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境界線のカスタード



 六月の湿った風が、開け放たれた窓から教室へと滑り込んでくる。



 その風は、制服のブラウスを通り抜け、私の肌にまとわりつくような不快な重さを残していった。



 四限目のチャイムが鳴り響き、教師が去った教室は、瞬く間に喧騒の坩堝と化す。



 机を合わせる音、高音で交わされる笑い声、制汗スプレーの人工的なシトラスの香り。



 私は、その全てから身を守るように、自分の席で小さく息を潜めた。



 スカートのプリーツが、太腿に触れる感触。

 胸元を飾る赤いリボンが、首を絞める首輪のように感じられる錯覚。



 鏡を見なくても分かる。今、私は「女子生徒」という完璧な型枠コンテナに押し込められている。



 中身がどうであろうと、外側だけは規定通りの形を保って。



(……息苦しい)



 鞄の底から、コンビニの黄色いレジ袋を取り出した。



 中に入っているのは、プラスチックのカップに入ったプリンひとつと、頼りないほど軽いスプーン。



 この甘くて柔らかい塊だけが、今日の私の唯一の逃げ場所だった。



 蓋を剥がすと、滑らかな黄色の表面が蛍光灯の光を弾いて艶めく。



 スプーンを差し込む。



 抵抗なく崩れるその柔らかさが、今の私には羨ましくもあり、同時にひどく脆くも見えた。



「……お、それ新作じゃん」


 頭上から、低い声が降ってくる。



 顔を上げると、隣のクラスの陸が、私の机の縁に手をついて立っていた。



 着崩した学ランの襟元から、無造作なTシャツが覗く。



 骨ばった手首、少し日焼けした首筋。



 彼が纏うその「自然な男らしさ」が、私の網膜をじりじりと焼く。



「……うん。陸も食べる?」


「いや、いい。甘いの食うと眠くなる」


 彼はそう言って笑うと、近くにあった空席の椅子を引き寄せ、背もたれを前にして跨ぐように座った。



 ズボンの生地が擦れる音がする。



 その座り方が許される形。


その足の開き方が許される形。



 私は視線を落とし、一口分のプリンを口に運んだ。



 卵と砂糖の単純な甘さが、舌の上で溶けていく。



 けれど、喉の奥に引っかかっている小骨のような違和感は、どれだけ甘いものを流し込んでも消えてくれない。



「……なんかさ」


 陸が、頬杖をつきながら窓の外を見るふりをして言った。



「お前、最近ずっと辛そうだな」


 スプーンを持つ手が止まる。



 心臓が、肋骨の内側を強く叩いた。



「……そう見える?」


「見えるっていうか、空気がな。その制服、サイズ合ってねえんじゃねえの」


 ドキリとした。


 物理的なサイズの話ではないことは、彼の横顔を見れば分かった。



 彼は、いつもそうだ。


核心を突くときは、決してこちらの目を見ない。


それが彼なりの、不器用な優しさだということを私は知っている。



 私は、カップの中のプリンをスプーンの背でぐちゃりと崩した。



 綺麗な円柱形だったそれは、もう元の形を留めていない。



「……合ってないよ。全然」


 絞り出すような声だった。



 周りの喧騒にかき消されそうなほどの独白。

 


「これ着てるとさ、自分が自分じゃないみたいで。……中身はドロドロなのに、無理やり可愛い容器に詰められてるみたいで、気持ち悪いんだ」


 言ってしまった。



 一度こぼれ落ちた言葉は、もう取り返しがつかない。



 私は俯き、スカートのひだを強く握りしめた。



 掌に汗が滲む。



 拒絶されるだろうか。「何言ってんだ」と笑われるだろうか。



 沈黙が落ちた。



 教室のざわめきだけが、遠い波音のように耳の奥で響いている。



 やがて、陸がゆっくりと口を開いた。



「容器なんてさ、割っちまえばいいんだよ」


 顔を上げる。



 陸は、私の手元にある、崩れたプリンを見ていた。



「中身がドロドロなら、それがお前の形だろ。……俺は、制服着てるお前より、ジャージで泥だらけになって笑ってる時のお前の方が、よっぽど格好いいと思うけどな」


 格好いい。



 その四文字が、すとんと胸の奥の窪みに嵌まった。



 可愛い、でも、綺麗、でもなく。



 陸は立ち上がると、私の頭を乱暴に、しかし温かくくしゃりと撫でた。



「ほら、食えよ。下のカラメルまで行かないと、本当の味なんかわかんねえぞ」


 彼はそれだけ言い残すと、予鈴のチャイムに追われるように教室を出て行った。



 残された手のひらの熱が、頭頂部でジンジンと脈打っている。



 私は、崩れたプリンの底を、スプーンで掬い上げた。



 とろりとした黒い液体が、黄色いカスタードに絡みつく。



 口に含む。



 舌を刺すようなカラメルのほろ苦さが、甘ったるいだけのカスタードの味を一変させた。



 複雑で、深くて、少しだけ大人の味がする。



 窓からの風が、また吹き抜けた。



 汗ばんだ首筋に触れるその風は、さっきよりも少しだけ、涼しく感じられた。



 私は最後の一口を飲み込み、空になったプラスチックの容器を、小さく握る。



 パキリ、と乾いた音が、私の中心で確かに鳴った。



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