しみる理由
トン、トン、トン。
集合住宅の、狭いキッチン。
使い込まれたまな板の音が、しんと静まり返ったリビングにまで届きそうだった。
音を立てるものが、私しかいない。
目の前には、半分に割られた玉ねぎ。
一人分の食事に、丸ごと一個は多すぎる。
残った半分は、ラップに包んで冷蔵庫の隅へ。
そこには、昨日使い残した人参や、いつ開けたか定かではないチューブの生姜が、行儀よく並んでいる。
この、使いかけの野菜が増えていく虚しさと、それを処理する義務感にも、もうすっかり慣れてしまった。
覚悟を決めて、包丁を入れる。
繊維に逆らって刃を進めると、すぐに、ツーンとした刺激が鼻の奥を真っ直ぐに襲った。
「……っ」
わかっているのに、止められない。
生理的な涙が、じわりと滲む。視界が歪むのが苛立たしくて、汚れた袖口で乱暴に目をこする。
ただ、痛い。
ただ、染みる。
誰に拭ってもらうでもない、乾いた涙。
ジュウ、という音が、涙の理由をかき消してくれた。
これが終われば、あとはテレビの音だけが響く、静かな一人分の食卓が待っている。
トン、トン、トン。
同じキッチン。
同じまな板。
けれど、響く音は、どこか弾んでいるように聞こえた。
リビングから、彼が雑誌のページをめくる、乾いた音が微かに混じる。
それだけで、キッチンの空気が温かい。
今日のメニューは、彼のリクエスト。
じっくり煮込んだ、オニオングラタンスープ。
まな板の上には、使いかけではない、丸々二個の玉ねぎが、堂々と並んでいる。
二人分だから、躊躇なく使い切れる。
その当たり前の事実が、胸のどこかを満たしていた。
薄皮を剥ぎ、二つに割って、包丁を入れる。
ツーンとした、あの懐かしい刺激。
「……っ」
まただ。
わかっているのに、視界が歪む。
涙が、ぽた、とまな板の手前に落ちた。
(あれ……?)
慌てて、手の甲で拭おうとして……その手が止まる。
確かに、玉ねぎは目に染みている。鼻の奥が、ツンと痛い。
でも、それとは違う何かが、胸の奥から込み上げてくる。
目の奥が、じんわりと熱い。
かつて、一人分の食事を作っていた時の、あの乾いた、苛立たしい涙じゃない。
痛いのに、温かい。
「どうした? やっぱり目に染みた?」
リビングから、彼が心配そうに覗き込む。
その声が、私の涙腺をさらに緩めた。
「……うん」
うまく声にならない。
頷きながら、もう一粒、涙が落ちた。
「……ううん。……なんでもない」
ごしごしと、今度はためらいなく手の甲で目を擦る。
彼に見られても、もう構わなかった。
「……ちょっと、嬉しいだけ」
玉ねぎのせいだけじゃない、この温かい涙の理由を、彼はまだ知らない。




