04.認識の違い◇
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休日の調理室は、早朝から小麦の匂いと熱気に満たされていた。
フェイヴァとユニとミルラは調理室を貸し切って、菓子を作っていた。ユニは以前からフェイヴァの菓子作りに興味があったらしく、初めて三人で作ってみることにしたのだ。
衣服の袖を捲り上げたフェイヴァは、篩にかけた小麦粉と水を混ぜていた。小麦粉は水を吸って重くなり始める。ひとしきり混ぜたあと、隣で砂糖の袋を開けたユニを見やる。
「ユニ、この中に砂糖を入れて。秤ではかっ──」
「わかったわ!」
「あっ! あああー!」
フェイヴァは絶叫した。ユニは用意していた秤で砂糖を計量することなく、深い器に袋の中身をそのまま投入したのだ。砂糖は雪崩のように乳白色の生地に押し寄せる。フェイヴァは手を伸ばして袋を持ち上げた。砂糖は水分を吸って、生地の中に沈んでいく。
「ユニ、秤で量ってほしかったんだけど……」
「えぇ? こんなの適当に入れればいいんじゃないの? アタシたちがいたところじゃ分量なんて気にしたことなかったわよ」
フェイヴァが注意すると、ユニは不満げに唇を尖らせた。ひとつにまとめた金色の髪は、かまどの明かりを受けて艶やかに光る。
菓子は繊細なのだ。少しでも材料の量が異なれば、変に甘かったり味がしなかったりで美味しくなくなってしまう。その上、生地を焼くかまどの温度調節は難しく、砂糖の量が多ければそれだけ焦げるのも早くなるのだ。美味しく食べてもらいたいという気持ちだけでなく、丁寧に心を込めて作ることも大切だった。
フェイヴァは指先で生地に触れ、口許に持っていった。甘すぎる。
「ユニ、少し味見してみて」
「うわっ、なにこれ甘っ」
「ね? これだと甘さしか感じないし、生地も早く焦げついちゃうんだ。だから材料を量るのは大切なことなんだよ」
「わかった、けど。どうするのこれ?」
「粉の量を増やすしかないね。塩も足してみる」
ユニと一緒に味を見ながら生地の調整を終えると、堅果や干し葡萄を混ぜる。それを型に流し込んだ。
煉瓦造りのかまどは、台所の隣に設置されていた。二段式になっていて、下段は四角い台の形をしている。そこに薪を積んで火を起こすのだ。上段が生地を焼くための室だ。円匙を使って生地を差し入れたあと、可動式の板でかまど口を塞ぐ。
火を起こしてくれたのはミルラだった。彼女は下段に薪を入れたり燠を掻き出したりしながら、温度を調節してくれている。
「あー、熱ぅ。かまどの前にいるだけでヘトヘト」
しっとりと汗を帯びた肌に、服が張りついている。ミルラは前髪を掻き上げると、かまどから距離を取り椅子の上に腰かけた。フェイヴァは杯に水を注いでミルラに差し出す。
「ミルラ、ありがとう。ささ、水をどうぞ」
「はーっ! このために生きてるぅ!」
水を一気に飲み干して、ミルラはやっと奪われた水分を補充することができた。
後は焼き上がるまで待つことになる。しかしここで温度調節を怠れば、すべては水の泡だ。かまどに生地を入れてからも気は抜けない。
フェイヴァはユニとミルラと一緒にかまどと向き合い、生地をときおり出して状態を確認した。空中に香ばしい香りが漂う。
そのとき、廊下を歩く靴音が聞こえた。
誰だろうと、フェイヴァは首を巡らせる。画布と紙袋を抱いて廊下を歩いていたのはハイネだった。深緑の色を写し取った髪が、彼女が踏み出すたびにさらさらと揺れた。灰色がかった虫襖色の瞳は前を見据えている。
「二人とも、ちょっと見ててもらっていい?」
フェイヴァは椅子を軋ませて立ち上がると、ふたりにかまどを任せ調理室を出た。
ハイネはフェイヴァに気づくと、しかめ面になり脇を通り過ぎていこうとする。フェイヴァは彼女の前に回り込み行く手を遮った。ハイネが右、左と場所を変えるたび、フェイヴァも負けじと立ちふさがる。
「邪魔なんだけど」
苛立ちを隠しもせず、ハイネが言葉を投げる。
「ごめんなさい。でも私、ハイネさんと話がしたかったんです」
「話って何?」
「この間の、実地試験のことです」
フェイヴァはあのあと、サフィとユニに話を聞いたのだ。サフィはフェイヴァにひたすら謝罪したが、気を失ったフェイヴァをおいていこうと言い出したのはハイネだと、ユニが告白した。助かりたい自分たちはそれに従ってしまった。あのとき、どんなことをしてもフェイヴァを連れてくるべきだったと。そう、自分の判断を悔やむユニに、フェイヴァは首を横に振った。
自分なんかのために、そんなに思い悩まなくてもいいのに。フェイヴァが気を失ったのが悪いのであって、そんな自分をユニやサフィが助ける必要はない。
「自分がおいていかれたことに恨み言でも言いにきたわけ?」
「まさかそんな。私、感謝してるんです。サフィを助けてくれて、ありがとうございました」
フェイヴァは深々と頭を下げる。ハイネとユニの助けがなければ、サフィはどうなっていたかわからない。本来ならば、彼を守らなければいけないのは自分だったのに。
「それに私、ずっと気になってたんです。ハイネさん、なんだか私を避けてる感じがするから。私、何か傷つけるようなことをしましたか?」
ウルスラグナ訓練校の入学試験前から様子がおかしかったレイゲンと同じように、ハイネも実地試験以降フェイヴァを避けているように感じた。
そんな状況に直面したとき、フェイヴァが真っ先に疑うのは自分自身の言動だ。思い返してみてもハイネを傷つけるようなことをした覚えはないが、自分がそうだからといって相手も同じだとは限らない。フェイヴァの何気ない言動が、彼女に悪印象を与えてしまった可能性もあるのだ。
「なんなのあんた。わたしに気に障るようなことを言った自覚でもあるの?」
「それは、ありません。でも、私がそう思っててもハイネさんは違うかもしれないから」
ハイネは深く溜息を落とした。緑青の髪の間から覗くのは、どこか嫌悪感さえにじんだ眼差し。
「……気持ち悪い奴。じゃあ何? わたしと普通に話してほしいから、自覚がなくても謝ろうとしたの? 自分がへりくだれば、わたしが気分をよくするとでも思った?」
「べ、別にそんなことは……」
「謝るのは、自分が本当に悪いと思った時だけにしなよ。あんたはただ、相手の顔色を窺ってその場の空気に流されてるだけだ」
自覚があるだけに、言い返せない。フェイヴァは押し黙る。
「あんた、どうしてそんなふうに自分がないの? どうせまともな家庭環境じゃなかったんでしょ。親はどんな奴だったの? ちゃんと学校行ってた? 友達はいた?」
「え、えっと……」
フェイヴァの主体性のない態度が逆に興味を引いたらしい。ハイネは矢継ぎ早に質問してくる。これが普通の会話だったなら嬉しいのだけど、生憎フェイヴァは人に話して聞かせられるような過去を持たない。ディーティルド帝国で兵器として生まれたとは、口が裂けても言えなかった。
「わ、私……記憶喪失なんです。だから、自分が本当はどんな暮らしをしてたとか、思い出せないんです。ここに来るまでは、お母さん代わりの人と二人で暮らしていました」
天使の揺籃によって生み出されたフェイヴァには、過去自体が存在しない。記憶がないのだから、記憶喪失と言い換えることもできるだろう。すべてが嘘というわけではないから、幾分気持ちが楽だった。
ハイネは驚愕とした表情をした。いきなり記憶を失ったと言われて、ぎょっとしない人間はいないだろう。
「……そんな馬鹿な。あんた、本当のことを隠してるんでしょ?」
「隠す理由がありません。嘘なら、もっと上手な嘘を考えます」
「嘘を考えるのは下手そうだけど」
「うっ」
図星だった。
できることなら嘘は吐きたくない。自分の正体を正直に話して相手に受け入れてもらえるならば、それはどんなに素晴らしいだろう。しかしそれは、所詮理想だ。自分を人間だと偽れば、自分自身を守ることにもなるし、相手に恐怖を抱かせることもない。
「……まぁ、いいけど。その性格、変えた方がいいよ」
「え?」
「相手より自分を下におくの。あんたを見てると、まるでそれが当然みたいに感じる」
フェイヴァは、テレサによって設定され生み出された死天使だ。フェイヴァにとって言わば人間は、自分を生み出した存在──創造主にも等しかった。そんな思いが根底にあるからか、人に対して自己主張したり、逆らうことに抵抗を感じてしまう。理不尽なことをされてまず最初に抱くのは、怒りではなく悲しみだ。
ハイネに指摘されて、フェイヴァは人間に対する感情を初めて自覚した。
「どうしてそんなに自分を卑下するの。あんたも同じ人間なのに。……それともあんた、本当は人間じゃないとか?」
口許に広がるのは笑みだが、ハイネの瞳は細められていなかった。少女の可憐さの中に、刃のようにきらめく鋭さを宿した顔立ち。そこには見紛うことのない疑惑が浮かんでいる。フェイヴァは悪寒を感じた。
ハイネは勘違いをしている。自分は人間なのだと、何気ない調子でそう言い退けるのだ。フェイヴァの思いは胸中で巡るのみで、言葉として発することはできなかった。もしもハイネがフェイヴァの正体に気づいたら──想像するだけで恐ろしい。自分の正体を知られることは、忌避され嫌われ、ともすれば憎まれることに繋がるのだ。それだけは決してあってはならない。
フェイヴァの様子を見て口を開きかけたハイネは、眉を寄せた。鼻をすん、と鳴らす。
「ねぇ、焦げ臭くない?」
「え? あーっ!」
ハイネの声を受けて不吉な臭いを嗅いだフェイヴァは、一目散に調理室に駆け戻る。黒く焦げた菓子を前にして、ユニとミルラがうなだれていた。




