11.魔の因子(2)◆
サフィにはずっと、目標にしている人物がいた。
サフィたち家族が、ファンダス王国からグラード王国に移って間もない頃の出来事である。
当時、両親にお使いを頼まれ、サフィはひとり商業区に向かった。そして運悪く、魔獣の襲撃に鉢合わせしてしまったのだ。防壁を跳び越え入り込んできたのは、三匹の【酩酊する刃】だった。当時のサフィは図鑑や資料などでしか魔獣の姿を見たことがなく、その醜悪な外見と身の毛がよだつような鳴き声に、腰を抜かしてしまったのだ。
一匹の猿がサフィに狙いを定め、跳躍した。振り被られた鎌の鋭利な光をはっきりと捉える。幼い身ながら死を覚悟した──そんなサフィを助けてくれたのが、守衛士の青年だった。彼はアンダニムを大剣で薙ぎ払うと、隙をついてサフィを抱え上げた。その場を仲間に任せ、サフィを安全な場所まで連れて行ってくれたのだ。
命の恩人である彼の顔は、五年が経過した今でもはっきりと思い出すことができる。泣きながら礼を言ったサフィの頭を軽く撫でて、照れ臭そうに、けれども誇らしげな表情をして去って行った彼。その背中は、幼いサフィの目に輝いて映ったのだ。
サフィは彼に憧れて守衛士を志した。
『何を考えているんだサフィ! お前には無理だ、諦めろ!』
父は自分の研究をサフィに引き継がせたかったらしく、猛反対した。母もサフィの心根の弱さを知っているためか、首を縦に振ってくれることはなかった。再三の説得も実を結ばず、サフィは国を出たのだ。それまで両親に従順に振る舞ってきたサフィの、最初で最後の反抗だった。
絶対に夢を叶えてみせる──意気揚々と試験を受け合格したはいいが、教官から課される鍛練は、自分の認識の甘さを痛感させられるものだった。
男子のほとんどは、苦もなく訓練についていける。けれども、自分はそうではなかった。技術がなく、体力が続かない。月日が経過し少しは鍛えられたが、それでも自分と実技成績上位者たちとの間には、雲泥とした実力差があった。
(僕はあれから、少しでも成長できたのかな)
【三頭の黄昏】の圧迫感に臆する今の自分は、アンダニムを見て腰を抜かした幼い頃と、何ら変わっていないような気がした。
軽快に刃を振るう猿に、サフィは応戦した。全力疾走し嘔吐したあとの刃は手に重い。首を斬ることには成功したが、絶つには至らなかった。結局五匹のアンダニムはリヴェンの手で屠られた。
激しい振動が足下を揺らす。リヴェンが舌打ちした。彼の見ている方角にサフィも顔を向ける。
赤茶色の体毛に月明かりを受けて、シャマイザが宙に浮いていた。正面にそびえる建物を跳び越え、石畳に四肢を踏み締める。着地と同時に発生した衝撃は、サフィたちの身体が浮き上がるほど強烈だった。両足を踏み締めて堪えたリヴェンとは反対に、サフィは尻餅をついた。
犬といっても、他の魔獣の例に漏れず、醜怪な外見をしている。三つの頭が、三角形でいう角の位置に生えており、突き出した鼻面は血で汚れている。三対の目が、薄明かりの中で赤く発光していた。本来首があるべき場所には巨大な口が存在している。牙にびっしりと覆われたそれが開くと、槍の穂先のような鋭く太い舌が跳び出した。背中には五本の触手がうねり、のたうっている。
(化物……)
ぶわっと、全身が総毛立つほどの怖気。音を鳴らす奥歯を噛み締めて、なんとか悲鳴を堪えた。
サフィが足を引っ張ったせいで、アンダニムを倒すのに時間がかかってしまった。銃声でなくとも、刃が風を切る音を聞きつけたのだろう。
「あんなでかいのを相手にしてられっか。行くぞ」
リヴェンが犬に背を向ける。サフィの腕を掴み路地に引く──と、何を思ったのか振り返らずにサフィを蹴り倒した。それと違わず、リヴェン自身も倒れ込む。
サフィたちを狙って振るわれた触手が、前方の家々を薙ぎ払ったのだ。体勢を立て直したリヴェンは、崩れ落ちてきた瓦礫を避けた。叩きつけられ砕けた破片が、サフィの顔を掠める。
細い路地に逃げ込めば巨体は追ってこれない。目論見は崩れた。退路が塞がれてしまったのだ。
「クソが」
「くっ……!」
サフィは歯を噛み締め、散弾銃を抜いた。肩に担ぎ引き金を引く。百粒の散弾は巨体にとって、針で刺された程度の傷にしかならない。拡散した散弾は顔面に突き刺さるが、すぐに放り出され傷口は塞がり始める。
サフィは小袋から、八粒の散弾が入った弾薬を取り出した。排莢し装填する。百粒弾の大きさが小指の先ほどだとすると、八粒弾は親指の第一間接までの大きさだ。弾が大きい分貫通力も高い。
引き金を引こうとした矢先に触手が振るわれて、サフィの身体は吹き飛んだ。壁に強か背中を打ちつけ、崩落ちる。激痛に激しく咳き込んだ。
「サフィ!」
リヴェンの怒鳴り声が、自分を呼んだ。彼は側に駆け寄ってきて、シャマイザを見上げた。
サフィは散弾銃を探したが、吹き飛ばされた拍子に遠くに飛ばされてしまっていた。手を伸ばそうとして、握り締める。
息を吸い込んだ途端に胸が傷んだが、構わず声を絞り出す。
「リヴェン……ここから逃げるんだ」
「るせえ、俺に指図すんな」
「ここにいたら、君も死ぬことになるんだ。早く……」
犬は牙の間から舌を出した。滑りを帯びたそれは、サフィの身体より大きい。切っ先を向けるようにして、サフィに狙いを定めた。
「……面倒臭え。もう限界だ。ザコの力に合わせるのはよ」
リヴェンの声が聞こえたのと、犬が舌を突き出すのは同時だった。弾丸のような勢いで突き出された舌は、途中でその速度を殺される。白刃が走り、千切れた先端が宙を飛んだ。斬り離された舌は、腹を見せてもがく芋虫のように地をのたうった。
サフィは見た。シャマイザが舌を勢いよく伸ばした瞬間に、その体表に黄緑色の光がまとったのだ。草原に日の光が差したがごとき光は、瞬く間に消える。犬の動作に異変が起こっていた。千切れた舌が口の中に戻るまでが、恐ろしく遅い。
(……この能力は確か)
風の覚醒者能力。雨雲から落雷を引き起こすように雷撃を発生させたり、風のような敏捷さを自身に付加したり、反対に相手の動作を緩慢にすることもできる。
「リヴェン……」
大剣を構えたリヴェンの全身が、黄緑色の光の瞬きに覆われる。それは一瞬にして消失した。彼が地を足で蹴ったと思った矢先、サフィの視界から消える。
(──え?)
姿を掻き消したリヴェンを探して、サフィは顔を巡らす。彼は犬に接近していた。速すぎてその動作を捉えることができない。鋭い光が視界をよぎり、触手の一本が斬り落とされた。遅れて、彼が刃を振り抜いたのだと理解する。
シャマイザが三つの頭を突き出すが、遅々とした動作ではリヴェンを捕まえることができない。三つの頭は石畳に噛みついて石を砕いただけだった。
巨大な口が吠える。再生した舌が伸びるが、犬もリヴェンを捉えきれないのだろう。狙いを定めきれずに滅茶苦茶に振るわれた。サフィの瞳は、リヴェンの軽鎧の色だけを捉えていた。残像を残して移動するリヴェンに、舌は掠りもしない。そうこうしている間に、犬の身体が前に傾いだ。右前足の肉が引き裂かれ、砕かれた骨が露出している。犬は怯えを思わせる声で鳴いた。
身のこなしは正に電光石火。刃は光の瞬きとなり肉を裂く。動作速度が低下したシャマイザは、リヴェンの敵ではなかった。
刃を振り上げた瞬間に、鋭い光が走る。犬の頭は三つとも斬り離され、地を転々と弾んだ。その中のひとつがサフィの近くに転がってきた。牙を剥き出しにしたまま固まった犬の顔。何をされたのか、最期まで理解できなかったのだろう。
建物が崩れ落ちるように、胴体は四肢を投げ出して倒れこんだ。リヴェンはその背に乗っていた。
月が投げかける光芒が、犬の背に大剣を突き刺したリヴェンの姿を、宵闇に浮かび上がらせる。
小柄な体躯がまとう威厳を、サフィは目視できるような気がした。項で括った茜色の髪が、血生臭い風になびく。金色の瞳は魔獣の眼球のようにらんらんとした光を湛えていた。
サフィの身体が小さく震える。
「おい!」
「な、何っ!?」
腹に力を込めた怒鳴り声に、サフィは肩を跳ねらせる。自分の声は気後れを隠すことができなかった。
「何ぼさっとしてやがる! とっとと治癒して腹を打ち破るの手伝いやがれや」
「あ……うん」
サフィは座ったまま精神集中を行った。体内の精気を掻き集め、損傷した細胞に分け与え回復させる。体感にして二分ほどかかっただろうか。サフィは立ち上がると、大剣を鞘に収め、犬の胴体に近づいた。前脚を伝って背中によじ登る。
リヴェンは振り上げた大剣で、背中の肉を裂いた。片手で刀身を突き刺し、肉を抉るように抜き差しを繰り返す。赤黒い血があふれ出し、赤茶色の毛並みを斑に染める。力は解除したようで、彼の動作は普段通りサフィの目に映った。
「……リヴェン。今、精神集中をせずに力を使ってたよね」
覚醒者のことを学ぶために、サフィは研究結果がまとめられた本を何冊も読んできた。過去、戦場で名を上げた覚醒者は何人もいたが、彼らほどの強者でも精神集中なしに力を発揮させることはできないのだ。
リヴェンはシャマイザの動作を緩慢にする能力を発動してから、舌を斬り落とし、間を置かずに自己の敏捷性を引き上げる力を発動させた。どんなに高名な覚醒者でも、立て続けに能力を発揮させることは不可能だ。
その上、持続力の問題もある。能力にはそれぞれ継続時間があり鍛練によって時間は伸びるわけだが、どんなに精気の制御に長けていても、最長で五分程度なのだ。リヴェンの力は、犬が絶息するまでその身に影響を及ぼし続けていた。体感時間でいうと、十五分か二十分くらいだろうか。驚異的な持続時間だ。
「そういやテメェは覚醒者だったな」
「リヴェンは一体、何者なの……?」
身体に漲る緊張と動揺が、サフィの額に汗を浮かばせる。
「……それをテメェに教えてやる義理はねえ」
少年らしい顔に、無機的な笑みが浮かぶ。
「……僕が、教官に君のことを言いつけたら」
「言いたきゃ言え。テメェの寿命が尽きるだけだ。俺はテメェとクソ教官どもを始末して、おさらばするだけだ」
「……どうして、僕のことを助けてくれたの?」
リヴェンは大剣の柄頭を深靴の底で踏みつけた。体重をかけると、血液が勢いよく逆流するような音が体内から聞こえてくる。
「テメェが鈍臭えからだよ。それにもう、いい加減面倒なんだよ。弱い振りをすんのはな」
サフィは衝撃に瞠目した。リヴェンは力を抑制して、実技成績六位なのだ。彼がなんの躊躇いもなく力を解放したら、どれほどの順位だったのだろう。そもそも、教官が想定した順位に収まるのだろうか。
リヴェンの顔をしっかりと見つめて、サフィは口を開いた。
「誰にも言わないよ」
「あ?」
「僕が言いつけたらリヴェンは殺すって言ったけど、君がそこまで冷酷な人だとは思えない。そんな人なら、学校に入って大人しくしてるはずがないし、そもそも僕を助けようともしないはずだ」
「……見下げ果てるぐらいお人好し野郎だな、テメェは」
口の端を吊り上げて、リヴェンは明らかな嘲笑を浮かべた。
「リヴェンは僕の命の恩人だ。そんな君を裏切ることなんてできないよ。それに、君も何か目標があってこの学校に入ったんだろう? 僕はその夢を絶つつもりなんてない」
「んなもんねえよ。強いて言えば、学校ってもんに興味があっただけだ。狩人続けてザコばっか相手すんのも怠かったからな」
「学校に行ったことがないの? 答案に名前書けた?」
「馬鹿にすんな。文字書きと簡単な計算ぐらいできんだよ」
「でもそれだけじゃ」
ウルスラグナ訓練校の筆記試験の内容は、共通校で学んだ知識の応用だ。基礎問題を学ばずして合格できるとは思えなかった。
「答案見たに決まってんだろ」
「ああ、そうか……」
教官は二人で試験の監督を行っていたが、四十人の受験生を均等に見張れるはずがない。監視の目が外れる隙は必ず存在する。練習場に集まっていた時に人目のつかないところに移り、敏捷性を引き上げる能力を発現する。そうして試験を受ければ、リヴェンが答案用紙を盗み見ても、教官は気づけるはずがない。
「いざ来てみたら、訓練は生温いわ、勉強も退屈だわ、散々だったぜ」
「そりゃ、君の目から見たら生温いかもしれないけど」
リヴェンは大剣の血を払うと、背中の鞘に収め着地した。サフィも彼に続いて犬の背から降りようとして、血で滑って転んだ。
「何やってんだテメェ」
「いたたた、今日は疲れたよ。もう帰ろう」
「あいつらが戻ってるかもしれねえからな。つまんねえ物持ってきたら、埃食わせてやる」
「はは……」
今までのサフィなら、逆にハイネに埃を食べさせられるよ、と返したところだ。リヴェンの実力を知ってしまった今となっては、彼の言うことは洒落にならなかった。知らず、乾いた笑いがもれる。




