季節の迷子
つい二週間前まで、俺はTシャツ一枚でアイスコーヒーを飲んでいたはずだ。
アスファルトには、まだ蝉の乾いた死骸が転がっていた気さえする。
それなのに。
「……寒すぎないか」
今朝、アラームを止めた手で触れた窓ガラスは、結露でじっとりと濡れ、外気の冷たさを雄弁に物語っていた。
十月も終わりに近いとはいえ、これはあまりにも急すぎる。
カレンダーから「秋」という月がごっそり抜け落ちて、夏からいきなり冬にワープしたみたいだった。
クローゼットの前で、俺は完全に固まっていた。
薄手のシャツか? いや、凍える。
じゃあ、厚手のセーターか? しかし、あれはまだ早い気がする。
トレンチコート。
Gジャン。
パーカー。
どれもが「違う」と主張しているようだった。
迷った末、薄手のニットの上に、去年買ったばかりのウールのジャケットを羽織ることにした。
家を出た瞬間、鼻先にツンとくる冷気に、この選択は正しかったと信じた。
問題は、駅までの徒歩十分の道のりだ。
最初は快適だった。
冷たい空気が、ウールの隙間から侵入しようとするのを、ニットが健気に防いでくれる。
だが、信号を二つ越え、早足で歩くペースが定常軌道に乗った頃。
じわり、と背中に熱がこもり始めた。
(……あれ?)
身体の内側から生まれた熱が、厚手のジャケットに阻まれて逃げ場を失っている 。
空気は冬のように冷たいのに、俺の身体は夏のように熱を生産し始めた。
額に、うっすらと汗が滲む。
首筋がじっとりと湿る感覚が、最高に気持ち悪い。
周囲を見渡せば、ダウンベストを着込んだ男、まだGジャンで粘る女、ストールをぐるぐる巻きにした人。
誰もが、この唐突な季節の変化に戸惑い、「今日の正解」を見つけられないでいた。
駅のホームにたどり着く頃には、俺はジャケットのボタンを外し、手でパタパタと胸元に風を送っていた。
冷たい風が汗で濡れた肌を撫でる。
(寒いのか、暑いのか、どっちかにしてくれよ……)
秋の不在は、こんなにも体温調節を面倒にする。
俺はため息と共に、じっとりと汗ばんだ背中の感触に耐えながら、満員電車が到着するのを待っていた。




