月映し 後編
栄螺堂の空間を抜けると、また強い眩暈が襲う。
吐き気を我慢して、私は桁外れのサイズの服を販売する店の横に寄りかかっていた。
空間が歪むと時間も歪むのか、時刻はすでに夕方。逢魔が刻。
直近のコンビニに入って、なけなしの千円を使って安ウイスキーのハーフボトルを買った。
それを、ステンカラーのスプリングコートのポケットに収めて、歩き出す。
携帯電話に着信。サイトーからだ。
私の準備が整ったのが、どうしてわかったのか理解できないが、サイトーはいつも絶妙のタイミングで連絡を寄越す。
今回の仕事場所のデータが送られてきていた。
現場は、新宿の取り壊し前の都営住宅らしい。
震える手で、コンビニの袋に包まれたままのウイスキーボトルのスクリューキャップをひねる。
この震えは、久しぶりの仕事で緊張してのことか、酒毒によるものか、わからない。
だが、歩きながら『麦を持ったおっさんのモザイク絵』がラベルの安ウイスキーをラッパ飲みしたら、ピタリと震えは止まった。
軽い酔いに足がふわつく。
顔をしかめて、正面からすれ違った女子高校生が私を避けて大きく迂回する。
酒を袋に隠してラッパ飲みしてふらついている、無精髭の中年など、彼女にとっては嫌悪の対象にしかならないだろう。
自嘲の笑みを浮かべながら、総武線両国駅に向かう。
歩きながら、何度も酒瓶を煽った。
駅に着いた頃には、もう安ウイスキーは無くなってしまっていた。
未練たらしく、何度も酒瓶を逆さに振って、最後の一滴まで口に垂らす。
袋から出して、本当に無くなってしまった事を視認し、それをゴミ箱に突っ込んだ。
目を上げると、何人かが慌てて目を逸らしたのがわかった。
ニット帽を目深にかぶり、ステンカラーのスプリングコートに両手を突っ込んで歩き出す。
いかにも体格がいい、学生時代は格闘技をやっていましたという風体の若いサラリーマンが、最後まで私を見ていて、軽蔑した笑いを浮かべ、
「クズが」
と、聞こえよがしに呟いて、そっぽを向く。
「膝、大事にしろよ」
すれ違う時、そう返してやる。
その若造がびっくりして、こっちを見た。
何かを言いたそうだったが、私はそれを無視して、歴代の横綱の写真が飾られている駅構内に入った。
まだ『観る』事が出来るか? そのテストををしたのだ。
精度は十分。有効距離も現役時代には及ばないが使えるレベル。
だが、持続力が全盛期の半分ぐらいか。
また、サイトーからメールが入る。
東京都都市住宅局の職員が、鍵などを持って現地で待機しているらしい。
サイトーが、いわゆる『特殊事案』に部外者を関わらせるのは、珍しい。何か事情があるのだろうか?
また、メールが受信する。
「行っては ダメ」
そのメッセージだけが、入っていた。不思議な事に送り主は空欄になっている。
私はため息をついて、携帯電話の電源を切った。
新宿駅で降りて、アルタの前を通り、歌舞伎町方面に抜ける。JR総武線で突然車両故障が起きて、これ以上電車が進まなくなったからだ。
西武新宿線のホームに添って歩き、かつての活気を失って、寂れつつある大久保方面に向かう。
韓国料理店が軒を連ねていたこの一角は、インド料理やネパール料理などのエスニックな店にとってかわられつつある。
私にはいったいどこが良いのかさっぱり理解できない『韓流スター』とやらのグッズを売っていた店も軒並み潰れ、酸い発酵臭と大蒜臭で鼻が曲がりそうだった街の臭いすら変わった。
夕闇の寂れた街を歩く。
私の向かう方面の信号は、何故か赤信号ばかり。
信号無視をして、通りを渡ってゆく。
電源を切ったはずの携帯電話が鳴った。
メールを受信している。
「危ないの、行ってはダメ」
また、送信者不明のメッセージが入っている。
通話ボタンを押す。
電話番号をプッシュしないまま、
「行くよ。霞を食って生きているわけではないからね」
と言う。
すると、私の耳に合成された少女の音声が聞えた。
怪奇現象の類だが、私はその正体を知っている。
「危険なの、あなた、行ったら死んでしまうわ」
平坦な機械の合成音なのに心配が伝わって、胸が締め付けられるような声だった。
「自殺はしない。生きる努力は死ぬ瞬間までする。誓うよ」
「だめ、だめ、死なないで」
必死な声。また、不自然な間隔で急に赤に変わった信号に行く手を阻まれた。それを無視する。
危ういところで、私を回避した乗用車が、クラクションを鳴らして抗議していた。「馬鹿野郎!」の怒鳴り声を残して。
「私には、生きる資格がない。死地に赴いて、それでも生きていたら、まだ暫くは生きていてよいと審判が下されたと思う事にしたんだよ」
サイトーから電話を受けた時、一度は逃げようとした。
本来の私は、卑怯者で臆病者だ。それが、咄嗟に出てしまった。
だが、状況が仕事を受けざるを得ない状況だった。
これは、『死地に赴いて、審判を受けろ』という運命からのメッセージだと、私は思ったのだ。
「死なないで、お願い、死なないで」
私は、彼女から全てを奪ってしまった男だ。
隣に住む女との関係の様に、結果が判り切っているのに、止めなかった。
酒だ……。今、猛烈に酒が飲みたい。喉を焼き、胸を焼き、消えてしまいたい。
そうでないと、私の心は潰れ、どろどろと膿が流れてしまう。
「あなたは、悪くない。わたしが望んだことだもの」
違う。それは、違う。答えが一つしかないように誘導しながら、いかにも選択肢を与えたように振る舞うのは、卑怯者の手口だ。
「ごめんな、君は逃げる事も出来たのに、私は君を騙してしまった」
思い出す。
あの時の事を。
私は、死ぬわけにはいかない。そう思っていた。
多くの信者が私に救いを求めていたから。
『私の命の価値は、他の有象無象と異なる』
そう信じていた。とんだ、思い上がりだ。
「いいの、いいのよ、教祖様。私はあなたの救われたの」
「教団は解散したんだよ。私はもう教祖でもなんでもないんだ」
私は、カルト宗教の教祖だった。
『キリストの再来』ともてはやされ、一時はTVにも出たことがある。
キリストは『病を治す』などの奇跡を行い、信者を増やしていった。
私も同じ事をしたのだ。
私は、生まれつき、生命を『観る』ことが出来たから。
黄金色に輝くエネルギーの流れを可視化する奇妙な才能があったのだ。
両国の『栄螺堂』から買い戻した、英国出身の殺された有名歌手と同じデザインの丸眼鏡は、その能力を補強するための呪具。この『観える』という才能が、サイトーが言うところの『特殊事案』……別名『鬼儺』……に有効だったのである。
生命は、まるで血液の様に、何らかのエネルギーを体内に循環させている。
その流れの滞りや、蛇行は、怪我や病気となる。
両国駅で、私へ「クズ」と言葉を叩きつけてきた若造が、膝が故障しているのに気が付いたのは、膝を通る黄金色の流れに変化あったから。色がくすみ、細くなっていたのだ。
その流れを整えてやりさえすれば、故障は直る。
人に限らず『掌』を持つ動物は、痛かったり苦しかったりすると、さする。
これには、ちゃんとした意味がある。
私が見える『黄金の流れ』が一番顕著に表れるのが掌。
さする事で、正常な流れが、乱れた流れを整える効果があるらしい。
子供がむずがった時に、母はその背をさする。
胸が苦しいと、自らの胸に掌を当てる。
悲しむ人の頭を撫でる。
抱きしめて、背中を優しく叩く。
これらは、皆、本能的に乱れた『流れ』を整えようとする作業なのだ。
私は、人並み外れて『掌』の流れが強く、乱れを整えることに長けていた。
頭にかぶったニット帽は、『サトリ』という私が仕留めた『鬼』の毛髪を編み込んだもの。掌からの『流れ』の増幅装置である。
見た者が『奇跡』と感じた現象がこれである。私は、それを商売にした。
『事故で麻痺した人が歩けるようになった』『不治の病が治癒した』『医者も匙を投げたリウマチが直った』など、教団が宣伝に使った現象は、全てこれだ。
信じられないほどの金が入った。
政治家や一流企業の重役たちとのコネクションも出来た。
インチキだと糾弾される事もあったが、私の事を詐欺師と証明することなど、出来はしない。
事実なのだから。
サイトーが接触してきたのは、その時だった。
噂には聞いていたが、私は『この国を霊的に守護する』最も古い家の兵としてスカウトされたのだ。一流の証だ。
イリーガルなカルト宗教として公安に監視されていたが解除され、脱税疑惑の対象として国税庁に監視されていたが、これも解除された。
同時に、様々な特権が与えられた。
今までのコネクションなど、比較にならないほどの強力なコネクションを得ることが出来た。
それが、私の絶頂だった時期。
だが、平安の昔から続く『鬼儺』は、甘いものではなかったのである。
「……だから、死なないで。生きて……」
私は通話ボタンを切り、一向に青に変わらない信号を渡った。
間違って酢を飲んでしまったような顔で、人気のない廃墟と化した都営住宅の入り口で待っていたのは、なんだか特徴のない若い女性だった。
張られている黄色い警視庁の『立入禁止』のビニールテープを、見ていた。
この現場は、死にぞこないの『当麻の姫様』奈央が直接、特殊事案対策に御臨場くだされた場所で、先般討滅された『児取鬼』の手がかりを掴むために、彼奴の信奉者を確保した現場らしい。
膝、肘、喉、頸椎を修復不可能なほどに破壊して確保したそうだ。おおかた、格闘術『腰ノ周』とやらを使ったのだろう。
歴代最強と謳われた奈央の姉が死んでから、オドオドと姉の影に隠れてばかりいたメスガキが、荒んだものだ。いや、地金が出たのか。
さっさと、霊的な適合者を複数見つけて、そいつらに連日連夜、輪姦されて孕めばいい。
あの女に、血統以外の価値は無いのだから。
姉の真似をして現場にしゃしゃり出てくるなど、迷惑だ。死にぞこないめ。
「あ? 月影さんですか? 私、東京都都市住宅局査定課の氷室です」
タイトスカートにスーツという、就職活動の女子大学生みたいな恰好の女性が、私に気が付いて小走りに寄ってくる。
この現場は『重い』。なので、彼女は本能的に不安感を感じていたのだろう。
「名刺ないのですが、私が月影です」
名刺を受取りながら言う。
名前は『氷室 冴』というらしかった。寒そうな名前だ。
鍵を預かって現場へ……と、思ったが、彼女は帰らない。
「え? あ? 立ち合いをするように言われておりまして」
と、帰りたくてうずうずしている様子で言う。
この状況には、違和感がある。
なぜ、彼女なのか?
勘働きは良いようだが、『特殊事案』に関しては全くの素人ではないか?
無意識に彼女を『観る』。
すると、サイトーの意図がわかった。
この、氷室冴という女性は、『好かれる性質』なのだ。
穢れや昏い情念が、自然と引き寄せられる者が存在する。
この業界では『贄』と呼ばれる人たち。
当麻家は双子が生まれる確率が異様に高いのだが、その片方には、長年磨かれた『当麻流鬼儺術の素質』が顕現せず、こうした『鬼』を誘引する性質だけが残る。
今期の当麻は『贄』が生き残ってしまったレアなケース。
氷室冴という女性は、当麻奈央ほどではないが『贄』の素質があるらしい。
サイトーめ。私の衰えを補完するため、わざわざ彼女を用意したというわけか。
大を生かすために小を犠牲にする当麻家のやり口は、本当に胸糞悪い。むかつく。
氷室冴の黄金の流れが『観え』る。
頭頂や眉間や喉や心臓や丹田に、その流れが渦巻いている箇所があり『贄』はそこから、黄金色の何かが染み出すのだ。それが、穢れや昏い情念や『鬼』を惹きつける。
この黄金色の湧出に指向性を持たせたり、物質化したり、コントロール出来たりすると、強力な『外氣功』に変換出来るのだが、そこまでの素質を持つ者はなかなか存在しない。
つまり『贄』とは『術者のなり損ない』と同義語だ。
一分ほどの時間で、息切れがした。『観る』時間が長すぎた。
これを続けると、私は死ぬ。長年の不摂生のツケだ。
だめだ、だめだ、こんな体たらくでは、この事情を知らされていないと思しき氷室冴を護衛しつつ、この『重い』現場を『観る』ことなど出来やしない。かといって、『観る』ことが出来なければ、目隠しをして、毒蛇の巣に入るようなものだ。
氷室冴を、探知レーダーの代替にすることは出来るが。多分、彼女は死ぬ。それが『贄』の運命。
くそ、サイトーめ。私になんてことをさせるのか?
「すいません、仕切り直しをしたいのですが、一時間ほど私に時間をくださいますか?」
不安顔の氷室冴に、私はそう提案した。
「はぁ…… まぁ、構いませんけど」
「では、申し訳ないのですが、五百円、貸してください」
私は銭湯に居た。
大久保にある老舗の銭湯で『千年湯』という。現場に来る途中、看板を見ていたのだ。
自分の娘ほどの若い子に五百円を借りて、四百六十円の入浴料を払い、百二十円のタオルセットを借りた。安ウイスキーを買ったお釣り十円玉八枚を足して使ってしまったので、これで所持金は、一円玉数枚になってしまった。
熱い湯に浸かって、体に残った酔いを消し去る作業をする。
体に染みついた隣室の女との情事の名残も、『千年湯』備え付けの石鹸できれいに洗い落とす。
最後は、水のシャワーを浴びた。
浴びながら、精神を集中させる。簡易な水垢離、または滝行のようなものだ。
体を巡る黄金の流を意識し、ゆっくりと循環させる。これを、私は『周天の法』と呼んでいる。
疲労や痛みで滞った流れを、この『周天の法』で強引に押し流してゆく。
改めて黄金の流を循環させると、いかに自分の体がボロボロなのか理解できる。
肝臓も肺も心臓も腎臓も、皆。
『周天の法』を続ける。既に寒さは感じなくなっていた。
それどころか、水が当たる所がかっと熱くなり、私の裸身を伝い落ちる水は、床まで到達する間に湯に変わっている。黄金の流が物理エネルギーに変換されているのだ。
水の中に酒毒が流れ、体が浄化されてゆく。酒毒は、私の目にはどろりとした黒い粘液に『観え』る。
それが、排水溝に吸い込まれていった。
もうもうと体から湯気を上げて、私は更衣室に戻った。
レンタルタオルで体を拭う。
再び、眼鏡とニット帽の呪具を装着した。
驚くほど世界は鮮明で、時間の流れがゆったりとしていた ……いや、私の感覚が加速しているのだ。
うんざりした顔で、銭湯の外で待っていた氷室冴に、また借金をする。
今度はコンビニで、翼を授けてくれるらしいエナジードリンクと、スポーツドリンク、缶コーヒー、魚肉ソーセージを所望したのだ。
水垢離を終え、感覚が加速すると、私の肉体は大量に水分を消費し、消化活動が活発になる。活発になりすぎて、タンパク質を多く摂取しないと、胃壁が溶かされてしまうほど。
なので、効果的に素早くエネルギーを摂取しなければならない。
何本もの魚肉ソーセージを貪り食う。
呆れた顔で、氷室冴が私を見ていた。感情が顔に出るタイプらしい。素朴な娘さんだ。
「私、東京都の職員ではなくて、建築資材を扱う商社の社員なんです。会社から、東京都に出向するように言われたんですけど、事務所に座っているだけでまともに仕事がないし、あっても変な現場で変な人と組まされるし、あ、変な人って、月影さんも含まれてますからね」
これ以外の現場でも『特殊事案』がらみの現場に行ったという事なのだろうか? よく、生き残れたものだと感心する。
コンビニで会計を済ませた彼女は少し怒っているようだ。
銭湯代に、コンビニでの買い物…… まぁ、彼女の立場に立ってみれば、まるで寸借詐欺にひっかかった気分だろう。
だがこれは、彼女を守るために必要な事だ。
酒毒で歪んだ黄金の流れを正さなければいけなかったし、流れを徹し直さなければならなかった。
糖分摂取のために、練乳入りの甘ったるくて頭痛がするような缶コーヒーを一気飲みして、準備は整った。
私と軽蔑しきった視線を私に向けてくる氷室冴は、再び取壊されるのを待っている、廃墟と化した都営住宅に向ったのだった。
氷室冴は、私に怒り、軽蔑している。
先程までは、この廃墟の『重さ』に怯えていたが、それよりはずっとマシだ。
これから対峙しなければならない相手は『恐怖』を糧とする存在。
サイコパスの様に恐怖を感じにくい心が歪んだ者や、他の感情を表出している者の方が、生存確率は高い。
警察の黄色いテープを潜って、廃墟に向かう。
コンクリート打ちっぱなしの武骨な階段で四階まで上がる。スチール製の錆が浮いたドアがあり、、蹴られたと判る真新しい凹みがあった。私の自宅兼事務所も同様なので、すぐわかった。
「開けます」
そう言って、氷室冴がポケットから鍵束を出して、開錠する。
ドアを開けた瞬間、彼女が咽る。
室内の空気が漏れ出たのだが、これがひどいカビ臭だったのだ。
私にとっては、馴染みがある臭い。
これは、確実だ。この部屋は確実に『憑かれて』いる。
工事に入ったり、馬鹿なキモダメシ野郎どもが来たら、重大な事故が起こるレベルだ。
ここで、証拠を収集して撤退すれば、一応私の仕事は完遂。
だが、ここで私が撤退しても、氷室冴のような『贄』を捨て駒に使って、祓師を送ってくる可能性がある。児取鬼との対決で、ただでさえ少なかった兵が、更に減ってしまったらしい。
ポンコツである私を引っ張り出さなければならないほど。
あの、くそ忌々しい当麻の姫様のせいだ。彼女の姉ではなく、あいつが死ねばよかったのだ。
覚悟はすでに定まっている。そのために『周天の法』を行ったのだ。
―― 死なないで
私に向けられた言葉を思い出す。
私の教団に逃げ込んできた少女だった。
当時の私は、女性信者を性の道具として扱う、最低な人間の生活をしていた。
窮鳥となり私の懐に飛び込んできた少女は虐待を受けていたらしい。必死の思いで、逃げてきたのだということがわかった。
その少女は、あまりにも美しかったので、私は当然のように、己が欲望を吐き出すための『性の道具』にするつもりでいた。
だが、私に縋る真剣な眼を見てしまったのだ。
私は、今まで何をやっていたのか? と、冷水を浴びせられた気分だった。
教団の幹部として、私に取り入っていた者たちは、女性信者の人権を踏みにじる行為を、『奉仕』と呼んでいた。私に捧げる祈りなのだと。私は、それが楽で気持ちいいから、何の疑問も抱かなかった。否、考えることを拒否していたのだ。
女性信者たちも、麻薬で蕩けていて、私への『奉仕』を是としていた。
これらは、私から罪悪感を取り除き、腑抜けにさせる仕組みそのものだった。
私は贖罪のため、衆生の救済に傾注した。当麻に協力して『鬼』を討った。
それを助けてくれたのが、その少女だった。
私を正してくれた彼女に、私が持っているものは、何でも与えたい。
そう思っていたが、
―― あたらしい名前が欲しい
彼女が望んだのは、これだけ。守ってもらうべき親に売春を強要され、虐待され、おもちゃにされていた過去から決別するために、必要なのだと。
私は、無明の闇を照らす道標という意味で『篝火』という名前を彼女に与えたのだ。
その時の笑顔を、私は忘れない。
今も。
多分、これからも。
呼吸を整える。ズンと肚を据えた。
私の体を巡る黄金の流は、精神の乱れや恐怖の感情に敏感で、変調をきたしてしまう。
「心を平静に保つように、努力してください」
私の後ろでえずいている氷室冴に言う。
風を感じた。
その中に腐臭。
「何? 何が起きているんですか?」
ダメージは受けているが、意外と氷室冴は強靭だ。
普通なら、ここで錯乱したり、気絶する。
ああ、『観え』た。
私は生命を黄金の流というヴィジョンで『観る』ことが出来る。
そして、生命以外の何かは、月光のような青白い光の流で『観る』ことが出来た。
八畳程度のがらんとした畳の部屋に、うっそりと、大柄な男が立っているのが分かった。
そして、彼の体を巡るのは、まるで月光。冷たく、寒く、寂しい光。
コイツは、当麻の姫様が確保したという、児取鬼の信奉者か追随者だろう。
業界の噂では、病院で入院中ときいたが、こうして思いの残った場所に出るということは、死んだか。
さすが、傲岸不遜の当麻ども。
児取鬼の本体を仕留めたら、残兵は放置らしい。
ぞるり
大男がナイフを抜く。
このナイフは、幻なので、リンゴなどは切れない。
だが、人はこれに斬りつけられると、本当『斬られた』と思い込んで、死ぬ。
かくん
不自然な角度で大男の首が曲がった。
喉を潰されたとき、頸椎を損傷したようだ。
ぷらん
右肘がありあえない方向に曲がって、揺れていた。
みし
畳を踏みしめた右脚の膝が、本来は曲がらない方向に曲がる。たしか、『蓮華砕き』とかいう、技だったと思う。当麻流格闘術『腰ノ周』の、えげつない一手だ。見たことがある。
地面に倒れかかる様な姿勢から、長い腕をぶん回して、ナイフを突き上げてくる。
それを、掌で包み込んでやる。
ナイフを形成している『青白い流』を、私の『黄金の流』で、別の形に書き直してやる。
生命を基とする『黄金の流』と異なり、『青白い流』は情念そのもの。私なら、それの書き換えは容易だ。
私の掌を貫くはずだったナイフは、ウエハースの様に崩れ、何匹もの蛾に変わってしまっていた。
氷室冴の眼から見ると、私が何かを掴む動作をしたら、いきなり蛾が飛び出した様に見えるだろう。
久しぶりに、本当に久しぶりに『月影流憑移』を使ったが、上手くいったようだ。
ただし、私の消耗は激しい。
ナイフと一緒に消えてしまった左手をそのまま、私に突き込んで来る。
構えた掌を躱して、私の胸に。
衝撃に、体が後退する。
だが、それだけだった。
私が『栄螺堂』から買い戻したステンカラーのスプリングコートが、大男の一撃を防いでいた。
これは、私が以前仕留めた、四神の『玄武』になり損ねて『鬼』となってしまったモノの尾をほぐして、編み込んだコートだった。
刃物などの物理的なものは防げないが、霊的な現象を防ぐ効果があった。
討ちこまれた大男の左手ごと、抱え込むように包む。
シャリシャリと音を立てて畳に落ちたのは、薄いガラス細工の花。
肩から先の大男の左手は、それに書き換えられていたのだ。
残るは、当麻の姫様にぶち折られた右手だが、それがない。
嫌な予感がした。
悲鳴が上がる。
肘から下を引千切った大男の右手が、氷室冴の首をがっちりと掴んでいたのだ。
氷室冴は『贄』だ。この『贄』に惹かれて、大男は姿を現した。
立ちはだかったのは、私。
まずは、私を排除すると、考えていたのだが、甘かった。判断ミスだ。
現場を離れすぎて、勘が鈍っている。
か細い女の首など、一瞬で折れる。
氷室冴が感じる死の恐怖が、大男を更に強い悪霊に変えるだろう。
何が起こっているか、分からないまま、氷室冴の眼球が鬱血する。
大男の腕を書き換える時間はない。
ポクン
乾いた音がして、氷室冴の首が折れた。
くそ! くそ! 間に合え!
私は、纏っていたステンカラーのスプリングコートを脱いで投げ、死の痙攣を起こしている氷室冴の首を掴んでいる大男の右手を包んだ。
痺れたように、腕の動きが停まる。
私は、氷室冴の首を両手で包んで、滞って色がくすみ始めた黄金の流を、整えてやる。
『死ぬな! 当麻の捨て駒になることはない! 死ぬな!』
そう念じながら。
「がひゅっ」
空気を求めた、自発呼吸。
氷室冴は、彼女自身が黄金の流の良導体だったことが作用し、私の念が効率よく徹ったらしい。
「よかった!」
そう安堵した私の背中に灼熱の痛みが走る。
一瞬、気を失う程の衝撃。
私の黄金の流が渦を巻いている箇所がフル回転していなければ、一瞬で心臓は凍りついていただろう。
―― ごっそり、持っていかれた
スプリングコートを脱いで、無防備になった背中を討たれたのだ。
立っていられなくて、膝をつく。
げほげほと咳き込みながら、倒れた私を外に引きずり出そうと、氷室冴が足を踏ん張っている。
「逃げろ」
私の言葉は、まるで木枯らしの音にしかならなかった。
「なによ、なによ、いつも私ばっかりこんな目に! 助けて! 栄子! 山本さん!」
ぽろぽろと涙を流しながら、氷室冴が這いずるように動く。
この状況は、まずいなと、思う。
このままだと、私も彼女も死ぬ。
せめて、氷室冴だけでも逃がしたかったのだが。
両腕が無い大男が、不自由な足をひきずって、歩いてくるのが『観え』た。
これでは、同じだ。あの時と。
あの時…… 無明を照らすという意味の名前をつけた少女の時と。
当麻奈央が死ぬべき時に死ななかったために、『大災厄』討伐隊は、総崩れになった。
名だたる退魔師が次々と死んでゆき、その中には、最強の退魔師と謳われた当麻美央も含まれていた。
前線を支える兵として、私と篝火は参加していたが、私は私の書き換えが間に合わないほどの呪いをこの身に受けてしまったのである。
私の訓練を受ける事で、ある程度の書き換えが出来るようになっていた篝火は、私の黄金の流を自らに模倣し、その呪いを自分に移し変えてしまったのだ。
これを、更に別のモノに書き換えるには、無限に広がる意識が必要だった。
ただし、これを行うと篝火の意識や自我は拡散し続け、いつかは消えてしまう。
呪いが広まるのを防ぐには、これしかない。
あとは、私にもう一度書き換え、呪いごと私が消えるという選択。
私が生きていれば、いつか、篝火を救えるかもしれない。
その時は、そう判断した。そして、人工知能が搭載されたスマホを起動させたのだった。
答えは分かり切っていいたのに、どうしたいか彼女に問うた。
これは、言訳ではないのか?
これは、私の怯懦ではなかったか?
これは、単なる自己弁護に過ぎないのではないのか?
一瞬の躊躇いもなく、他人の為に身を投げ出した篝火。
それに見合う価値が、卑怯者の私にあるというのだろうか。
結局、私は、生きてしまった。敗残の身を晒してしまった。
逃げたのだ。
死から。
恐怖から。
自己憐憫に溺れ、酒を浴び、日々、緩慢な自殺をしている。
当麻を恨みながら、氷室冴のような、無辜の民を救うことも出来ない。
「うそ! 山本さん?」
氷室冴が叫ぶ。
私の目は霞んでいて、中肉中背の男が、玄関口に立っているのが、辛うじて判別できるだけだ。
「氷室さん。耳を塞いで、しゃがんでください」
この状況で、感情をどこかに置き忘れてしまったかの様な平坦な声。
特徴があるようで、全く無い声だった。
カチリと金属音がする。
続いて、大太鼓を力任せにぶっ叩いた様な轟音。
ビリビリと空気が振動した。
火薬の燃焼した臭い。
氷室冴の悲鳴が、轟音の残響に重なる。
大型拳銃が発射されたらしい。
「何が起こっている?」
軽い混乱を感じた。
もう一度、更にもう一度、拳銃の発射音がする。
倒れた私を避けて、散歩の足取りで、山本という人物が、大男の居た八畳間に入った。
キイキイと小動物が悲鳴を上げているのが聞こえる。
「タムラ、お前は生前、姫様を侮辱したよね」
山本とかいう男の平坦な声。
だが、今度は、僅かにイラ立ちが混じった声だった。
立て続けに、三度の轟音。
チリチリと鳴ったのは、薬莢が落下する音か。
シリンダーが空回りする音を聞きながら、私は思い出していた。
新しい当麻の『盾』は、拳銃使だったのではなかったか?
退院した。
衰弱した私を病院に担ぎこんでくれたのは、当麻の『盾』山本という男だった。
礼を言おうとしたが、気が付いたらもう立ち去ってしまっていた。
思えば、私は彼の顔すら良く覚えていない。
サイトーに訊いたところ、何者かからの連絡を受けて、山本は現場に急行したらしい。
そのサイトーから、報酬は討伐代金も含めて二本、振り込まれていた。
借金を返し、スプリングコート、眼鏡、ニット帽は、事務所のロッカーに仕舞った。
氷室冴には、現金書留で、寸借した金を返金しておいた。
事務所を掃除し、生活を整える。
せっかく、生き残ったのだ。緩慢な自殺はやめにしないと。
借りた五十万円を返そうと、隣室に行ったが、もうもぬけの空だった。
私に別れも告げす、ここを離れる事にしたらしい。
うん、その方が彼女にはいい。
いつか会えた日の為に、五十万円はロッカーに入れておこう。
=== 月映し(了)===




