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不在中に誰かが部屋に侵入している件について

 ここ一ヶ月ほど、奇妙な事が続いていた。

 ささいな事柄なのだが、気になる。

 スマホの請求書が届かなかったり、帰宅した時微妙にコップを置いた位置が違っているような気がしたり、出勤前に使った歯ブラシが帰宅後も湿っているような気がしたり、トイレットペーパーやティッシュの減りが早いような気がする。ついでに言うとシャンプーとリンスとボディソープも。

 新社会人になって、緊張しているというのもあるのだろうけど、これらが直らないササクレみたいにずっと心に引っかかっているのだ。

 会社の住居手当のおかげで都内にまぁまぁのマンションを借りる事が出来、順風満帆な新生活のスタートだと思ったのに……。

 同期の栄子えいこに相談してみたけれど、

「出た! さえの神経質!」

 ……と、笑われただけだった。高校、大学と七年間一緒に学生生活を送ってきた親友だけど、彼女は大雑把すぎて、こうした相談には向かない子なのだった。

「もう! 本気で相談したのにっ」

 私が文句を言うと、栄子は

「初任給安かったから、ショックだったんだよ。私もショックだったよ。でも大丈夫。心配するな。私もお金ないけど、生ビールお代わりしちゃう」

 相談したタイミングも悪かった。

 栄子はお酒を飲むと最初は突き抜けるほど陽気で、あとで泣き上戸になるのだった。

 でもまぁ、笑ったり泣いたりする栄子を見ていると、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるという利点がある。

「給料安すぎぃ! 奨学金返済したら、学生の時より貧乏じゃん……ぐすっ……」

 そろそろ栄子の泣きが入ってきた。

「物価高いし、なんで東京で就職しちゃったのかな?」

 安い居酒屋の喧騒に、不安感と違和感が焼き鳥の煙に溶けてゆく。


 べろべろに酔っぱらって、べそべそ泣いている栄子を部屋に送り届け、私は非常階段をワンフロア降りた。

 このマンションは会社で借り上げている部屋が数部屋あり、そこを住居手当込みで、格安で借りているのだった。私は栄子の部屋の真下を割り当てられていた。

 栄子との初任給祝いの飲み会は終わり、明日は休日。

 朝風呂とか、やってみてもいいかも。

 そんな事を思いながら、ドアノブに左手を添えて鍵を差し込む。栄子ほどじゃないけど私もちょっと酔っぱらっていて手元が怪しかったから。

 

「ひっ!」


 思わず悲鳴を上げてしまった。

 ドアノブには、何かヌルヌルする液体が塗ってあって、その感触に竦みあがったのだった。

「何なのよ! もう!」

 ハンドバッグから、ぬめっていない右手だけでウエットテッシュを取り出し、ゴシゴシ左手を擦る。

 無意識に臭いを嗅いでしまったのだけど、生臭くて吐きそうになってしまった。おえっ。何これ?

 

 ―― 何か毒物だったらどうしよう


 酔いはすっかり醒めてしまった。

 今日は栄子の部屋に泊めてもらおうか? などと考えていると


「こんばんは」


 と、背後から声がして、また悲鳴を上げてしまった。

 壁に背中を叩きつけるようにして振り返る。

 目線の先には黒縁の眼鏡をかけた中肉中背の若い男性が立っていた。

 顔が平凡すぎて印象が薄いのだけど、たしか隣の部屋の山本さんだったかしら?

 私より三日ほど後に引っ越してきた人だ。

 曖昧な笑みを浮かべて、山本さんが頭を掻く。

「すいません、脅かす気はなかったのですが……」

 などと言っている。

 真面目そうな雰囲気。ダサい黒縁眼鏡。目を合わさない気弱な様子。決してイケメンではないけど、なんだか母性本能をくすぐるタイプだ。

 私は、こういうタイプに弱い。

「あ、いえ、ちょっとナーバスになっていて……」

 恥ずかしさに頬が赤くなるのを意識しながら、もごもごと言い訳する。

「どうかしましたか?」

 やっと山本さんが私と目を合わせる。私を安心させるためか、表情は微笑を刻んでいた。

 全体的に柔らかい雰囲気なのに、なんだろう? この違和感。

 まるで、上手な役者さんが演技しているのを見ているような……

 明るい茶色の瞳。その瞳の奥は笑っておらず、用心深く表情を隠しながら私を観察しているみたいな感じ。うぅん……まぁ、私の被害妄想なのかもしれないけど。

「ドアノブにイタズラされたみたいなんです。何か塗られていて……」

「触ってしまいましたか? 手を洗った方がいい」

 山本さんが、地面に片膝をついてドアノブを観察してくれている。

 まるで、騎士が恭しく跪いているみたいで、ちょっとドキドキしてしまった。

「何も、塗られていませんよ」

「え! うそ!」

 私もドアノブを確認する。確かに、あのぬるぬるした液体が見当たらない。

「さっきは、確かに……」

 口ごもる私を、また曖昧な微笑のまま

「何もなかったのなら、それが一番です」

 そういって山本さんは立ち上がり、私に一礼して自分の部屋に消えた。

 変な女と思われちゃったかしら?


 その日以来、意識してしまったからなのか、偶然、お隣の山本さんと遭遇することが多くなった。

 挨拶を交わす程度だけど。

 山本さんは、いつも疲れた様子で、たっぷり時間をかけた私の故郷の郷土料理『じゃっぱ汁』を振る舞いたくなって困った。

 いきなり「これ『じゃっぱ汁』です」なんて、持って行ってたら、ますます変な女と思われちゃうか。

 山本さんは見ていて、なんとなくほっておけない感じなのだ。

「冴の『ダメ男好き』にも困ったものですにゃあ」

 山本さんと廊下で挨拶を交わし、なんとなく見送っていた私を背後から羽交い絞めして、栄子が言う。

 朝から、ウザいんですけど。

「そんなんじゃないわよ」

 栄子が私の首筋の匂いを、フンフンと嗅いでくる。

「ふふふ…… 発情したメスの匂いがするぞよ、このメス犬めぇ」

「くすぐったいから、ヤメテ。早く会社行くよ! それと『にゃあ』とか『ぞよ』とか、サムいって」


 社内研修が終わり、私は実戦配備された。

 職場は庶務課。備品の補充をしたり、社内が円滑に機能させるための縁の下の力持ち的なセクション。

 栄子は秘書課。黙っていれば美人だし、語学も堪能。お酒さえ飲まなければ、有能女子なのだった。

 庶務課は、枯れ果てたおじいちゃん課長以外は、ほとんど女子社員で、様々な年代の女性がいた。

 いわゆる『お局』と言われるベテラン女子社員もいて、噂では女性中心の職場特有の『いじめ』みたいなものがあると聞いていたけど、そんなこと全くない。

 栄子みたいな、その場を自分色に染める肉食獣タイプは新旧勢力間で衝突もあるのだろうけど、私はふわふわと流される水母くらげタイプ。敵とも味方とも認識されていないのかもしれない。地味で目立たないし。それに庶務みたいなコツコツ地味な裏方作業は嫌いじゃないから不満もない。

 五月の連休を前に、溜まっていた仕事を片付け、ようやくタイムカードを押す。

 今月分の給料には、はじめて残業手当がつくだろう。

 その増額分で、何か甘い物でも買おうかと思案しつつ帰路につく。栄子は合コンらしい。

 私も誘われたが、断った。

 互いに肚の探り合いをするような席は好きじゃないし、緊張してお腹が痛くなってしまう。

 『いかに俺がすごいか』をアピールしてくる薄っぺらい男が嫌いだし、『さしすせそ』会話も疲れる。


 さ=さすがですぅ

 し=知らなかったですぅ

 す=すごぉいですぅ

 せ=(なんだっけ? 忘れちゃった)

 そ=そうなんだぁ


 ……だけで会話が成立するって教えてくれたのは栄子だったっけ。

 コンビニに寄って、おにぎりとカップみそ汁を買ってマンションに帰る。

 ナンバーロック式のポストを探ると、束になってピザ屋さんやスーパーのチラシや不動産売買の広告が出てくる。

 それらを持って、エレベーターで四階の自室に向かう。

 ドアノブを触る前に、目視してしまうのは新しい習慣だ。

 何か塗られているかも……が、脅迫観念になってしまったみたい。

 鍵をあけて室内に入る。

 ここ一ヶ月ずっとそうなのだけど、部屋に誰かが居たような空気感があるのだ。

 パンプスを脱いで、明かりを点けながら三メートルほどの廊下を往く。

 突き当りと、左右の壁面にドア。

 正面のドアは、ダイニングキッチンと居間。

 左のドアは四畳半程の寝室。

 右のドアは二畳あるかないかの小部屋。私はトランクルームとして使っている。

 2LDKという部屋だけど、実質1LDK+倉庫という部屋の造りだった。

 寝室のクローゼットに洋服を納めて、ベッドの上に畳んで置いてある大きなYシャツ型の部屋着に着替えた。

 このYシャツをワンピースのスカート代わりに着ているのって、すごく楽なのだ。

 あられもない姿なので、人様にはお見せできないけど。

 まぁ、栄子がこの格好をすればエロいかもしれないけど、私じゃ……ね。

 腕まくりして、洗顔する。

 化粧を落とすと、やっと臨戦態勢が終わった気がするのは、私だけだろうか。

 タオルで顔を拭いながら、安物のプラスチックのコップに差してある歯ブラシを見る。

 朝出かける前に歯磨きをしている。時間は十二時間以上経過しているので、乾燥しているはず。

 手を伸ばして触る。

 やはり、ブラシ部分が湿っていた。

 さぁっと鳥肌が立ち、思わず歯ブラシを捨てそうになった。

 誰かが勝手に部屋に侵入し、私の歯ブラシを使用している映像を想像して、眩暈がするほど気持ち悪い。

 震える手で、ブラシをコップに戻した。

 私が侵入に気が付いていることを、悟られたくないと思ったのだ。

 休日前の浮かれた気分は霧散してしまった。

 自分でも意外だったのは、恐怖より怒りが勝るという私の心理。

 恐怖とは対象が未知であること。理解できないこと。


「こんちくしょう! ぜったい原因究明してやるからな!」


 実際に不法侵入されているにせよ、私の勘違いにせよ、事実関係を明らかにしてしまえば、恐怖は具体的な形をとる。

 そのうえで、ベストの対策を練ればいい。


「初任給の使い途が、防犯グッズとか、大丈夫か? 私……」


 歯磨きは、携帯しているトラベルセットの歯ブラシを使った。歯磨き粉も使う気にはなれないので、セットの歯磨き粉を使う。

 普段使いの歯ブラシは、水で湿らせただけ。

 タッパーに保存していたお惣菜は、全て捨てた。

 何か混入している危険性があるから。

 もったいないけど、パンも捨てる。ベーカリーで買った大好きなイギリスパンなのに!

 一連の奇妙な事柄が解決するまで、開封したことが分かる食品しか部屋に置かない事にする。


 戦いの昂揚感に包まれながら、翌日、私が向かったのは秋葉原だった。

 ネットで調べたら、CCDカメラとか、防犯グッズの専門店があったから。

 買うのは

 

 動体探知機付の小型CCDカメラ

 充電式の録画カメラ

 熊退治用のスプレー

 暗視スコープ


 といったラインナップ。けっこう高価な品々で、小遣いが全部飛び、貯金も切り崩す結果になってしまった。

 暗視スコープが高い。いい温泉旅館一泊できるくらいの値段だった。何やってんだろ、私。


 洗面台が見える角度で、動体探知機付の小型CCDカメラを仕掛ける。

 充電式の録画カメラは、磁石で郵便受けの内側面に貼りつけておく。

 熊退治用のスプレーは護身用に常に持ち歩くハンドバッグの中へ。

 暗視スコープはやはりハンドバックで持ち歩き、就寝時は枕元に置く事にした。

 年頃の女性としてどうなのか? と、思わないでもなかったけど、なんだか探偵ごっこみたいで、少しだけワクワクしている事に気づく。

 問題は、せっかくの連休前なのに、お財布が空っぽということで、仕方なしに母方の祖父母の家に一泊することにした。食事代浮くし。おばぁちゃん喜ぶし。おじいちゃんの料理はプロ並みだし。

 祖父母の家は、今は学生相手の寮になっていて、定年退職した祖父が広いお屋敷を女子寮に改装したものだ。

 私の母は、後・北条氏の北条早雲に仕えた郎党の末裔だそうで、信任厚かった証拠に『北条』の「ほうじょう」という読みを下賜され『方丈』という名前になったらしい。

 本当かどうか知らないけど。

 小田急線で湘南方面に向かう。

 休日というもともあり、カップルが多くて、なんだか複雑な気分。

「暗視スコープと熊スプレー持ってる女がここにいますよ!」

 と、甘い雰囲気をぶち壊してやりたくなる衝動に駆られる。ああ……彼氏があれば、この一連の事柄も相談できるのに。


 大型連休ということもあり、湘南海岸に近いその学生街は閑散としていた。

 洋館造りの祖父母の家が見えてくる。大学受験の時、入試前に泊めてもらった時以来だから、およそ四年ぶりだ。

 駅前の洋菓子屋さん『クーゲル・ブリッツ』で、おじいちゃんが大好きな『ゾンネ・クランツ』という、粉砂糖たっぷりのドーナツ状のケーキを買う。

 おじいちゃんがお気に入りにしている珈琲……『マンデリン』だっけ……と、よく合うのだ。

 ここにきての出費は痛いのだけど、宿泊料代わりと思えば格安だ。

 寮生用の大きなお風呂も使わせてもらえるし。

 電車の到着時間を伝えてあったので、祖父母は門の前に立って私を待ってくれていた。

 手を繋いで寄り添っていて、本当に仲が良いご夫婦だ。

 小柄なおばあちゃんは、おだんご状に髪を結い上げ、フリルのついたドレスシャツなんか着て、ニコニコと笑っていて可愛い。

 長身のおじいちゃんは、美髭をピンと跳ね上げるように整えていて、ふさふさした白髪ダックテイル風に後ろに流して、ストリングタイなんか締めてて、相変わらずダンディだ。

 すっぴん&普段着の私がなんだかみすぼらしく感じてしまう。

「冴ちゃん! ひさしぶりねぇ! まぁ、すっかり大人になっちゃって!」

 おばあちゃんとハグする。

 ふわりとクローブも香りがした。

 それで、この洋館にお香が焚き籠めてあるのを思い出す。とっても、良い匂い。

 この場所はなんだか安心する。包み込まれるような感じがする。

 だから急に涙腺が緩んでしまった。

「あらあら、まぁ……」

 おばあちゃんが、私を抱きしめたままポンポンと背中をさすってくれた。

 私がぐずった時、いつもこうしてあやしてくれたっけ。

 不可解な部屋の出来事が不安だったのだろう。張っていた気が緩んでしまった。

「大丈夫、大丈夫よ」

 おばあちゃんが歌うように、そう言っていた。


 結局私は、祖父母に事情を話さなかった。

 彼らも私に、根掘り葉掘り聞いてこなかった。

 確証を得るまでは、いたずらに平穏に暮らしている二人を煩わせる事は無いと思ったのだった。

 そのかわり、思いっきり甘えた。

 おじいちゃんが、定年退職後に調理師免許まで取って本格的に始めたフレンチに舌鼓を打ち、大きなお風呂にゆっくり浸かって、甘い甘いゾンネ・クランツと挽きたて淹れたての珈琲を飲み、夜遅くまで他愛のない話をした。

 気力が充電されるのを感じる。

 怪異 ――か、どうかはわからないけど―― に立ち向かう勇気が芽生えていた。


「いつでも、おいで」


 おじいちゃんがそう言って渡してくれたのは、お香。

 三角コーン型の丁子のお香だった。


「怖くなったら、これを焚きなさい。丁子ちょうじは邪気を払うのよ」


 ニコニコと笑いながらおばぁちゃんが言う。

 邪気云々の話はともかく、このクローブの香りはこの洋館を思い出して確かに気が落ち着く。

 よし、勇気が出た。仕掛けたカメラに何が映っているか、見てやろうじゃないの。



 都内のマンションに戻る。

 郵便ポストには、今回はチラシすらない。やっぱり不自然だった。

 ポスト内に仕掛けたカメラを回収した。

 四階に上がり、私の部屋のドアノブを見る。

 何も塗られていないのを確認して、開錠した。

 部屋は、たった一日空けただけで、なんだかかび臭い様な気がする。

 ハンドバックから熊除けスプレーを取り出し、トリガーノズルに指をかけ、さりげなくポケットに隠して部屋に入った。

 物置のドアを確認する。

 貼りつけてあった髪の毛は切れていない。

 寝室のドアと居間に向かうドアも確認する。

 ゾッとした。髪の毛が切れている。これはつまり、


 『誰かが侵入したことを示している』


 咄嗟に盗聴器や私が仕掛けたようなCCDカメラの可能性を考えた。

 今この瞬間、私も見られているかもしれない。

 戸棚を探るフリをしながら、さりげなく仕掛けたCCDカメラのUSBメモリを回収する。

 もう、この部屋に居たくなかった。

 何か忘れ物をした態を装い、玄関に向かう。

 恐怖と嫌悪で、吐きそうだった。

 震える手で、ドアノブを捻って外に出る。


 ―― カメラの中身を確認して、警察に行こう


 それしか考えられなかった。

 栄子の部屋に逃げるつもりで、廊下に出る。

 周囲がよく見えていなかったのか、私は誰かにぶつかった。

 思わず大きな悲鳴が上がる。

 ポケットの熊除けスプレーを取り出そうしたけど、どこかに引っかかって出せない。

 無理やり引っ張り出そうとすると、布が裂ける音が聞えた。

 この時、私はパニックになりかけていた。

 手を振り回して暴れる。

 その手が掴まれていた。


「嫌ぁ! 離して!」


 体が押されて、壁に押し付けられた。


「氷室さん! 氷室さん! どうしたんですか? しっかりしてください!」


 視界に入ってきたのは、隣室の山本さんだった。

 いつものダークスーツ姿ではなく、スラックスとポロシャツという姿で、ポロシャツの裾をたくし込んだ、昭和っぽいダサさ加減。振り回した手が当たったのか、ダサい黒縁の眼鏡が斜めにズレている。

 その時、私の意識はふっと遠くなっていた。



 気が付くと、栄子の部屋だった。

 紅茶の匂いがする。ベルガモットの香り。栄子は、アールグレイが好きなのだ。

「氷、替えましょうか?」

「いえ、大丈夫です」

 そんな会話が聞こえた。栄子の声と山本さんの声だった。

「熊除けのスプレーなんか持ってるなんて、どうしちゃんだろう、冴ったら」

「怯えていた様でした。起きたら事情を聴いてあげてください」

 山本さんが身じろぎする気配がする。

 栄子が山本さんを引き留めている。

「女性だけだと何か怖いので、もうしばらく居てくれませんか? それに左目もう少し冷やした方がいいですよ」

 山本さんが「困ったなぁ」などとつぶやいている。

「警察に連絡した方がいいでしょうか?」

 しばしの沈黙があった。

 渋々といった感じで、山本さんが口を開く。

「あまり外部には言わないのですが、ボクは警察官なんです」

 ええ! さえないサラリーマンだと思ったら、お巡りさんだったなんて。

「わぁ! なら安心! 心強い! 冴が目覚めるまで、居てください。お願いしますぅ」

 消防士とか警察官とか自衛官とか、制服系ガチムチ好きの栄子が即肉食モードに入っている。

 どうも、山本さんに怪我させたみたいで、気まずかったのでタヌキ寝入りしようと思っていたのだけど、起きないと貞操の危機だ。山本さんの。

 仕方なしにむくりと起きる。

 栄子が小さく「チッ」と舌打ちしたのが聞えた。

 アイスバックで左目をアイシングしている山本さんが見えた。

 そういえば、栄子は『ボクササイズ』とかいう、ボクシングっぽい動きのエクササイズをやっていて、一時期インストラクターの元・プロボクサーに入れ込んで、女子ボクシングまでやっていた。

 そのインストラクターが妻帯者とわかって、急にビクシング熱が冷めたのだけど、マウスピースとかボクシンググローブとか買い揃えていて、このピンク色の巾着型アイシングバッグもその時に購ったものだ。

「本当に、ごめんなさい」

 私は居住まいを正して、山本さんに頭を下げた。

「いえいえ、お気になさらず」

 と、相変わらず曖昧な笑みを浮かべて、山本さんが言う。

「誰か、私の部屋に入った形跡があって、怯えていたものですから」

 それを聞いて栄子の眉間に皺が寄る。彼女は美人なので、怒るとすごく怖い顔になる。しかも、『ピックアップ・アッパー』とかいうフィニッシュブローまで持ってるし。

 繁華街で酔っ払いに絡まれた時、栄子の掬い上げるようなアッパーがボディに食い込んで、酔っ払いが生まれたての仔馬みたいになっていたっけ。

 山本さんの表情が曇る。同情と義憤の表情。でも、やはりこの表情もツクリモノめいていて、役者さんの演技をみているかのようだった。

「今は部屋に戻りたくないから、栄子のパソコン貸して」

「いいけど、なんで?」

「郵便ポストと部屋にCCDカメラ仕掛けたの。これで、本当に侵入されたかどうか、わかるかと思って」

「よっしゃ! 変態野郎の顔を拝見しようか」

 シュッシュと栄子がシャドーボクシングをする。

 


 結局、山本さんは、栄子の部屋に残ることになった。

 もしも本当に侵入の形跡があったら、これはれっきとした事案発生であって、山本さんが警察に連絡してくれる手筈。

 私の様な小娘が電話するより、同じ警察官が連絡した方が話が通りやすいのではないか? という判断だった。

 パソコンを起動し、まずは、ポストに仕掛けた電池式のCCDカメラをパソコンに差し込む。

 説明書によると、これは動きを感知して起動するカメラで、連続運用時間は十時間。動きがなければ、節電モードになるので、私が藤沢にある祖父母に家に行っている間くらいは、ずっと作動しているはず。

 画像データを読み込む。

 荒い画面が映し出され、昨日の日付が黒い画面に映し出された。

 いきなり画面が動いたのは、お昼に近い時間。誰かがポストにチラシを入れたらしい。

 十五時頃にも、もう一度センサーが反応する。東京ガスの検針結果伝票だった。

 そして、次に動いたのは、夜十九時。

 ポストを誰かが覗き込んでいて。その後ナンバーロックを操作しているみたいだった。

 やがて、ポストが開けられた。栄子が思わず「うわぁ」と呻き声を上げる。

 山本さんの目がすぅっと細くなり、ちょっと怖い。

 何かプニプニしたクリームパンみたいな手がポストの中に入ってきて、中身を鷲掴みにして抜き出す。

 何か残っていないか? と、ポストの中を覗き込む映像が残されていた。

 ボサボサの髪。むくんだ赤ら顔。不恰好に大きな鼻。どこかで見たことがある顔だ。

 

 続いて、洗面台を捉える形でセットしたCCDカメラのUSBメモリをパソコンに差し込む。

 こっちは、電池式ではなく電源を接続するタイプなので、メモリが尽きるまで延々と録画をする形式。

 動体探知機があるので、本来は野生動物などの記録観察に使われるカメラだ。

 私が出かける日時が画面の端に表示され、静止画面になる。

 動きがあったのは、ポストを浚われた十九時から十五分後。

 動体を探知して、カメラが動き出したらしい。

 私のお気に入りのクマのスリッパを履いて、慣れた様子でポストの男と同一人物が洗面所に入ってきたのだった。

 ぼさぼさの不潔な髪。小太りで、なぜか染みだらけのポロシャツを着ている。

 茶色のカーゴパンツはずり落ちるのか、何度も上に引き上げている。

 こっちは、ポストのカメラと違って、指向性マイクによって音声が拾われる。上機嫌な小太りの男の鼻歌が録音されていた。

 男は、私の歯ブラシを手に取り、うっとりと眼を閉じてそれを咥える。

「おえ」

 私と栄子が同時にえずく。

 山本さんは無表情のまま、画像を見ていた。

 その眼には、嫌悪も怒りもない。完全に観察者の視線だった。

 人畜無害に見えて、山本さんは案外ドSなのかも。ますます、栄子の好みだ。

「人物特定しました。ここのオーナーの小宮さんの息子さんですよ」

 微苦笑を浮かべて、山本さんが言う。

 一番無難な表情だ。やっぱり、計算して表情を作っているような気がしてならない。なんだか怖い。

「もはや、れっきとした犯罪です。タレ……ええと、被害届を作りましょう。このメモリは証拠として、我々が預かります。あと、スプレーですが、『正当な理由がなくて刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者』という扱いにされる可能性がありますので、ご注意ください。まぁ、女性は護身用として認められる場合がありますし、今回は事情が事情ですからね」

 そんな事を言って、山本さんが肩をすくめた。

 日本人らしくない身振りだった。これはちょっと可愛い。

「私はこれからどうしたらいいですか?」

「ここの所轄は新宿署なので、そこに向かってください。生活安全課で被害届を作成して、事件化します。連絡をいれておきます。私は、小宮さんに任意同行を求めて、場合によってはキンタイ……ええと、緊急逮捕します。安全な所まで、私がお送りします。お手数をおかけしますが、栄子さん、彼女に付き添いをお願いできますか?」


 脚が震えるので、結局タクシーを呼ぶことになった。

 ストーカー被害に遭うなんて、TVドラマや映画の中の世界だけかと思っていたけど、こうした陥穽は日常の脇にぽっかりと口をあけているのだ。

「冴、普段はぼ~っとしているくせに、案外鋭い時があるのよね」

 栄子が感心している。

 『案外』は余計だけど、私は違和感に関して子供の頃から人並み以上に敏感なのだった。

 もしも「間違い探し」が競技化され大会があったのなら、私は多分優勝する。

 それくらいしか役に立たない特技だったけど、今回は私の命を救ったのかもしれない。

 新宿署では、女性警察官が待っていてくれていて、被害届の作成を手伝ってくれた。

 その女性警察官の話では、小宮は任意同行を求めた山本さんに抵抗し、暴力を振るおうとして暴行の現行犯逮捕されたらしい。

「山本さんは、ご無事だったんですか?」

 栄子が心配顔をその女性警察官に聞く。

「さぁ? 大丈夫なんじゃないですか?」

 親切だった女性警察官が、急にそっけない態度になる。

 山本さんてば、嫌われているのかと思ったけど、違う。これは、むしろ『恐怖』に近い反応。

 この人は、山本さんを怖がっている。


 ああ……どうしよう……私、山本さんに好奇心を刺激されている……


 まったく、犯罪に巻き込まれたばかりだというのに、どうかしている。


 引っ越しの準備をする。

 こんな事があった以上、もうこのマンションには住めない。

 栄子も引っ越しの準備をしていて、二人でルームシェア出来る物件を探す予定だ。

 マンションの大家さんは平誤りで、敷金は全額返してくれたけど、これ会社の寮代わりに借り受けてる部屋なので、私に還元されるわけではないし。

 小田急線、京王線、埼京線、田園都市線は、めちゃ混みという噂なので、半蔵門線の下町エリアに絞って部屋を探す。

 そのニュースが入ってきたのは、そんな時だった。



 マンションのオーナーの小宮さんの息子、合鍵を使って私の部屋に侵入を繰り返していた変態野郎が、自殺したというのだ。

 親が都内の一等地にマンションを一棟持っているだけあって、小宮家は資産家。いい弁護士を雇って『逃走及び罪証隠滅』の心配がないとして、保釈金も積み拘置所に収監されるのを防いだそうなのだけど、近所の公園で首を吊ったそうだ。

 こんな事あって、「早々に引っ越そう」という事になり、多少希望の条件を満たさないが、東京スカイツリーにが近いエリアに一室を見つけ、引っ越しの準備を急ピッチで進める。

 私は、小宮が箪笥から出して匂いを嗅いだり頭にかぶったりした下着類とか、再び使う気にならず、家具類も小宮の情念がこびりついているような気がして、全部処分するつもり。だから、引っ越しの準備は楽だ。

 栄子がもたもたしているのが、遅延の原因。

 とっくに辞めたボクササイズの道具をとってあることからも判る様に、彼女は『捨てられない子』で、荷物がやたらに多い。

 私は一度だけキャンプで使った寝袋で、栄子の片付け待ちで何もないガランとした部屋で眠る毎日。


 夜中にふと目が醒めた。

 ストーキングされていた恐怖は、皮肉なことに小宮の死でようやく収っており、不眠症も解消しつつあったのだが、久しぶりに、寝苦しくて飛び起きてしまった。

 どっどっど……と、心臓が鳴っている。

 あの日以来、枕元(といっても、寝袋と折りたたんだバスタオルだけど)に置くようになった、暗視スコープをひっつかむ。

 電源を入れて、サイトを覗いた。

 緑色の視界。僅かな光で、まるで昼間のように明るく見える優れものだった。さすが高級温泉旅館一泊分と同等の価格。

 暗視スコープを、ゆっくりと旋回させて、部屋を走査する。


 ―― 誰かがいる


 そんな強迫観念があった。

 懐中電灯を点けないのは、私が起きたと悟らせないため。

 栄子は「考えすぎ」と私の事を笑ったけど、いつの間にか部屋に侵入されていたという恐怖は体験してみないとわからない。

 熊除けスプレーを握る。

 それを、慌てて取り落しそうになった。

 四つん這いになった男が見えたのだ。

 悲鳴をかみ殺す。

 向こうは私を視認できないのか、じりじりと這いながら接近してくる。

 妙に手足が細くて長くて、虫じみた動き。

 でも、胴体は小太りの男性のもので、ボサボサの蓬髪。

 そう、コイツは自殺した小宮に似ている。

 歯並びの悪い口を大きく開き、妙に長い舌をチロチロと動かしてる。

 悪夢を見ているのかと思ったが、多分現実だ。


 ――玄関まで逃げないと……


 これが、何という現象なのか、究明するのは後だ。

 とにかく逃げる。

 そろそろと寝袋のジッパーを下ろす。

 その微かな音を聞きつけて、小宮のような何かがゆっくりと左右に首を振り音源を確かめている。

 枕元を探る。

 目覚まし時計が指に触れた。

 ピラミッド型のダサいデザインの目覚まし時計。

 頂点がスイッチになっていて、それを押すと音声で時間を読みあげてくれる機能がある。

 押してから音声までのタイムラグは、〇.五秒くらい。

 スイッチを押しながら投げれば、注意を引けるかもしれない。

 ゆっくりと、ピラミッド型目覚まし時計を持ち上げる。

 親指でスイッチを押して、部屋の隅にそれを投げる。


「只今ノ時刻ハ、午前二時四十分デス」


 宙を舞う合成音声に、『小宮のような何か』が反応した。

 鈍そうな外見のわりに、俊敏な動きで目覚まし時計を追う。

 私は、その間に一気にジッパーを下ろし、玄関へと走る。


「あ、あ、あ、あ、あ、あ……」


 そんな、苛立った様な、歌うような声が背後に迫る。

 もう我慢ができなくなって、悲鳴が上がった。

 暗視スコープを目に、ドアに背を付け握りしめていた熊除けスプレーのノズルに力を込める。

 だけど、それはビクとも動かない。


 『あ、あ、安全装置!』


 ノズルから指を離して、安全装置を弾く。

 ポキンとネイルサロンで入れたばかりの付け爪が折れた。

 

 『こんちくしょう、高かったのに!』


 こんなことで、闘志が湧く。

 熊除けスプレーを構えた。

 暗視スコープの緑色の視界のなかで、『小宮のような何か』が不自然に細長い手足をしゃかしゃかと動かして私に迫ってきていた。


「キモいんだよ! てめぇ!」


 普段の私からは想像も出来ない罵声が上がる。

 その時失念していたことがある。

 このスプレーだけど、「狭いところで使用しないでください」ってこと。

 刺激臭が充満し、『小宮のような何か』と私は同時に悶絶したのだった。

 ゲホゲホと咽ながら、玄関ドアを開けて共用廊下に転がり出る。

 例によって、大きめのYシャツを着ただけのあられもない姿なのだけれど、なりふり構っていられない。


「やっぱりね」


 涙で視界が閉ざされてしまっているけど、山本さんの声だと分かった。


「助け……」


 咳で声が出ない。思わず山本さんにしがみつく。

 ガシっと、彼に抱きかかえられた。

 細身に見えたけど、服の上からでもすごい筋肉なのがわかった。


「大きな音が出ます。耳を塞いでください」


 カチっという金属音。

 機械のグリースの臭い。

 私は、山本さんの胸に左耳を押し付け、スプレーを取り落した右手で右耳を覆う。

 

 ―― 何? 何? 何が起きているの?


 それは、まるで大きな和太鼓を叩くような音だった。

 山本さんの全身の筋肉が震え、何かが燃焼する臭いがした。

 間髪を入れず、もう一度、更にもう一度、太鼓の音がする。


「出ましたよ、姫様」


 そんなことを山本さんが言う。

 ゴツいブーツが地面を踏みしめる音。


「よくやった山本。だが『姫様』はやめろ」


 ふわっと、松脂のような柑橘のようないい香りがした。

 山本さんは、誰としゃべっているのか分からないけど、私たちと話している時と明らかに声のトーンが違う。

 なんとなく理解した。彼はその声の主に好意を抱いている。

 ああ、あの物事に無関心っぽい山本さんを魅了する女性ってどんな人?

 見たいのに眼が開けられない。

 それにしても、いい男って、なんでいつも売却済みなのかしらね。

 眼をつぶっていても、すごい光が迸ったのが分かった。

 それきり、『小宮のような何か』の気配が消える。


「この現場、どうするんです?」

「斎藤に丸投げ」

「それもそうですね」


 松脂のような柑橘のようないい香りがする女性は、ブーツの音を響かせてエレベーターに消える。

 その背中を山本さんが見ているのが気配でわかった。

「無事でよかったですね」

 山本さんが、私をお姫様抱っこしてくれた。

 そのまま栄子の部屋に運んでくれたのだけど、正体不明の『姫様』との会話を聞いた後では、なんだが棒読みのセリフと、単なる輸送手段にしか思えなかった。


 一泊の検査入院から帰ると、もう山本さんはマンションを引き払っていた。

 私は、東京下町で栄子とルームシェアを始めた。

 山本さんの名前で引っ越し祝いが届いたのだけど、それはみかん味のフワサクしたお菓子で、ゲロ不味な代物だった。

 何なの、これ?



==『不在中に誰かが部屋に侵入している件について』 (了)==

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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