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待宵桜  前編  (寄稿者:ぶるどっく 様)

身分の違い、そして戦争に引き裂かれた、男女の哀しい運命。

その想い強きゆえ、鬼と化した者は、桜の宵に何を思うのか。 

日露戦争の時代を背景に描く、もう一つの退魔の物語。

鷹樹が描く『退魔』とは一味も二味も違う、しっとりとした語り口。

前編・後編と読みごたえも十分。ご照覧あれ。


ご投稿いただいたのは ぶるどっく様

私の「お気に入りユーザー」の中に入っておりますので、気に入った方はチェックしてみてください。

 はらり、はらりと花弁が舞い落ちる。


 弧月のか細い光に照らされて、緋色の花弁が舞い堕ちる。


「……そ……ろ……」


 命を燃やし狂い咲く桜の古木の根元には、艶やかな打ち掛け(うちかけ)をを羽織った一人の女鬼。


「……そ、う……ろ……」


 狂い咲く桜を見上げ、愛しさを隠しもせずに唯々一人の男の名を呼び続ける。


「……そう、じ……う……」


 必ず生きて帰ってくる、と約束した愛しい人。


「……そうじ、ろ……」


幾星霜の夜が明けようとも、帰って来ない憎い人。


「……そうじ、ろう……」


 女鬼は今宵も愛しくも、憎い背中を探し続ける……。



「堕ちた女の情念ほど、哀しく……愚かな物はあるまいて。」


 狂い桜の幹に向き合って根元に座る女の背後より、闇夜の静寂を切り裂く朗々とした男の低い声が響く。


「……姫様。」

「お下がり、私が相手取る。」


 闇より溶け出でるは一組の男女。


 男の声に応えた鈴の音のような声音の女は悲しげに眼を伏せ、女鬼を哀れむ。


「すまぬな。 そなたは、もう助けること叶わぬ。」


 憐憫の情の籠もった双眸を向ける女も、侮蔑の宿った眼差しを向ける男の姿も、女鬼の虚ろな瞳が映し出すことは無かった。



※※※※※※※※※※



 明治維新の新風が過ぎ去って久しく、新たな時代の幕を上げた国の首都は自分たちの文化を地盤に、西洋各国の文化・技術を吸収し近代国家を目指して邁進を続けていた。


 士族や商人といった親の身分に関係なく、向上心や意欲、そして学力さえあれば、どんな職業にも成り得る可能性を秘めた時代。


 その時代を生きる裕福な商人を親に持つ一人の少女が、結った長い髪を揺らしながら女学校を後にする。


 女学校の門を出れば数台の馬車が既に停車していた。


 その中の一台の馬車の前に、優しげな風貌を持つ書生姿の青年が立っている。


「桜子お嬢様、此方です。」


 門から出てきた少女の姿に気が付いた青年は、微笑を浮かべて少女の名前を呼んだ。


「宗二郎!」


 己を迎えに来てくれた書生の青年、宗二郎の声に笑顔を浮かべた少女、桜子が行燈袴(あんどんばかま)を揺らして駆け寄っていく。


「お嬢様、走っては駄目ですよ。 また、旦那様に叱られてしまいます。」

「ふふっ! 宗二郎がお父様に告げ口しなければ大丈夫だわ!」


 駆け寄る桜子の姿に焦って小言めいた言葉を宗二郎は口にするが、嬉しそうに笑う少女には全く通用しなかった。


「……お嬢様には敵いませんね。 では、屋敷へと帰りますので馬車へとお乗り下さい、お嬢様。」


 桜子の言葉に苦笑する宗二郎は馬車へと乗るように桜子を促す。


 宗二郎の言葉に従い、桜子は大人しく馬車へと乗り込む。


 しかし、一緒に乗ると思っていた宗二郎が馬車に乗り込むことなく扉を閉めようとすることに桜子は困惑してしまう。 


「待って! どうして扉を閉めてしまうの? 宗二郎も乗るのでしょう?」

「……お嬢様、私は書生です。 お世話になっている旦那様のご息女である年頃のお嬢様と共に乗ることは有り得ません。」


 桜子の言葉に宗二郎は困ったように笑いながら、駄々っ子に優しく言い聞かせるように告げる。


「……身分や年頃なんて、関係ないわよ……私は……」

「お嬢様。」


 桜子の何かを訴えるような眼差しに宗二郎は益々困ったように微笑み、言ってはいけない言葉の先を戒めるように声を発する。


「……分かってますわ……私だって、子供ではありませんもの……。」


 幾つか年上の兄の話し相手を務めることになった、この宗二郎と出会ったのは桜子が十の時。


 何時だって優しい笑顔を浮かべ、実の兄よりも優しく、時には厳しく叱ってくれた宗二郎。


 桜子にとっては、未だ想いを告げることすら叶わぬ初恋の相手だった。


「ええ、お嬢様。 十分に存じておりますよ。」  


 書生として置いて貰えることとなった家で、使用人の真似事をしながら跡取り息子の話し相手を務めることとなった宗二郎。


 使用人のように扱われることに特に不服を言うことも無く、黙々と振り分けられた仕事を捌きながら勉学に励む日々。


 そんな中で出会った幼い桜子は、天真爛漫な笑顔で宗二郎へと懐いてくれた。


 最初は妹のように感じていたはずの心は、万華鏡のように表情を変える桜子の魅力の前に一人の女性として見るようになってしまう。


 許されぬ恋と分かっている二人は、想いを口にすることすら出来なかった。


 ……だが、若い惹かれ合う心という物は止めることもまた困難なのである。




 馭者台に馭者の使用人と共に並んで座る宗二郎の説得を受けて、一人馬車の中で揺られていた桜子は取り留めもない思考の海に沈んでいた。


「お嬢様、到着しましたよ。」


 宗二郎の声で始めて馬車が屋敷へと到着していることに気が付いた桜子は意識を現実へと向ける。


「……ありがとう。」


 桜子の返事を待って宗二郎は馬車の扉を開ければ、中にいる桜子と眼が合ってしまう。


「……宗二郎、馬車から降りるために手を貸してくれないかしら?」

「……お嬢様。」


 お願い、と悲しげに揺れる眼差しで宗二郎へと囁く桜子に、負けてしまった宗二郎は小さな笑みを浮かべて利き手を差し出す。


「どうぞ、お嬢様。」


「ありがとう……宗二郎。」


 差し出された宗二郎の利き手に、己の利き手を重ねた桜子は危なげなく馬車から降りて名残惜しげに重なっていた手を離す。


 互いに眼を反らし、屋敷へと入ろうと玄関へ歩き出そうとしたその時……


「お前達は何をやっとるっっ!!」


 嗄れた声で怒声が響き渡り、声の持ち主のいる方向へと首を向ければ壮年期に差し掛かった年頃の、太鼓のような腹を抱え、口元に似合わぬ髭を生やした男が肩を怒らせ立っていた。


「桜子っ! 何をやっとると聞いているのだっ!!」

「……お父様……」


 馬車から降りる二人の一連の行動を見ていた桜子の父親、利通は二人元へと足音を荒げて近づいて来る。


「別に疚しいことなどしておりませんわ。 馬車から降りるために書生の手を借りただけではありませんか。」


 桜子は父である利通のことを元々余り快くは想っていなかった。


 幼い頃から利通の桜子を見る眼は、まるで己の役に立つ道具か、そうでは無いかを判断するだけの物としか感じないからである。


「馬鹿かっお前はっっ!! 嫁入り前に下らん噂でも流されれば、相手に足下を見られることになるではないかっ! 疵物扱いでもされて見ろ、良い縁談が纏まる物も纏まらん!!」 


 唾を飛ばすほどの勢いで怒鳴り散らした利通は、優しさなど欠片も無い力加減で桜子の手を掴み無理矢理引きずって行く。 


「お父様、離して下さいましっっ! 痛いですっ!!」


 白く細い手首に赤い手形が付くほど強く握り締められていることに桜子が苦痛の声を漏らしても、利通が力を緩めることはなかった。


「旦那様、嫁入り前のお嬢様の手首に赤い痣が出来てしまいます。」


 見かねた宗二郎が、利通へと嫁入り前の桜子の身体に痣が出来ることを告げると、商品の価値が下がったら大変とばかりに少しだけ手の力を緩める。


「そこの使用人っ! 叩き出されたくなければ、二度と桜子の迎えになど行く必要は無いっ!! 側に近寄るなど言語道断だっ、覚えておくが良いっっ!!!」


 嫌がる桜子を引きずっていく利通は、一度だけ振り向き宗二郎へと桜子へ近付くなと厳命して今度こそ立ち去ってしまう。


 宗二郎は、しがない書生の身でしかない己の立場に歯を喰い縛り、視界の中を遠ざかっていく桜子の背中を切なげに見つめる事しか出来ないのだった。




 洋風建築の屋敷の中へと入った利通と桜子。


 不機嫌な様子で桜子を引っ張る利通の姿に、出迎えた使用人達の背中に冷や汗が流れる。


「お父様、本当にいい加減にして下さいませ!

 書生に手を借りた程度の事でこの振る舞い、酷すぎますわっ!!」


 利通の手を無理矢理振り払い、掴まれていた桜子の手首は赤い痣のように手の平の形に染まっていた。


「ふん! やはり女学校などという物に行かせるべきではなかったな! 益々反抗的になりおってからにっ!! 貴様は誰のお陰で良い暮らしをさせて貰っていると思っている!! お前に掛かった金の分だけ少しは役に立つように振る舞ったらどうだ、愚か者がっ!!!」


 赤く痛々しい手首の痣を己の手で庇う涙眼の桜子へと、利通は鼻で笑って畳み掛ける。


「っっ!……私は……私は貴方のお人形でも、道具でもありませんわっ!!」


 涙を流して言い返した桜子は、利通へと背を向け、自室へと走り出す。


「まだ話しは終わって……糞っっ! 唯々諾々と只従っておけば良いものをっ!!」


 娘の反抗的な態度に苛立ちを隠せない利通は、どうした物かと思考する。


「……おい! 誰か、今日桜子を迎えに行った使用人の男を連れて来い!!」


 何かを思い付いたのか、ニヤリと笑った利通は玄関にいた使用人へと命令を下し、足音荒く自室へと歩いて行くのだった。





 一方で、利通へと啖呵を切って屋敷の一階にある己の部屋へ駆け込んだ桜子は扉を閉めると同時に、その場に座り込み大粒の涙を流していた。


 嗚咽で引き攣る喉では満足に言葉を発することも叶わず、やはり家を栄えさせるための道具程度にしか己のことを認識していなかったのだと、突きつけられた現実に涙が止まることは無かった。


 桜子とて裕福な家庭に生まれた以上は、己の意思に反した婚儀を受け入れなければならぬことくらい十分に理解していた。


 だが、例え同じ望まぬ縁談や婚儀であったとしても、ほんの一欠片でも父親に娘の幸せを願う気持ちを求めてしまうのは有ってはならぬことなのだろうか……?


 家同士を繋ぎ、栄えさせるための道具と、血を分けているはずの娘のことを思わないで欲しいと願うことは駄目なのだろうか……?


 ずっと、心に想い続けた只一人の人を諦めねばならぬ上に、心を持たぬ道具として扱われることを許容せねばならないのだろうか……?


 桜子の傷ついた心は、悲しみと失意の底に沈みかけていた。


 

 夕食を食べることも無く、泣き続けた桜子が眼を醒ました時にはすでに世界は夜の帳に包まれていた。


 泣き腫らした目元を押さえた桜子だったが、まるで機会を見計らっていたかのような部屋の窓を叩く小さな音に肩を震わせる。


 真っ暗な部屋の中で何とか明かりを付けた桜子は、音の鳴った窓の様子を伺う。


 そうすれば、微かな明かりに照らされて見慣れた人の姿が闇夜に浮かび上がる。


「……宗二郎……?」


 窓の外にいる人物が宗二郎だと気が付いた桜子は、安堵のため息を付いて窓へと近付き鍵を開けてしまう。


「……お嬢様、幾ら何でも夜遅くに訪ねて来た異性のために窓を簡単に開けてはいけませんよ。」

「あら、誰にだって開ける訳じゃないわ。……宗二郎が相手だから私は開けたのよ。」


 小言めいた宗二郎の言葉にあれ程沈んでいたはずの桜子の心は、話す相手が想い人であるというだけで少しだけ胸の奥が温かくなる。


 お互いに言いたいことも、伝えたいことも山ほど有るはずなのに、言葉に出来ないもどかしさに視線を反らしてしまう。


「……お嬢様……どうしても伝えたいことが有って、夜の闇に紛れて会いに来てしまいました。」

「どうしたの、宗二郎?……なんだか、変よ。」


 躊躇いながら呟かれた宗二郎の言葉に、その表情に違和感を感じて桜子は胸の前で両手をきつく握り締める。


「旦那様より、軍に志願するお話しを頂きました。」

「え……軍に、しが……ん……?」


 宗二郎の既に覚悟を決めた静かな表情で語られた言葉に、桜子は眼を見開き狼狽してしまう。


「そ、んな……! どうして、急に宗二郎にそんな話しが行くの?……もしかして……私の……」


 己が宗二郎と親しくしている様子を利通に見られた所為で、志願の話しが来たのでは無いかと呟く桜子。


「違います。 お嬢様の所為ではありません。」


 しかし、桜子の言葉を最後まで言わせること無く宗二郎はきっぱりと否定する。


「旦那様に夕方呼び出されて言われたんです。

 ……もしも、軍に志願して旦那様が認めるような手柄を立てることが出来たならば、私をお嬢様の婿候補の一人と考えて下さる、と。」


 宗二郎の言葉に桜子は両手で口元を覆って、驚きの余りすぐに声を出す事が出来なかった。


「……うそ……」

「本当です、お嬢様。」


 心に想う人と結ばれることが出来るかもしれないという希望に、桜子の頬が紅く染まる。


 しかし、心に桜子の喜ぶ姿とは裏腹に宗二郎は何処までも凪いだ静かな瞳で、大切な少女の姿を心に焼き付けるように見つめ続けていた。


「宗二郎……?」


 嬉しい知らせのはずなのに、うっすらと口元に微笑を称えただけの宗二郎の表情に一抹の不安を覚えて桜子は名を呼ぶ。


「……お慕いしています、桜子お嬢様。」


 絶対に忘れないように、例えどんなに遠く離れても決して忘れることがないように、魂の奥底にまで刻み込むために、宗二郎は愛しい少女の姿を見詰め続ける。


「どんな形になろうとも、必ず私は貴女の元へと帰って参ります。」


 まるで己の未来を見通しているかのように、儚くも悲しげに微笑む宗二郎。


「一年……一年間だけ私にお嬢様の時間をください。……もしも、その間に私が帰って来なければ……私のことは忘れて、どうか幸せになって下さい。」

「宗二郎……何を言ってるの?」


 窓枠を境に部屋の中に立つ桜子の髪の一筋にすら触れること無く、宗二郎は窓から数歩後ろへと下がる。


「お慕いしているお嬢様の幸せが、何よりも私の幸せです。」


 最後に美しく微笑んだ宗二郎は、桜子に背を向けて夜の闇の中に歩き出す。


「……宗二郎っっ……!」


 引き留めるように囁かれた桜子の声に応えることなく、宗二郎の背中は闇の中に消え去ったのだった。




 数日後……突如決まった早過ぎる宗二郎の軍への志願の日。

 

 桜子に宗二郎を見送ることは許されることはなかった。


 あの夜の短い逢瀬で見せた宗二郎の儚い笑みは桜子の心に刻み込まれ、胸の中に燻り続ける不安となって日ごとに増していく……。




 ……春の初めに軍へ志願した宗二郎。


 桜子は宗二郎の無事を信じて、待っていますと手紙を書き続けた。


 ……桜が散り、若葉が青々と生い茂り、梅雨に入り、蝉の声が響いても、宗二郎からの手紙の返事が返ってくることはなかった。


 不安が増していき、志願したばかりの宗二郎が戦地へとすぐに派遣されることは無いと淡い期待を胸に抱き、唯々無事を信じて桜子は手紙を書き続ける。 


 ……しかし、晩夏が過ぎ去り、山が紅葉し、鈴虫が鳴き、白い雪が降り積もっても、宗二郎からの手紙の返事が返ってくることはなかった……。



 屋敷の自室にある……志願することが決まった夜に桜子の元を宗二郎が訪れてくれた窓辺。


 開かれた窓の所為で吐いた息が白く色を変え、(かじか)んだ指先が紅く染まりながらも、白い大地を踏みしめて宗二郎が現れるのではないかと、桜子は一途に待ち続ける。


 この寒い冬が明ければ春となり、宗二郎が言っていた一年が経ってしまう。


「……宗二郎……」


 焦る気持ちは熱い涙となり、桜子の白い頬を濡らしていく。



 ……だが、悲しみに暮れる桜子の心を嘲笑うかのように無情な言葉が再び父親により突きつけられることとなる。


「お前の結婚相手が決まった。 すぐにでも、相手側はお前を手元に置きたいそうだ。 既に、女学校への自主退学届けは提出している。」


 数ヶ月は会っていない父親、利通の自室に突如呼び出されて告げられた言葉に桜子は動揺する。


「待って下さいまし、お父様! まだ、宗二郎との約束の期間まで一月は有りますわ!」


 婿の一人に考えると約束したのではないかと、叫ぶ桜子に利通は意味が分からないと顔を顰めた。


「書生の宗二郎です! 春の初めにお父様の薦めで軍に志願した宗二郎ですわ!」


 桜子の血を吐くような悲痛な声に気分を害した利通だったが、“春に軍に志願”という言葉でそんな使用人がいたことを思い出す。


「……ああ、あの身の程知らずの馬鹿か。 あれなら夏になる前だったか……確か死んだだろう?」


 何気なく告げられたその一言に、桜子は耳を疑った。


 今、目の前にいるこの男はなんと言ったのだろうか、と引き攣った表情を浮かべてしまう。


「……な、にを……言ってますの?」


 偽りだと言って欲しくて祈るような気持ちで問いかけた桜子の言葉は、利通に平気で裏切られていく。


「お前にも言ったつもりだったんだがな。

 折角書生として置いてやったというのに、飼い主である儂の手に噛みつくような恩知らずの馬鹿は必要ない。 知り合いに頼んで戦地の最前線に送ってやったわ!」


 己の手柄を誇るように語り、清々したと太鼓のような腹を抱えて笑う利通の姿に桜子の表情から全ての感情が抜け落ちる。


「ふん! あんな馬鹿のことはどうでも良い!

 お前の結婚相手は、まあ……儂よりは年上だが政界に強い影響力を持っている方でな、有り難いことにお前を見初めて下さったんだ。 一応、後妻と言うことにはなるが精々気に入られて可愛がられるんだぞ。 そして、儂らが商売しやすいように色々と便宜を図って貰わねばな!!」


 嗄れた声で嗤う目の前の男の言葉に桜子の心は冷えていく。



 ……ふと気が付けば、利通の部屋から何時の間に退室したのか桜子は自室の寝台の端に座っていた。


 桜子は夢遊病者のようなゆっくりとした足取りで、ふらり、ふらりと歩き出す。


 普段から着ている行燈袴(あんどんばかま)を脱ぎ去り、白一色の寝衣に着替えた桜子は利通が既に用意させてた打ち掛けを羽織り、宗二郎と刹那の逢瀬をした窓より庭へと歩き出す。


 積もった雪には桜子の足跡だけが残り、微かに降り続ける雪が再び足跡を消していく。


 裸足で雪の上を歩いている桜子は、不思議なことに雪の冷たさを感じることは無かった。


「……宗二郎……」


 虚ろな眼差しで思い人の名前だけを呟きながら歩む桜子の眼には一つの井戸だけが映る。


「……かえって……私の元に帰ってくると……言ったじゃないっ……!

 (“最後に会いに来てくれた時にはもう宗二郎は分かってたのよっ!……己の志願した先には死しかない、とっ!!”)」


 張り裂けそうな胸の痛みに、いっそ(まこと)に張り裂けてしまえばいいのだと、慟哭の涙を流す桜子の声に重なるように、怒りと憎しみに満ちた怨嗟が心の中で吹き荒れる。


「……私は……まだ、想いを伝えることすら叶わなかったと言うにっ……!

 (“どうして……どうしてっ宗二郎が死ななければならなかったっっ?!”)」


 涙の膜が張った視界が徐々に狭まり、桜子の視界は荒れ狂う激情に紅く染まっていく。


「……お願い……わたしを……おいて逝かないでっっ……!

 (“ゆるさない……許さないっ、許せるものかっっ!!”)」 


 辿り着いた井戸の縁を覗き込む桜子の足下で淀んだ黒い靄が渦巻き、(くるぶし)(すね)、大腿と、獲物を見つけた数多の蛇のように音を立てることなく這い上ってくる。


「……宗二郎……いま、わたしも逝くわ……」


 止まることのない大粒の涙を流し続け、常世(とこよ)に続くかのように漆黒の闇が広がる井戸の中へと、桜子は己を待つ愛する男の幻を見た気がして心から幸せそうに微笑む。


 白無垢とも、死装束とも見える白い寝衣の上に、華やかな打ち掛けを纏った桜子は愛する男の元へと嫁ぐような心持ちで……暗く冷たい常世の闇が広がる井戸の底へと、その身を投げたのだった……。



 ……だが、狭い井戸の中で鈍い音が木霊することは無く、桜子の人としての意識が途絶えると同時に、その身に宿った“女鬼”が歓喜の産声を上げる。


 確かに、暗く冷たい井戸の底へと落ちたはずの桜子だった“女鬼”の青白く染まった手が井戸の縁から現れ、常世から現世(うつしよ)へと舞い戻ったかのように這い出て行く。


 常世より舞い戻りし桜子の姿をした“女鬼”は愛する男だけを唯々求め、愛する男を死へと追いやった者への憤怒や憎悪の入り交じった負の情念の宿る極上の入れ物に恍惚の笑みを浮かべるのだった。




=== 後編に続く

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