蝉時雨
蝉時雨という言葉がある。
多くの蝉が、一斉に鳴く様のことだ。
結界に守られた当麻の屋敷にも、夏ともなればどこからか蝉が迷い込んできて、その声を降らせている。
「蝉の声は、命を振り絞った『恋歌』なのですよ」
私はいつも、少女の頃に聞いたそんな話を思い出す。
遠い夏の日。
キラキラ光る霞ヶ浦の水面。
微かな胸の痛みを残して、あの人が歩み去ってゆく姿が、いつも瞼に浮かぶ。
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戦火から当麻の家を守るため、私たちは茨城に疎開していた。
当麻一族と当時の為政者の間では日本の敗戦は確定事項になっており、戦後の混乱期の対応をどうするか? ということが話し合われていたそうだ。
私は、次期『当麻の乳母』となるため、日々修行に明け暮れていて、勤労労働などを免除される代わりに、まるで古の時代の剣豪のような生活をしていたのだった。
あの男が、ふらりと来たのは、そんな夏の日だった。
ごくまれに、『当麻の結界』をあっさりとすり抜ける者が出る。
そういった者は、邪気が生まれつき無い人物が多く、まぁ要するに馬鹿なのだ。
男は、普通に門を通り抜け、折りたたまれた空間を簡単に踏み越え、私がひたすら木刀を振っている道場の前に立ったのだった。
「ごめん、一手所望、ごめん、一手所望」
男はそう道場の前で、蝉の声に負けぬよう声を張り上げていたのを覚えている。
詰襟の学生だった。
金色の釦は七つで、その紋様は碇と桜の意匠。
予科練の学生だとすぐに知れた。
「ここは、立ち入り禁止です。お引き取りを」
修行の手を休めて、私はそう対処した。
ここは、一般の人間が紛れ込んで良い場所ではない。
この暑いのに、汗ひとつかかず、男は私に笑顔を向けてきた。
背はそれほど高くは無い。百六十センチあるかないかというところ。
強い毛質らしく、短く刈り込んだ髪がハリネズミの様に立っていた。
眉が太かった。
鼻はどっしりと胡坐をかいていて、口が大きかった。
優男とは対極に位置する男だが、ぎょりと大きな目は不思議と愛嬌がある。
「おお、娘さん。武者修行のため、一手所望。私の師匠は、他流試合を推奨しておったのだ。ご当主に取り次ぎ願いたい」
私の話を聞いていないのか、男はそんな事を捲し立てている。
「断る、帰れ」
今度は、キツイ口調で応じてみる。
さすがに、男は怯んだようだった。
そして、困惑した熊の様な仕草で、頭をガリガリと掻く。
「いやはや、失礼した。娘御がご当主だったか」
この男が、なぜ私の正体を見抜いたのか、今でも謎だ。
だが、まれにこういった本質を見抜く『眼』を持つ者はいる。それゆえ、結界を抜ける事が出来たのであろう。
「私の名前は、薬丸 新次郎。予科練の学生です。薬丸示現流の剣士でもある。出身は鹿児島。恋人はいません。募集中です」
私は、叩きのめして追い出すつもりだったが、この無礼を許す気分になってしまっていた。
邪気が無さすぎる。まっすぐなのだ。それが、人を魅了する。
私は、まんまとタラされてしまっていた。
「最後のは、余計です。でも、私の事を見抜いたことに免じて、一度だけお相手しましょう」
便宜上『当麻流』と名乗っているが、実は当麻一族が振るう武技に正式な名称はない。
名前がないと不便なので、『鉈落とし』とか『蓮華砕き』とか『踏鳴』など適当に名前をつけているだけだ。
男は、詰襟の制服を脱いで几帳面に畳み、床に置く。海軍の流儀らしかった。
白いワイシャツの袖をまくりあげ、愛用の木刀を刀袋から出す。
嬉しそうに、いそいそと。それが、妙に可愛かった。
私は、何も持たず、ただ立っていた。
男が困惑している。
「得物はよろしいのか?」
私は答えた。「不要」と。
男は「そうですか」と言って、すっと八相に木刀を構えた。
いい、覚悟だった。
相手が素手だからといって、困惑したり、戦意を揺らがせたりしない。
それに、この八相に構えた瞬間に、空気が変わったのも好ましい。
示現流ではこの構えを『トンボ』と呼んでいるらしいが、この高く構えた八相から、無念無想の一撃を叩き降ろすのが示現流の深奥だ。
私は半歩前に右足を出して、両手をだらりと下げた。
『当麻流腰ノ周』と呼ばれている組打ち術の基本的な構えだ。
―― この男、かなり遣う
対峙すると分かる。薬丸という男、鍛え抜かれた剣士だった。
相手が小娘だからとか、無手だからとか、一切忖度しない。
薩摩の剣士らしい、きっぱりとした割り切りだった。
男は微動だにしない。
だが、分かる。
薬缶の中で水が沸騰する様に、何か圧力の様なモノが膨れ上がっているのが。
通常なら、それを「抜く」。
潮合が高まるのを待たず、幻惑し、ちょっかいを出し、集中させない。
それが、兵法というもの。
だけど、私は待った。
この男の全力を受け止める。そうしてみたいと、私の中の武神が囁いたから。
日本最古の退魔師、当麻家。その成立と同時に、その護衛者として、また万が一の際の断罪者として、生まれたのが『乳母』だ。
苗字も無い。名前もない。ただ『乳母』という記号だけで呼ばれる存在。
初代の当麻当主を自らの乳を与えて育てたのが、その発祥と言われている。
そして、代々、神から遣わされるがごとく、『当麻の門』に捨て子があり、それが乳母となる。私も、おくるみに包まったまま、門に捨てられていたそうだ。
乳母となった者は、自然と呼吸するがごとく、古今の武技・武術をその身に刻む。
私もまた、誰に教わったわけでもなく、この世のどんな達人よりも巧みに武術を使える……らしい。
他流試合など、したこともないので、そう言われているだけで、確かめたことなどないのだけれど。
じりっと、薬丸が前に出る。
突然、薬缶から蒸気が噴き出るかの如く、裂帛の気合いが迸る。
トンボの構えから、真一文字に木刀が走る。
示現流では、これを「雲耀の太刀」という。
その太刀行きの速さは、鋭く研ぎ上げた錐が半紙を貫く速度……と、言われている。
古流にありがちな、大げさな表現だが、たしかに早い。
だけど、私にはその初動も、軌跡も見えた。
するすると前に出て、左手で相手に触れて支点を作ってやり、踏込の勢いをそのまま、右手で押して、回転運動に変換する。
当麻流腰ノ周、『糸車』という技法。
薬丸の体がふわっと浮き、一回転して床板に背中から叩きつけられていた。
さすがに、受け身をとったようだが、かなり痛かったと思う。
私は他流試合は始めてだった。
すごく、ドキドキしていた。
男は、身軽に体を起こし、暫くすると、大きな声で笑ったのだった。
「これは、これは、なんという名手。こんな機会を得られようとは! もう一手所望!」
薬丸の顔に浮かぶ、男臭い笑みのなんという清々しさよ。
小娘に負けて悔しいとか、そういった感情が微塵もないのだ。
「お気の済むまで」
思わず、私はそう答えていた。
「かたじけなし! いざ」
ぴたりとトンボの構え。高く。強く。
開け放たれた、道場の窓からは風。それが火照った頬を撫でる。
聞こえるのは、蝉時雨と空気を裂く木刀の唸り。
まるで日向の子犬の様な、薬丸の肌の匂いがした。
気が付けば、すでに夕刻になっていた。
道場の中央に、大の字になった藥丸の姿。
荒い息で、鞴のように分厚い胸が上下していた。
「いやまいった。一本も取れぬとは!」
すこしも悔しくなさそうな口調で、藥丸が言う。
私は、正座をして、まるで少年の様な心を持つ男を見ていた。
がばっと、藥丸は身を起して、胡坐をかく。
そのまま、私ににじり寄って来た。
―― 近い
そう思ったが、不思議と不快な感じはしなかった。
鼓動が高まったくらいである。
「私には、時間がない。なので、この間、心残りだった武を練り上げたい。協力してください。ご当主……ええと、何とお呼びすればよいのやら?」
私には名前がない。あるのは『乳母』という記号だけ。
修行中の私は、その『乳母』ですらない。
「巴とお呼びください」
咄嗟に、なぜその名を名乗ったのか、今でも分からない。
「巴どのですか。 なるほど、巴御前ですな。 ぴったりの名だ」
そういって、藥丸 新次郎 が笑う。それだけでよかった。
「いつでもおいでなさい。武を学ぶ者に門戸は開かれます」
その日から、週に二、三度、藥丸 新次郎 は道場に通う様になって来た。
相変わらず、どうやって『当麻の門』を潜るのか『道切の呪法』を踏み破るのか謎だが、ふらりとやってくるのだ。
そして、立ち会う。
藥丸はひたすら藥丸示現流で。
私は、無手でやることもあり、木刀を握ることもあり、棒や薙刀で相手することもあった。
一度も藥丸は私に勝てなかったが、ただ全力で一刀を振るうのが楽しいらしい。
「藥丸示現流は、稽古でも相手を殺す気でやる。私は、本当に相手を殺してしまうのではないかと、それが怖かった。だが、巴殿はお強い。躊躇なく一刀を振るう事が出来る。それが嬉しい」
いつしか、藥丸の来訪を心待ちにしている自分に気が付く。
一緒に剣を振るい、一緒に道場を清め、時には広大な庭を散策する。
他愛のない話をした。
藥丸の故郷の鹿児島の事。
蝉時雨の事。
なにかというと、殴る彼の母の事。
空を飛ぶという事。
私には過去がない。
私には未来も無い。
だから、専ら私は聞くだけだったけれど、少し照れながらしゃべる藥丸の横顔を見るだけで、なんだか心の中がきゅっと切なくなった。
「いつか、巴殿を乗せて、空を飛んでみたい」
夏の青い空を見上げ、そんな事を言っていた藥丸の声が、今も耳に残っている。
「次、お伺いする時が、最後になると思います」
ある日、帰り支度をしながら、藥丸はそんな事を言った。
「明日、自由時間をもらいましたので、正午にお伺いいたします」
そういって、藥丸はひらりと笑い、海軍式の敬礼をした。
私は、その時何を言ったのか覚えていない。
気が付けば、暗い道場にポツンと座っていて、斜めに差し込む月光を浴びていた。
藥丸がここに来て、一緒に剣技を磨き、笑ったり話したりすることが、当たり前だと思っていたのに、それは唐突に終わってしまう。
藥丸は予科練の生徒だ。
飛行兵養成学校の生徒なのだ。
いずれ、戦争に往く。
わかっていたはずなのに。わかっていたはずなのに。わかっていたはずなのに。
念入りに道場を清め、真新しい道着に袖を通す。
迷った挙句、私は小さな貝の容器から、紅を指にとり、唇に引いた。
化粧など、初めてだった。
藥丸は、気が付いてくれるだろうか?
朴訥な男だ。多分気が付かないかも知れない。
でもいい。
もう会えないかもしれない。
だから、せめて少しでも娘らしいところを見せておきたい。
正午きっかりに、藥丸 新次郎 はやってきた。
手には帆布製の大きなカバン。
斜めに木刀の袋を背負って。
真新しい詰襟の制服を着ていた。
金色に光る七つ釦。碇に桜の意匠。
角ばった軍帽を、目深に被っている。
出立の装いだった。
「出撃が決まりました。鹿屋基地に配属です」
そう言って、藥丸が笑う。
私は、地面がグラグラと揺れるような感覚を味わっていた。
鹿屋海軍基地といえば、菊水作戦の中心……
「故郷の近くですから、里帰りみたいなものです」
私は俯いたまま、何も言えなかった。
「最後に一手所望」
荷物をおろし、詰襟をきちんと畳んで、いつもの様に藥丸が身支度する。
私は無手のまま、道場に中央に立っていた。
藥丸が木刀をトンボに構える。
この一ヶ月ほどで、藥丸はだいぶ強くなった。構えをみただけでわかる。
その姿がぐにゃりと歪んだ。
何事かと思ったが、それは私の涙だった。
一度堰を切ったら、もう止まらなかった。
拳を握り、身を震わせて、私はただ泣くばかり。
日向の子犬の匂いに包まれたと思ったら、私は藥丸の腕の中に居た。
「いや! 離して!」
反射的に、突き飛ばそうとした手が、ぱたりと落ちた。
武神を宿す身なのに、どこにも力が入らなかった。
強く抱きしめられる。
その分厚い胸に、私は顔をうずめる。
藥丸の匂いがした。
「私は、この国が好きです。この山河が好きです。……あなたが好きです。だから、私は死して護国の鬼となります」
「私は、鬼やらいの家の者。ならば、必ず、藥丸を見つけ出します」
私を引き離す、藥丸の手が震えていた。
白い藥丸のワイシャツの胸に、私の口紅の痕だけがくっきりと残っていた。
藥丸が、それに自らの手を重ねた。まるで、奪われまいとするように。
「唇を頂いていきます。これで、百人力、いや、千人力」
予科練の制服を着直し、私に向って藥丸が敬礼する。
穏やかな笑みが、藥丸の男臭い顔に浮かんでいた。
回れ右をして、去ってゆく。
小さくなってゆく、彼の後ろ姿。
一度も振り返ることなく。
それが、藥丸らしい。
蝉時雨。その声ばかりが降りかかる。
生命を振り絞る『恋歌』。
霞ヶ浦が夏の陽光に光っている。
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「乳母様、お体に障ります」
そう言って、私が乗る車椅子を木陰へと押すのは斎藤。
彼の大きな体は、年老いて一回りしぼみ、髪は真っ白になっていた。
「次期の乳母も、間もなく成人の儀を迎えよう。わしは、もう用済み。いましばらく、蝉時雨を聞きたいのです」
そよそよと風。
扇子で斎藤が風を送ってくれていた。
「蝉時雨」 (了)




