並んでいて相違点を見つけるクイズなどが得意だった。
また、『だまし絵』にも引っ掛からなくて、トリックアートがトリックに見えないという変な特質を持っている。
僕の友人は
「画像による瞬間記憶能力に優れているのではないか?」
と考察していたが、クイズが簡単に解けるのとトリックアートが楽しめない以外にその能力は発揮しないみたい。
瞬間記憶能力とやらが僕にあるなら、もっとテストでいい点を取っていると思う。
設問をコピーしたファイルから、図形だけをピックアップして拡大する。
それを眺める。
どこかに注目してはいけない。
図形の手前に眼の焦点を合わせる感じといえばわかりやすいか。なかなか説明はむずかのだけど……。
すると、曲線を出鱈目に組み合わせた図形から、ある形が浮かび上がってくる。
大手の清涼飲料水メーカーのロゴマークだった。
この図形が描かれていた設問は、「この図形を見て何を感じましたか?」で、五択の回答が用意されていて、そのうちに一つが「喉が乾く」だった。
他の図形も、トイレを示す一般的な意匠のだったり、あからさまな男性器の意匠が隠されていて、その意匠に関連した回答が用意されているのだ。
こうした『だまし絵』は認識しなくても、無意識下に働きかけるという話を聞いたことがある。
つまり、この設問の意味は、『暗示にかかりやすい者を選別する』という意味があるということ。
さぁっと肌に鳥肌が立った。
なんでもないアンケートの中に、捕食者の冷たい眼を垣間見たようで、気味が悪い。
今度は、設問の傾向に合わせて、分類してみる。
僕には統計の知識もマーケティングの技能もないけど、とりあえず百項目ある設問を、
『明らかにダミーと思われる差しさわりの無い設問』
『図形の設問』
『個人的な嗜好に関連する設問』
『意味不明の設問』
…… の四項目に分けてみる。
結果は、ダミーに類する設問が33%、図形の設問が15%、嗜好に関する設問が33%、
意味不明が19%だった。
この『意味不明』は全く意味不明で、設問でいくつか例を挙げると、
「鏡を見るのが怖いですか?」
「両掌を組み合わせた時どちらの親指が上になりますか?」
「既視感を感じる事が多いですか?」
などがそうだ。
こうした意味不明質問項目を検索にかけてみる。
精神疾患の事例に混じって一番多いのが、オカルトに関する項目だった。
回答をコピーペーストして、良く使われているセンテンスを抜き出すと……
『霊感体質』
だった。僕は全く信じていないけど、いわゆる『霊感』があるとされている人物を判定するための設問項目だったのである。
つまり、この百項目にもわたるアンケートは、
『暗示にかかりやすく、霊感が強いとされる人物』
……を、選定する設問という事になる。
ぞっとした。これは、詐欺とか、そういった犯罪の匂いがする。
いわゆる『コールドリーディング』とかいう技法がこれで、知らず知らずのうちに、心理の内面を探知する技法がこれだと、何かの本で読んだことがある。
TV番組や映画などで、こうした犯罪が扱われたことがあるけど、実際の現場を見たのは初めてで、すこしショックだ。それに気味が悪い。
萩原の登録している裏サイトのデータを見る。
表示されている『プレミアム会員』の人数は約二千人。
もしも、これが本当のデータなら、詐欺にかかりやすい人物が、この人数だけ把握されていることになる。
ログアウトしてPCの電源を切った。
薄暗い穴倉を覗きこんでいる気分になってしまったから。
「おお……やだ、やだ……」
思わずさすった僕の腕は、未だ鳥肌が立っていた。
バイトから帰った細川から連絡が入った。
お互いの情報を擦り合わせることになり、学校の近くにある喫茶店で待ち合わせる。
僕は質問項目に詐欺の匂いがすることと、その設問の傾向などの調べた内容を提示した。
細川は珍しく、ちゃちゃも入れずに僕の話を聞いていて、これも珍しいことだけどシリアス顔だった。
「モノちゃん、この短時間でこれだけの事を調べるなんて、いい勘してるわ」
冷めてしまったコーヒーを細川が啜る。
コーヒーが冷めていることすら気が付いていないようだった。
「この裏サイトを調べていたのは、俺たちが最初じゃないんだって。TV局に出入りしている企画会社のそのまた下請けのフリージャーナリストが、このサイトを取材するため、匿名でサイトに登録して潜入捜査を試みたそうなんだけど……」
細川がここで言葉を切る。
喉がヒクついていた。首筋に力が入っている。わかりやすい「恐怖」のサインだった。
「……ある日、ふっつりと行方不明になってしまったんだって。そのフリージャーナリストの恋人が、彼の行方を調べていたんだけど、その人も……」
たしかに、気味が悪い話だ。
可能性は二つ。
本当に犯罪に巻き込まれたか、借金とかそういった理由で姿を消す必要があったか。
どっちが確率高いのかといえば、後者の方だと思うけど……。
「いずれにせよ、ちょっとイリーガルな匂いがするから、助人呼ぼうよ。『伝研』に知り合いがいるんだぁ」
そもそも、特に親しくもない萩原にそこまでやってやる義理はないのだけど、『怖いモノ見たさ』に似た好奇心が刺激されていないと言ってはウソになる。
それにしても、『伝研』かぁ……。
正式名称は『都市伝説研究会』。大学の老舗サークルらしいけど、変人揃いという噂があって、入会審査が厳しいうえ『守秘の誓い』とか言って活動内容が秘匿されていて、要するにキモチワルイのだ。
「大丈夫、大丈夫、話してみたら普通の奴だって。今度、紹介するよぅ」
用心のため、まだプレミアム会員登録は見合わせ、細川は『伝研』の知り合いに会いに行った。
僕は下宿に帰って、課題のレポートとか、今度の講義の予習などをしていたのだけど、思いはふと例のサイトに戻ってしまう。
失踪したジャーナリストの名前で、検索をかけてみる。
いくつか著作物がヒットした。
やはり、オカルト関連のルポルタージュが多かった。
それと、カルト宗教にもいくつか手を出していて、危ない目にも遭っているらしい。
人物のウィキペディアもあり、その内容をそのまま信じるなら、オカルト界隈(まさか、そんな「界隈」があるとは……)では、けっこう有名人みたいだ。
―― 昨年末に行方不明
それが、最後に書き加えられている。
2チャンネルのオカルト板でこの人物の検索をかける。
スレッドがいくつか立っていて、このジャーナリストの失踪に関して無責任な憶測が色々と書かれていた。
人が一人行方不明になったというのに、ここに書き込んでいる連中ときたら、まるで野次馬根性丸出しだ。
自分の課題そっちのけで、ここで囁かれている噂を丹念に拾ってゆき、タグをつける。
勉強よりちょっと楽しいと感じているあたり、僕も2チャンネルの人たちを非難する事はできないけどね。
集計した結果、系統は三つ。
一つ目は、オカルト板らしく『ネットを通じた呪い』説。
これは、あきらかにホラー作品の『リング』などに影響をうけた意見で、これは心霊的な事案という先入観が前提になっている。
二つ目は、カルト宗教や秘密結社といった『陰謀』説。
呪いだの心霊などよりは多少真実味があるけど、僕のような一般人からみると「なんだかなぁ」という気がしないでもない。
三つ目は、非合法集団による『拉致殺害』説。
これが、一番現実味があって怖い。違法賭博サイトだから、運営も多分イリーガルな集団なわけで、ひょっとしたらヤクザの下請けか、ヤクザそのものかもしれない。その失踪したジャーナリストは、知ってはいけない領域まで踏み込んでしまい、口を封じられた……ということなのかも知れない。
これらの情報ソースは? と、なると皆無なのが拍子抜けするのだけれど。
これまた信憑性はないのだけれど、失踪直前のジャーナリストの手記の写しと言われるものがネット上に公開されているのだけれど、最後の方は、いわゆる「……かゆ……うま……」化していて、ゾッとする代物だ。
「誰かに見られているような気がする」
「窓に眼が見えて、確認したら誰もいなかった。そもそもここは十階建てのマンションの最上階だ」
という心を病んだ人の告白の様なものから始まり、後半には家の中のあらゆる暗がり、窓、ドアの隙間など至るところで眼だけが見えると訴えており、部屋に影を作らない様に撮影用のスポットライトで家中を照らすようになってしまっている。
僕は、ノイローゼになって衝動的にどこかに逃走したのではないか? という印象を抱いた。
幽霊や秘密結社やヤクザより、現実的だと思う。
翌日、講義が終ったあと、細川の下宿に向う。
相変わらず、暗くてジメジメしていて、光彩もトーンがかかったように暗い場所だ。
ここに来るとなんだか気が重くなる。
町は猫が多くて、キャンパス内でも目撃頻度が高く、猫好きには良い所なのだけど、この細川のアパート周辺で猫を見かけたことは無い。
動物にも「なんとなくここは嫌だ」という場所はあるのだろうか?
猫はいなかったけど、アパートの周囲をブラブラ歩いている人影はあった。
すらりとした長身。
髪は長く無造作に後ろに束ねている。
ストーン・ウォッシュの古ぼけたジーンズに生成りの白いコットンTシャツ。
腕まくりした麻のジャケットを羽織っていた。
一昔前に流行ったモカシンらしき、ペタンとした革靴。
無理して若者ぶっているけど、なんだか間違えちゃった……という風情の男だった。
「君が物部さんでしょ? どうも『伝研』の者です」
二階の細川の部屋を見上げながら、隠れて観察していたはずの僕に言う。
こっちを見なかったのに、なんで僕の存在がわかったのだろうか?
勝手なイメージで、ヒョロガリのナーズ野郎か、タクタクと汗をかいた小太り野郎を想像していたので、なんだか意表をつかれてしまった。
その『伝研』の男がゆっくりと振り返る。
男性ファッション雑誌から抜け出たようなイケメンがそこにいた。
ちょっとダサ目の服装と思っていたのに、途端におしゃれに見えてしまうのだから、人間の感覚とは、なんと曖昧なものなのか。
僕は山奥の田舎者なので、こうしたいかにも都会育ちの人間を前にすると、気おくれがしてしまう。
「私は風間兵衛。古臭い名前でしょ?」
自己紹介をして、このモデル級の男が笑う。白い歯がキラリと光った。
この光彩にフィルターがかかったようなこの薄暗い空気が、一瞬だけ払われたほど、爽やか笑みだった。
「細川と同じゼミの物部智です」
奇跡的に台詞を噛むことなく、自己紹介してぺこりと頭を下げた。僕にしては上出来だった。
風間の後についてアパートの階段を上がる。
風間は、細川の部屋のドアを通り過ぎて萩原の部屋の前に立ち、瞑目した。
まるで白皙の学者が真理を探究しているような風情で、美男子は何をやってもサマになるという典型だった。
細川あたりがやれば、便意を我慢しているようにしか見えないだろう。
「モノちゃんってば、メスの顔になってるぅ」
ドアを細目に開けて、いつの間にか僕たちを観察していた細川が僕をからかう。
情けないことに、僕の頬はその言葉で真っ赤になってしまっていた。
細川を殴る真似をしていると、風間が戻ってくる。
その様子に、僕の背中にゾクゾクと電気が走った。
端正な顔に相変わらず柔和な笑みを浮かべていたが、風間の纏う雰囲気が変わったのが、僕にはわかったのだ。
何か危険な獣がごそりと身じろぎしたのを見たような感覚……この風間という男が、僕は怖い。
「へぇ、丁子の香りだね。その知識があったのかね? いや、偶然か……」
風間が焚いているお香の種類を見抜いて、風間がひとりごちる。
「部屋が妙に生臭くて、色々お香を試したのだけど、この丁子のお香が一番効果があったんだよ」
そんな説明をしながら、細川が風間と僕を部屋に招き入れる。
風間はモカシンを脱ぎ散らかさず、キチンと揃えていた。
案外育ちはいいのかも知れない。
「丁子は英語では『クローブ』。花蕾が釘の形に似ているから和名では丁子って呼ばれているんだよ。防腐、防虫作用があって、古代中国ではお浄めの意味合いもあったらしい。貴人に閲覧する市民はこれで口内を洗浄したそうだよ。言霊で貴い人が穢れないようにってね。その流れを汲んで、日本でも密教の灌頂の前には、清めの儀式として口に含んだりするね」
香炉の前で、その丁子の香りを嗅ぎながら、風間がすらすらとそんな言葉を吐く。
普通の人間がこんな講釈を垂れたら、ちょっと反感を買うだろうけど、風間のおっとりした育ちのいい雰囲気が、それを緩和しているらしい。
「この丁子の強い香りは『穢れを払う』って、信じられていたんだね。刀を清める油にも丁子は使われるし、正倉院の宝物にも丁子は含まれているんだよ」
風間は講釈を付け加えながら、部屋の窓を全部開け放つ。
そして、部屋の中央に立って、両手をうちわせたのだった。
すると、どういうわけか、何となく薄暗かった室内がパッと明るくなり、ジメついた湿気の様な感じも吹き払われてしまっていた。
「雰囲気が……変わりましたね」
思わず呟く。
耳敏くそれを聞きつけ、風間が肩越しに僕を見てひらりと笑った。
「わかるんだ。さすがだね」
あ……すごく、きれいな顔……。
なのに、なんで僕はこの人が『怖い』と思うのだろう?
「また、モノちゃん、メスの顔になってるぅ」
ウーロン茶を用意して台所から戻ってきた細川が僕をからかう。
まったく、ウザい……。
「さて、その詐欺サイトにとりかかろうか」
風間が細川のPC台になっている文机の前にどっかと座る。
脚が長いので窮屈そうなのが、妙に母性本能をくすぐる。
『プレミアム会員』の登録サイトを開く。
百項目にわたる質問がずらりと並んでいる。
「細川君、良く見つけたね。我々も随分このサイトを探したのだけど、見つからなくてね」
褒められて嬉しそうな細川を尻目に、すごい勢いでキーボードをたたいてゆく。
いつの間に取り出したのか、USBを細川のノートPCに差し込んでいた。
「今やっているのは、実家から持ち出してきたAIをこのPCに接続しているところだよ。まぁ、言うなれば『電脳形代』といったところかね。もっと簡単に言うと『身代わり』だね」
問わず語りに、風間がそんな事を言う。
僕は少し混乱してきた。
たかがアンケートに回答するぐらいで、何を言っているんだ? このイケメンは?
「このアンケートは、一種の呪術なんだよ。回答すると自動的に何かが発動する仕掛けだね。私はまだ見習いで、何の防御機構を持たないから、こうしたものに接触する時は、『形代』が必須なんだ」
ああ……これは、ダメなやつだ。
オカルトに傾倒するあまり、あっち側に行っちゃった人だ。
美形なのに、もったいない。本当にもったいない。
チラリと細川を盗み見たが、風間の発言を聞いても怯んでいないようだった。
「よし、登録完了。入会金一万円は取材費から出るんだよね? うむ……仮想人格に何らかの呪術がかかったはずだよ」
僕はこの空間からどうやって逃げ出すか、そればかりを考えていた。
外側から眺めるにはオカルトは面白かったけど、ここまで身近だとドン引きだ。
人工知能は、早速五段以上のサイトを開き、対戦相手を求め始めた。
すぐに、対戦相手が許可申請をしてくる。
登録祝金として、運営サイトからサイト内の通貨二千ポイントが支給されているが、人工知能はそれを全額ベッドした。
僕は将棋が詳しくないのだけど、人工知能は顔も知らぬ対戦相手と対局を始めていた。
NHKなどでやっている『早差し将棋』というルールらしい。
十五分という持ち時間があって、それを使い切ると、一分以内に一手を差さないと負けとみなされるルールなのだそうだ。
どっちが勝ったのか、最後まで分からなかったけど、人工知能が勝利して持ちポイントが四千ポイントになっていた。
立て続けに、また対戦相手を求めている。
今度は持ちポイントの四千ポイントを全部ベットしていた。
立て続けに人工知能は更に二度勝って、持ちポイントは三万六千ポイントになった。
五段の対戦サイトのベットポイントの上限は三万五千なので、五戦目は上限ベットポイント同士の対戦となった。
ポイント制なので、何となく麻痺しているけど、ポイントが一円換算なので、すでに三万六千円の所持金になっているわけで、わずか二時間ほどでこれだけ稼げるとなれば、なるほど熱中するのも頷ける。
最高額を賭け金にして戦うだけあって、今度の対戦相手は人工知能に一歩も引かずに接戦を繰り広げている(らしい)。ルールがよく分からないので、どこがどう白熱しているのか僕には不明なのだけど。
「五段のグループの上位ともなると、手筋を読んで来るなぁ。組み込んだアルゴリズムでは、勝てないかもしれないね」
風間はそんな予測を立てていたけれど、果たしてその通りになった。
手持ちのポイントは、開始時の半分であり千ポイントに減ってしまっている。
「面白いね。ストレスを示す数値が、かなり高い」
人工知能には疑似人格が組み込まれていて、怒ったり、泣いたり、笑ったりするらしい。
実際に笑うわけじゃないけど、『この人格だとここで笑います』というデータが出るという事。一種のシミュレーターみたいなもの。将棋同様、この分野も僕は詳しくないのだけれど、それってすごい技術なんじゃないのかしらん?
「再挑戦しようとしているね。負けを取り返そうとしているのかな?」
生臭い匂いがする。
魚が腐った様な匂い。ドブ水の匂い。丁子の香気を凌駕して強く。
「ギャンブルとか勝負事は、精神が剥き出しになりやすいからね。なるほど、『発動』のトリガーは一定以上のストレスってわけか……」
口角をきゅっと上げて、嫌な笑みを浮かべながら、風間が呟く。
手は素早くキーボードに上を走り、人工知能に何らかの指示を与えたようだ。
「これは、通称『自閉症モード』。外部の刺激を遮断して、自問自答の無限ループに入ってもらったんだよ」
風間が立ち上がって、将棋の観戦で凝った肩をほぐす。
「これで『道』は繫がったと思うから、隣人を見に行こうか」
向かったのは、玄関ではなくバスルーム。
脱衣所兼洗濯機置き場の二畳ほどのスペースがあり、曇りガラスの観音開きの安っぽいドアの先が風呂場だった。
悪臭は、ここから漂ってきている。
吐きそうな匂いなのに、細川は平然としているし、風間も平気みたいだった。
鼻つまっているのかもしれない。
「違うよ。君が何か悪意あるモノを嗅覚として認知しているんだよ」
僕の心を読んだみたいに、風間が言う。
薄気味悪い男だ。美形なのに。
「物部一族は、モノの裔。特にアレらの気配に鋭敏なのさ」
はい? 僕の実家はキノコ農家で、親戚一同にも『拝み屋』なんかいませんけど?
バスルームのドアを開ける。
むわっと悪臭が広がったのだけど、風間に言わせると、この場では僕だけが感じている感覚らしかった。
事実、僕は噎せてしまったけど、細川はきょとんとしている。
カビ一つ生えていないきれいなバスルームだし、甘ったるい外国製のシャンプーとトリートメントの匂いしかしないはずなのだ。
だけど、臭い。吐きそうなほど。
それに……
「なによぅこれ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは、細川だった。
動揺のあまり、お姐言葉になっていて、そのことに気がつかないほど。
バスルームにはぽっかりと穴が開いていて、悪臭はそこから漂ってきていた。
穴が開いているだけで信じられないことなのだけど、その穴はまるで鍾乳洞のように奥に深くつながっているのだ。
隣室は萩原の部屋。壁の厚さはせいぜい五センチといった安普請のアパートなのに。
「細川君にも見えるほど、強いのか。これはまいったね」
じりじりと、風間が後退する。
悪臭に混じって、遠くから雄叫びの様な声。
「あんた『伝研』でしょ? なんとかしなさいよっ!」
完全にオカマの口調で細川が叫ぶ。
僕は目の前で起こった事が非現実的すぎて、感覚が麻痺してしまったのか、けっこう冷静だった。細川のオカマの口調を面白がる程度には。
「風間家の人間なんだから、なんかこう神秘的な古い家柄のパワーで何とかできるんじゃないのっ」
この現象に風間を呼び出したのは、細川が何かを知っているからと、その言葉で僕は確信を持った。
「無理だって。私はまだ『見習い』にすぎないのだからね」
あ、そうなんだ、パワー云々の否定はしないんだ。
「知識で戦うしかないな。香炉と塩持ってきてくれる? 食塩はダメだよ。岩塩がいいね」
台所に急行した細川が叫ぶ。
「アルペンザルツしかないわよ。ハーブ入りのやつ」
ふふっと風間が笑った。
「いいよ、いいよ、それで」
風間は香炉に丁子のお香を焚く。
ハーブのいい香りがするアルペンザルツが小皿に二つ小さな山を作っている。
いわゆる『盛り塩』ってやつだ。ハーブが混じっているけどね。
「疑似的な『護摩壇』だよ。香炉を『壇』に、お香を『護摩木』に見立てて、密教の『調伏法』を再現する。密教では法力の強い『阿闍梨』が行う法だけどね」
風間が解説しながら、小さく折った丁子のお香をくべてゆく。
聞き取れないほどの小声で何かを唱えながら、香を焚く。
生臭さは消えてゆき、呼吸も楽になってきた。
風間が何か梵字の様な物が描かれた札を出す。
「これを咥えて。絶対に声を出してはいけないよ」
僕たち三人はまるで馬鹿のように口に札を咥えて、穴の中に足を踏み入れる。
断固拒否して帰ればよかったのだと気が付いたのは、穴に足を踏み入れた後だった。
ここから洞窟探索が始まるとおもっていたのだけど、一歩足を踏み出したら、隣の部屋に出ただけだった。
ここは、萩原の部屋。
万年床。何日も貯め込んだゴミ。転がった酒瓶。安ウイスキーや安い日本酒の一升瓶などが、足の踏み場もないほど転がっている。
ペットボトルの焼酎に黄色い液体が入っていたのだけど、それが何なのか考えたくない。
「足、気を付けて」
風間が僕の腕を掴んで止める。
足元には、注射器が転がっていて、踏んだら怪我するところだった。
「はい」
トイレからビニール製のスリッパを細川が持ってきて、僕に勧めてくれた。
このスリッパも汚いけど、何が落ちているかわからない部屋を履物無しで歩きたくない。
「居たよ」
ちゃぶ台にノートPCが起動したまま置かれていて、そこに突っ伏すようにして萩原が居た。
「うそ……大家さんと覗きに来た時は、誰もいなかったのに」
細川が絶句する。
上の階から異臭がするという苦情が来て、最悪の事態(死体発見とか)を想定した大家さんが同じ学校の同じ学部ということもあり、細川に一緒に来てくれるように頼んだのだ。
その時は、何もないガランとした部屋だったらしい。
まるで、夜逃げでもしたような有様だったそうだ。
「正しい手順を踏まないと、萩原君のところには辿りつけないのだよ。それが、あの穴さ。さあ、彼を助け出そう」
衰弱しきった様子の萩原を、細川と風間が両側から支えて運び出す。
その間にも萩原はぶつぶつと何かを言っている。
それは……
「眼が、俺を監視している…… いつでも、俺を監視しているんだ……」
……という言葉だった。
萩原はアルコール依存症ということで、措置入院することとなった。
彼の田舎から両親が来て、業者を呼んで『ゴミ屋敷』と化した彼の部屋を清掃、畳も壁紙もエアコン等の備品も全て更新し、現状回復させたうえで、賃貸契約を解消したのだった。
萩原を救助したことで、細川の所にも僕の所にもご両親はあいさつに来て、菓子折りを持ってきたのだった。
謝礼金を置いてゆこうとしていたのだけど、それは丁重にお断りさせていただいた。
僕は単なる窃視願望を満たしただけなのだから。
ほどなくして、萩原は大学も辞め、ひっそりと田舎に連れ帰されたのだった。
なんだか、すっきりとしない結末だが、現実などそんなものだ。
細川のTV局の取材の話は、
「あんなの、話しても誰も信じてくれないよぅ」
ということで何となく立ち消えになり、僕たちの探偵ごっこは終わった。
(ちなみに入会金の一万円は、萩原の両親が細川に支払ったようだ)
……かのように見えた。
下宿生に解放されている、オーナーさんの居間に『伝研』の風間が姿を現したのは、萩原の事件が片付いて一週間後の事だった。
オーナー夫妻と親しげに話しているところを見ると、彼等は知り合いであるらしい。
風間は、僕を見つけると、こっちに手招きする。
無視してもよかったのだけど、オーナー夫妻までがニコニコと笑いながらこっちを手招きしているのでそうもいかない。
「荷物を置いたら、伺います」
と答えて、自室に向う。
廊下には、既に帰宅していた下宿生が全員廊下に居て、僕はがっしと捕まってしまった。
「だだだ……誰? あのイケメン!!」
「物部さんの知り合い? 紹介して!」
僕は彼女らをやんわりと振りほどいて
「細川の知り合いですって。しかもあの男『伝研』ですよ」
盛り上がっていた熱が、すぅっと冷えたのがわかった。
僕の学校には『伝研』とかかわると、ロクなことにならない……という不文律があって、必ず心霊体験をするという噂もまことしやかに囁かれている。
なので、オカルトマニアには是非所属したいサークルであり、オカルトに興味が無い人々にとっては、なんだか関わり合いたくない存在なのだった。
ちなみに、僕は後者。この下宿の肉食系女子の皆さんもそうらしい。
それに、僕は萩原の一件で、もうお腹いっぱいだ。
「そうか~……『伝研』かぁ……」
などと、ため息交じりに言いながら、お姉さま方は解散してゆく。
「そうそう、掲示板にも貼ってあるけど、この下宿のどこからか、異臭がするのよね。鼠の死骸とかあるかもしれないから、業者さんに来てもらうらしいわよ。作業日は告示されるから、洗濯物とか気を付けてね」
隣室の先輩がそんな事を言って、自室に戻って行った。
異臭と聞いて、なんとなく萩原の事が頭に浮かんだのだけど、その意識を振り払う。アレはもう終わったことで、出来るなら忘れたい。
覚せい剤までどこからか手に入れて、不眠不休で精神を削るギャンブルに入れ込んでいた男のことなど、思い出したくない。それに、あの奇妙な現象も。
風間が持ってきたのは、大学の周囲で一番人気がある洋菓子店『クーゲルブリッツ』のゾンネ・クランツというドイツのケーキだった。たっぷりと粉砂糖がかかったリング状の素朴なケーキでかなり甘い。
オーナーが好んで淹れる珈琲のマンデリンとはすごく合うだろう。
「私はこれが大好きでね」
などといって、口ひげに粉砂糖をつけているオーナーが可愛い。それをさり気なく拭く奥様も。
風間一族は神奈川県の小田原市にある古い家柄で、この下宿のオーナーである方丈さんの家とは古い付き合いなのだそうだ。
なんでも室町時代から両家のつきあいはあったようで、
「風間家も方丈家も、後北条と呼ばれる北条早雲の郎党だったそうだよ」
などと風間は言っている。
話が壮大すぎてついていけない。まぁ、ケーキも珈琲もおいしいからいいけど。
「戦国時代は、呪術とか本気で信じられていてね。まぁ関東一円を支配した北条氏は色々と恨みを買っていたから、霊的に御家を守る組織があったのだよ。陰陽寮とか、そういった機関だね。ご先祖様は信頼が厚かったらしく、北条の偏諱(へんき:名前の一部を家臣に与える事)として、『ほうじょう』という読みを与えるほどに」
風間は微笑を浮かべながら、「ほんとうかどうか、分からないけどね」と言っている方丈さんの話を聞いている。
だけど、僕にはわかった。彼は、僕を観察しているのだ。
顔は笑っているが、その眼の奥は笑っていない。
『こいつは、敵だ』
そんな囁きが聞こえたような気がして、思わず後ろを振り返る。
もちろん、誰もいない。
「萩原君の件で、私のサークルの働きを助けてくれたお礼をしたくて、君を探していたんだよ。方丈おじ様のところにいらっしゃるとは、世間は狭いね」
などと言って、金糸銀糸で飾られた小さな錦の布袋を差し出してくる。
お守りみたいな形状だった。
「京都の知り合いに送ってもらった、香袋だよ」
口の結び目を解くと、小さく折りたたんだ半紙が出てきた。
中には平たい釘のような乾燥した植物。
これって……
「そう、丁子だよ。スリランカの契約農場で特別に栽培されたクローブを加工したものなんだ」
わざわざ中身を見せたということは、発信機とか盗聴器などが仕込まれていないのを証明するためだろう。
今は、こうした手口の犯罪が多いから。
金糸銀糸は小さな猫のデザインで、かなり気に入っていたのだけど、これで安心した。
風間という男は、何か裏がありそうで信用できないのだ。
小さな香り袋。
赤と黒の綾織の布地に、金糸で伸びをしている猫、銀糸でまどろむ猫がデザインされていて、すごくかわいい。
ほんのりと香る丁子の香り。
ここ数日、眠りが浅かったのだけど、トロリと眠気が襲ってきた。
肩を押さえつけられているような肩凝りがあったのに、この香り袋を貰ってから、それがすっかり改善した。アロマテラピー効果なのだろうか。
―― あ、眠れそう
そのまま、眠りに落ちてゆく。
何日か夢見が悪かったのだ。でもぐっすりと眠れるような予感があった。
丁子の香り。
いい匂い。
小さな鈴がチリチリと鳴った。
金糸が解けて、金色の猫に。
銀糸が解けて、銀色の猫に。
スリっと僕の頬に体を擦りつけて、枕元に蹲っている。
ビロードの肌触り。
お日様に当てたお布団の匂いが丁子の香りに混じる。
ずっとゾクゾクと背中が寒かったのに、日向ぼっこをしているかのように暖かい。
「私が守っていますから、安心してゆっくりとおやすみなさい」
誰かが耳元で囁いている。
その声は、風間の声に似ていた。
「何から守るの? なぜ、僕を守るの?」
僕は舌がもつれて、まるで幼児言葉みたいになっていた。
それが、恥ずかしい。
「約定により。古い古い約定により。もういいから、おやすみ。思った以上に、君は消耗しているよ」
優しい声。
獲物を見つけて眼をギラつかせた猛禽のような風間とは、まるで別人。
不意に胸の奥がきゅっと切なくなる。
まるで役者のように整った風間の顔を見たいと思ったのだけど、僕の瞼はコンクリに固められたかのように、重くて開かなかった。
そして、そのまま、深いまどろみの深みに落ちて行く……。
がばっと飛び起きる。
随分と深く眠っていたようだ。
時計を見ると、明け方の四時半。夕食もとらず、着の身着のままに、十時間近く眠っていたことになる。
久しぶりにいい眠りだったので背中の悪寒と、ずっしりとした肩の凝りは、拭い去ったかのように消えていた。
入眠の時の夢想を思い出す。
恥ずかしさに悶絶してしまった。まるで、少女マンガかロマンス小説の一幕みたいではないか。まったく、これは僕のキャラクターではない。
備え付けの冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターのキャップを開ける。
それを一気にラッパ飲みした。
寝起きであること、そしてあの恥ずかしい記憶で、喉がカラカラだったのだ。
お腹もすいていた。
昼食の食べ残しのサンドイッチが、ラップに包まれて冷蔵庫に入っている。
あと二時間もすれば、朝食だけど空腹すぎて、それをつまみ食いすることにした。
充電器からスマホを取り出して、メールなどをチェックしながら、サンドイッチを口に運ぶ。
僕はそれを思わず吐き出していた。
洗面所に駆けこんで吐く。
半日経過しているとはいえ、冷蔵庫に入れていたのに、グズグズに腐っていたのだ。
まるで数日炎天下に置かれたかのように、中身だけが腐敗していた。
こんな早く進行する腐敗菌などない。しかも冷蔵庫の中という低温下で。
爽やかな目覚めは台無しになった。
口に残る嫌な酸味を何度もうがいして洗い流す。
チリっと鈴がなった。
足元に、風間からもらった香り袋が落ちていた。
たしか、握って眠ったはずなのに、なぜこんなところに落ちているのか? 疑問に思いながらそれを拾い上げる。
丁子は別名『百里香』という。
遠く離れていても香りが届くほど強いという意味なのだけど、この香り袋からは丁子の香りはしなかった。
それと、錦の袋もたった一夜でくすんだようになってしまっていた。
可愛い金糸と銀糸の刺繍も、乱暴に解いた様にズタズタになっていた。
「なにこれ……」
香り袋の口を解く。
中には、釘の形をした乾燥した丁子が半紙に包まれて入っているはずが、焦げた灰が床にパラパラと散っただけだった。
鏡を見る。
朱線が横一文字に走っていた。
ちょうど、僕の首を断つかの様に。
さっきまで、鏡にはそんな線なかったのに……と、思ったら、右手に口紅を握っているのに気が付く。
僕はあまり化粧をしないのだけど、女の嗜みとしてこの洗面台の引き出しには、チークや口紅くらいはある。
でも、それを取り出した記憶がない。ましてや、鏡に線を引くなど。
カチ・カチ・カチ……
音がする。
いつの間にか口紅はどこかに仕舞われ、今、僕が手にしているのは、カッターナイフだった。さっきの音は、その刃をスライドさせて出す音だ。
これは、勉強机のペン立てに差してあったはず。
いつの間に取に行って、手に持ったのか、記憶がない。
まるで、時間が飛んで断片的な映像を見ている気分だった。
鏡の中の僕。
疲れていて、脅えた顔をしている。
首には朱色の線。それが、横一文字に。
僕の心に浮かんだのは、
「この鏡の中の僕の様に、首を断ちたい」
だった。
ゆっくりと、右手が持ちあがる。
それが首へと。
何をやっているの? 何をやっているの? 何をやっているの?
何をやっているの? 何をやっているの? 何をやっているの?
僕の中の誰かが叫ぶ。
首筋にカッターナイフの刃が当たった。
そのひんやりとした冷たさ。そのままぞぶりと首に食い込ませたら、どんなに気持ちいいだろう……
そんなことを思う。
つつぅと血が首を流れた。
突然響いたのは、猫の絶叫。
銀色の子猫が、僕の手に噛みついていた。
その瞬間に、脳内にかかった靄の様なものが晴れた。
慌てて、カッターナイフから手を離す。
床に、それが転がるのを見た一瞬で、猫はどこかに消えてしまっていた。
耐えがたい吐き気。
臓腑が裏返るほどの痛み。
洗面台に向ってえずく。
僕の口からザラザラと音を立てて流れ出たのは、細い金色の鎖だった。
苦痛のあまり涙があふれて何も見えなくなった。
「な……んで……鎖が……」
洗面台に縋って、ずり落ちるのを支えながら、呟く。
吐いたことで、胃のムカつきは少し緩和された様な気がする。
よろめくようにして立った。
鏡を見る。
窓という窓。
あらゆる暗がりや隙間。
そういった場所から、無数の眼が僕を見つめているのが鏡に映る。
よく、女の子っぽくないと言われる僕だけど、この時ばかりはまるで女の子みたいな悲鳴を上げてしまっていた。
そして、そこでブツンと意識は途絶えてしまった。
珈琲の香りがした。
嗅ぎ慣れたマンデリンの香り。オーナーお気に入りのストレート珈琲。
珈琲は詳しくないけど、これだけは分かる。
話し声が聞こえる。
オーナーと風間の声だった。
「魂縛ノ金鎖は、破られてしまいました。おそらく、彼女の意思によって」
カチャカチャと銀のスプーンで珈琲をかき混ぜる音が聞こえる。
オーナーは砂糖もミルクも珈琲に入れないけど、スプーンでかき回すクセがあった。
おそらく、その音の主はオーナーだろう。
「彼女のご両親には連絡を入れたけど、現在、物部一族に金鎖法を使える術者は居なくなってしまったそうだよ」
オーナーの声。ここには、オーナーと風間がいるらしい。
僕が吐きだした金の鎖の事を思い出す。幻覚か悪い夢だと良かったのだけど、どうやらあれは本当に起こった事柄みたいだ。
ああ……最悪だ……。
それにしても『金鎖法』だって? いったい何の事か、全くわからない。
「智ちゃんには、普通の人生を歩んでもらいたかったみたいだけどね。だから、魂縛ノ金鎖で能力を封じていたらしいのだけど……」
ため息交じりにオーナーが言う。
「彼女は物部の直系でしょ? 当麻ほどじゃないにしても、魔を引き寄せますよ。御五家の一角じゃないですか。今回だって、彼女が今回の事案に関わったのは偶然じゃないと思います。無防備すぎますよ」
浅くオーナーが笑った気配がした。
「だから物部家は『方丈』と『風間』を頼ったのだからね。兵衛君だって、ずっと彼女を監視していたのでしょう?」
監視? 私はずっと、風間にストーカーされていたということ? オーナーもグルで?
「本来、私の役目は監視だけ。ご当主の駿兵さんたちみたいに『風魔ノ火種』の授受すらしてない、見習いなのですから。それが、本家から『なんとかしろ』と言われて……。呪具と知識を総動員して、この体たらくです。荷が重すぎます」
風間がため息をつく。半分は何を言っているのか分からないけど、要するにTVで見るうさんくさい『霊能力者』みたいな事を、風間はやっているということ?
「ああ……御本家の方は、大変なんだってね。『当麻の隠し砦』を使った禍ツ戦に巻き込まれたとか。駿兵さんは、まだ入院中?」
会話に何度か出てきた『当麻』という名前。
ずっと昔に聞いたことがある。何だったっけ? 思い出せない。
「ご当主は、二ヶ月の入院です。看護師さんにセクハラしないといいんですけどね。まぁ、してるでしょうけどね」
二人がくすくすと笑う。駿兵という人は、当主と言われているのに、あまり恐れられてはいないようだ。
「本家から譲り受けた『金猫・銀猫の呪具』は一晩支えるので精一杯でした。『鬼やらいの百里香』も然り。傲慢で迷惑な当麻のせいで、本家の支援も限定的です。方丈さんと私でなんとかするしかありませんよ」
また、風間がため息をついた。
「そうだねぇ。現役を離れてもう二十年だけど、智ちゃんのためだ。老骨に鞭打つよ」
はっはっは……と、オーナーが虚しく笑った。
僕は何を言っているのかよくわからない風間とオーナーの話を聞きながら、またトロトロと眠ってしまったらしい。
しばらくの間、まともに眠っていなかったので、疲れ切っていたのかもしれない。
僕が眠っているのは、多分オーナーの書斎。
蔵書のインクの匂いと、この部屋でしか吸わないパイプの甘ったるい匂い、それに珈琲の匂いがするから。
薄目を開けると、もう夜だった。
部屋の四隅には、おぼろげな光。
「やあ、智ちゃん。起きたかね? 何の事か分からないと思うけど、今晩一晩その部屋から出ない様にしてくれるかな。 私はこのドアの前にいて、お経みたいなのを唱えているけど、気にしないでね。気にしないでと言われても気にしちゃうと思うけど、今晩一晩だけ、奇妙な遊びと思って、私に合わせてほしい。お願いだよ」
オーナーは穏やかな口調でそう話していたけど、こっちが引くくらい必死だった。
いつもより早口なのが、その証拠。
「あ、どうも。風間です。今、この下宿には、私とオーナーと貴方しかいません。そして、私とオーナーは、夜が明けて、鶏が鳴くまで、決してドアを開けません。書斎の机の上に、古い懐中時計があるでしょう? その時計以外は信用しないでくださいね。朝……そうですねその時計で七時になったら、自分からドアを開けて出てきてください。それまでは、何があってもドアを開けない様に。私たちは開ける様に誘導することはありません」
そこまで一気にしゃべって、風間が言葉を切る。
「もしも、私や方丈さんや他の方の声で、出てくるように言われたら、それは人ではありません。心してください」
僕を脅かすつもりで、こんな手の込んだイタズラを仕掛けているのなら、大成功だ。
半ば僕は風間の言葉を信じてしまっていて、死ぬほど脅えていたのだから。
「ちょっと、まって。怖いんだけど」
ドアに向って喋る。
壁面全部にうっすらと靄が流れているみたいで、触りたくないのだ。
「気を強くもって。今晩凌げば、なんとかなります」
全く具体的な事実確認をさせてもらえないまま、僕はオーナーの書斎に取り残されたのだった。
窓は鎧戸まで固く閉ざされ、カーテンが引かれている。
それをめくって外を見る度胸は、僕には無かった。
ドリンク用の小さな冷蔵庫には、ペットボトルのお茶と、缶詰のパン、コーンビーフなどが置かれていた。
たった三時間で、取っておいたサンドイッチが腐ってしまったのを思い出す。
『密封容器なら大丈夫なのか? 嫌気性細菌ではないな』
などと、理系女子風に考える。笑えるかと思ったのだけど、全く笑えなかった。
本はたっぷりある。
専門書ばかりで、全く読書欲をそそらないけど。
TVもあるので、深夜の番組をザッピングする。
季節柄、怪談モノをお笑い芸人(名前は知らないけど多分そう)が、大げさに怖がりながら、痩せた髭の男の話を聞いている。
くだらなすぎて、TVを消す。
途端に、小さな呟きの様なオーナーの声が聞こえた。
ドアに近づいて、耳を澄ます。
ブツブツ聞こえるそれは、仏教のお経とも、神道の詞とも異なり、不思議な言葉だった。
「セブリニセブリテマガコトノトコイカヤリノカゼワレミタテトナリテフゼグモノナリ……」
聞き取れたのはそれくらいで、あとは何を言っているのかよくわからない。
さあっと、鳥肌が立つ。
髭面の痩せた男がしゃべっていた「安全」という文字がかすれて「女王」になっていたという、こじつけの怪談オチよりよっぽど怖い。
「サトリちゃん。ねぇ、サトリちゃん」
深夜二時を回り、すこしウトウトした時に、窓の外から声が聞こえた。
細川の声だった。
「ここのオーナーと、風間に、監禁されているんだって? 警察呼ぼうか?」
などと言っている。
声も言葉のイントネーションも、細川だった。
「バイトじゃないの?」
窓に近寄って、僕はそう応じた。
窓のすぐ近くから、細川の声は聞こえる。
「サトリちゃんが倒れたって聞いて、バイト切り上げて帰ってきたんだよ。ねぇ、顔を見せて。窓を開けておくれよ。心配だよ」
いかにも細川が言いそうな言葉だが、僕をサトリちゃんと呼ぶのはオーナーだけだ。
友人は僕をモノちゃんと呼ぶ。サトリという名前が気に入っていないのを知っているから。
「鎧戸はしまっていけど、鍵がかかっているわけじゃないよ、細川。自分で開けなよ」
試にそう言ってみる。
しばしの沈黙があった。
その沈黙は、およそ一分近く続いただろうか?
いきなり、
ドン
という、鎧戸を拳でぶん殴ったような音が響いて、僕は驚いて尻もちをついてしまった。
ビリビリと部屋中の空気が振動するほどの衝撃だったのに、鎧戸には傷一つない。
方丈さんの詞の声がひときわ高くなる。
「大丈夫ですか?」
風間の声。
ドアの向うから聞こえる。
「大丈夫です」
ガクガクと震える足を信用せず、書斎の机に縋って立ち上がりながら言う。
「もう、そこは危険です。こっちに出てきてください」
切迫した風間の声。
僕はドアノブに手をかけて、そこでようやく踏みとどまった。
―― もしも、私や方丈さんや他の方の声で、出てくるように言われたら、それは人ではありません。心してください
その風間の言葉を思い出したのだ。
人ではない……「人ではない」って何?
風間を信じるか、馬鹿馬鹿しいと、ドアを開けて自室に戻るか、どうする?
結局、僕はその場に留まることにした。
もしこれが大掛かりなイタズラでも、あとで笑い話なると思ったから。
ここまで本気のイタズラなら、むしろ結末まで見てみたいものだ。
「その手は食わないよ。ば~か」
そう言って、ドアに背を当てる。
ドンドンドンと拳でドアを叩く音が聞こえる。
「出てこい、出てこい、出てこい、出てこい、お前は、俺のモノだ」
風間の声の様でもあり、細川の声の様でもあり、オーナーの方丈さんの声ともとれる声で、何かが喚いていた。
家全体がグラグラと揺れていた。
地震かと思ったけど、立っていられないほどの揺れにも関わらず、シャンデリアは揺れていないし、本も落ちてこない。
強烈な眩暈みたいな感じだった。
吐き気がする。
これは、悪いモノだ。良くないモノだと分かる。
祖母様は、こんな時になんて言っていたっけ?
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり ゆらゆらと ふるべ」
言葉が自然とこぼれる。
これが古神道の『ひふみ祓詞』という鎮魂ノ詞であることを知ったのは、ずっと後のことだ。
部屋の中の時計は、全て違う時間を指し示していたが、風間が言った懐中時計に従って、朝七時にドアを開ける。
鎧戸を締め切っていて分からなかったけど、外はすっかり明るくて、スズメなどが鳴いていた。
ドアの前には、小さなちゃぶ台があり、その上に木像やミニチュアの神殿が飾ってあった。
そのちゃぶ台に突っ伏すようにして眠っているのは、オーナーの方丈さんだった。
烏帽子に白絹の水干という神職みたいな恰好をしている。
「一晩、祓詞を唱え続けたのだからね。疲れ果てて眠ってしまわれた」
風間も疲れた顔をしている。
「賭博にのめりこんでダメになる人間には、破滅願望があるんだよ。その情念を研ぎ澄ます仕組みが、アレさ。一種の人外のモノ製造装置みたいな感じだね。偶然、君と細川は、その端末にひっかかったというわけさ」
伊達な麻のジャケットの袖を、そろそろと風間がめくる。
左手にびっしりと蚯蚓腫れが覆っていた。
「これは、『穢』触ってはいけいないよ」
僕の動きを制して、風間がポケットから銀色のスキットルを出す。
器用に右手だけでキャップを外して、その中身を左手に注いだ。
まるで、硫酸でもかけたように、刺激臭と水蒸気が上がった。
喰いしばった風間の口から、呻き声が漏れた。
「この液体は、『お神酒』。日本酒だよ。穢を払う」
信じられないことに、蚯蚓腫れはみるみる消えてゆく。
風間が、残ったお神酒をラッパ飲みする。
白い喉に喉仏が上下するのは、なんだかエロチックな眺めだった。
「色々聞きたいことはあるけど、アレはいったい何なの?」
すこし、考える様子を見せて風間が答える。
「情念の純粋な結晶体。意思を持ち人を喰らうモノ。風間一族も方丈一族も、君の物部一族も、ずっと昔からアレと戦ってきたんだよ」
部室のドアを潜る。
ここは、キャンパスの外れ、『部室長屋』と呼ばれる小部屋の集合体。
その一番端に『都市伝説研究会』はある。
僕は、なしくずしに、この部員になってしまった。
部員は、風間を含め六名いるらしいが、僕はその姿を見ていない。
部長を除く五人は、二人一組で各地に調査に向っていて不在。
部長は単なる帰省で、間もなく帰ってくるらしい。
大学の夏休みは長い。伝研は、この時期に調査旅行にいくことが多いそうだ。
「歓迎コンパは、夏休み明けだね」
小さな部室に風間と二人きりで、なんだか落ち着かない。
「物部の歴史を知らされていないみたいだから、みっちりと教えるよ。『魂縛ノ金鎖』がなくなってしまったから、君は無防備だからね。自分の事は自分で守れる程度に、鍛えるよ」
変な世界に足を踏み入れてしまった。
でもアレは現実だった。
もともと僕はその世界の住民らしい。
風間は変人だけどモデルはだしの美男子だし、まぁいいかと思っていた。
伏線投げっぱなしなので、多分不定期に風間さんと物部さんの話は続きます。
まとめられなくて、すいません。




