08.開いていく距離(2)
真っ直ぐに通路が伸びていた。二階には調理室や自習をするための部屋があり、左側にずらりと木の扉が並んでいる。
フェイヴァは追い立てられるように走って逃げた。通路のなかほどまで進むと、壁に寄りかかる。
『あなたと話したくないんです! もう私に、構わないでくださいっ!』
何てことを言ってしまったのだろう。よりにもよって、レイゲンにあんなに辛辣な言葉を。
『お前が何者でも、それによってお前の価値が貶められることはない。自分を卑下するな。お前は何も悪くない』
暗闇の中。打ちひしがれていた自分に、手を差し伸べてくれた。
『旨い。いつも悪いな』
菓子を食べて、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いて。
『……俺に、話を……聞かせてくれないか』
一生懸命に言葉を選んで、真剣な眼差しでそう口にしてくれた。
レイゲンは、人間でないフェイヴァを受け入れて、友達になってくれたのだ。優しい言葉をたくさんかけてくれた。助けてくれた。慰めてくれた。生まれて初めてできた、大切な人なのに。
(……レイゲンさんに、嫌われちゃう……!)
咄嗟に浮かんできた思いを、頭の中で反芻する。理解して、自嘲がもれた。嫌われるだなんて思い上がりもいいところだ。
切れ長の瞳といつも冷淡な表情を崩さない顔は、氷のような雰囲気を醸し出している。けれどもその容貌に反して、彼は優しい人だった。きっと、彼自身が思っているよりも。
だから、フェイヴァを人間として見てくれた。親切にしてくれたのは、人以上に力を持つ死天使であるフェイヴァに、おそらくは自分を重ねたからだ。戦い方を教えてくれたのだって、反帝国組織の命令だろう。リボンをプレゼントしてくれたのも、フェイヴァが菓子を作って何度も彼に渡したから、そのお返しだ。深い意味はない。
レイゲンに好ましい感情を抱かれていると考えるなんて。自惚れがすぎる。
(……だってレイゲンさんは……ユニのことが好きなんだもん……)
二人はれっきとした人間だ。祝福されて生まれてきた、幸せになるべき人たちだ。機械であるフェイヴァとは違う。
(だから……これでいいんだ……)
涙が流れて頬を濡らす。
いつまで泣いていればいいんだろう。いつまで、こんな生活が続くのだろう。早くこんな――痛くて苦しいだけの思いは捨ててしまわなければ。
唇が震え、嗚咽がもれる。支えにした石壁と同じように、心が冷えきっていた。
向かいから声が聞こえてきて、フェイヴァは顔を上げた。男子の集団が喋りながら、階段を上がってくる。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を見せるわけにはいかない。フェイヴァは立ち上がると、手近な扉を開けて飛び込んだ。
瞬間、顔の横を何かが通り過ぎた。それは扉に当たり、軽い音を響かせる。筆だった。
「……なんだ、あんたか。どたばたしながら入ってきたから、変な奴かと思ったよ」
部屋の中にはハイネがいた。彼女は顔の横に上げていた手を下ろした。左手には汚れたパレットを持っている。
窓際には三脚が置かれていて、その上にキャンバスが立て掛けてある。彼女の足下には木製の椅子が一脚。その傍らには水が張られたバケツ。色とりどりの顔料が入った器が、台に並べられている。
フェイヴァは急いで目元を拭った。扉の取っ手を握る。
「じゃ、邪魔してごめんね! すぐ出ていくから」
「出ていきたいなら、そうすれば」
ハイネは歩み寄ってきて、フェイヴァの足下に転がっていた筆を手に取った。
「この筆の先で、目を突かれてもいいんならね」
ハイネは指で器用に筆を回すと、筆の尻をフェイヴァの顔に向けた。表情には鬼気迫るものがある。彼女は本気だ。
「……わ、わかった。ここにいる……」
「よろしい」
ハイネはキャンバスのそばに戻ると、バケツに張った水に筆を浸して洗った。台の上の顔料を数色パレットに取って、絵を着色していく。
フェイヴァは涙が止まるまで扉の前で待った。少し落ち着くと、ハイネが座る窓際に近づいていく。
「……綺麗な絵だね……」
キャンバスには、一面に広がる花畑と青空が描かれていた。しっかりとした色彩で着色されており、雲一つない快晴と淡い花の色合いは、溜息がもれるほど鮮やかだ。薄緑色の葉を繁らせた花々は、星の形をしている。フェイヴァはこの花の名前を知っていた。テレサと一緒に暮らしていた頃、植物図鑑を開いて見せてくれたことがある。
「これ……フェイヴァの花、だよね?」
「そうだよ。わたしたちが暮らしてた施設の近くに生えてたから。わたしも好きだし、アーティも好きなんだ、この花」
「これ、アーティちゃんに送るの?」
「アーティにはもう、似たような絵を昔描いてるんだよ。練習用だから、これは」
眩しく感じられるほどの深い碧と、花の柔らかい桃色は、どんな困難にも立ち向かっていけそうな、前向きな明るさを感じさせる。
ルカと一緒にいる時以外は、冷めた態度を崩さないハイネ。彼女がこんな絵を描くなんて驚きだった。きっと絵だけを見せられたら、フェイヴァはハイネが描いたなんて想像がつかなかっただろう。
「あのさ、ぼーっと突っ立ってないで座りなよ。後ろに立たれるの好きじゃないんだよね」
「あ……うん」
部屋の東側には机や椅子が積まれている。フェイヴァはその中から小さな椅子を引っ張り出すと、ハイネのそばに歩いて行った。
完成したのか、ハイネはバケツで筆とパレットを洗い始めた。
「あんたさ、最近なんなの? 急に周りと距離おいて。理由も話さずそういうことされると気持ち悪いんだけど」
顔をフェイヴァに向けぬまま、ハイネが問う。バケツの中身が揺らぎ水音を鳴らす。
「……なら、放っておいてよ。私は今、誰ともあんまり喋りたくないんだ」
パレットの水気を切って、台に置いていた布で拭く。
「何があったか当ててやろうか。ユニに言われたんでしょ? レイゲンと口きくなとか」
事も無げに言い当てたハイネに、フェイヴァは目を見張った。指先が動揺に震える。
「そ、そんなこと……」
「あんたの様子が明らかにおかしくなったの、五日前にユニを見舞いに行った後だったから。ユニがレイゲンに惚れてるのは周知の事実だし。あいつがあんたのこと、苦々しく思ってただろうってのは、察しがつく。……その顔つきじゃ、嘘なんてつけないよ」
ハイネから目を背ける。フェイヴァはそうとは認めていない。だが、うろたえればうろたえるだけ、ハイネの予想を裏づけるのだ。
ハイネは台に筆とパレットを置くと、立ち上がった。
「あいつの頬、二三発叩いてきてやる」
扉に向かおうとするハイネを、フェイヴァは椅子から飛び上がって止めた。
「やめて! ユニは今、ミルラが亡くなって深く傷ついてるんだよ! 悲しくて辛くて、自分の気持ちだってわかんなくなっちゃってるんだよ!」
「親友が死んだ。そりゃあ辛いね。好きなだけ泣けばいい。……けどね。悲しいからって、他人に無茶な要求をしていい理由にはならないんだよ」
「や……やめてよ。そんなこと言わないで!」
ハイネは冷たすぎる。彼女の腕を掴んで、フェイヴァは引っ張った。彼女は手を払うこともせず、灰色がかった緑の瞳でフェイヴァを見下ろしている。怒りよりも呆れの色が強く出た表情だった。
「……それに、私が悪いんだよ。ユニ、レイゲンさんが好きだって言ってたのに。私、知ってたのに。レイゲンさんと親しくしてた。ユニのこと、ずっと傷つけてきたんだ……」
フェイヴァは足下に落ちる影に顔を向けたまま、口にする。フェイヴァの言い分を遮ることなくしっかりと聞いたハイネは、長々と溜息を落とした。心なしか、苛立ち混じりの。
「……フェイヴァ」
頬を両手で押さえられ、無理矢理ハイネに顔を向けさせられる。
「この、大馬鹿者がっ!」
「あうっ!?」
額に頭突きを食らわせられて、フェイヴァは悲鳴とも呻きともつかない声をあげた。衝撃に頭がぐらぐらと揺れる。一瞬、眼前で星が瞬いた。
「ほんっとーにどうしようもない奴だな!
また他人に都合よく振る舞うつもりだね! あんた、操り人形なの!? 自分の足で歩くつもりがないなら、そんな下らない人生さっさと捨てろっ! どうして相手に強く出ないの? 滅茶苦茶な要求を、どうして当たり前に受け入れるの!?」
まるでハイネ自身の尊厳が傷ついたとでも言うような、激烈な語気だった。彼女はまくし立てた後、フェイヴァを椅子に押しつけた。
フェイヴァはされるがまま、抵抗しなかった。
(……操り人形か……)
ハイネの言う通りだ。けれども他に、フェイヴァが取れる道があっただろうか。
「……ハイネには、わからないよ……」
フェイヴァは機械人形なのだ。創造主に逆らうことは許されない。そうとしか考えられない。虚無感が身にのしかかり、頭を上げているのも辛い。何もかもが嫌になってしまいそうで、脱力しうなだれる。
ハイネはそれ以上言い連ねることなく、胸を張って腰に手を当てていた。床をしっかりと踏み締めた両足からは、彼女の不満や怒りが伝わってくる。
「……わたしたちのような人間は、自分自身を簡単に認めてやることができない。自分がこの世に生きていていい、尊い存在だということを信じることができない。わたしだって、ルカやアーティに出会わなければ、あんたとそう違わない考え方に囚われ続けていたかもね。これを依存だと呼びたければ好きにすればいい。
……けどね、あんたみたいに私は駄目でつまんない奴だって、自分で自分を追い詰める生き方よりましだよ。卑屈に構えていたってしょうがないじゃないか。どんなに自分が嫌いでも、信じることができなくても、わたしたちはわたしたちのまま、生きていくしかないんだよ。やっと掴んだ人生なのに、ずっと他人に遠慮して生きていくの?」
フェイヴァは何も言わず、ハイネを見上げた。彼女は人間なのに、フェイヴァの立場になって親身に声をかけてくれる。ハイネにとってはフェイヴァの生き方が、同じ人間として許容できないのだろう。それとも、心の深い場所で共感できるから、放っておけないのだろうか。
フェイヴァの中にはかつて、普通の人間のように生きたいという願望があった。フェイヴァは通常の死天使と違い、人間を殺害していない。殺戮を当然と考えているわけでもない。テレサやハイネの言う通り、普通の人間と同じように生きていくことが許されるはずなのだ。フェイヴァは潜在意識では、それを理解していた。
(……でも……そんなことはできないよ……)
生み出されたその時から、フェイヴァは化物と蔑まれてきた。自分がたったひとりの存在であるという自信を培うことができたはずの平穏な時間は、一時で取り上げられた。この身に浴びせられた暴言と暴力。現実を理解し、ささやかな願いを抱くことすらおこがましいのだと、思い知らされた。それ以来ずっと、自分の正体を暴かれることを恐れて生きている。
生きる権利を主張し、意見を押し通す。そんな人間の生き方をしている自分を想像しただけで、気後れしてしまう。
レイゲンのような心優しい者たちの励ましは、生きるための根を張り続ける活力になり得るが、自尊心を花開かせる太陽にはなり得ない。
(……私、どうやって生きていけばいいんだろう……)
胸には穴が空いている。誰しもが大なり小なり自分に抱く自信。それは残滓さえなく、すっぽりと抜け落ちている。虚しい音が鳴り続けていた。
***
数日が過ぎた。
長机の隅にトレイを置いて、フェイヴァはぼんやりと昼食を取っていた。
落ち込むフェイヴァを励まそうと、最初の頃はともに食事を囲んでくれた心優しい女子たちは、フェイヴァが進んでひとりですごすようになると、次々と去って行った。サフィやルカも一緒に食べないかと誘ってくれたが、無理に笑ったり会話をするのが辛くて、丁寧に断った。フェイヴァは今日も今日とて、ひとりで根菜炒めを口に運んでいる。
(……あんまり美味しくない……)
三人で集まって、たわいのない話をしながら料理を食べる。あんなにも賑やかで楽しかった食事は、一人になると味気なかった。
「おい」
不機嫌さを隠しもしない声がかけられて、フェイヴァは隣を見た。夕日色の髪をうなじでまとめた、小柄な少年がフェイヴァを睨めつけている。リヴェンだった。
「どけや。そこは俺の特等席なんだよ」
窓から練習場を望められる位置にある、この長机の端は、リヴェンがいつも利用しているらしい。道理で、フェイヴァの周りに座ろうとする者がいないはずだ。近くの席について、リヴェンに絡まれるのが嫌なのだろう。――今のフェイヴァのように。
「……あ、ごめんね……」
フェイヴァは席を立ったが、周囲の長机は既に占領されている。和気藹々とした集団の中に入れてもらうのは抵抗があった。仕方ないから隣にひとつずれる。
リヴェンは今までフェイヴァが座っていた席に乱暴に腰を落とした。トレイを机に載せて、食前の祈りも捧げずに食べ始める。話しかけてこない彼にほっとして、フェイヴァはパンを千切って食べた。互いに無言で料理を食べる。
「なんだテメェ。苔が生えそうな顔しやがって。気持ち悪ぃんだよ」
ふとした拍子にフェイヴァの顔を目にしたのか、リヴェンが毒づいた。フェイヴァの頭は遅れてリヴェンの暴言を受け止める。
「……うん。ごめんね……」
「ああああっ! うっぜぇ! そんなに気が滅入ってんなら自殺しろ! 窓割って飛び降りろクソボケ!」
初めてリヴェンの暴言を耳にした時は驚き傷ついた。今だってフェイヴァが平常な精神状態だったなら、ちくりと痛みを覚えたかもしれない。
がらんどうになった心中に、言葉の刃は突き刺さりもせず通りすぎていく。
考えてみると、リヴェンは誰に対しても態度を変えない。裏表がないのだ。その分、他の人よりは安心してつきあえるような気がした。彼の口から発される“死ね”は、常人の“いい天気だね”と同義だと思い込めば。
「……今日も元気だね、リヴェンは」
「ハッ! テメェも他の奴もどうかしてんだよ。人が死んだくらいでいつまでもウジウジしてんじゃねぇ。要は自分が寂しいから陰気な顔してんだろうが。テメェを憐れんでるだけだろ」
人が死んだくらい、という言い草に憤りを抱いたが、その後に続いた言葉を耳にして、フェイヴァは固まった。
(……自分を憐れんでる……)
リヴェンの言い分には、一理あるのかもしれない。
もしもフェイヴァが遠征の犠牲者のひとりだったなら、いつまでも自分のことを引きずらずに、早く元気になってほしいと思う。
テレサ以外に、自分が壊れたくらいで悲しんでくれる人がいるか疑問だったが、フェイヴァを友達扱いしてくれる人たちは優しいから。
ミルラだってきっと、フェイヴァと同じ気持ちだろう。
生者は、親しい者たちの死から立ち直れないだけなのだ。前を向けずにいるのは、育んできた思い出が心を縛りつけるから。
暗い顔をして、地面を見続けていてはいけない。ミルラのことを綺麗さっぱり忘れろということではない。悼む気持ちを抱いたまま、立ち上がることだってできるはずなのだ。
(気を紛らわせられること、何かないかな……)
大きな悲しみや苦しみを、目の届かないところに追いやれる、何か。フェイヴァはすっかり鈍くなってしまった頭で、思考を巡らせる。そう言えば、戦闘訓練で思い切り身体を動かしている時は集中しているためか、感情は胸の奥に仕舞い込まれる。気持ちもほんの少しだけ、楽になっているような気がする。
「……ねえ、リヴェン。つきあってほしいんだけど」
「あん?」
リヴェンがフォークを手放して、器とぶつかり甲高い音を鳴らす。少し椅子をずらすと、彼はフェイヴァの頭から爪先までをしげしげと眺めた。そうしておもむろに、胸に視線を移す。
「そんなに色気のねぇ身体つきで、よく俺につきあってほしいなんて言えるな? ……まあ、テメェが俺の言うことに従うなら、愛人その五にしてやるよ」
「……何の話? この後暇なら、訓練室で手合わせしてもらいたいんだけど……」
リヴェンは気色ばんだ。頬がさっと朱に染まり、席から立つ。
「紛らわしいこと抜かすんじゃねぇ!」
長机を蹴り上げる。机がひっくり返りそうになり、フェイヴァは料理に覆い被さって貴重な食料の落下を防止する。
(……なんで怒ってるんだろう……?)




