灰色のメヌエット
じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。
窓の外では、灰色の雲から生まれた無数の雨粒が、飽きもせずにアスファルトを叩き続けていた。
その単調なリズムに呼応するように、こめかみの奥がズキ、ズキと鈍い痛みを主張する。
(また、低気圧か……)
ソファに深く沈めた身体は、まるで鉛を流し込まれたかのように重たい。
指先一本動かすことすら億劫で、ただただ天井の染みをぼんやりと見つめる。
視界の端が、心臓の鼓動に合わせて白く明滅していた。
壁掛け時計の短い針が、ゆっくりと六の数字を通り過ぎていく。
夕食の支度をしなければならない、という思考だけが、霧のかかった頭の中で現実味を帯びていた。
重力に逆らうように、ゆっくりと上半身を起こす。
軋むような関節の音を聞きながらキッチンへ向かうと、カウンターの上に置かれたスーパーの袋が目に入った。
中からは、土の匂いがする瑞々しい人参の葉先と、鮮やかな赤色のパプリカが覗いている。
今日の昼間、ほんの少しだけ体調が良かった時に、今夜のためにと買い揃えた食材たち。
それらを見るだけで、ズキリ、と痛みが一段と強くなった。
野菜を洗い、包丁を握り、皮を剥き、火加減を調節する。
普段は何でもないはずの一連の動作が、今は遥か彼方の、到底辿り着けそうにない頂のように思える。
深い、深いため息が漏れた。
(無理だ……)
その思考は、諦めというよりも、むしろ自己防衛に近いものだった。
食材の入った袋にはあえて視線を送らず、キッチンの吊り戸棚に手を伸ばす。
缶詰や乾麺が並ぶ奥の方、指先が探し当てたのは、見慣れたレトルトカレーの箱。
その四角い感触が、今の私にとっては救いのようにも感じられた。
箱を掴んで、そっとカウンターの上に置く。
色鮮やかな野菜の隣に並んだ既製品のパッケージは、どこか居心地が悪そうに見えた。
ほんの少しの罪悪感が胸をよぎる。
けれど、すぐに鈍い頭痛の波がそれをかき消していった。
鍋に水を張り、火にかける。
やがて沸騰した湯の中に、銀色のパウチをそっと沈めた。
コポコポと気泡が生まれては弾けるのを、ただ無心で眺める。
思考を放棄できる、この単純作業の繰り返しがありがたかった。
温め終えたパウチの封を切ると、湯気と共に、食欲をそそるスパイスの香りがふわりと立ち上った。
炊き立てのご飯を盛り付けた皿に、とろりとした褐色のルーを流し込む。
やや小さめのじゃがいもと、ほぐれた牛肉の欠片が姿を現した。
スプーンで一口すくって、恐る恐る口に運ぶ。
瞬間、幾重にも重なったスパイスの風味が、舌の上でゆっくりとほどけていった。
じっくり煮込まれた野菜の甘みと、牛肉の旨味が溶け込んだルーは、想像していたよりもずっと深く、優しい味わい。
二口、三口と食べ進めるうちに、強張っていた肩の力が抜け、冷えていた指先までじんわりと温もりが広がっていく。
ズキズキと鳴り響いていた頭の痛みも、いつの間にか遠くで響く残響のように、その輪郭が曖昧になっていた。
あっという間に空になった皿を前に、私は小さく息をつく。
カウンターの上の野菜たちは、明日、美味しく調理すればいい。
完璧であろうとすることに疲れてしまった心に、温かいカレーが染み渡っていく。
(たまには、こんな日も悪くない)
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
けれど、その音はもう、私を苛む不協和音ではなかった。
ただ静かに世界を濡らす、優しい子守唄。
その響き。




