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すくいふで (寄稿者:もり 様)

「僂魔の杖」を、当・拾遺集に寄稿してくださいました もり様 が、新作をご寄稿くださいました。

約三万五千文字の力作であります。

 平安時代を舞台にした前作とがらっと変えて、現在の医療現場を舞台に進む物語。

 看護師の視点を使って、徐々に異界に浸食されてゆく現実の描写がお見事でありました。

 異動先の上司の謎の行動の意味とは?

 地方都市を舞台に描く、もう一つの『退魔の盾』の世界をお楽しみください。


 ※当作品は、作者である私と宝島社、双方から許可を得て寄稿された作品です。

 配属先は霊安室の隣に事務室を構えてあった。

 向かいのリネン室からかそれともその隣のボイラー室からか、お腹にまで響いてきそうな低音がしている。耳障りだった。

 新たな門出なんて言ってしまえば聞こえはいいけど、そんな大層なものでもないし、正直気分がいいとは言えない。

 私は今一度全身をチェックする。着慣れないスーツの襟を正したり、手櫛で髪をすいたり、肩の埃を払ったりして軽く身なりを整える。深呼吸を二回、そしてお守り代わりと右薬指に嵌めた指輪に触れる。これらは全部、緊張を和らげる努力なんだけど、それほど効果があるわけじゃなかったし、さほど期待してもいなかった。


 『あすなろ病院 技術部 医療安全管理Ⅱ課』


 扉に掲げられたボードと辞令とを、照らし合わせる。間違いない。今日からここが私の仕事場である。 

 コッコッコッ。

 くぐもった音。戸惑いながらノックした扉は思うようには響かなかった。げんなりした気持ちに追い打ちをかける。

 近年騒がれ始めたいわゆる医療ミス対策のセクションであることは想像に易かった。だけどこの異動に納得するかと言えば別の話。

 大学付属レベルの大規模病院となれば、専門部署を置くなんて話は聞いたことがある。厚生労働省の方針もあって専門の組織を設置しなければ、監査などで引っかかってしまい、結果収入減の恐れのある仕組みなんだけど、私の勤めるような地方の小規模に限りなく近い中規模病院では、たいてい専任者を一人だけ置いて『委員会』で賄ってしまうのが一般的だ。医療に対する風当たりが厳しくなる中、診療報酬も年々引き下げられている。収入だけを見ると病院は優良企業なんだろうけど、その実経費もかかる。よっぽど上手にやりくりしない限り経営にゆとりなんて持てないからだ。

 いや、現場は医療事故にたいして真剣に取り組んではいるのだけど。

 だから、私の職場にこんな部署があること自体おかしいし、それも『Ⅱ課』って。意味がわからない。怪しい。


舘野見たてのみ英治えいじです。これからよろしくお願いします」

「どうぞ」の声に扉を開けると、しがないって言葉がピッタリのおっさんが一人、椅子から立ち上がってその場でにこやかに挨拶してきた。

 半分ほど白髪が混じった髪は櫛一つ通した様子がなく、イタリアだったかフランスだったかの大理石の彫像の髪みたいに不規則に波打っている。

 少しくたびれたグレーのスーツに、水色のピンストライプの白いワイシャツ。エンジ色のネクタイはちょっと曲がっている。スラックスは、なぜか裾からくるぶしが見えるくらい上げて履いて、白い靴下に刺繍されたカラフルな傘のワンポイントを覗かせていた。

 どれもこれもが安くさい。色合い的には統一感はないけれど、うだつの上がらないって意味では、みごとに統一性のあるファッションだった。

 当然だけど、あまりいい印象は持てない。握手を求めてこなかったことだけが、救いといえば救いだった。


相馬そうまあやです。今日からお世話になります。こちらこそよろしくお願いします」

 型通りの挨拶をして一歩踏み入れたそこは、十坪弱くらいのスペースだった。

 正面には大きな窓。その上にはアンティークとは到底呼べない、ただ古臭いだけ時計が掛けられ、左右の壁にはそれぞれカレンダーとウグイスが描かれた小さな水彩画が飾られていた。扉の右側はスチール製のラックが壁一面に立てられ、そこに大量の本が乱雑に収納されていた。

 部屋の中央にはデスクがニ式。入口側のデスクの机上は、リンゴがトレードマークのアルミ製のノートパソコンとレーザープリンターが、沢山の印刷物に埋もれていた。もったいない。

 対面をなすように窓際に置かれたデスクとイスが、多分私のなんだろう。机の上には健康診断などで使うバリウムらしき空ボトルが一つ、ぽつんと置かれていて、そこに薬品名が印刷されたボールペンが三本と定規が立てられていた。そしてその定規には、ヨレヨレになった輪ゴムが四本ぶら下がっていた。

「自由に使っていいですから」

 引いた椅子の上には、パッチワークの座布団。少し黄ばんでいて染みもついている。私はそれを一度ひっくり返して、そして椅子からどけて腰をおろした。

 肩に掛けていたカーキ色の帆布のカバンを机に置き、恐る恐る

「ここで私は何をすれば……」

 と、尋ねる。舘野見と名乗る私の新しい上司は、とたん難しい顔をして窓の外の銀杏いちょうの木を眺めてしまった。

 

 辞令が下りたのが二週間前。職場の異動、ましてや職種の変更となれば普通は打診みたいなものがあるはず。なのに、寝耳に水のことだった。

 更には異動の理由も業務内容すら知らされない。異例のことに、昇進とか、その準備としての転属とかムリクリいいように考えようとした。けれど目の前の状況に、そんな甘い考えはゴミ箱行きとなった。

 なら自主退職予備軍の窓際配置? 今まで考えないようにしてきた思考がひょいっと顔を覗かせる。

 不安に思い舘野見さんの顔を上目で覗く。と、視線を感じたのか、窓の外へと向いていた目線を私へと移す。そしてにこりとほころばせた。そっちを向いた意味、分かってるんだろうか。


「取り敢えずは荷物の整理をしてください」

 煙に巻いたような舘野見さんの言葉に「はぁ」と小さく気のない返事をして、そそくさと鞄の中身を空っぽの引き出しにしまう。と言ってもペンケースと辞令、メモ用の小さなノートと、何かに使えるだろうか、と思い用意した大学ノートのそれだけ。だいたい昨日の同じ時間は看護師として病棟であくせく働いていたし、事務仕事なんてしたことがないから、準備ったって何も思いつかない。その上、ここがどういう部署でどんな任務を請け負っているのか厳密には聞かされていない。上司や同僚にまで訊いて回ったけど、揃って知らぬ存ぜぬ。狐につままれたような、なんとも言えない気分に滅入った。

 ひと通り鞄の中身を出し終えた私は、鞄の底にある辞表をそのままにファスナーを閉める。

 準備って言えないほどあっさりとした準備を終えると、舘野見さんにやんわりと問い詰めた。

「業務の内容を教えてください?」

 当然の質問だし、それ以前に私から訊くようなことでもないのに、舘野見さんは頭をゴリゴリ掻きながら、天井から窓へと視線を泳がす。困っているようにしか見えない。

「どこまで聞きましたか?」

 薄い唇から漏れるは意味深で、何かがある風の言葉。それに

「何も」

 と、一言返す。何も知らされていない私には、それ以外に返す言葉はない。

「そうですか」

 で、舘野見さんは今度は俯いてしまった。なにか良からぬ雰囲気がびしびし伝わってくる。

 暫く私は彫像のように動かなくなってしまった舘野見さんを、何となく見ていた。何をすべきか思いつかなかったからだ。意外にも彫りの深い顔が髪型も相まって、彫像っぽさに拍車をかけていた。


 突然、舘野見さんがビクリと体を動かした。かと思うと、いそいそとデジタルの腕時計、次に家具調の壁掛時計に目をやった。そして、

「ええと、誰さんでしたっけ?」

 と、訊いてきた。信じられなかった。さっき挨拶したばかりだし、それ以前に人事くらい覚えているものでしょうが。職場が大所帯ならともかく、この様子だと二人だけだというのに。なのに、当の本人は申し訳ないようには全然見えない。開き直ったり悪びれてもいる様子もない。さも当たり前とでも言いたげな様子に、私はぐっと堪えて

「相馬です。相馬文です」

 この日二度目の自己紹介を済ませた。


 舘野見さんは私に付いてくるようにと指示すると、別棟にある車輌課へとまっすぐ行った。そこで車のキーを一つ手渡され、裏口に駐めてある、シルバーがくすみグレーに格下げされた古いライトバンに乗り込んだ。っていうか、あまりに簡単に病院車を借りられたことに、私は驚いた。ほぼ顔パス。納得がいかなかった。


 舘野見さんに促され、わけも分からずに車の助手席に乗り込む。心なしか埃っぽいシートに背中を預け、少し混乱している頭を整理しようと目をつぶってみた。だけど考える材料なんてほんの僅か。状況を理解するには程遠い。

 発車しても舘野見さんは、どこへ何をしに行くか教えてくれなかった。

 やたらと赤信号に引っかかった。そのたびに私は舘野見さんを横目で見る。だけど視線はまっすぐ。こっちを見る気配すらない。五回目の赤信号で停車した時、私はやむなく口を開いた。

「舘野見さん。どこへ向かってるんです?」

 するとまたしてもバツの悪そうな渋い顔をみせる。はたしてこれは地なのかそれとも演技なのか。そしておずおずと口を開いた。私の方こそおっかなびっくりだったけど、平静を装った。

「三ツ葉タクシーです」

「どういう用件で」

 舘野見さんの話を要約すると、三ツ葉タクシーの運転手が待遇の悪さに地域の労働組合連合に泣きついたところ、単組、つまり単一企業別労働組合を結成してはどうかと持ちかけられた。彼等はアドバイス通りに『三ツ葉タクシー労働組合』を結成し、地域労連のバックアップのもと団体交渉やストライキを配置したりして闘争を繰り広げ、彼等の言う権利を勝ち取ってきた。だけど最近、労使のパワーバランスが組合側に傾くようになり、勢いづいた組合側は必要以上に権利をむしりとるようになってきた。で、経営側も困り果ててしまったのだろう。会社の専務と名乗る人から、なんとかしてほしいと頭を下げてきた、とのことだった。

 舘野見さんは、しんみりとこう締めた。

「勝ち取る快感ってのは、病み付きになりますからね。若い人ならなおさら」

 私は少し頷き、今の話を咀嚼した。信号が青に変わり、車がゆっくりとスピードを上げた。体が少しだけシートに押し付けられる。慣性が抜けた頃合で、私は一言返した。棘を含ませながら。生意気、嫌な奴、そう思われても別にいいと思った。

「で、医療安全管理Ⅱ課とどんな関係があるんですか?」

「関係は、無いですね」

 私の気持ちを知ってか知らずか、やんわりと、だが予想通りの答えが返ってくる。もちろん納得がいくはずもなく

「なら、どうしてこんなことをしているんです? しかも勤務時間内に。私まで巻き込んで」

 と、まくし立てた。少し声が上ずったのは、緊張しているからだ。年上で上司、しかも初対面。当然だろう。さらに車内という狭い空間で二人っきりという状況。落ち着き払っていられるほど、私は肝が据わってはいなかった。

 だけど舘野見さん自体、悪いと思っていることだけは察することができた。それでもたぶん悪気はないとも感じた。

「私が地域労連の執行委員長だからですよ」

「ヤミ専っ?」

「身も蓋もない言い方しますね」

 ヤミ専とはヤミ専従のこと。勤務時間内に労働組合活動に従事している組合役員のことだ。専従などではなく、当然違法である。

 私はそれ以上の追求をやめた。呆れてしまったからだ。首をやや右に向けた舘野見さんは苦笑い。カチカチと無機質なウインカーの音が、ラジオから流れる女性の明るい声に重なって聞こえた。


「どうします? ここにいますか?」

 三ツ葉タクシーに着くなり、舘野見さんはそう言ってきた。

「降ります」

 ムスッと返事をする。ここで舘野見さんについていくことで、私も同罪になるかもしれないと思った。だけど同行することにした。最初から気乗りしない職場だけど、どんな仕事か見極めたかったからだった。


「靴も貸与にしろって言うんですよ。困ってしまいまして。組合の言い分だとそれも制服なんだとか。まあ僕自身はリーガルしか履かないんですがね。これを履いてしまうと、どうも他のは履き心地が悪くって」

 少しシワが刻まれた額に浮かぶ汗をしきりにハンカチで拭いながら、困った困ったを繰り返している目の前の男性がこの会社の専務さんだそうだ。この人はとにかく話を脱線させた。おかげで正味十分じゅっぷん程度の話が、かれこれ四十分を過ぎていた。舘野見さんはというと、どんな話でも親身な態度を崩さず、冗談にはきまって愛想笑いを返す。保険か何かの営業の人みたいだった。

 だけど専務さんは、言葉通り本当に困っていたのは分かった。組合からは突き上げられるも、会社側からは突っぱねられる。会社から差し出された生贄、私はこっそりそう理解した。

 最後に舘野見さんは柔らかな口調のまま、だけど毅然と述べた。

「働く人に誠意みたいなものを、見せつけたほうがいい場合もあると思います」

 赤ペンで幾つも印がつけられた資料を数枚、鞄から取り出して突きつけた。

 後から聞いた話だと、これは企業側が組合に提示した貸借対照表と損益計算書で、銀行や税務署に提出するものに手を加えられている跡が見えたという。赤ペンは改ざんと思しき箇所。常套手段になっているそうだけど、舘野見さんは気に喰わないやり口と言っていた。ヤミ専のあなたが言いますか。

 

 次に組合側とも懇談をした。三ツ葉タクシー労組の執行委員長は、見た目三十そこそこで私とそんなに変わらない。ヤセ型で筋肉質。身長は百七十五を越えていそう。健康的な浅黒い肌とキビキビとした所作、ハキハキとした物言いが好印象だった。青白い肌で剥げたでっぷりオヤジを想像していただけに、テニスのプリンスみたいな爽やかスマイルに少し驚いた。

「鎌田です。よろしくお願いします」

 滑舌のいい大きめの声で右手を差し出す。

「相馬です」

 私は彼の手を軽く握る。と、逆に大きな手で包み込むように少し強めに握り返された。

 舘野見さんはまたも、鎌田と名乗る執行委員長の話を専務さんの時と同じようにじっくりと聞いていた。今度は、ひと通り話が終わるまでに十分もかかっていなかった。そして一呼吸置いたあと、鎌田さんにぼそっと告げた。

「潮時です。こういうことを私が言うのも何なんですけど、労働者あっての企業だということは正論なのですが、企業あっての労働者もしかりです。今回はここらで納めたほうがいい」

 声のトーンが低い。口許がちょっと歪んでいる。言いにくかったのだろう。

 瞬間、鎌田さんの顔が一瞬強張った気がした。嫌な感じがする。だけどすぐに

「舘野見さんがそう言うなら」

 と、朗らかに笑った。

「勢いに乗った組合員を退かせるのは、闘争よりも苦労します。私も全力で手伝わせてもらいます」

「よろしくお願いします」

 二人はお辞儀を交わし合った。

 そして舘野見さんは訊いてもいないのに私に説明をしてくれた。組合活動は大きく二つの考え方に分かれると。それは思想と手段。今回のように企業側と口裏を合わせて組合をコントロールするやり方は、組合に思想を抱いて活動している人達にとっては、悪行と捉えられてもおかしくないそうだ。これは本末転倒な話で、組合はあくまでも労働者を守るためのツールでしかないし、それ以上になってはいけないと言っていた。

 結局私は特にすることもなく、紐で引っ張るアヒルか何かのオモチャのように、黙って舘野見さんの後にひょこひょことついていただけだった。


 帰りの車内はお互い無言だった。私は行き場のない怒りが溜まりに溜まりムスッとしていたし、舘野見さんはそれを察してか話しかけてはこなかった。

 昼食も別々だった。正午のチャイムが鳴ると、舘野見さんは近くのラーメン屋に行くと言い、ふらっと出かけてしまった。私はというとお弁当を持って元の職場の休憩室へと向かった。愚痴るためだ。

 いうだけ零したあとの周りの反応は、『悲劇の元同僚』をなぐさめてくれるわけもなく、組織図にも載ってない『謎の職場』に興味津々といったところだった。

 いろいろイジられオモチャ扱いされた昼休みに終わりが近づく。いそいそと片付けをして席を立った時、同期の看護師であるめぐみが、からかうような口調で言った。

「霊感とかあるから、それで異動したんじゃない?」

 確かに私、というか私の家系は霊感が強い。傍系だけど先祖をたどると、小さいけれど由緒ある神社の神主なのだそうだ。

 物心がつく頃は人には見えないものが見えているのが普通で、特に気にはしなかったし、家にいればなぜだか安心できたので怖いとも思わなかった。

 だけど、最初に夜勤をした夜は驚かされた。とにかくそこら中に『いた』からだ。誰も気づいていないのか気づかぬふりをしていたのか、気に留める様子はなかったので、私もそれに倣って気づかぬふりを決め込んだ。

「まさかぁ」

 私はからからと笑った。霊感とヤミ専はどう上手く転がしてもつながらない。だけど、少し強がったのも事実だった。めぐみはカンが鋭い。彼女の言葉はいつも私の心に引っ掛かるものがあったからだ。


 午後はオフィスの学生アルバイトのような仕事だった。つまりは雑用。舘野見さんが資料とにらめっこをしている間に本棚や散らかった資料の整理。電話であーでもないこーでもないと話している間に清掃。そして、コピーにお茶汲み。コピーするにはコピー室まで行かなければならず、お茶を淹れる給湯室も地味に遠い。舘野見さんは、私に仕事を振るたびにすまなそうにしていた。だけど、それが逆に癇に障った。

 そうこうしているうちに、一七時のチャイムが鳴って、よくわからない一日が終わった。



 翌朝は、昨日にも増して足取りが重かった。自然と漏れるため息。鞄のファスナーを開けるたびに、辞表が自己主張しているように目に入る。

 今日も私は、犯罪の片棒を担がされるのだろうか。滅入る。

 おおやけになったら退職かも? 頭を過る。面倒だからいっそのことそうなってしまえ、と半分ヤケになっていた。


 このよく分からない職場の実態を知るきっかけが訪れたのは、この日の昼休憩を終えて一時間ほど経ったときだった。

 転属してから一日と半分が過ぎて、気づいたことが一つあった。舘野見さんは、不意に部屋を出て行く時があった。そのタイミングというのが、隣の部屋、つまり霊安室が使われているでろうときだったことだ。

 特に連絡が来るわけではない。でも舘野見さんは、気配みたいなものを察知しているのか、ふらっと席を立つ。そしてその感覚は、私のと一致した。最初の二回はトイレか何かと思った。三度目にもなると、偶然にしては怪しく感じた。

 そして四度目。またも舘野見さんが黙って部屋を出てゆく。疑いが確信じみてきた。独り部屋に残された私の胸の中は、上手く言い表せない不安みたいのものでもやもやとしていた。またしても誰かが死を迎えたばかりの、独特の感じがしたからだ。それはすぐに消えてしまうこともあるし、二、三日留まることもある。ただ近くで誰かが亡くなると必ず訪れる感覚。昔は半信半疑だったけど、病院に勤務するようになってその感覚が確かなものだとわかった。

 ── 霊感とかあるから、それでじゃない?

 昨日のめぐみの言葉を心の中で反芻する。気持ちが内側に沈んでいく。呆けているわけでもないけれど、だからって何かを熟考しているわけでもない。輪郭のぼやけた思考は、時間の経過を何となく曖昧にさせていた。


 と、突然耳障りな電子音。私は体をビクッと硬直させてしまう。電話のベルが鳴ったのだ。長めの音とLEDの赤の点滅は内線ではなく外線、つまり病院の外からかかってきていることを意味していた。あわてて電話を取ろうとした手を一旦止め、一呼吸入れた。そして受話器をあげ、耳に当てる。

「あすなろ病院 医療安全管理Ⅱ課 相馬です」

 不意打ちで、しかも配属後初めての電話応対にしては上出来だった。声のトーンは、普段よりも半音高めに感じたのだけど。

「もしもし。市立病院 病院長の須藤です。舘野見さん、います?」

「舘野見はあいにく席を外しておりまして。ご用件をお伺いしてもいいですか?」

「いいですか」じゃなく「よろしいですか」だろーっ、と頭の中で自分にツッコミをいれるも、私が相手の立場ならたぶん気にしない。須藤と名告る医師も、何事もなかったかのように話を続けてきた。

「言っちゃっていいのかなぁー」

 医師にありがちな空気を読まない軽薄な一言だった。まあ、皆が皆そうではないのだけれど。だけどあら不思議、業界では黙認されてしまうものなのだ。

 たぶん言ったらダメなことですよ、須藤院長。今度は電話の向こうの人に脳内ツッコミをいれる。そして、すかさずフォローもいれた。

「お急ぎでないのでしたら、折り返しお電話差し上げます。市立病院 須藤院長ですね。それでは失礼いたし……」

「あぁ、うぅん、いいや。伝えてもらえますか? 『依頼』ですよ。警察には連絡済みですから、至急来てくださいって」

 私の好意を無下にした声は、少し小さめで少しどもっていた。気になるのは『いらい』なる言葉。念のため、もう一度訊き返したら「い・ら・い」と、ぶっきらぼうに言われ一方的に電話を切られてしまった。

 ツー、ツー、と無機質な音が受話器から流れ、耳をするすると通過してゆく。言い知れぬ不安みたいなものが胸の奥で燻っていた。

 ガシャリ。ドアノブを回す金属音。舘野見さんだ。入り口で立ち止まり、私を見ていた。私は受話器を耳に当てたまま、顔だけを彼に向け、ぼそり告げた。

「『依頼』…… だそうです」



 昨日と同じライトバン。そして昨日と同じように車内は無言で、感度の悪いラジオだけが、がさごそとノイズを混じらせながら流れている。だけど、昨日の沈黙とは雰囲気が違っていた。

 用件を伝えた直後、舘野見さんは私に事務室に残るよう指示した。だけど拒否した。この職場の実態が明らかにされるかもしれない。自分は何のためにここに配属になったのか、知ることができるかもしれないからだ。

 暫く互いに真剣な視線を交差させ言い合った。けど結局、舘野見さんが折れた。私が「『依頼』のこと、暴露します」と言ったのが決め手だったようだ。この『依頼』について、私は何も知らない。雰囲気から徒事ただごとじゃないと予想しカマをかけたに過ぎなかった。

 ハンドルを握る舘野見さんは、無言だった。たぶん緊張している。それは助手席の私もだ。伝染したのかもしれない。


 市立病院は街の中心にほど近い駅の裏側に建っている。ところどころにヒビの入った暗いねずみ色の外壁が、建物の老朽化を物語っていた。近隣では最新の医療設備と優秀なスタッフを抱える施設なのだが、外観からは想像しにくいだろう。

 その裏手、六台分のスペースしかない駐車場の一角に車を停めた。

 風が強かった。私はばさつく髪を抑えつつ、舘野見さんの後に続き勝手口から院所に入った。

 舘野見さんがそこに居た守衛さんに名乗ると、五分もしないうちに事務長が迎えにやって来た。なにこのビップ待遇。だけどその手際の良さと物々しさに、否応なく緊張は増した。

 事務長の後に続き、私達は薄暗い廊下を進む。リノリウムの床がコツコツと寂しい音を立て、ガタゴトと風が窓を叩く音と重なった。

 職員用の簡素なエレベータで地下一階に、そこからまた少し歩くと突き当りとなり、事務長はその手前のどことなく重々しい両開きの扉のノブに手をかけた。

 扉に貼り付けられた『第三霊安室』と、その下の使用中のプレートが目に入る。事務長に促され私が最初に一歩踏み入れる。嫌なレディファーストだった。

 当の事務長は部屋には入らなかった。徐々に青ざめてゆく彼の顔が印象に残った。


 室内を見渡す。少し黄ばんだ白い壁と天井。くすんだ薄緑の床。正面奥の壁には小ぢんまりとした祭壇が設けられ、遺体が寝かされているであろうストレッチャーが一台、すっぽり純白のシーツで覆われ、祭壇に頭を向けて置かれていた。脇には濃紺のスーツを着た中年の男の人が、ストレッチャーを淋しげに見下ろし立っている。

 遺体は体のラインから、女性だと分かった。そして彼女から、なのだろう。お線香の匂いに混じって末期癌患者特有の重い匂いがした。

 病院職員にとっては、ありきたりといえばありきたりな景色。だけど私は二つの違和感に苛まれた。

 一つはこの場に普通ならあるべきものがないこと。たいてい大きな病院の霊安室となると、外につながる扉がどこかしらにある。室内になければ、その近くに。仏様が病院から帰るための扉だ。だけどそのようなものは見当たらなかった。

 そしてもう一つは、ミストサウナのようなムワッとした空気だった。厳密には湿気はさほどない。どちらかと言うと乾燥している方だと思う。だけどそんな感覚がした。


「どう見えます?」

 舘野見さんが急に小声で話しかけてきた。彼は私のことを知っていると確信した瞬間だった。

 私は目を細め凝らす。普段見えないものを見ようとするときの仕草だ。肌に触れる金属、特に銀のものは『見る』ことを少し阻害してくれたり、霊の干渉を邪魔してくれたりすることを、私は経験から知っていた。普段は便利だが今は邪魔な左手首に掛けた腕時計と、右薬指にはめた指輪を外す。舘野見さんの言う『見える』とはそういう見えると判断したからだった。

「蜘蛛の巣、ですかね。部屋中に」

 そう、ストレッチャーを中心に大きな蜘蛛の巣のような何かが、床すれすれに張り巡らされていたのだ。それがなんだか、悲しく、とても可哀想に感じた。涙腺の奥が疼く。私は涙を堪えた。

 舘野見さんは返事をしなかった。そのまま、スーツの男の人へと歩みを進めた。

「毎度さま。そっちのお嬢さんは?」

 先に声を掛けたのは、その男の人だった。声は少し枯れている。私はその男性に注意を傾けた。歳は定年間近ってところだろうか。背は少し低めで、痩せているわけでも太っているわけでもない。オールバックにした髪がギトギトとした鈍い光沢を帯びていた。整髪料をたっぷり使っている様子だ。

「部下の……」

 舘野見さんはそこで言葉を詰まらせ、軽く天井を向いた。また忘れたのか、それとも忘れたふり(・・)をしている。

 間がもたずどうにも居心地が悪かった。仕方がないので自分で名乗ることにした。

「相馬です」

「部下ってことは、君もそちら側の人間ってことでいいんですかい?」

「彼女は関係の無い人です」

「そういう事ですか。なるほど……相馬、ね。相馬さん……。まあ、気にしないほうがいい。彼はボクの名前を覚えているかもあやしいから。長い付き合いというのにね。冷たいもんですわ」

 本気とも冗談とも取れることを言ったあと、懐からタバコの箱を出してトントントンと人差し指で叩きはじめた。だけどここは病院内、当然禁煙です。案の定すぐに気づいたようで、慌ててと懐にしまっていた。

 男の人の言うとおり、舘野見さんが私の名前を覚えているかどうかは、もういちいち気にはしていなかった。だけど彼の言っていた『そちら側の人間』って言葉は、喉に刺さった小骨のように無性に気になった。

 私は取り敢えず、この男の人が何者なのか訊いてみることにした。須藤院長とも思ったのだが、声や話し方が全然違う。明らかに別人だったからだ。

「失礼ですが、どちら様でしょう」

「おっと、こちらこそ失礼。県警の森本もりもとです。デスクワークが主なのですがね、このような事案となると事細かい調書が必要でして、こうして足を運ぶんですわ。上からは『依頼』なんかに行くなと言われてるんですがね、現場でしか分からないことが多すぎる。それに舘野見さんのような協力者に署までわざわざ足を運んでもらうのも気の毒でね、こうして誰も見たくもない顔を出してるわけです。以後、お見知りおきを」

 森本さんは、口を動かしながらも上着のポケットをまさぐり、無作法だけど憎めない仕草で、少しよれた名刺を手渡してくれた。そこには『県警 刑事部 刑事企画課捜査支援係 巡査長 森本 金美』と記されていた。私の地域では男性の名前に『美』を付けることが珍しくはない。だけど他の地方では少ないようで、『美』のつく男性のデータを他県に送った際、性別の確認を何度もされることが一種の恒例行事のようになっていた。


「そうですか……」

 二人でなにやら小声でのやりとりののち、舘野見さんの辛気臭い一言を合図に森本さんは部屋を出て行く。

 残った舘野見さんはと言うと、常に持ち歩いているノートパソコンを入れるような黒いナイロン製のカバンを開け、細長い何か箱のようなものを取り出した。長さは三十センチくらいだろうか。赤を基調に派手な着物のようなカラフルで精緻な刺繍が施されている。それが厳かに見える。そしてなんだか、わが家の床の間のような安心感があった。

 紫の紐を解き、蓋を開ける。丁子の香りが漂ってきた。と、中には書道で使うような筆と小さな竹筒のようなものが並んでいた。

「『すくいふで』なんて呼んでますけど、大げさです。これじゃあ何一つ救えないというのに」

 舘野見さんは小さく苦笑いしながら、竹筒を取り出しその蓋を開ける。そこに筆をちょんちょんと差す。墨汁なのだろう。穂先から腹にかけて黒く染まった。

「すいません。お腹が出るようにしてください」

 私は頷き、シーツをめくる。上半身が顕になった。(とし)は五十くらいだろうか。若い。いたたまれない気持ちになり、思わず両手を合わせた。

 そして「失礼します」と小声で断りを入れ、寝間着の紐をほどく。

「ひっ」

 言われた通り肌をさらけ出した私は、小さく悲鳴を上げてしまった。

 ガーゼやテープで所々隠されてはいるが、ドレーンという管を挿入した穴、縫合の跡、皮膚の剥離、紫斑、数えるのも馬鹿らしくなるほどの処置の痕跡と、爪を立て掻きむしったと思われるミミズ腫れが、やせ細りかさついた腹部に所狭しと刻まれ、苦しかったであろうことを想い浮かべたからだった。

 舘野見さんも目を顰めていた。そして呟く。

「眉唾でしょうが、苦しみを少しだけ和らげます」

 たぶん私に説明をしたのだろう。

 女性の腹部に筆を丁寧に這わせてゆく。書かれるは記号のような文字のようなものだった。私はその場で立ち尽くし、固唾を呑んで見守った。

 終わったのだろうか、それとも一段落つけただけなのだろうか、舘野見さんは文字でびっしり埋まった腹部を見下ろしながら、「ふう」と頬をふくらませ長い息を吐いた。

 眉唾と言っていたが、部屋の空気が軽くなった。はびこる蜘蛛の巣も、薄く小さくなったように見えた。舘野見さんにそのことを伝えようとすると

「祈り水で擦った墨で『中臣祓なかとみのはらえ』を神代文字の一種『ヲシテ』で綴りました。ひとまずは、落ち着いたと見ていいでしょう。ですが私にとっては借り物のことば。言ってみれば姑息療法のようなものです。一時しのぎにすぎません」

 私の言いたいことを予測し、機先を制してきた。祈り水とは湧き水を七日間かけて祈祷したもので、それを過ぎるとご利益が薄れると、説明も付け加えながら。


 このタイミングで森本さんが室内に入ってきた。若い白衣の男の人が後ろに、そして彼に付いてくるようにポロシャツにジーンズとラフな格好をした壮年の男性と、学校の制服を身につけた高校生くらいの女の子も室内へと入る。三人が三人、表情を硬直させていてマネキンのようだった。

「信じられないかもしれないが、彼女の魂は現世に囚われているようなんですわ。未だ苦痛に耐えながらね。それが異常事態を引き起こしているんです。先生、何が起こったのか教えてください。そうすればこちらの舘野見さんが解決してくれる」

 先生とは白衣の男性のことなのだろう。彼から漏れでた無機質な返答は、私の手を震わせた。


 曰く、ストレッチャーのこの女性は一月ほど前、体調不良と腹痛を訴え外来を受診した。直ちに検査が組まれ、その結果は子宮がん。すでに全身に転移しており打つ手がなかったという。

 医師は疼痛緩和主体の治療を勧めたものの、ダメでもいいから治して欲しい、奇跡にかけてみたい、と家族に強く訴えられ、無駄だとは分かりつつも首を横に振ることができなかった。

 いざ根治を目指した治療が開始された。だがその苦しみは想像を絶した。ただでさえ病が体を蝕むなか、手術、化学療法、照射と激しい苦痛を伴う治療がなされた。

 日に日に体に繋がれる管や計器類は増え、一週間ほどでスパゲッティシンドロームと呼ばれる状態に陥った。これは、体中に取り付けられた幾つものチューブやセンサーなどのコードで、ベッド上があたかもスパゲティが盛られた皿の上のように見える有り様を揶揄した言葉である。最悪の死の一形態とも言われていた。

 過剰な治療は体力を根こそぎ奪う。体力の低下に病は勢いを増す。食事は喉を通らず、眠れぬ夜が続く。モルヒネなどの鎮痛剤は体がたないため、投与は制限される。常に苦痛を伴う拷問のような日々。 肉体は衰え心はやつれてゆく。それでも彼女は歯を食いしばった。家族のためだったのだろう。

 だが結果は残酷だった。彼女の精神は、あえなく崩壊した。

 医師はその時ホッとした、と言った。心が冒されたおかげで苦痛が緩和されたのだろうと考えたからだった。しかしそれを森本さんは既に否定していた。舘野見さんがさらに捕捉を入れる。彼女はたゆらうような心の中で、理由も分からず未来も見据えず、とにかく耐えるという意識だけが鮮明に残っていた、と話した。


 これを聞き、医師の顔はみるみると蒼白になり、頭を鷲掴みに抱えてしまった。

「なんて事をしてしまったんだ」

 ぼそり告げた。そしてついには「医師失格」の単語が口から出された。舘野見さんらの言葉を心の底から信じたのではないのだろう。私も未だ半信半疑だ。だけど後ろめたかった思いがあったのは、何となくだけどわかった。私はこのようなドクターを何人か間近で見てきたからだ。

 カルテ開示という言葉がある。インフォームドコンセントという言葉がある。決定権を患者、もしくはその家族に委ねる仕組みだ。あらゆる治療方法が提示され、それを自分たちで決められる。確かに聞こえはいいし、それが今のところ最善なのだとも思う。だけどこのような悲劇も生み出す土壌であることも、忘れてはならない。この時、そう思った。

 正直、見ていられなかった。無残な姿になった患者、苦悩する医師、憔悴する家族。三者三様の悲劇があった。


「話してくれてありがとうございます。皆で彼女の心を体から掬い出しましょう」

 舘野見さんは医師の肩に手を乗せ、優しく告げる。と、予め用意されていた濡れたタオルでストレッチャーの女性の腹部を拭き取り始めた。書かれていた文字列が綺麗に消える。そこに新た墨書するつもりなのだろう。竹筒に筆を差す。墨が染み込み黒くなった筆先を女性の腹部にあてがった。

「いい加減、もうやめろ。妻を殺したのはお前たちだろ。しかも死んだというのに、怪しい男を呼んで変なことをしようとしやがって。不愉快だ! すぐにここから出る!」

 恫喝が部屋中に轟いた。森本さんに連れられた中年男性のものだった。

「ここにあるのはもう耐えるという純粋な思念の塊です。このまま放っておくと彼女は行ってはならぬところへ行ってしまう。それだけは防がねばなりません。今なら間に合う。荒唐無稽な話だとお思いでしょう。ですが信じてください」

「またバカにする気かっ!」

 男性はツバを飛ばしながら、舘野見さんの右手首を強く握り筆の動きを強引に止めた。その時だった。今度は男性の手首が掴まれ、腰の後ろに回された。

「こう見えても私ぁ刑事でして、それでここは警察が抑えている現場なんですわ。邪魔するとこうして肉体労働をさせてもらいますので、おて柔らかにおねがいします」

 男性はニ時間ドラマにでてくる警察に取り押さえられた犯人みたいだった。これほどあっさり動きを封じられるものなのかと驚いた。男性は背後の森本さんにそのまま腕をねじられ、立ったまま身動きがとれない格好で「訴えてやる」とまき散らす。


 私はそれを横目に、その慌ただしい場所にいてなお、終始じっとしていた制服の女の子へと声を掛けた。

「大丈夫? 高校生? 名前は?」

 彼女は黙ったままだった。視線もこっちには向けず前を向いたまま。私の声が耳に入っているのだろうか、と思った。

「たぶんだけど、あのおじさんの言ってることは本当なんだと思う。お母さんなんでしょ?」

 それでも私は話しかけた。すると今度は無表情のまま、こくり頷く。反応があった。聞こえていた。私はなおも続ける。

「お母さんね、ものすごく頑張ったみたい。きっと家族のためだったんだと思う。だから今度はみんなが頑張る番。助けてあげようよ。手伝うから」

 そして彼女の手を握った。冷たい。今の状況に頭がついて行けず、気持ちが強張っているんだろう。

 私は彼女の手を引く。と、よたついたものの抵抗なくストレッチャーの前まで付いてきてくれた。


 舘野見さんは、女性の腹部に張り付くように顔を近づけ、細かな文字を書き綴っている。筆の動きは滑らかで、草書を思わせる文字は読めなかったけど、とても綺麗だった。

「舘野見さん、私はどうすれば……」

 医師と家族を呼んだのには、何か理由があってのことだろうと考え、指示を仰ぐ。舘野見さんは私達をちらっと見たあと、

「お母さんが苦しんでいるのは、分かるね?」

 と、手を休めずに少女に話しかける。少女は曖昧に首を傾げる。だけど舘野見さんは一瞥もしない。私は「分からないそうです」と伝えた。

「今までの話を聞いていた?」

 彼女は小さくゆっくりとした仕草で、今度は首を縦に振った。私はまたそのことを伝える。

「私の話を一から十まで信じる必要はありません。だけどこれだけは理解して欲しい。お母さんは間違いなく、苦しんでいる。楽になって欲しいでしょ?」

 舘野見さんの語りかけに、少女は明確な反応を示す。声に出して「はい」と返事をして、はっきりと頷いたのだ。

「なら娘さんは、その気持を言葉にして伝えてください。相馬さんは、お父さんにもそうしてもらうよう説得してください」

「分かりました」

 穏やかな口調だけど、声が固い。焦っているのかもしれない。私は中年男性へと振り返った。彼は森本さんの拘束を外されて、捻られていた右手をぷらぷらと振っていた。

「あの人の言っていることは、たぶん事実です。いろいろ思うところはあると思います。ですけど、協力してください」

 私は男性に深々と頭を下げた。

「あんたら、何者だ」

 だけど、頭上からの声はとても冷たい。この人は何を言ってもダメだろう、と思った。


 がくんと階段を一段踏み外したような感覚に襲われた。私はお辞儀した姿勢のまま目を開けた。蜘蛛の巣に見えるそれは、より密により濃く、床一面を覆っていた。顔を上げ舘野見さんと女性へと向く。舘野見さんは筆を忙しなく動かしていた。竹筒に筆をつけては書き、書いては筒につける。焦っている様子がありありとしていた。

 それもそのはず、女性はいつの間にか黒い靄のようなものに囲まれていた。とても不吉な感じがした。その傍らで、女の子は母親の右手をしっかりと握っていて、その周囲だけは靄が途切れていた。

「悪いけど、抑えきれません。皆さんは、一旦この部屋から出て行ったほうがいい」

 だけどそれに従おうとする人は誰もいなかった。森本さんと医師は、たぶん使命感とか責任感みたいのものだろう。女の子は母親を心配してか。男性は舘野見さんの言葉に反発していると思われる。私はというと、とても嫌な気配に怯んでいたけれど、一人だけ逃げるってのも、なんか嫌だった。


「お母さん、ごめんね。お母さん、もういいから」

 女の子がひっきりなしに呼びかけていた。舘野見さんは、腹部を文字で半分ほど埋め尽くすと一旦手を止め、少女の握る女性の右腕に筆を走らせた。額は汗だくで、それが頬をつたい顎の先から滴る。だけど拭う間も惜しむように一心不乱に綴っていた。そして女の子に「がんばれ」「もうすこし」と小声で励ましていた。

 私は、拒む男性の説得を続けていた。この人も事態が緊迫していることを肌で感じ取っていたのかもしれなかった。先ほどまで敵意がむき出しで睨みつけていた視線は、私から逸らされ床を向けていた。そして今にも噛みつかんばかりだった表情は、少し悲しく歪ませているように見えた。

「協会に連絡する」

 森本さんは「しょうがない」と付け加え、舘野見さんの返事を待たず二つ折りの携帯電話をポケットから取り出し、操作しはじめた。といっても、舘野見さんは返事をするつもりはなかったようだ。


「お父さんも手伝ってよっ!」

 突然の大声。女の子のものだ。目には涙を浮かべ、唇は震えていた。彼女しばらく男性の顔をじっと睨んでいたが、脈なしと判断したのかぷいっと振り返り、再び母親に声を掛ける。怒鳴られた当の男性は、項垂れていた。

 舘野見さんは舌打ちをして、乱暴に指でこすり一文字消す。墨汁がかすれ皮膚が灰色になったその上から、また新たな文字を書き込む。これを合間合間に繰り返していた。それでも筆の動きは、不思議なほど流麗だった。

 そうこうしているうちに黒い靄が膨れ上がる。どろりとした空気が肌に纏わり付く。私は怖さもあった。けど、それとは関係なく急に強烈な吐き気をもよおした。たまらず手洗い用の洗面台にかがむ。もう男性の説得どころではなかった。

 膝立ちになり、白陶と謳った割には、そうとは言いがたい洗面ボウルに頬を預ける。鼻先には錆びた排水口。冷たいし、どぶ臭い。なにより汚い。でも体を動かす気力が湧かなかった。

 ポケットの中をまさぐり、外した指輪を探す。だけど手が上手く動かず、見つけられない。あきらめて眉唾とは分かりつつも、蛇口を握った。こういう時、金属に触れると少し落ち着いたからだ。

 そうしながらも、私は何となくもうダメなんじゃないかと思っていた。ストレッチャーの女性も、舘野見さんや森本さんも、三人の男女も、もちろん私も。


「すまん、美夜子。もう、いい」

 その時、男性の呟きが聞こえた。声音は小さく、口調は滑らかとはとても言えなかった。

 だけどその声がきっかけだったんだと思う。時間が逆戻りしたように、少しづつ大きくなっていた靄は晴れていった。床にはびこっていた蜘蛛の巣みたいなものも、ふっと見えなくなり、重く湿り気を帯びていた空気が、地下特有のどことなく無機質でぱさついたものに戻った。低い振動音がする。空調設備のものだろうか。

 うつろな視界で、私は舘野見さんを探した。彼はストレッチャーの脇でへたり込んでいた。表情はよくわからない。だけど右の頬に墨が付いていたのは分かった。羽子板でミスをした人みたいで、少し笑えた。

 友達同士の軽い挨拶みたいに、右手を挙げる。たぶん目が合ったからだろう。そしてたぶん、無事に終わったからなのだろう。

 制服の少女は母親の手をずっと握ったままだった。背中が震えている。中年の男性が彼女の背後に歩み寄り、肩に優しく手を乗せた。だけどそれは、あえなく払われしまった。行き場を失ったように宙を泳いでいた分厚い右手を見て、さすがに苦笑いをしてしまった。


 少し回復した私は、立ち上がろうと両四肢に力を込めた。だけどまだ筋力が戻っていない。よろける。なんだか生まれたての仔牛か仔鹿みたいだった。

 私がそうやって踏ん張っていたとき、扉が乱暴に開かれた。ノックもせずに不躾に、どたどた足を鳴らして入ってきたのは、ロマンスグレーの紳士然たる人だった。がっしりとした体形に、きっちり紺のダブルのスーツを着こなし、どこか余裕のありそうな佇まい。舘野見さんくらいの年齢に見えるけど、舘野見さんとは違い威厳を感じた。

 彼は、ぎょろりとした大きな目で部屋全体の様子をうかがい、大股で歩き出す。そして尻もちをついたような格好の舘野見さんに正対し見下ろすと、分厚い唇と太い腕を同時に動かした。

「貴様、強情を張るのもいい加減にしろっ!」

 胸ぐらをつかむ両手と怒声を放つ唇が、怒りに震えていた。



 若い医師が連絡したようで、しばらくすると病院スタッフが駆けつけた。手際よくストレッチャーが運び出され、部屋は何事もなかったかのようにがらんとなった。そして医師、家族共々エレベーターに乗り込んでいった。父親だけは終始無言だったけど、最後、私達に深々とお辞儀をしていったのが印象に残った。

 残った私達は、廊下脇のベンチに腰を掛けた。ビニールと薄い反発材とが重なった安っぽい感触が、おしりと背中に伝わる。それでも疲れた体にはとても心地がよく、私は津波とか雪崩とかのように襲い来る、横になりたい欲求に一生懸命あらがった。

 舘野見さんの襟ぐりを掴んだ男の人は、協会の職員で福士と名乗った。何の協会か訊ねようとしたら、森本さんに「訊かないほうがいい」と先回りされ窘められた。


「舘野見、失敗したら大惨事だったってことは分かっていただろう」

 福士さんは一転、諭すように落ち着いた語り口に変わっていた。バリトン歌手のようによく通る低い声が、その口調にとても合っていた。

「ああ」

「じゃあ、どうして祓わん」

「そういう家系じゃない」

「昔はそれでよかったのかも知れん。お前の代わりなんぞ腐るほどいたからな。だけど、今はそんなきれい事を言っている場合じゃないってことは、分かるよな」

 舘野見さんは痛いところを突かれたようで、返事をせずに、手にしていた缶コーヒーに口を一つつけただけだった。福士さんはそれでも説得のようなものを続ける。

「祓いもしない、協会にも加入しない。なのにこうして『依頼』は受ける。どこぞの小娘まで連れ回しよって。お前は一体、何がしたいんだ?」

「人殺しは、ゴメンだね」

 今度は答えた。でも普通に考えれば、会話に脈絡はなかった。私は「人殺し」と聞き、鳥肌が立った。即座に今の単語を問いただしたい気持ちになったけど、この場の雰囲気が私の口に楔を打った。それでも顔には出ていたのだろう。森本さんは苦笑いで「ちがう、ちがう」と言いたげに、私に向かって手を振っていた。

「人じゃない。あれは穢れだ」

「同じだよ。穢れも人だ。僕はそう教わったし、実際そう感じた」

「いつまでそんな世迷言をっ。だからっ ……」

 ここで福士さんは言葉を途切れさせた。鬼の形相だった。対して舘野見さんは、疲れたとでも言わんばかりに背を丸め、力の抜けた視線をずっと自分の爪先に向けていた。二人は、全く噛み合っていなかった。会話だけではない。見た目も、立場も、そして気持ちも、なんだと思った。


「森本さんも、森本さんだ。どうしてこの男の好き勝手やらせる」

「何事もなく無事終了。結果を見れば、それだけですわ。それにあの、たぶん相馬の娘さんですよ」

「クソッ」

 森本さんは腕を組みながら、ワザと私に聞こえるように喋って、ケタケタおちょくるように笑った。隣で福士さんは、森本さんを一回だけ睨み、私を一瞥し、カチカチと荒々しく何度もエレベーターのボタンを押していた。

 逆に、舘野見さんは座ったまま帰ろうとはしなかった。戻るよう促したのだけど「疲れた」と言って動いてくれなかった。

 森本さんの話ぶりは私を知っているかのようだった。たぶん福士さんもだ。「相馬の娘さん」と不意に耳に入ってきた一文が、胸をちくりと刺す。だけど、今は些細なことだった。それ以上に戸惑うことの連続だったからだ。

「今日はいろいろあった。相馬さんも、大変だったでしょう。お疲れ様でした。仕事の方は、もう上がりにしましょう。先に帰っていいですよ」

 話は明日にしよう、と舘野見さんは暗に言っているのだと思った。訊きたいことは山ほどある。だけど頭の中が散らかり放題。先延ばしにすることは、私にとっても都合がよかったのかもしれない。そう考えた私は、申し出の半分を受け入れ、黙って座っていた。残りの半分は、拒否するしかなかった。自宅までの移動手段がないから、帰るに帰られなかったのだ。


 三十分ほどそうしていた。空調が何度もついたり消えたりして、その都度、細かく振動して低音を響かせた。蛍光灯が一本切れかけていて、向こう端がちかちか点滅していた。遠くで雷がなっているようだった。

「いつまでも、こうしていられませんね」

 舘野見さんが立ち上がる。少しよろけていた。そして

「ラーメン、食べたい」

 と、力なく呟いた。



 エンジ色のネクタイが、壊れた振り子時計のように、不規則に忙しなく振れる。私はそれを無意味に眺めながら、昨日あった出来事を頭の中で反芻した。

「何から話せばいいでしょうかね。ヤミ専といってもですね、勤務時間内の……」

「それはいいです」

にべもなくとはこういうこととばかりに、私は強い口調で話を寸断させた。私の意図に気づいていないのか、それとも気づいていてあんなことを言い出したのか。どっちにしても空気が読めていないことには変わりはない。イラッとした。

「私の言い方が悪かったみたいですので、言い直します。昨日の市立病院での一件のことです。あれが何かは置いておいて、なぜここに連絡が来たかを説明してください」

ここには医療安全を謳う割に、その手の資料がない。専門職も居ない。舘野見さん自体、到底その知識があるように思えない。そもそもこの職場は何なのか、最初に問い詰めなければならなかったのだ。


「あの依頼がこの職場の本来の任務です」

 終業を教える鐘が鳴り、舘野見さんの言葉と偶然重なった。だけどはっきりと聞き取れた。予想していた通りの答えだったからだった。

 私は、怒るとかヤケになるとか、そんな感情は棚に上げていた。だけど彼の言動いかんで辞表を突きつける覚悟はしていた。その空気を察したのだろう。舘野見さんはパソコンのモニターから目を切り私を見上げた。少しだけ笑っていた。それがどうにも寂しそうに見えた。


「病院は何を商売にしているか知っていますか?」

「病気を治すの……ですよね」

 話が飛んだ。いきなりアバウトな質問が飛んできた。不意を突かれ返答に困った私は、取り敢えず模範的な解答をするにとどまる。

「七十点ってところですね。『触穢そくえ』という言葉をご存知ですか?」

 今度は聞きなれない単語が混じる。私が「はい?」と聞き返すと、もう一度ゆっくり丁寧に、だけど同じ言葉を繰り返した。小さな声で「いえ」と首を振る。

「生老病死。お釈迦様の教えで言うところの四苦のことと思ってくれればいいでしょう。江戸時代以前はこの四つをご不浄、つまり穢れているとされていたんだそうです。この穢れに関わることを触穢と言いまして、ざっくばらんに言えば避けられていたそうなんです。実のところ、今の社会もそう変わったものじゃないのです。四苦を一手に引受け、穢れを上手いこと社会から隔離する。それが病院のもう一つの役割なんです」

 なんか現実離れした話をしていて、私は「はあ……」と、曖昧な返事をするしかなかった。普段なら一笑に付して、取り合わなかったであろう。だけど昨日の今日でこのような話がでてきてしまったのである。戸惑う私を尻目に舘野見さんは話を続けた。

「触穢という言葉が使われなくなって久しいですが、それでも人間はなんとなく理解しているのでしょうね、穢れに関わると碌な事がないと。人間は科学や技術で穢れに抗ってきました。それが『医』であり『療』であり今日の病院のあり方というわけです。今の医療業界にその自覚はないでしょうけどね」

 私は、曖昧に首をほんの少し縦に振った。

「それは一定の成果をあげてきました。だけどどうしても淀みます。当然です。『虚』を蔑ろにして『実』ばかり見てきたのですから。その淀みを綺麗さっぱりするのが、医療危機管理Ⅱ課の役割と言うことなんです。キャン・ユー・アンダースタンド?」

 私は口を開きかけて、慌てて閉じた。釣られて「ノー・アイ・キャント」と答えそうになったのだ。危ない危ない。定年を控えた管理職の人って、やたら横文字を使いたがる。正直、その感覚がわからない。

「これは本来は公の機関がやるべきことなんでしょうけど、こんな片田舎まではさすがに手が回らないようで、こうして自分のような野良が病院に雇われているってことです」

「はあ……」

 病院専門のおばけ退治みたいなものだと考えることにした。でも結局、私は一から十まで信じることができず、かといって一笑に付す気にもなれず、気の抜けた返事をするだけだった。舘野見さんは最後にこう告げた。

「この話は、あまり人にしないほうがいい」

 机に両肘をついて、昔見たアニメに出てたナントカって司令官のように、気むずかしい表情をしていた。



 一週間が経った。鞄の底の退職届のシワが、だんだんと増えてきている。提出する時は新しく書きなおさないと、なんて考えていた。

 あれ以来、依頼はなかった。舘野見さん曰く、そうそう来るものではないのだそうだ。年にせいぜい四、五件。だからこのことについては、ゆっくり段階を踏んで私に説明するつもりだったようだ。それはさておき、この人は給料を貰っていていいのか。私は疑問に思った。

 仕事といえば、ほとんどがヤミ専がらみだった。一応理事長の好意で黙認されているそうだけど、組合という一種の敵対組織に、塩をどころか砂糖まで贈るような行為だ。本当ならお人好しにもほどがある。だけど好意などではなく病院管理部の目論見みたいなものがあるのなら、組合と管理部、双方のトップが裏で結託しているようで、なんか嫌な感じがした。


 この間、舘野見さんとは色んな話をした。話題の中心はやっぱりと言えばいいのか、市立病院での出来事だった。あそこで何が起こっていたのか。依頼って何なのか。私の見た蜘蛛の巣のようなものも疑問だったし、第三霊安室自体も違和感があった。


 話によると、市立病院で穢れが周囲に影響を及ぼし始めたのは、本人が意識を失ってからだそうだった。 体温計や血圧計、サーチュレータという簡易的に血中酸素濃度を計る装置などが、明らかにおかしい数値を表したのが、事の発端なのだそうだ。須藤院長はこの時すでに、良からぬものの仕業と薄々気づいていたけど、大事に至るとは思ってもみなかったと言っていた。

 彼女は病状が悪化する度に、何らかの処置が施される。ある日、処置のために準備していた麻酔などの薬剤や、生理食塩水の入ったシリンジが、全て割れていた。シリンジとは注射筒のことで、以前はガラス製だったけど現在は透明なプラスチックでできている。頑丈で落とす程度じゃ割れたりしないものだ。

 それからは処置の度に変なことが起こった。トレーがひっくり返ったり、使用している機器の電源が全て落ちたりした。救急カートという緊急時に必要な薬剤や物品が収められているカートがひっくり返って、中の物が散らばってしまったこともあったそうだ。

 そして亡くなった直後、院内の稼働している電子機器の殆どがエラーを起こした。院長はすぐに彼女を普段滅多に使われていない第三霊安室へ安置するよう指示、そこで霊障は一旦は治まったという。私が電話を取ったのがちょうどそのタイミングだったようだ。ちなみに霊安室と銘打ってあるのは、遺族に不信感を与えないため。利用者が生きていたなら、その隣にある特別処置室へと運ばれる仕組みなのだそうだ。この二つの部屋は装いは違えど目的は同じ。穢れを抑える、の一点だった。


 森本さんが言った「相馬の娘」も引っかかったけど、半分くらいは納得できた。八年前に亡くなった私の父親は、もと警察官だったからだ。森本さんが知っていてもおかしいことはない。

 納得できない残りの半分は、なぜあの場で私の父の話になったということ。それについては知らない、と舘野見さんに言われた。でもそれは嘘だと、私は何となく見抜いていた。癖なのだろう、彼は困った時には窓の外に目を向けて話すことが多い。今回もその無意識の習慣が発動して、窓の外の銀杏の木を眺めていたからだった。

 ある程度、疑問は解決したけれど、それ以上に気になることがあった。なぜ私がこの職場に配置になったのかと、舘野見さんは一体何者なのか、の二点だった。だけどどうもはぐらかされてしまった。当然、窓の外を眺めながら。見え見えの仕草に笑いがこみ上げてきて、口から少しだけ吹き出た。


「あの蜘蛛の巣みたいなものは、結局は何だったんでしょうね?」

 ある日、ふと気になって舘野見さんに訊いてみた。

「相馬さんが彼女をそう見たのか、逆に彼女がそう見せたのか」

 難しい顔をしている。私は矢継ぎ早に問いかけた。

「蜘蛛の巣自体に、なんか意味があるんでしょうか?」

「彼女が蜘蛛の巣に囚われの身になってしまったのか、蜘蛛の巣となって誰かを捉えようとしていたのか。それとも全然違う解釈なのかもしれないし、それ自体に意味なんかないのかもしれないですし。見えない僕には見当もつきません」

 み、見えないんだ……と思った。それが表情に出ていたのだろう。捕捉が入った。

「自分はそれほど強い力を持っていないんです。せいぜい、声が聞こるだけ。それもある程度相手のことを理解していないと、ただの雑音にしか聞こえません。だからあの時も関係者を呼んでもらい、状況や彼女のことを聞かせてもらいました。それで初めて所謂『穢れ』の声になるんです。特に有効なのは名前を知ることですかね。それだけで音が一気にクリアになります」

 悲しさや嬉しさ、苦しさや怒りも特有の音があると説明してくれた。力がないと言っていたけど、それはそれで充分なのではと思う。私はただ見えるだけ。舘野見さんのように祓ったり浄めたりなんて出来ないからだ。

「そして残念なことに、ボクの声も穢れには届きません。なので筆を使います。強い術師であれば祓詞はらいことばを宣うだけで、穢れを清めることが出来ます。ですけど私には、せいぜい苦しみを和らげるだけ。見ていたでしょう?」

 あの時お腹に書いた『中臣祓なかとみのはらえ』とかいうもののことを言っているのだろう。私はこくりと首肯する。

「だから本人のことを理解して対話して、説得をするのです。いるべき場所に帰れと」

「じゃあ、見たことって無いんです?」

 特に深い意味はなく、何の気無しにぶつけた質問だった。けれど舘野見さんは、チラッと外の景色を眺めた。

「ありました。一度だけね。僕が見たものは『鬼』と呼ばれるものなんだそうです。最近でも中央では、鬼がらみで大捕物があったと聞きます。鬼は見るものの恐怖や嫌悪感を媒介にあらゆる形に変わるようでして」

 そこで少し話が途切れた。この話は、触れてはいけなかったのかもしれない。深追いしてはいけなかったのかもしれない。その鬼ってものを見た事実も、そして鬼に浮き彫りにされてしまう人には知られたくない心のありようも。だけど好奇心が勝った。

「舘野見さんはどのように見えました?」

「カミサンがひっきりなしに小言を言ってました。怖いでしょ?」

 そんな私の問に、一瞬言葉を詰まらせたあと冗談めかして悲しげに笑った。直後私は、不躾な質問だったと反省する。けど、一度口から出してしまった言葉を、引っ込めることなんて出来なかった。

 居心地が悪い。私は振り返り窓外に目をやった。若葉がまばらについた銀杏の枝は、柔らかい陽差しに照らされながら、春風に掬われ揺れていた。



 その数日後の午後のことだった。いつものように、電話のベルが鳴る。

 舘野見さんは外出中。書類の整理などの業務をさっさと終わらせていた私は、仕事らしい仕事もなく、事務室で一人、勤務中だというのにうつらうつらしていた。

 すでに外線を知らせる電子音は、聞き慣れたものになっていた。ドキッとはしたけれど、慌てること無く受話器を取る。

 応対はほぼルーチンと化していて、寝起きに近い状態なのに、決まり文句がスムーズに出る。いやだいやだと思いながらも、それなりに順応してしまう自分に、苦笑いしたい気分になった。

 電話の相手はいつぞやの三ツ葉タクシーの専務さんだった。

 舘野見さんと私が訪れた日から、会社と組合とが、互いに妥結にむけて折り合いをつけ始めたと、舘野見さんから聞いていた。だけど専務さんの話によると、数日前、手のひらを返すように、組合側が急に強硬姿勢にでた。その原因は分からず。すでにストライキが勧告され、今日、決行されるとのことだった。あらゆる手を尽くし、スト回避を試みたけれど、ストライキが手段ではなく目的になってしまっているとばかりに、まるで話にならなかったそうだ。

 専務さんはよほど腹に据えかねたのだろう。立板に水を流すかのごとくまくし立てていた。気持ちは分からなくもない。けれど、さすがに辟易してしまった。

 自分は詳しい話を聞いておらず、舘野見は不在。帰院次第、折り返し連絡をするということで話を切り、半分無理やり受話器を置いた。


 ため息が漏れた。私は首を左右にコキコキと振って、執行委員長の鎌田さんのことを考えた。

 スポーツマンのような風貌。爽やかな笑顔。柔らかい物腰。なのに堂々としていて行動力もありそうだ。

 組合のことはまだよく分からないから偏見になりそうだけど、大凡(おおよそ)組合活動とは縁のなさそうな出で立ちだった。

 そこでハッとした。彼は明らかに浮いていたのだ。タクシードライバーは比較的年齢が高い。全国平均でも五十五歳以上と聞く。地方なら、それがさらに高くなる傾向にあり、六十を越える都道府県もあるそうだ。彼は見た感じせいぜい三十歳。若い人が一人二人就労していてもおかしくはないけれど、一般企業ではもうじき定年を迎えるような集団で、二十代が組合の舵を取ることに違和感を覚えた。

 若い人が組合に入ってくれない。と、とある企業の労働組合の執行委員長の愚痴を、私は聞いていた。舘野見さんに言わせれば、当然のことだそうだ。組合幹部はたいていが五十代。生活スタイルが違う若い社員と、そもそも企業に求めるものが違うのだ。それについては納得させられるものがあった。

 じゃあなぜ、鎌田さんは? 嫌な予感がした。


「すぐに向かいます。もう帰ってこないと思いますので、戸締まり、頼みますね」

 三ツ葉タクシーの件を報告すると、舘野見さんは顔をあからさまに顰めた。

「私も行きます」

 そう来るだろうと予測していた私は、すでに外出の準備は万端だった。帆布のカバンを肩に担ぎ扉のノブに手をかける。と、舘野見さんが意外そうな顔で「へっ?」と漏らした。

「組合の仕事ですけど……」

「そうですね」

 私は「プッ」と小さく笑った。確かに組合の業務は嫌々やっていたし、それを口にはしないものの態度には出してきた。舘野見さんが戸惑うのも無理はない。だけど私は、この結末を見届けたいと思ってしまった。関わってしまったが故の責任感からなのか、それとも単なる野次馬根性なのか、自分でも理由ははっきりしなかった。



 いつものグレーのライトバンで、現地へと向かう。車内では、素人がパーソナリティをしているコミュニティ放送局のラジオ番組が流れていた。だけど、今日はいまいち感度が悪い。ガー、ザー、ピーと入るノイズが嫌でラジオを消そうと手を伸ばす。すると舘野見さんは

「そのままでいいです」

 と、私の行動を制し、音量を少し下げた。疑問が浮かび舘野見さんを見た。だけど彼は真っ直ぐを見据えたまま、黙っていた。



 三ツ葉タクシーではすでに団体交渉が行われていた。

 会場である会議室の扉を開ける。宴会でいうところのたけなわの頃合。ムワッとした熱気に汗臭さが混じる。煙草の煙で空気が濁り透明度を失った室内で、おっさん同士が怒号を飛ばし合っていた。

 ドンッと長机を叩く音。ガシャリとパイプ椅子を蹴る音。それが至るところから聞こえる。お世辞にも上品とは言えない交渉だった。

「一度、中断して頭を冷やしたほうが …… 。いやそういうレベルじゃないですね」

 舘野見さんがつぶやくように言った。漠然とした意味合い。だけど言わんとしたことが、私には分かってしまった。

 舘野見さんは、筆を出す。口に咥え、両手で墨汁の入った竹筒の蓋を開けた。次に、カバンから短冊の束ようなものを取り出し、それらを乱雑に机に置き筆をとった。

「何が見えました?」

「ヒル、です。それもたくさん」

 私は指輪も時計も外していないし、目も凝らしていない。怖かったからと、その必要がなかったからだ。

 鎌田さんの体には真っ黒いヒルのようなものが、幾つもまとわり付いて蠢いているのが、はっきりと見て取れた。そしてそのヒルは、その場にいる組合員ひとりひとりにも一匹ずつ寄生していた。気持ち悪さに、腰から首筋にかけて冷えたざわめきが走る。

「この部屋を出て、森本さんにすぐに来るよう連絡してください。そしてそのまま帰ってください。電話は明日返してくれればいいですから」

 舘野見さんは携帯電話を差し出した。その声は少し上ずっていて、表情もあきらかに固い。

 私は電話を受け取った。掌がぐっしょりするくらい汗をかいていたことに、この時気づいた。


 私は言われるがまま廊下に出て携帯電話を操作した。目当ての番号は着信履歴からすぐに見つかった。背中を壁に預け、携帯を耳に当てる。壁は思いの外冷たく体に染みた。

 呼び出し音が聞こえる。四回、五回と。一向に治まらないそれに焦りを感じ、私は廊下を数歩歩きだした。リノリウムの床をローファーが踏みしめる。そのたび、キレの悪いタップダンスのような、硬質だけど鈍い音がした。

 呼び出し音が途切れる。私は息を呑んで足を止めた。受話器の向こうから男の声が聞こえる。

「舘野見さん、なんかありました?」

 とても淡白な声。だけどこの時ばかりは、とても頼もしく思えた。

 電話の相手が私であることに少し驚いていたようだったけど、状況を掻い摘んで説明したら、急いで向かうと告げられた。そして最後に「大丈夫」と優しく励ましてくれた。ツーツー音を確認したのち、電話を二つに畳む。電話の声が少し名残惜しかった。

 舘野見さんは、私にそのまま帰るようにと言った。危険だろうことは、言うまでもなかった。黒いヒルにとり憑かれた鎌田さんの姿は、おぞましいとか、禍々しいとか、そんな言葉がぴったりだったからだ。言うとおりに帰ろうか、それともここに留まろうか。決断できずにウロウロしていた時、会場がひっくり返ったような大きな音がした。


 グズグズ考えている暇なんてなかったんだ。私は両頬をパシッと掌で叩き闘魂注入、会議場のドアを開ける。

 倒れた長机。とっ散らかったパイプ椅子。吸い殻がばら撒かれ、タバコの灰が靄のように床面を這っていた。幾つもの紙コップが転がり、零れた液体がそこかしこに飛び散っている。地震か何かあったのだろうか。一瞬、本気でそう思った。

 スーツ姿の壮年の男の人が五人、隅に張り付いていた。野良犬が吠えているみたいに大声を張り上げてはいたけど、怯えているのは誰の目にも明らかだった。

 そこには専務さんの姿もあった。普段の饒舌は鳴りを潜めていた。青ざめた額には玉の汗が浮かび、それをしきりにハンカチで拭っていた。


 がたん、と大きな音がした。また一つ長机が横倒しになる。アルミ製の灰皿が勢いをなくしたコマみたく、からから回っていた。

 制服を着た人が、群がるように集まっている。ミツバチがスズメバチを取り囲んで迎撃するさまを蜂球と呼ぶそうだけど、ちょうどそんな感じだった。

 で、そのスズメバチの役回りが舘野見さん。彼らは舘野見さんを天敵とみなしたのだろう。数人で押さえつけていた。

 助けに行かなければ、そう思ったけど怖くて脚が動かない。声も出せない。鼓動も呼吸も乱れる。森本さん、早く来て、早く。心の中で祈るようにそう繰り返した。

 鈍い音が響いた。鎌田さんが舘野見さんの頭を、サッカーボールのように振りぬいた。そこで私は吹っ切れた。何を言ったのかは分からない。だけど叫ぶような大声を出して、舘野見さんにのしかかっていた一人に、体当たりをかました。

 倒れていた長机が勢い良く横にずれ、パイプ椅子を巻き込み乱雑な金属音をかき鳴らす。そこに初老で細身の職員が倒れていた。だけど心配する余裕なんかない。

 舘野見さんは、仰向けに倒れていた。さっきまで暴れていたようだったけど、頭を蹴られたことでぐったりとしていた。出血もしている。御影石のような色合いだった髪の毛が赤く汚れていた。

 目が合った。口を動かしている。だけど声は小さく私には聞こえなかった。逃げろ、とかなんとか言いたいのだろう。だけど残念、もう遅い。

 四つん這いになっていた私の首根っこが、子猫を掴むように引っ張られた。そしてそのまま床に叩きつけられた。くらっとした浮遊感。だけど意識を失うまでではなかった。


「誤算でした。僕に対する憎しみが強すぎて、僕の思いが届かない」

 耳元に弱々しい声。見上げると、鎌田さんの体には五枚もの札が貼られていた。だけど、うねうねと鎌田さんの体を這いまわっているナメクジのような何かは、意にかえす様子はない。


 だんっと床から振動が伝わる。同時に短いうめき声が聞こえた。

 鎌田さんはあろうことか、舘野見さんの右手首を強く踏みぬいたのだ。見ると非ぬ方向に曲がっていた。文字を書いて浄める舘野見さんの力を、封じにかかったのだ。

「なあ、舘野見さん。アンタ組合の人間だろ。なのになんであそこでブルってる奴らの肩を持つ。本当はどっちの味方なんだい?」

 以前の爽やかさなど微塵もない、憎悪に塗れ、背筋が寒くなるような笑顔だった。だけどこの顔に憶えがあった。数日前、舘野見さんに説得されていた時に、一瞬見せた仄暗い表情。あの時は今のような笑顔ではなかったけど、とても似ていた。もしあの時、指輪か時計を外していたら何か見えたのかもしれない。私は少し無意味な後悔をした。「たら」「れば」なんか考えてもどうしようもないというのに。


「まあいい。オブザーバーとして来てくれたんだろ? なら、ちゃんと仕事していってくれよ」

 そう言って舘野見さんのベルトのバックルを掴み、力任せに引き上げ、無理やり立たせた。そして転がっているパイプ椅子を起こし、そこに乱暴に座らせた。最後にツバを吐きかける。舘野見さんの顔に粘り気のある液体が付着した。

「団交の再開だ」

 振り返りの鶴の一声に、制服を着た組合員達は全員無表情のまま、気のない動きでぞろぞろと座り始めた。だけど、専務さんを含む会社役員は未だ隅で体を寄せあっている、と言うよりかは互いが互いに矢面に立つまいと、犇めいているほうが正しいかもしれなかった。

 鎌田さんは、そんなことお構いなしに交渉を始めた。

「靴下を一月に一足。さっきは支給できないとの回答だったが、その理由を一人ずつ言ってもらおうか」

 くだらなさに呆れた。呆れたと同時に悲しくなった。そんなちっぽけなことのために、なんでこんな惨事になってしまうか、理解できなかった。きっと意地を張ってしまったのだろう。組合側も会社側も。だからこじれて、退けなくて、おかしくなっちゃって、しまいには変なものに憑かれて。助けに来た舘野見さんは、血だらけになって、私も怖くて動けなくて。

 会社側からの返答は、当然何もなかった。怒声を発するか、身を固めて黙ってしまうか、そのどちらかだった。

 重病人のように項垂れていた舘野見さんの顎が、かくんと跳ね上がる。鎌田さんに殴り上げられたからだ。

「おい、オブザーバー。誠意がないとか、責任を持てとか、なんかあいつらに言うことがあるんじゃねえか?」

 そして胸ぐらを掴まれた。鎌田さんの腕には血管が浮き出ている。かなり力を込めているようだった。

「何もないんじゃあ、しょうがねえなぁ。見せしめにでもなってもらおうか。お前ら、ようく見ろ。誠意ある回答がなければ、こうなるから覚悟しておくんだな」


 私は無意識に指輪を外していた。

 目の前の景色が、今までと全く違うものに変わった。床も、壁も、天井も、部屋中にあの黒いナメクジに隙間なく埋め尽くされていた。空気がどんよりしていた。そして残飯のような強烈な悪臭がした。頭がくらくらして、吐き気もすごい。私はえずいてしまう。涙も流れた。

 こらえて立ち上がる。そしてふらふらしながら鎌田さんに近づいていった。

 鎌田さんは私に向かって怒鳴っていた。舘野見さんも口を動かしている。だけど何も聞こえない。代わりに、死んだお父さんの声が聞こえたような気がした。優しい声だった。


「文、いいかい。これは文の心と体をだめにする。だから、滅多なことでは使ってはいけないよ」


 物心がついた頃には、私の体が『巣』になることを、なんとなくだけど知っていた。

 中学生になる時だった。お父さんが、そのことをはっきりと告げた。私は怖くてその夜、布団に潜って泣いた。

 その言葉が頭の中に響いた。

 お父さんは殉職したと聞かされた。だけど遺体は家族の許へは返ってこなかった。今なら何となくわかる。お父さんは、使ったんだ。自分を犠牲にして、みんなを護るため。自分の体に巣を作って、そこに穢れをまわせたんだ。


 自分の真ん中に、ぽっかり穴が空いたように感じた。そこに吸い込まれてゆくように穢れの感情が入り込んでくる。


 ── 馬鹿にしやがって。

 ── 助けて。

 ── タカシ、もうお金がないの。

 ── 疲れた。

 ── とうとう水道まで。

 ── 死んでしまえばいいのに。

 ── どれだけ働かせれば気が済むんだ。

 ── まるで奴隷だ。


 それは、悲痛な声だった。虐げられてきた人、蔑ろにされてきた人、彼らの恨み、怒り、妬み、悲しみ、疚しさ。ネガティブな感情が大きな渦を作っていた。

 嫌悪感はあった。だけど可哀想に思えてならなかった。どうにかしてあげたい、と無性に思った。

「気づいてあげられなくてごめんね。つらかったね。だけど大丈夫。こっちにおいで」

 気持ちが弾けて、言葉になって、口から零れた。それを皮切りに、ナメクジ達は一斉に私の中に入り込んできた。

 目の前が眩んだ。耳鳴りがする。手足が痺れ、体に力が入らない。凍えそうなほど寒くて震えているのに、止めどなく汗が吹き出る。お腹の奥がかき回されたように痛い。早鐘のようにドクドクと心臓が拍動する。それにテンポを合わせて、ハンマーでガンガン叩かれるように頭痛がした。呼吸をしているのに、水の底にいるように呼吸が苦しい。私は喉を掻きむしっていた。

 やめて欲しかった。もう終わらせて欲しかった。だけどダム穴に水が落ち込むように、ナメクジは犇めきのたうちながらも、のべつ幕無しに私が作った巣をめがけ殺到した。

 あらゆる苦痛に晒された。そして私はいつしか、意識を手放してしまった。



 がりっ。音がした。私はゆっくり目蓋を開ける。視界は古い白黒写真みたいに、セピア色に染まり色を失っていた。

 騒ぎ立てる声が聞こえた。専務さんたちのものだろう。だけどその喧騒がとても静かだった。五感の全てが、遠くにあるように感じた。

 がりっ。またあの音だ。とても生々しい音。そして背中に何かが這っていた。ぬるっとした感触が、行ったり来たりしていた。

 がりっ。生暖かさもあった。だけど別の心地よい暖かさも感じた。

「少しだけ楽になります。待っていてください」

 舘野見さんの声だ。私はうつ伏せになって背中を晒されていた。そこに舘野見さんは文字を綴っていた。顔中汗だくで、歯を食いしばっている。

「これは私の家に伝わる救棲ぐせことば。魔を棲まわせる一族の辛苦を和らげます」

 それもそのはず。利き手はさっき踏みつけられたことで、骨折していることは間違いない。それなのに、左手で右手首を握りながら痛みに耐えていた。

 がりっ。舘野見さんは薬指を口許にもってゆき、歯を立てた。血液がこぼれ、口の周りが汚れていた。見ると、親指、人差し指、中指と噛んだであろう跡があった。

 そして、直接私の背中に指をあてがう。震えが肌から伝わった。背をあらわにされて触られて、恥ずかしかった。だけど抵抗する気力は沸かなかった。

「大輔のようにはさせません」

 唐突に舘野見さんの口から出た、お父さんの名前。相馬大輔なんてありきたりな名前だけど、お父さんとしか考えられない。何を知っているのだろうか。どうして隠していたのだろうか。

 舘野見さんはあろうことか、自分の血で文字を綴っているようだった。市立病院では滑らかだった動きが、今はおぼつかない。利き腕の手首の骨折はあきらかだったし、脳震盪もおこしているかもしれないからだ。

 舘野見さんが私の背から手を離した。大きく息を吐いた音が聞こえた。終わったのか、または一段落ついたのだろう。水に浮かぶような浮遊感がした。全身の力が抜けてくると同時に、体も随分と楽になった。


「仕上げです」

 ぼそり呟き、またしても背中に指を這わせてきた。苦しさが緩和されたからか、くすぐったかった。だけど呑気にしていられたのは一瞬だった。

 私の中の穢れが急に暴れだしたのだ。舘野見さんが指を動かすたびに、べりべりと穢れが引き剥がされていくのが分かった。だけど穢れも、もがきながらも抵抗していた。

 私は倒れたまま目だけを動かして舘野見さんを見る。エンジのネクタイが中途半端に緩んだ襟元まで、赤く汚れていた。だけど上手く焦点を合わせられず、表情までは分からなかった。

 私は口だけを動かして舘野見さんに告げた。それは自分のものだとは思えないくらい、辿々しく、拙く、か弱い声だった。

「だめです。外に出したら、また誰かが不幸になります。それに、この子はここに居たがってます」

「あなたの父親もそうでした。優しすぎる。その優しさは穢れを救うことでしょう。だけど穢れを救ったあなた自身は、絶対に救われない」

 強い言葉が返ってきた。舘野見さんは、私がずっと抱いていた疑問を知っていると確信した。なぜあの日、お父さんは帰ってこなかったかを。本当に殉職したのか、それとも殉職として扱われて、今もどこかで生きているのではないかということを。

「もういいです。もうやめてください」

 私の声が聞こえなかったのか、聞こえたけど無視していたのか、舘野見さんは指先を動かすことだけに傾注していた。

 穢れは私に居着くつもりでいる。私は舘野見さんの行為が、無駄なことだと理解してしまっていた。


 サイレンの音がした。徐々に大きくなってくる。パトカーのものだ。きっと森本さんが向かっているのだろう。

「くそっ、くそっ、くそっ!」

 舘野見さんが声を上げた。そのたび、体の中の穢れもざわついた。怒りを込めながら、拒絶している。怒りは穢れを舘野見さんへと向かわせ、拒絶は遠ざける。

 相反する感情は、だけど拒絶が(まさ)った。思い通りになるものか、とでも言っているようだった。

「出て来い。そこはオマエのようなヤツの居場所なんかじゃない」

 穢れは頑なだった。舘野見さんの呼びかけに、断固として耳を傾けようとはしなかった。この強い感情はたぶん鎌田さんのものだ。鎌田さんは、舘野見さんに説得されたあの日、裏切られたと考えたようだった。

 だから舘野見さんの言葉が届かない。ここから出ろと訴える舘野見さんの願いが聞き届けられない。

 舘野見さんは祓わない。説得して浄めると言っていた。市立病院での女性は、それで救われた。過去にもそうして救った魂があったのだろう。だけど自身へと向かう憎しみだけは、どうしようもない。だから鎌田さんを浄められなかったし、今も手詰まりでいる。

「くそっ!」

 ひときわ大きな声を上げた。そして私を仰向けにひっくり返した。

 役員の一人が舘野見さんの肩に手を乗せた。それを荒々しく払いのけ、私のブラウスの裾に手を掛け捲り上げた。

 お腹までもが顕になる。舘野見さんはそこに指を押し付けた。今までになく強い力だった。

「もういい。オマエなんかもう救ってやらん。タイマンだ。こっちに来い」

 怒声はところどころが裏返っていた。口からはツバが吐出されスプレーのように飛び散った。怒りの表情が私を見下ろす。

 指が荒々しく動いた。腹部全体に大きな血文字が書かれてゆく。舘野見さんから汗が滴り、私の体にもぽつぽつと落ちた。血も混じっているのだろう、白のブラウスに薄く赤の斑点ができた。恥ずかしいし気持ち悪いけど、為すすべなく見つめた。


 花火が轟き腹に響いたかのような感覚がしたのは、舘野見さんが私に覆いかぶさるように倒れてすぐのことだった。

 強い怒りの感情が爆発したような気がした。それは鎌田さんに取り付く前の記憶。穢れの古い古い記憶が干渉されたようだった。


 階段を登る足音が聞こえた。だんだんと近づいてくる。

 扉が開き

「舘野見さん!」

 と大きな声とともに私の体は軽くなった。森本さんが私に重なる舘野見さんの体を除けてくれたのだ。

 巣は空っぽになっていた。そして舘野見さんは動かなくなってしまった。

 私は喉をしゃくりあげて泣いていた。舘野見さんを助けようとした。穢れを助けようとした。だけどどちらも助けられなかった。舘野見さんの安否と、自分の不甲斐なさと、巣から追い出された穢れが不憫で、涙が止まらなかった。


 会議室に蔓延っていた穢れは、綺麗さっぱりと消えていた。少し回復した私は慌ててブラウスを降ろした。

 周りを見渡すと、専務さんが警官二人と話をしていた。事情を説明しているのだろう。他の人たちは見当たらなかった。森本さんの説明だと、全員が無事ということだった。鎌田さんは? と訊いたところ、彼も問題ないことを教えてくれた。

 ほどなくして、福士さんが現れた。相変わらず怒り肩でのしのしと大股で近づいてきた。会釈をした私に見向きもせず、仰向けに寝かされている舘野見さんを見下ろした。そのまま膝をつき、舘野見さんの両肩をがっしり掴んだ。そして大声を張り上げ、泣いた。

 大の大人が号泣していた。「舘野見! 舘野見!」と何度も呼んでいた。未だ意識のない舘野見さんの上半身を抱え上げ、何度も揺すっていた。

 森本さんは苦い顔をして、一歩離れたところでタバコに火をつけていた。

 私は、呆けたまま三人を遠くから眺めているだけだった。後味の悪いB級ホラー映画のエンディングを見ている気分だった。


 私は森本さんの運転するパトカーで、舘野見さんは救急車であすなろ病院へと運ばれた。

 道中、森本さんは私の心情を慮ってか終始無言で、最後にお辞儀をした私に「おつかれさん」とねぎらいの言葉をかけてくれただけだった。

 私は、そのまま病院で一泊してから退院した。医療安全管理Ⅱ課へは行く気にはなれず、その日はそのまま帰宅した。




 翌日は大事を見て病欠。そして三ツ葉タクシーの事件から二日後の朝、私は自分の職場の扉を開けた。

 普段、舘野見さんは出勤時間が早い。私がここへ来る頃には、すでにコーヒーを啜っていることが日常だった。だけど、そこには誰も居なかった。

 扉の外のボイラーの音と、窓の外の小鳥のさえずりが重なる。普段は気にかけたことのない不協和音。それだけこの部屋を静かに感じたのだろう。

 自分のデスクに腰を下ろし、鞄のファスナーを開けた。鞄の底の辞表が見えた。それはところどころ破れて、くしゃくしゃになってしまっていた。

 一息ついて、二日前のことを思い出す。大きくお腹に書かれた文字。赤黒く霞んでいたけど『于古』と書かれていた。テレビに出てる書家が書くような、太く力強くしっかりとした文字だった。あの状況でよくここまで、と思った。


 正午を過ぎてすぐに、森本さんが顔を出した。昼でもどうだ? と半ば強引に私は外に連れだされた。

 場所は歩いて十分もしないところだった。古い建物に『ラーメン緑や』の看板が掲げられていた。

「アレ、お願い」

 森本さんは、私に何を食べるかも聞かず、勝手に注文をとってしまった。

 ラーメンを待つ間、私は舘野見さんとお父さんの関係を訊いた。森本さんは、観念したとばかりに煙草の煙を大きく吐いた。

 と、厨房の奥から「禁煙だよ!」と怒鳴り声がした。森本さんは慌てて火を消して、携帯の灰皿に吸い殻を捨てた。

 そして、バツの悪そうな顔で話し始めた。


 舘野見さんの奥さんは、肝臓を患っていた。病状が悪化したのが八年前。入院するまでになっていたと言う。

 二ヶ月ほど病室で過ごし、もうすぐ退院までこぎつけたある日、舘野見さんの奥さんの意識が急に途切れた。

 舘野見さんが調べたところ、医療ミスの疑惑が発覚した。

 肝臓の機能低下が原因で、腹水と呼ばれる腹部に水が溜まる状態になったのだが、それが見逃されたようだった。

 事実を隠蔽するためかどうかは、今となっては分からないけれど、普通なら考えられない量の利尿剤が投与され、腹水は尿として排出された。その日の尿の量は五リットルをこえたという。

 大量の腹水を短時間で排出すると、低血圧性ショックを引き起こすおそれのあることは、医療に携わる者ならば周知の事実である。それを防ぐための処置がなされた。点滴の大量投与である。

 急速に利尿させ、急速に水分を補う。お陰でショック症状は回避された。だけどそこにも落とし穴が口を開いていた。

 点滴には電解質、つまりミネラルが含まれている。体内の電解質がバランスを崩すと、ありとあらゆる臓器が不調を訴えたり、役割をボイコットしてくるからだ。

 調べだと、舘野見さんの奥さんはナトリウムの急速補正により『きょう中心ちゅうしん髄鞘崩壊ずいしょうほうかい』を引き起こしたことが有力視された。これは急激に低下したナトリウムを、一気に元に戻すときに引き起こされる症状と言われている。脳の小脳、大脳、延髄をつなぐ『橋』の組織が破壊され、機能しなくなる。

 『橋』は生命維持に欠かせない器官。修復は不可能。あとは死を待つばかりとなってしまった。

 病院側は原因を特定できないと過誤を否定した。為すすべのない舘野見さんを、痛々しくて見ていられなかったそうだ。


 その怒りが鬼を引き寄せる原因の一つになった。鬼はそれを媒体に、舘野見さんの奥さんに憑いた。

 福士さんのような祓い師や、森本さんのような特殊事案を扱う警官が鬼退治にあたったが、力及ばず多くの人命が失われた。


 その時、鬼と対峙したのが私のお父さん、相馬大輔だった。お父さんは体に巣を拵え、鬼を取り込んでしまったそうだ。そして、鬼に侵蝕される前にその場にいる祓い師全員で、お父さんもろとも鬼を封じた。お父さんはそのまま中央の組織に引き取られてしまったという。

 その時の功労者が舘野見さんだったそうだ。舘野見さんは、お父さんの体に巣食う鬼の対処法をなぜか知っていた。


 森本さんはある日、疑問に思い尋ねたそうだ。するとこう答えた。

 舘野見の真名(まな)は『たて』『ノ』『ミ』と書いて『ひこ』と表記すると。

 何かの謎かけのような話だった。森元さんに何か知っているかと聞かれたけれど、私も『彦』という苗字に聞き覚えはなかった。ただ、森本さんが説明のために手帳に書いた『彦』は、綺麗な文字ではなかったけど不思議と惹き込まれた。

 私は、お父さんが生きているのかを尋ねた。だけど返ってきたのは「分からない」の一言と沈黙だった。


「おまたせしました」

 陽気な声がした。恰幅の良いおばちゃんが、どんぶりをテーブルに載せた。その顔は、どうにも困っている風だった。

「食べてみたらいい」

 森本さんはニヤけていた。

 何かあることは察しがついたけど、食べないことには分かろうはずもない。私はスープをレンゲに掬い、恐る恐るすすった。

「わっはっはっはっは!」

 森本さんは、私の渋い顔を見て大笑いした。このラーメンは、はっきり言えば不味かった。ほとんど味がないのだ。

「舘野見さんはね、毎週木曜日、このラーメンを食べに来るんですよ」

 おばちゃんの話に森本さんが追従した。

 舘野見さんは奥さんを亡くして以来、異常なほど食事に気を使うようになったのだそうだ。健康のためと舘野見さんは言っていたけど、身を浄めるためだろうと森本さんは話した。そのために緑やは、舘野見さんのためだけに毎週木曜日、塩分を極力抑え、動物由来の材料を一切使わないこのラーメンを、一杯だけ作っているのだそうだ。

「少し先の事になるかもしれませんが、舘野見さんが元気になったら、お知らせしますね」

「ありがとうね。でもいいよ、別に」

 私の申し出を緑やのおばちゃんは笑って断った。

「でも」

「そんなんじゃあない。木曜日にこれを作る。もう習慣になってしまったんだよ。だから毎週作って待ってることにしますよ」

「そうですか」

 私はそれしか言えず、もう一口スープを口に運んだ。

 おばちゃんは、舘野見さんを恩人と言った。詳しくは聞かなかったけど、ご主人がお墓に納まることが出来たのは、舘野見さんのおかげらしい。

 やっぱり美味しくない。だけど、優しい味がした。



 その日、夢を見た。

 私は、緑やの年期のはいったカウンターに座り、あの美味しくないラーメンをちびりちびりと食べていた。

 ずるずると啜る音が聞こえていた。隣で舘野見さんは、脇目も振らずラーメンを頬張っていた。本当に、本当に美味しそうで、とても幸せそうだった。

 麺を平らげスープを飲み干したあと、舘野見さんは一息ついて、空になった器を見つめながら笑ってつぶやいた。


 ── これし 是 吾が宿願也


 朝、目が覚めたとき、涙が零れていた。私はそのまま少しだけ泣いた。




 コッコッコッ。

 ノックは相変わらず湿気た音を鳴らす。

 返事をする前に扉を開けたのは、総務課の美奈だ。右手にはいつものようにお弁当の入った巾着をぶら下げている。そして左手には名刺が一ケース握られていた。

「どうぞ。あすなろ病院 技術部 医療安全管理Ⅱ課 課長代理 相馬文殿!」

 私はそれを恭しく受け取り、おどけてみせる。


 あれから私は、医療安全管理Ⅱ課に留まることにした。組合がらみの仕事はせず、総看護長のもとで医療安全に関する事務作業を中心に雑務をこなしている。

 事務室も少し変わった。散らかった机の上は綺麗さっぱり片付けた。今はリンゴがトレードマークのノートパソコンと、折れた筆だけが置かれている。

 配置も変えた。デスク二台を壁際に寄せ、少し空いたスペースに応接用にとローテーブルとソファーを置いた。

 で、今はそこが同期職員の休憩所となっている。


「やー、忙しい忙しい」

 バタンとガサツに入ってきたのは、看護師で病棟勤務の静香だ。彼女はいつもノックすらしない。

「そうそう、命の恩人さん、今日ね初めてしゃべったんだよー」

 命の恩人さんとは舘野見さんのことだ。私の不用意な発言から、本人のあずかり知らぬところで変なあだ名がつけられていた。

 私は「あっ、そう」とだけ返事して、帆布のカバンを肩に掛ける。

「外回りに行ってくるから、出るときは鍵かけて守衛さんに渡して。じゃあ、お疲れさまー」

「お疲れー」の声を背に、私は部屋をあとにしようとドアノブを握る。


「でさ、命の恩人さんはなんて言ったの?」

 先に来て、すでに昼食をとっているめぐみの声だ。くすくす笑いながら答えた静香の声が、閉じかけたドアの隙間から聞こえた。

「ラーメン食べたい、だってさ」


 二十代女性特有の賑やかな笑い声が廊下に漏れる。

 私は指輪を外しポケットにしまった。


         ===「すくいふで」(了)===

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