待宵桜 後編 (寄稿者:ぶるどっく 様)
身分の違い、そして戦争に引き裂かれた、男女の哀しい運命。
その想い強きゆえ、鬼と化した者は、桜の宵に何を思うのか。
日露戦争の時代を背景に描く、もう一つの退魔の物語。
鷹樹が描く『退魔』とは一味も二味も違う、しっとりとした語り口。
前編・後編と読みごたえも十分。ご照覧あれ。
ご投稿いただいたのは ぶるどっく様
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=== 前編より 続く
明るく世界を照らし出す日輪の輝きが沈んでしまえば、現世は闇一色に包まれる。
江戸から明治へと時代が移ろい流れようとも、夜の闇まですぐに奪われることなど有り得はしない。
それでも、江戸の闇に比べれば明治の夜は日本橋の両側、新橋や銀座といった場所にはガス灯が灯る。
微かな光源では有ったものの、明治を生きることになった人間達の眼には大きな進歩として映ったものである。
そんな点在するガス灯の微かな明かりと、己が持つ和蝋燭を灯した提灯の明かりだけを頼りに霧雨の中を一人の若い書生が唐傘を差しながら足早に歩いていた。
頼りなげに揺れる提灯の明かりでは、一寸先をも見通すことなど出来はしない。
月明かりも、人気も無い暗闇の中で離れていても人の眼で確実に見ることが叶うのは、魚の尾鰭の如く二股に分かれて揺れる街灯の明かりだけである。
手元で揺れる提灯では微かに路面を確認することが精一杯なはずなのに、書生は唐傘の影から覗く白い人影を認め足を止めてしまう。
「(……女……?)」
書生の歩く先にある仄かなガス灯の明かりの下に、闇に浮かび上がるようにして佇む一人の女。
白い着物の上に艶やかな打ち掛けを羽織り、霧雨の中で唐傘すら差さずにガス灯の傍らに立っている。
「…………。」
既に日が暮れてから数刻、艶やかな打ち掛けを纏うような女が一人で夜の街に立っていることは書生の常識では考えられないことだった。
しかし、その妙な女が立っているガス灯の前を通る道が一刻も早く帰り着きたい屋敷へと、最も早く帰れる道なのだ。
眼も合わせず、声も掛けず、知らぬ振りをして通り過ぎれば問題は無いのではと、書生は止めていた足を足早に動かし始める。
書生は意識して女を視界に映らないように、近付けば近付くほどに歩む速度を上げていく。
ガス灯の揺らめく炎に照らされて俯いている女の横を、書生は深く差した唐傘の中で顔を背けて通り過ぎる。
「(……気味の悪い女だったな。)」
何事もなく女の横を通り過ぎることが出来た事に安堵した書生は、速めていた足を無意識のうちに緩めてしまう。
「……そうじろう……」
果たして気を緩めたことがいけなかったのか、何故か書生の歩み続けていた足が止まった。
「……宗二郎……」
屋敷に帰り着くまで決して足を止めるつもりなど書生には無かったが、己の腰の辺りに回された何かの所為で足は止まってしまったのである。
書生の腰の辺りに回された何かは、艶やかな打ち掛けから覗く青白く細い両の腕だった。
背中に感じる氷のように冷たい身体と、縋り付くように己の腰に回された細い両腕の感触に書生の血の気が引いていく。
「……っっ……」
愛しげに、感極まったように囁かれる知らぬ男の名と、一見弱々しく映るが万力のように腰回りを締め付ける細い腕の力。
声を上げることすらままならず、犬のように早く浅い呼吸を繰り返す書生の背筋に怖気が走り、歯の根も合わぬほどに震える。
「……やっと……帰ってきてくれた……」
振りほどきたくとも、振りほどけない己をギリギリと締め上げ続ける怪力に書生は恐怖に彩られた苦悶の表情を浮かべる。
「ちがっ、僕はお前の探す、男じゃないっっ……!」
やっとの思いで叫んだ己の悲鳴のような声に、女の書生を締め上げていた細い腕が緩む。
「……そう……ちがうのね……」
助かったっっ、と深く息を吸い込んだ書生の首元から何かを無理矢理引き千切るような音が夜の闇に木霊する。
「……なら……要らないわ……」
緩められた女の腕から解放され、支えを失った身体が前へと鮮血を吹き上げながら倒れていく。
見えない腕で強引に引き千切られた書生の首がベシャリと濡れた音を立てて路面を転がり、霧雨に濡れた黒い路傍に浮かび上がる鮮やかな紅が小川のように流れていく。
「……喰らっていいわよ……」
書生を何の感慨も抱かず無表情に命を奪った“女鬼”の抑揚のない声に応え、打ち掛けの影から何かが姿を現す。
それは蠢く小さな鬼、餓鬼の大群だった。
餓鬼道に住むという皮と骨ばかりの身体に似合わぬ大きな腹を持ち、常に飢えと渇きに悩まされる強欲な魂の成れの果て。
そんな餓鬼達がぎゃいぎゃいと歓喜の声を上げて、命を失ったばかりの温かな書生の身体を貪っていく。
濡れた肉の音、固い骨を削る音……牽制しながらご馳走を貪る餓鬼達の姿に女鬼はうっそりと笑う。
生まれ落ちた時よりも、人間達の恐怖を喰らって強くなった己の力に酔いしれて、渇望し続けていた願いを今ならばより残酷な結末を生み出せると狂喜する。
女鬼は濡れた路傍に流れた血の一滴さえも舐めとった餓鬼達を再び打ち掛けの袂に招き、ゆらり、ゆらりと歩き出す。
暗闇に包まれ静まりかえった路傍には、餓鬼の腹の中に収まった書生の持っていた壊れた提灯が燃え上がる小さな明かりだけが微かに揺れ、白い煙だけを残して消え去ってしまうのだった。
※※※※※※※※※※
「あの恩知らずめがっっ!!」
ガシャンと派手な音を立てて酒がつがれた杯を乱暴な仕草で小さな机へと叩き置き、連日のように酒を飲んでは荒れている利通。
普段から他者の心など気にも留めぬ言動が目立つこの男は、酒が入れば尚更に物だけでなく側にいる人間へも拳を振るう癖の有る男だった。
それゆえに、元々好んで嫁いできた訳でもない妻は我関せずを貫き、好き好んでいる訳でもない父親の元へと息子が近寄る訳も無かった。
憐れなことに近寄らなければならないのは、酒瓶が空になり利通が怒声を上げる前に酒を運ばなくてはならない使用人達だけである。
「あの小娘、何処に消えおったっ……!」
一月前の婚儀が決まったと告げたその夜に消えた一人娘。
「折角、若い女好きの色ボケ爺だが桜子をくれてやる代わりに大金が転がり込む美味い取引を貰う手はずだったというのにっ! このままでは台無しになってしまうでは無いかっっ!!」
妻に似た美しい容姿の娘、桜子が心配と言うよりは折角の儲け話が不意になってしまうことを危ぶんだ利通は、この一月あまり桜子を欲した大尽に悟られぬように水面下でその行方を追い続けていた。
しかし、何処を探しても桜子の姿は見付からない。
何処までも下らない一時の恋という名の迷惑な感情に流され、この世を儚んで命を絶ったかと理解は出来ないものの思い当たった利通。
だが、桜子が姿を消してから若い女の死体が見付かったという話しはとんと聞かず、世間で噂になっているのは若い書生の神隠しの話しばかりだった。
勿論、屋敷の中も使用人達に厳命して納屋の端から、庭の木の陰まで隈無く利通は探させた。
庭にある古い涸れ井戸の中まで探させても、桜子が見付かることは無かったのである。
若く美しい新たな妻となる少女を早く手元に置きたいと、利通から見ても気持ちが悪い好色な笑みを浮かべた老人の催促に、誤魔化すこともそろそろ限界だった。
「何処までも儂に迷惑を掛ける小娘めっ! 本当に忌々しいっっ!!」
杯になみなみと注いだ値の張る高い酒を一気に呷り、熱くなった身体で利通は罵声混じりの怒声を上げ続ける。
利通が愚痴と罵声を呟きながら普段にも増して速い調子で飲み続ければ、すぐに酒瓶が空になるのも当然だった。
「おいっ! 酒が無くなっているぞっっ!! さっさと運んで来んか、役立たず共っっ!!」
酒が無くなったことに大きく舌打ちをした利通は、すかさず元々大きな地声を更に張り上げる。
「おいっ!! 使用人共っっ聞こえないのかっっ!!!」
何度大声で使用人に酒の催促をしても、利通の怒声に謝罪混じりで慌てて酒を持って駆けつける使用人達は一人も現れない。
「あの馬鹿共がっ! 主である儂を差し置いて先に眠りおったなっ!」
糞共がっ、と罵りながら酔いの回った足で立ち上がり、酒瓶を片手に自室を出た利通が自室の扉を開け、一歩廊下へと足を踏み出した瞬間に背筋に震えが走る。
「ひっっ……?!」
心地良かった酔いは一気に醒め、手に持っていた酒瓶が落下し激しい音を立てて割れ砕け、利通は寒い訳ではないのに奥歯が震えてしまう。
「(なんだ……何なんだっ、何なんだこれはっっ!!)」
己の屋敷に蔓延する身の毛もよだつ気配に何なのだ、という疑問で利通の心の中は埋め尽くされる。
まだ春先である今の時期、夜は確かに寒い。
だが、利通を震えさせる“それ”は寒さではないのだ。
まるで、背筋を沢山の百足が這い上がるような不快な“それ”。
振り払いたい一心で腕をがむしゃらに振っても、纏わり付く粘着度の高い蜘蛛の糸のように払うことが出来ないと分かってしまう“それ”。
何処までも、吐き気を催すほどに気味が悪く、生理的に受け付けない油虫の大群と遭遇してしまったかのような“それ”。
知らず速くなっていく呼吸、胸を飛び出しそうなほどに大きく速く脈打つ鼓動、硬直していく全身の筋肉、意思に反して止まることのない身体の震えと流れ落ちる汗。
「(逃げなければっっ!!)」
何なのだ、と利通の脳裏を埋め尽くしていた疑問は、背中に忍び寄る濃厚な死の気配を感じ取り生存本能を刺激され、恥も外聞も捨てて唯々逃げなければという思いに埋め尽くされる。
その感情に突き動かされた利通の身体は、自室にあった小さなランプを片手に掴んで勢いよく走り出す。
丑三つ時をとうに回った住み慣れた屋敷の中は、今や別世界へと様変わりしたように恐怖に埋め尽くされていると利通は感じてしまう。
歩き慣れた廊下の角、駆け下りる階段、暗がりが永遠に続いているかのような窓の外……。
運動不足の肥満体は悲鳴を上げ、空気が抜けるような狭窄音を太く短い喉が奏で、眼球が命を脅かすで有ろう正体も分からぬ“それ”を見逃さぬように眼窩の中で動き回る。
見慣れた玄関へと一目散に走り続けた利通は、少なくは無いはずの数がいる使用人に只の一人とも出会うことは無かった。
しかし、使用人に出会わないという違和感の理由を考えるよりも、やっと視界に映った出口に利通の緊張が僅かに緩む。
緩んだ心は利通の身体に足りない空気を吸い込ませ、そして…………たった一度の瞬きをさせてしまった。
「……ひぎゃっっ?!」
そのたった一度の瞬きの一秒にも満たない合間に、現れた人影に小さな悲鳴を上げてしまう。
「…………。」
出口である玄関の前に静かに佇む“それ”は微笑みを浮かべた女だった。
青白い顔の中で紅い唇が弧を描き、女性と言うにはまだ幼さの残る身体を死装束を連想させる着物に身を包み、艶やかな打ち掛けを纏った女であった。
「ひっ……あ?……お、まえは……桜子っっ!」
暗い屋敷の中で闇に浮かび上がるように現れた人影は行方を眩ましていた娘、桜子の物だった。
「桜子っ! 貴様よくもおめおめと儂の前に姿を現せたなっっ!!」
怯えていた心を誤魔化し、女に向けて今までの鬱憤を晴らすように利通は唾を飛ばしながら怒鳴り散らす。
「…………」
だが、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす利通を視界に映しているはずなのに、女はガラス玉のような無機質な瞳で唯々微笑んでいる。
己の怒声に怯えもしない様子に更に怒りを燃え上がらせた利通は、女へと近付くために一歩踏み出す。
踏み出した足の靴裏で、敷いている絨毯が水気を含んだようにびしゃりと音を立てた。
血が上っていた利通の頭に冷水が浴びせられたかのように血の気が引き冷えていき、全身を震えさせていた“それ”が戻ってくる。
「……あっ……あっっあ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁっっ!!!」
警鐘を鳴らす本能に見てはいけないと分かっているのに、利通の眼球は床へと視線を動かしてしまい、己が持つ小さなランプの明かりに照らされて見えた物に悲鳴を上げ、後ろへと後ずさる。
利通が見てしまった物は、逃れることが出来ない残酷な己の末路を連想させたのだ。
……利通が見てしまった物を一言で現すならば、数多の子鬼と人間の一部だった。
夥しい数の子鬼達、即ち餓鬼共が絨毯や床の上に座り込み、ぎゃいぎゃいと歓声を上げながら喰っているのだ。
血を吸い込んだ絨毯や、点在する赤い水溜まりが出来た床の上に散らばった一人や二人の話では無い数の人間だった物を貪り喰っているのだ。
「……お腹がすくって泣くの……だからね、食べさせて上げているのよ……」
焦点の合っていない瞳で嗤う女の言葉よりも、利通は込み上げてくる己の胃液に耐えることで精一杯だった。
「……でも、可笑しいわ……桜子だった私は宗二郎に会うはずだったのに……何処にもいないの……」
クスクスと嗤いながら紡がれる女のか細い声に目の前にいる娘だと思った女が、自室を出た時から感じていた“それ”の正体なのだと利通は感づく。
「あ……ぁ……ひっ…く、くるっ来るな……」
震える声で威嚇しながら後ずさる利通の足が縺れ、尻餅を付いてしまう。
それでも、少しでも娘の姿をした女鬼と距離を取ろうと後ずさり、最後の頼みの綱とばかりに小さなランプを突き出し続ける。
「……不思議なの……この子達が食べるほどに……宗二郎のことを忘れてしまう……」
女鬼は己の両手を見詰め、どうしてだろうかと小首を傾げた。
「……指の隙間から砂が溢れ落ちていくように……忘れてしまうの……」
己の両手から視線を上げて、嗄れた声を発する女鬼の器となった娘の父親だった物を静かに見詰める。
「……でもね……ただ一つだけ、分かることがあるのよ……」
一欠片の感情すら浮かんでいなかった無機質な瞳に、燃え上がるような感情が浮かび上がった。
「“ゆるさない……許さないっ、許せるものかっっ!!”」
死を選んだ桜子の死に際の激情が、女鬼の中で燃え上がる殺意となって呼び起こされる。
「わ、儂が悪かったっっ! 謝る、何でもするっっ!! だから、だから殺さなっっ、ひぃっぎゃあぁぁぁっっ!!!」
叫んだ女鬼の憤怒と憎悪に導かれるように、元は人だった物を喰らっていた餓鬼達が脇目も振らずに一直線に利通目掛けて駆け寄っていく。
腰が抜けて逃げることもままならない利通はランプの明かりを振り回し抵抗するが、夥しい餓鬼の数の前には無力であった。
絶叫を上げながら生きたまま身体の端から利通は餓鬼達に喰われていく。
持っていたランプが利通の手を離れ、壁に叩き付けられれば、残っていた石油に引火し瞬く間に勢いを増して広がっていく。
「ふ、ふふふ……ふふふふふ、あははははははっっっ!!!」
燃え広がる炎の海の中心で、狂ったように嗤う女鬼の赤く照らし出された青白い頬に涙が溢れ落ちる。
夜の闇に浮かび上がる地獄の業火の如き赤い炎は屋敷を燃やし尽くすまで決して消えることは無く、何処からともなく女鬼の鬼哭の声が響き続けるのだった。
心に想う男を失って、鬼になることを受け入れ、父親だった男を殺してから、どれ程の月日が流れ去ったのだろうか……。
既に愛しているはずの男の顔も、声も、何もかも思い出せなくなった女鬼は今日も愛している男を捜して彷徨い続ける。
書生姿の若い男を見かけなくなれば、若い男に的を絞って声を掛け続ける女鬼。
何人も、何十人も、どれだけの命を奪い、恐怖を喰らったかすら分からない彷徨う女鬼は、己と同じ存在と出会うこともあった。
だが、同じ存在だと言う彼等と共に有ることよりも、女鬼にとっては愛する男を見つけることの方が重要で、一触即発の雰囲気となることも少なくは無かったのである。
煩わしい同族共を振り切り、愛する男を見つける以外は目的もない女鬼はいつの間にか一本の古木の前に来ていた。
神社と思わしき場所に植えられた己よりも長い樹齢を持つ桜の古木。
いよいよ最期を迎えるのか、残された命を振り絞って狂ったように咲く桜の古木。
女鬼は狂い桜の根元に座り、血のように紅く染まった花弁を見上げる。
はらり、はらりと花弁が舞い落ち、花の隙間からか細い光を放つ孤月が覗く。
「……そ……ろ……」
命を燃やし狂い咲く桜に、儚く微笑んだ思い出すこと叶わぬ男の顔が浮かんでは消える。
「……そ、う……ろ……」
狂い咲く桜を見上げ、すでに名前すら思い出せ無いけれど、愛しさを隠しもせずに唯々一人の男の名を呼び続ける。
「……そう、じ……う……」
女鬼は己の中に微かに残っている桜子と呼ばれた娘の想いの欠片に涙を流す。
「……そうじ、ろ……」
幾歳月が過ぎ去ろうとも巡り会えない男を求めて哀しみは降り積もり続ける。
「……そうじ、ろう……」
元は桜子と呼ばれた女鬼は今宵も愛しくも、憎い背中を求めて彷徨うのだ。
「堕ちた女の情念ほど、哀しく……愚かな物はあるまいて。」
いつの間に現れたのか女鬼の背後より、愛する男よりも年上の低い男の声が響く。
「……姫様。」
「お下がり、私が相手取る。」
男の声に応えるように背後で女の声も聞こえる。
「すまぬな。そなたは、もう助けること叶わぬ。」
虚ろな瞳で背後を振り返った女鬼は、己に憐憫の情の籠もった双眸を向ける女も、侮蔑の宿った眼差しを向ける男の姿も、興味を持つこともない路傍の石と同じだった。
男を制して前に出る女の腕に複雑な文様が浮かび上がる。
それが己を死に至らしめる何かで有ることは女鬼にも理解できたが、目の前の緋色の花弁を舞い散らせる桜を見上げることを優先する。
「そなたは抗わぬのか?」
「…………」
己に問いかける女に応えるよりも、この儚くも美しい桜を見上げていれば女鬼は何かを取り戻せる気がするのだ。
鬼を屠る当麻の姫を知らぬのかと、男が胡乱げな眼差しを送り、何かを企んでいるのかと警戒心を強め周囲を伺うが、他の鬼の気配など微塵も無かった。
舞い落ち続ける緋色の花弁へと手を伸ばし、手の平で受け止めることが叶った瞬間に女鬼の脳裏に心に想う男の名が蘇る。
「……宗二郎っ……やっと……思い、出せた……」
鬼に身体を支配されようとも、決して手放すことの無かった心に想い続ける男の名を、もう一度唇に乗せることが出来たことに女鬼の中の桜子だった心が歓喜する。
「そなたは……っっ……許せっ!」
女鬼の嬉しそうに微笑む姿に眼を見開いた姫と呼ばれた女は、痛みに耐えるように唇を噛みしめて編み上げた術式を放つ。
純白の光の奔流が矢のように真っ直ぐに女鬼目掛けて迫り来る。
だが、女鬼は特に抵抗することも無く、己の命を奪う光の奔流を微笑んで受け入れた。
……鬼を滅する光の奔流が桜子であり、女鬼でもあった身体を浄化していく。
「“桜子お嬢様”」
白く染まった視界の中に探し続けていた男、宗二郎の微笑む幻影を見た気がして桜子で有り、女鬼でも有った存在は既に消え去った両腕を広げ幸せそうに微笑んだのだった。
夢幻の如く光の奔流が消え去った後には静寂だけが残される。
確かに咲いていた狂い桜から舞い落ちる緋色の花弁や花は消え去り、数枚の枯れ葉だけを付けた古木が静かに佇んでいた。
「……あのような、鬼もいるのだな。」
「…………。」
心を押し殺したように呟いた女に応える声は無く、現れた時と同じように一組の男女は闇へ溶け込み消え去ってしまう。
後に残された神社は静寂と闇夜に包まれる。
愛する男を求めて彷徨い歩く憐れな鬼となった娘の最期を見届けたるは、古木の桜とか細い光を放つ孤月のみである。
「待宵桜」 (了)




