月映し 前編
第五回ネット小説大賞入選作『退魔の盾』の評価ポイントが、ひっそりと2500に到達しました。
他の入選作の方の中には、二桁ポイントから一気に五桁ポイントまで駆け上がった方もおられるなか、蝸牛の歩みの如く、じわじわとポイントを重ねて参りました。
読んで下さった皆様に感謝こめて書きました。
本当にありがとうございます。
絶望、自虐、寂寥と、あえて鷹樹カラ―を前面に出しました。
お楽しみください。
後編は、鋭意作成中であります。がんばります。
どこか遠くで何かが鳴っている。
多分、アラームだ。
やっと眠れた時に限ってコイツが喚く。
眼鏡を探し、寝ているソファの上からテーブルの上をまさぐる。
お目当ての眼鏡は見つからず、山盛りの灰皿が、灰と吸殻を撒き散らしながら床に落ちた。
安ウイスキーの酒瓶の一本がゴロゴロと転がって床に落下する。
瓶の中身はない。昨日、全部飲んでしまった。
アラームは鳴り続けている。
「うるさいなぁ」
呟きながら頭を掻こうとして、眼鏡は額にずり上がっているだけであったことに気づく。
レンズに指紋や皮脂がついて曇ってしまっていたが、とりあえず視力は0.1から1.0に回復した。
目覚まし時計かと思ったが、良く考えたらそれは壁に叩きつけて壊してしまったのだった。
何事かと一瞬惑乱したが、すぐに携帯電話だと気が付く。
スマホ全盛期に私は相変わらずガラケーを使っている。理由は特にない。壊れていない携帯電話をわざわざ変える必要はあるまいと思っただけだ。
通話ボタンを押す。
友人は全部私から離れてしまっていて、借金取りからくらいしか電話はかかってこない。
だが、今回は違った。
「おはようございます」
野太い声で誰だかわかった。ああ……最悪だ。借金取りの方がマシだ。
テーブルの上に手を伸ばす。キャップが開いたままのウイスキーの瓶を掴んだ。
帆船の絵が描かれている安ウイスキーの瓶の底に五ミリほど中身が残っていた。
瓶に直接口をつけて呷る。ポタポタと舌の上にウイスキーが垂れた。
酒に焼けた喉を傷めつけながら、液体が嚥下されてゆく。
これで気分は更に悪くなったが、眠気は飛んだ。
「おはようございます」
返事をしなかったので聞こえなかったかと思ったのか、もう一度野太い声が繰り返した。
「聞こえているよ、サイトー」
ため息交じりに言う。自分が無礼であることは、理解している。
「お仕事の依頼です」
礼を失した私の態度を気にも留めない様子で、サイトーが続ける。
この男は『特殊な仕事』を斡旋する人材派遣みたいなことをしていて、私は彼の人材バンクに登録していた。
知り合いではあるが、電話で話すばかりで直接合った事はない。
「断る。廃業したんだよ、私は」
床に落ちた方の酒瓶を掴む。こっちの中身は、まるっきり空だった。逆さに振っても何も出てきやしない。
「鑑定で一本、排除すればもう一本、受けますか?」
私の言葉を無視してサイトーが続ける。
この業界で『一本』は百万円。今回の報酬は高額だ。つまり、危険ということ。
「だから、廃業したんだよ、私は」
ポケットをまさぐる。酒を買いにいかなくては。
一円玉数枚。くしゃくしゃに丸めた千円札が一つ。電気・ガス・水道・携帯電話料金を払ったので、これが私の現時点の所持金の全て。
報酬があれば、しばらく酒には困らないし、借金も返せるが、命あっての物種という言葉もある。
「そうですか、残念です。気が変わったら、ご連絡願います」
少しも残念ではなさそうな声でサイトーが言って、通話が終わる。
急にムカ腹が立って、携帯電話をブン投げそうになったが、辛うじて踏みとどまる。
新しく買い替える金などない。
冷蔵庫を開けた。
缶ビールが一本だけ鎮座していた。他には何もない。
舌打ちして冷蔵庫を閉じる。
イライラと歩き回る。
サイトーの声を聞くと、自分がいかにクソ野郎なのかを思い知らされる。
『あの時の記憶』が、そうさせるのだ。未だに胸を腐らせている。その傷に酒を磨りこみたい。
痛みが、罪悪感を緩和してくれるから。
くそ! くそ! くそ!
罵りながら冷蔵庫を開けた。
手を伸ばしてはひっこめることを繰り返したが、私は結局、缶ビールを掴んでしまっている。
プルタブを開ける手が、細かく震えた。
一気に喉に流しこむ。味など、分かりはしない。ただ苦い炭酸が走り抜けただけ。
ふわっとした軽い酔いが私の後頭部を殴った。
これで、悪寒は和らいだ。だが、自嘲の念が苛む。まるでアル中だ。いや……既にそうか。
携帯電話で時間を見る。
午後二時だった。
何か食べ物を腹に入れ、酒を買わなくては。
ドアに向おうとして足を止めた。
気配を殺す。
ドアの向こうに誰かがいる。アルコールにふやけてしまった私でも、この直感だけは残っている。
高確率で敵が潜んでいると判るのだ。
呼吸すら細くしてドアの前に佇む。
やがて、しびれを切らせたか、乱暴にドアが蹴られた。
「おんどれぇ! おるんはわかってるぞ! 出てこい、ごるぁ!」
何度も、何度も、ドアが蹴られる。
おかげで、私の事務所兼住居のドアはぼこぼこに凹んでいた。
銀行から借りた金を返せなくなって、所持品は全部『特殊な質屋』に持って行った。
それでも足りない金は、サラ金に借りた。
もう銀行は門前払いなので、サラ金から多重に借りることになった。
債務ばかりが増える。
殆ど仕事をしないで酒浸りなのだから当たり前だ。
私からの回収を諦めたサラ金は、私の借金をヤミ金に売る。
明らかに違法だが、たまにこういうことが行われる。
ヤミ金は、いわゆるヤクザのシノギだ。
労災保険をかけて、左手の指を欠損させたり、生命保険をかけて殺したりもする。
私はこうした連中をすっかり怒らせてしまっていた。
逃げ回っていたが、そろそろ限界かもしれない。
そっと居間に戻りながら携帯電話を取り出して、覚えている番号をプッシュした。
「サイトー? 私だ、気が変わった。やはり仕事を受けるよ」
それだけ言って通話を切る。
ガンガン鳴るドアをBGMに、私はシャワーを浴びることにした。
二日酔いの頭を少しでもマシにするため、たっぷり時間をかけて熱いシャワーを浴びる。
私は石鹸一つで頭も体も洗う。何か主義主張とか、自然への影響とか、そんな事は考えていない。
単に経済的な理由だ。
比較的マシなバスタオルを戸棚から引っ張り出し、比較的マシなTシャツとネルシャツを床から拾い上げる。比較的マシなコットンパンツと靴下はソファの背にあった。
下着だけが見つからない。仕方なしに、そのままコットンパンツを履いた。
ガンガン鳴るドアは、もう静かだった。
だが判る、息を潜めて借金取りが隠れていことが。音響の違いだけで、立体図を脳内に組み上げる能力者を私は知っているが、彼ほど正確ではなくても、私も見えない場所を『観る』事が出来る。
まるで、サーモグラフィーの様に、壁を隔てていても生命反応を探知する素質があったのだ。
「仕方ない」
私は、爪先に鉄板が入った、一見普通の革靴に見える安全靴を手にぶら下げ、ベランダに出る。
そして、隣室とを隔てる壁を押した。
『非常時には、ここを破って避難してください』と書かれた、薄い石膏ボードみたいな壁だ。
丁度、人が一人通れるほどの幅で、台風の夜に割れ、適当にガムテープで止めている状態。
直すように、管理会社に依頼したが、何故か私の頼みは無視される傾向が強い。
隣室のベランダに不法侵入した私は、携帯電話の短縮ダイヤルを押した。
スピーカから、疲れた様な、眠いような、ハスキーな女性の声が聞こえる。
「廊下がガンガン煩かったから、そろそろ来るころだと思っていたわ」
「騒がしくて、申し訳ない」
「白々しい謝罪なんて、ムカつくだけ。やめてよ」
カーテンが開けられ、寝乱れた髪の下着姿の女性がスマホを片手に窓越しにこっちを見ていた。
「入れてくれないか」
そう言うと、私は携帯電話を停止ボタンを押して折りたたむ。
鍵が開くカチャンという音がした。
靴を手に下げたまま、部屋に入る。
私の部屋と全く同じ造りだが、私の部屋が何もなくガランとした廃墟みたいな印象と違って、ファンシーだ。
匂いからして違う。
酒とたばこと汗の饐えた臭いと違い、ここは、コロンと乳液と女の匂いがした。
差し込む陽光すら、柔らかい。
玄関に向おうとして、後ろから抱きしめられた。
いつの間に下着を脱いだのか、たわわな胸が私の背に押し付けられている。
まるで、犬の様にスンスンと鼻を鳴らし、女が私の首筋に唇を這わせてきた。
「今日は、石鹸の匂い。でも、汗臭い方が、私は好き」
そんな事を昂ぶった声で彼女が言う。
私は、酒浸りの枯れ果てた中年男だが『催す』場合だってある。
彼女と私の部屋の隔壁が台風で壊れた時、補修の為ずぶ濡れになって二人はベランダにいたが、その時が私の『催す』タイミングだった。
雨に貼りつく彼女のTシャツの下が素肌だったという事も、関係があるのかも知れない。
私は嵐の中、彼女を担ぎ上げて部屋に連れ込み、そのまま男女の仲になったのだ。
彼女は噛みついたり引掻いたりして抵抗したが、結局私を受け入れてしまった。
廊下ですれ違うたびにドキドキしていたと告白した。
くたびれた中年が好きなのだとも。私は『くたびれた中年』らしい。
思えば、この時彼女はまだ学生で、建築士になるべく工業系の大学に通っていた。
今は、有名な設計事務所に就職していると聞いたような記憶がある。
振り返って、女を肩に担ぎ上げて、ベッドに放り投げる。
彼女は身長百六十六センチと女性にしては大柄だが、モデルの様に痩せていて軽い。
少し、摂食障害の気があり、食べても吐いてしまうそうだ。
そして、乱暴に扱われたいという、歪んだ願望がある。
私は、彼女の両手を絡げてベッドに押し付けながら、スレンダーな肢体に圧し掛かっていった。
さざ波のように体を震わせて、女が横たわっている。
噛み跡や、強く吸われた鬱血跡が、白磁の肌に刻まれていた。
噛んでほしい、吸ってほしいと、頼まれたのだ。
私は言われるまま、彼女の願望をかなえる。
二度、彼女の中に放った。
それでやっと満足したらしい。
床に散った衣服をまた纏いながら
「金を貸してくれ。生きて帰ってきたら、返すよ」
と、私は言った。
のろのろと女が身を起こす。
乱れた髪を、物憂げにかきあげている。
その手は、無数の切り傷が刻まれ、治癒した跡に肉が盛り上がって洗濯板みたいになっていた。
いわゆる、リストカットというやつだ。
「借金取りが来たときしか、あなたは来ない」
「そうか?」
「あなたって、最低のクズよ」
「そうだな」
ベッドのサイドテーブルから、封筒に入った札束を女は投げてきた。
それを、空中で掴む。
いつも、五十万円を彼女は用意している。『特殊な質屋』から、品物を引き出すために必要な金額なのだった。
「最低のクソ野郎! 私の体をこんな体にして!」
私は女の破滅願望を満たす。それが、彼女を少しづつ毀してゆく行為だと知っていて。
女は、もう私ではないとダメになってしまったらしい。深みに嵌っている。私も、彼女も。
「またな」
玄関に向かう。
私の背にスリッパが投げつけられ、当たる。
避ける事もできたが、甘んじて受けるべきだろう。
最低野郎にふさわしい処遇だ。
何か彼女が喚いていたが、もう私の耳に入っても意味を成す言葉にはならなかった。
女の部屋の玄関から、素早く非常階段に抜ける。
玄関前には借金取りが待ち構えていたが、うまく逃げることが出来た様だ。
路地を伝って、地下鉄の駅に向かう。
都営大江戸線の下落合という駅だ。
そこから、国技館で有名な両国駅に向かう。
私の道具を預けている『特殊な質屋』がそこにあるのだ。
大学の付属高校の脇を通り、江戸東京博物館を過ぎて京葉道路に抜ける。
妙に長く感じる緑一丁目交差点の信号の先には、見たこともない巨大なサイズの洋服を売っている店があり、その脇の狭い路地に私は入っていった。
毎度、ここに来るとクラッと眩暈がする。
何かの『術』が作動した感覚。
私は今でもこの術の本質が分からない。巧妙なのだ。午馬の『道切り』に勝るとも劣らないレベル。
壁に寄り掛かって、眩暈が去るのを待つ。
年々、私は衰えていて、この術を潜るのが苦しくなっている。
頭を振って、意識を覚醒させる。すると、ビルとビルの隙間だったはずの空間に小さな空地が出現しているのが見えた。
黒い板塀。緑の雑草が茂る空地には、土管が三つ積みあげられている。
某有名「未来の世界から来た猫型ロボット」の登場人物たちが、草野球をやっているような、ノスタルジックな光景だった。
その空地に足を踏み入れる。
どこから差し込んで来るのか、必ず夏の日差しがここには降り注いでいる。
板塀の端に、ガタピシ鳴る引き戸。いずこからかの微風に風鈴がチリンと鳴った。
引き戸を潜ると、盆栽が並んだ狭い庭があり、永遠に時間をループする海産物の名前をもつ登場人物が主人公の某有名アニメーションの家みたいな、平屋造りの家があった。
割れた箇所をガムテープで補修したガラス戸があり、欄干に看板がかかっていた。
『質屋 栄螺堂』
と、書いてある。
江戸後期に流行した螺旋状の仏堂とは関係ない。
玄関をあけると、広い土間になっていて、古びた机が一つ。
そこには、退屈そうな顔をした老人が座っていた。
「久しぶりの客かと思ったが、月影さんか。がっかりだよ」
老人班が浮いた皺だらけの顔。すっかり白髪になった眉毛が長く伸びて目に被さっていた。
仙人みたいな外見の爺さんだが、本当に仙人だという噂もある。
「客だよ。失礼だな」
そういって、私はポケットから封筒を取り出した。それを机の上に乗せる。
灌木の根を思わせる仙人の手が、じれったいほどゆっくりと五十枚の一万円札を数えるのを、私は辛抱強く待っていた。
二度数え直して、仙人が眉に埋もれた目で私を見る。
ちょいちょいと手招きしており、私は机の近くに寄った。
仙人は小さく鼻を鳴らして、私の匂いを嗅ぐ。
「酒は……飲んでいないみただな。ふふ……女の匂いがするぞ」
外見は仙人だが、その本質は仙人とは程遠い。
こいつは、発情した女の匂いが大好きな変態老人なのだ。若い娘の体臭を嗅ぐと、若返るのだという。
まるで、ただの色惚けみたいだ。
「月影さんの『道具』は癖が強すぎて、買い手がつかんのだ」
嘆息しながら、小さな鍵を手渡してくる。
鍵には安っぽいプラスチックの楕円形の札が、ゴム紐で結ばれていて、その札には『1457』という数字が刻まれていた。
「それじゃ、確かに買い戻しますよ」
ゴム紐を手首に通す。『絶対に鍵を紛失してはならない』これが、この栄螺堂の鉄則だった。
「ふん、どうせ、また、仕事が終わったら、質草にしにくるのだろう? ここは預かり場じゃないんだよ」
そう言いながら露骨に私に鼻を寄せ、彼だけにわかる女の移り香を嗅いでいる。
栄螺堂の奥は、永遠に続くかと思わせるロッカーの列だった。
外見からすると、明らかに空間の広がりがおかしいが、ここは、そういう世界である。
『1457』と書かれたロッカーを探す。
どういう法則性があるのか全く理解できないが、鍵を受け取る毎にナンバーが異なる。
五分程歩いて、やっと『1457』のロッカーを見つける。
手首からゴム紐を外して、小さな銀色の鍵を鍵穴に差し込んだ。
ロッカーの中には、きっちり折りたたんだクラシカルなステンカラーのスプリングコート。
頭のおかしい麻薬中毒者に撃ち殺されてしまった、英国出身の有名ミュージシャンのトレードマークとなっていたものと同じ丸眼鏡。暗緑色の毛糸で編んだニット帽。
これらを身に着ける。
そして、サイト―から来たメールをチェックし、現場に向かったのだった。




