紺青の声
エアコンの低い稼働音だけが響く六畳一間。
その部屋の真ん中に置かれたマイクに向かい、俺は静かに息を整えた。
配信アプリを起動し、いつものアイコン――二尾の狐の横顔を模した紋様――を確認する。
タイトルはシンプルに、『今日の雑談と、珈琲の香り』
「……さて、始めますか」
俺の配信名、そして活動名は「コン」
本名を知る者は、この世で一人もいない。
顔出しは一切せず、画面には常に、紺青色のグラフィックだけが表示されている。
声、声だけが、俺の全てだ。
俺の低く、穏やかな声は、リスナーたちから「安眠導入剤」「深夜の秘密基地」と評され、多くの固定ファンを獲得していた。
『コンさんの声、今日も癒やされます』
『おかえりなさい!』
『今日はどんな話をしてくれるんだろう』
コメント欄が温かい言葉で埋まっていくのを見ながら、俺は優しく話し始める。
「こんばんは、コンです。今日も来てくれてありがとう。外はすっかり秋めいて、少し肌寒いくらいですね。僕は今、深煎りの珈琲を淹れました。……皆さんのところは、どんな夜ですか?」
声を発する瞬間だけ、俺は「コン」になる。
現実の俺――名前は特に重要ではない冴えない。
職場でも誰からも注目されない、ごく普通の男だ。
人と目を合わせるのが苦手で、冗談を言っても滑る。
家に帰れば、ただの「生活音」しか出せない人間だ。
だが、このマイクの前では違う。
低く、落ち着いたトーン。
詩的で、哲学的な言葉選び。
時折、静かに鳴らす珈琲カップの音さえ、演出の一部になる。
リスナーは俺の言葉に耳を澄ませ、心を許し、画面の向こうに存在するであろう「理想のコン」の姿を思い描いている。
(俺は、君たちが作り上げた幻の狐だ)
そう思うと、少しだけ胸が締め付けられるが、その痛みが、俺の声をさらに深く、優しくさせる燃料になる。
配信も終盤に差し掛かった頃、リスナーの一人からこんなコメントが流れてきた。
『コンさんって、いつも落ち着いてて素敵ですけど、現実の世界ではどんな人なんですか?』
俺は、一瞬言葉に詰まった。
(現実の俺? それは、君たちが知るべきじゃない)
もし、この声の持ち主が、ただの冴えない男だと知ったら、彼らは離れていくだろうか? そう考えると、途端に声が震えそうになる。
俺は、深く息を吸い込み、ゆっくりと、しかし確実に答えた。
「……僕は、僕ですよ。声の向こうにいるのは、紛れもなく、皆さんと言葉を交わしているこの『コン』という存在です」
そして、話を逸らすように、少しだけ笑みを混ぜて続けた。
「狐はね、なかなか尻尾を見せないものなんです。僕の声だけを聞いて、自由に想像してくれたら、それで十分ですよ」
その言葉に、コメント欄は納得したように
『それもそうですね!』『ミステリアスなところが好きです』と流れ始めた。
(ああ、良かった……)
俺は安堵する。この**「声」の結界**だけは、絶対に破ってはいけない。
配信を終了し、マイクから離れる。
部屋には再び、エアコンの低い稼働音だけが残った。
俺は、さっきまで「コン」として話していた自分自身から、急速に引き剥がされ、元の冴えない会社員に戻っていくのを感じた。
カップに残った珈琲は、すっかり冷めている。それを一口飲み込み、俺は自問した。
(俺の、本当の尻尾は、どこにあるんだろう)
画面に映る、紺青の狐のアイコン。
現実のどこにもいない、声だけの存在。
それでも、俺は、あの**「声」**の中にこそ、本当の自分がいるような気がしてならなかった。
今日もまた、俺は狐の姿を借りて、夜の闇に声を放つ。
それは、現実から逃れるための、唯一の術なのだから。




