12.差し伸ばした手◆
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蝋燭の火が静かに揺れる石壁の通路を、レイゲンは歩いていた。訓練室で鍛錬を終えたところだった。
額を流れる汗を手拭いで拭く。一旦休憩室に戻り、着替えを持ってくる必要がある。湯を使わなければ寝苦しいだろう。
一本道の通路が、やがて三叉に別れた。左に進むと休憩室に繋がっている。通路を横切ろうとして、レイゲンは足を止めた。中央の通路は、死天使が囚われた部屋に続いている。堅牢な石の扉が見えた。そこに見張りの兵士の姿はなかった。
異変を感じたのは、耳がかすかな物音を捉えてからだ。常人より聴覚が優れているレイゲンだからこそ、気づくことができたのだ。それは、大剣を振り下ろす際に発生する、風切り音のようだった。遅れて、何かに叩きつけるようなくぐもった音。
(……まさか)
中央の通路を駆ける。石造りの扉は、レイゲンが少し力を込めれば、易々と室内を明け渡した。
鉄格子の中で行われている行為に、レイゲンは一瞬言葉を失った。
うつ伏せに倒れ込んだ死天使に、三人の兵士がよってたかって大剣を振り下ろしている。血に染まった分厚い刃が叩きつけられる衝撃で、死天使の身体は震える。だが、痛みに反応している様子はなかった。
(なんだこれは……これが誇り高き兵士がすることか!)
血濡れになっている少女が死天使であるという事実は、最早頭の中から消失していた。三人の兵士が無抵抗な少女を暴行しているようにしか見えない。
「やめてください! 一体何をやっているんですか!」
高揚感に突き動かされるまま大剣を動かしていた兵士たちは、レイゲンに声をかけられて、やっと我に返ったようだ。刃を床に向ける。
「何って、三尉の命令で死天使の安全性を確かめているんだ。訓練校に入るんだ。こうするのが当然だろう? わかったら戻れ」
「……その死天使には、もう意識がありません。これ以上の暴行は無意味です。安全性を見極めるのが目的であって、再起不能まで痛めつけては総司令の命に反します」
「貴様、誰に向かって口を利いている! 三尉に決定権を与えられたのは我々だ!」
三人の内ひとりが凄み、大剣を構えた。
煮え滾るような怒りを感じて、レイゲンは兵士たちを睨みつけた。
こんな下衆どもに従わなければならない自分が腹立たしい。兵士見習いの立場でさえなかったら、衝動のままに危害を加えていたかもしれない。
兵士たちの顔に、一様に恐怖が走った。ひとりは腰を抜かし、ひとりは後ずさった。構えを解いた兵士は小さく舌打ちすると、大剣を背の鞘に収める。
「もう止めるぞ」
「そ、そうだな」
「こいつ人間みたいに泣き喚いてばっかで、気持ち悪かったし。お前、後始末は任せたぞ!」
兵士のひとりが鉄格子の鍵を床に投げ、彼らは逃げるように次々と部屋を出て行った。
靴音が遠のき、静寂に包まれる。
レイゲンは膝をつくと、少女の身体を支え起こした。血で濡れた顔は、固く瞼を閉じている。部屋に監禁される前から着ていた、釦がついた衣装。それは今や、服の体を成していない。
刃から身を守ろうとして、腕で身体を庇ったのだろう。肌を深々と斬られていて、腕は真っ赤に染まっている。服の袖は端切れとなり、腕にこびりついているだけだった。身体を覆っていた絹の生地もほとんど破れており、覗く肌は幾重にも裂傷を刻まれ、肉の色が見えている箇所さえあった。人間ならば出血多量で死んでしまうほどの重症だ。
人の目を欺くため、死天使の体内には血液に似せた液体が流れている。作り物とわかっていても、その生々しい赤は人の血と変わらなく見えた。
「おい、しっかりしろ。……おい!」
呼びかけると、うっすらと瞼が開いた。紫色の瞳がレイゲンを見上げ、視線を固定する。開かれた口から悲鳴がほとばしった。レイゲンを突き飛ばすように腕を張って、部屋の奥に逃げこむ。
傷ついた身体を抱き締めて、少女は震えていた。柔らかな色をした髪は、赤く変色し顔に張りついている。
レイゲンが背に帯びた大剣に怯えたのだろう。たった今までそれに痛めつけられていたのだ。無理もない。
鞘を固定している帯を外すと、レイゲンは大剣を床に置いた。鞘と床石が摩擦する音は、一際大きく響き渡る。少女の肩が跳ねた。
「……大丈夫だ。もう、終わった」
威圧感を与えないよう努めて声をかけようとしたが、自分では変化を感じられなかった。
レイゲンから距離を取り顔を背けていた少女は、初めてレイゲンを認識したように首を巡らせた。
「……レイゲンさん?」
安堵したように、赤く染まった顔に微笑みが浮かんだ。今にも壊れてしまいそうな笑みだった。
「……よかった。いきなり大きな声を上げてしまってごめんなさい。私、混乱して」
レイゲンは首を横に振ると、立ち上がった。足早に格子扉に向かう。
「……どこに行かれるんですか?」
「傷の手当てが必要だろう」
少女の身体に刻まれた傷は、あまりに痛々しい。深い切り傷が蝋燭の火に照らされ、濡れ光っている。胸が悪くなる光景だった。
「いいんです。私はほら、大丈夫ですから!」
声を張り上げて、少女は何事もなかったかのように元気な様子を見せる。暴行を受けた後だというのに、この態度。やはり人間とは精神構造が違うのだろうか。
「それに私は人間じゃないから。傷も少しずつ塞がるんです。だから、ご迷惑はおかけしません」
確かに、死天使は驚異的な修復機能を有している。少女の身体に刻まれた傷も時間が経てば塞がり、癒えるのだろう。
しかし、血で汚れた身体は見るに堪えない。何かないかと考え、訓練室に持って行っていた手拭いを思い出した。使っていない物があったはず。この部屋に入った瞬間に、あまりの出来事に床に落としてきてしまった。レイゲンはそれを取りに行った。たった今まで自分が使っていたものが兵士の靴跡で汚れていて、気分が悪くなる。
少女は床に散乱した本を眺めていた。鎖に繋がれた手が届く範囲の物だけを手繰り寄せ、頁を確認する。
兵士が乗り込んでくる直前まで勉強していたのだろう。羽製の硬筆と洋墨入りの瓶が転がっていた。抵抗を警戒してか、硬筆は折られてしまっている。
「破れてなくてよかった。文字も読めるし、これならまだ使い続けることができますね。せっかくレイゲンさんに持ってきてもらったものだから……」
その横顔に、レイゲンは強い違和感を覚えた。
無理矢理に持ち上げられた口許。決して笑ってはいない瞳。
少女は明るく振る舞い、笑みを浮かべることで、懸命に自分の精神を守っているのだ。自分は大丈夫だと言い聞かせることで、本当にそうなのだと思いこもうとしている。
「……無理をして笑わなくていい」
レイゲンがかけた言葉に、少女の顔が一瞬強張ばった。微笑もうとした口許が、力なく下がる。
「いえ……私は、だいじょう……」
唇が震え、深い紫の瞳が、星空を映したようにうるんだ。頬を伝う一筋の雫。一度涙をこぼしてしまうと堪えきれず、少女の顔がくしゃくしゃに歪む。
「人にわかってもらいたいと思うのは、そんなにいけないことなんですか? 私は誰も傷つけたくない。仲良くしたいのに……。暴力を振るわれても、ただずっと耐えて、耐え続けるしかないんですか? こんな人生が、生きている限りずっと続いていくんですか?」
激情をこめた少女の声に嗚咽が混じる。流れ落ちる涙を拭おうともしない。
「私が機械だから、みんな、私を傷つけるの? 存在自体が罪なの!? 私だって好きで、こんな身体に生まれたわけじゃない! こんなに嫌われるくらいなら……生まれてきたくなかったのに!」
レイゲンは少女に歩み寄った。泣き続ける彼女を、ただ見下ろしているしかない。
幼い頃、レイゲンも似たような思いに悩まされた。
自分が人とは違うという不安。人に恐れられ、避けられる恐怖。
ベイルに養子として迎えられてからも、その思いは弱まらなかった。やり場のない苦しみから目を反らそうと、周囲にやつ当たりを繰り返した。少しでもレイゲンの異常を感じ取る者がいれば、腕に物を言わせ黙らせた。
見かねたベイルが、ある日レイゲンを呼び出し、かけてくれた言葉がある。それからだ。レイゲンが徐々に落ち着きを取り戻していったのは。この世界に存在していいんだという安心感。それを与えられて初めて、レイゲンはベイルを養父としてではなく、父として見るようになった。
「もうやだ……。誰も、私の気持ちわかってくれないよぉ……! お母さん、お母さん……助けて……!」
声を絞り出し、ぼろぼろと涙をこぼす少女。彼女の傍らにレイゲンは膝をついた。
「お前が何者でも、それによってお前の価値が貶められることはない。自分を卑下するな。お前は、何も悪くない」
レイゲンを見つめる瞳が、大きく揺らいだ。また一筋、湧き上がった涙が、赤く染まった頬を流れていく。
手拭いを差し出してやると、少女はそれを両手で握り締めた。幼子のように声を上げて泣く。身の内に溜めこんだ恐怖と悲しみを、吐き出すように。




