52.追憶の伯爵3
手配した宿泊部屋の扉に手をかけた。
この向こうに、惚れて惚れて……死んだと思って胸張り裂け、身をもち崩すほど憧れた女がいる。
しかもその身の権利は、すでにエリアスが持っている。
気分が高揚しすぎて指先まで鼓動で振動するようだ。
開いた扉の先には、剣舞の際の衣装を着た彼女がいた。
ゴクリと生唾を飲み込んで、できるかぎり平静なふうを装った。
「剣舞の踊り子、名は?」
「……ミルです」
床に膝をつける踊り子。
しかし、その鮮やかな赤髪も。
気が強そうで、気品を備えた顔立ちも。
少し痩せてしまったが、しなやかな体つきまで。
間近で見ても、どうやってもミルシュカにしか見えない。
彼女はエリアスが正体に気づいていないと思っているようで、踊り子として初対面を演じ抜く。
きっとエリアスの持つ『看破』の能力のことなど忘れているのだろう。
それほどにミルシュカはエリアスに興味がなかった。
エリアスも、ミルと名乗った踊り子がミルシュカであると、看破したことを語る気はなかった。
このまま素直に抱かれてくれるなら、わざわざ抵抗されそうな事実を明かす必要もない。
部屋の奥へと進み、ベッドに腰掛けてエリアスは問う。
「剣を前に床にいるのはどういうつもりだ」
「……モスコミュール殿は今夜、舞いながら身につけたものを取っていけと命じておりました。引き継いだ貴方もそうなのでしょう?」
(なんということだ! あの豪商、今夜はそんな下劣な行いを繰り広げる気だったのか!?)
エリアスは持ち上げた手で口元を覆ったが、同時にその案に興味をそそられてしまった。
場末の踊り子は確かにそのように舞うと聞いたが、果たして彼女が。
今から一つ一つ衣装を落とし、裸になりながらエリアスを扇情する踊りを舞う?
すっかり頭が回らなくなっていた。
「……そうだ、俺のために、舞え」
「では一差し」
伴奏もないのに、彼女が舞い始めると音が聞こえるようだった。
剣を振りながら、サークレットとベールが投げられ、右太ももに嵌められた金属の装飾が落ちる。
ついで腰を隠す薄布が、肩巾が。
身体をくねらせながら、首にかかる紐を解けば胸部を覆う布も滑り落ちていった。
恥じらい、ミルシュカが小さくうめく。
隠すものもなく胸をゆらし、腰を振って先ほど一座で見たのと同じ剣舞を舞う。
所定の動作に剣を構え、踊りが終わった。
横を向くミルシュカの、頬が赤く染まる。騎士時代は見かけることのなかった、羞恥の表情がなんとも初々しい。
「いいだろう、こちらへ来い」
あの白くて指が沈むほど柔らかそうな肌に、一刻も早く触れてみたい。
「そこへ横になれ」
命じてエリアスも上着を脱ぐ。
品性を失わないように、努めて紳士的にあろうとすればするほど、ボタンを外すのすらしくじりかけて、動揺を隠すようにミルシュカの両手を押さえ、敷くようにのしかかった。
なめらかな肌や、彼女の甘い果実のような匂いに陶然とさせられる……。
あとは、彼女を少しでも早く味わって無茶苦茶にしたいという思いと、壊さずいたわり、今までの苦難を癒したいという思いのせめぎ合いだった。
無垢な唇に口付けを教え、清純な身心へ自分の存在を刷り込み。
彼女の恥じらいを折って屈服させる。
なんという征服感、充実。
「ああ、……やっぱりお前だ、心地いい」
欲望が落ち着いたあとに込み上げる、愛おしさ。
「……ミル、ミル……ミルシュカ」
紛れもないミルシュカへの愛を実感した。
同時に、彼女の心がエリアスにないことも。
エリアスに心を許していない。
どんなに求めても、名前を呼んでくれない。新たな渇望の始まりだ。
それでも、彼女は生きている。しかも自分の腕の中にいる。
ミルシュカの存在で、エリアスは長らく失っていた心の平衡を取り戻したのだった。
朝を迎え、腕の中の温もりに頬寄せて覚醒した。
意識がはっきりしてきて、背筋に冷えたものが走る。
自分は酒の酔いで、いつもより一段激しい思い込みをして、ミルシュカが生きていたという夢を見ただけではないか?
ミルシュカとひとつになれたのは幻で、他の女だったら……。
慌てて、抱き締めていた女の顔を確かめた。
(ちゃんとミルシュカだ。──よかった。お前が生きていてくれて、ただ、それだけで)
エリアスの感慨などつゆ知らず、ミルシュカは一夜の義務は果たしたと去りかけた。
引き止めて、その正体を見破っていると明かせば、彼女は激昂しエリアスを非難する。
(やはり。お前は『ミルシュカ』を俺に抱かせる気はなかったのだな)
看破していることを黙って体を重ねて正解だった。
仮初の踊り子『ミル』だったからこそ、諦めて抱かれたのだろう。
なぜそんな仮初の存在に甘んじていたのか。
辺境伯のミルシュカは死んだことにされたのか。
彼女から経緯を聞いて、あらかたを理解した。
つまり、エリアスもレイモンドに騙されていたのだ。
あの葬儀だけでミルシュカが死んだと信じ込み、自暴自棄になっていたことが恥ずかしい。
しかし、ミルシュカを永遠に喪失したと勘違いしていた時間は無駄でもない。
エリアスはミルシュカを失うことが、どれほど自分を打ちのめすか学んだ。
同じ失敗は二度と犯さない。
かつて、硬化した態度のミルシュカを、無理に口説こうとしたから失敗したのだ。
嫌い抜いてる男にこんなに深い愛情を持たれているなんて、知ればミルシュカはきっと離れていく。
かといって、エリアスはもうミルシュカを手放せない。
狡猾に立ち回る必要がある。
彼女への激情をひた隠し、協力と引き換えに契約を結んだ。
領民、騎士団、国王、どれへの態度から考えても、ミルシュカは情け深い性格だ。
情が移ったものは、徹底的に内に入れてしまう。
エリアスはミルシュカのそんな性質をを利用することにした。
毎夜、肌を合わせる。求めれば体すら応じさせる。
弱みにつけ入り、有利な条件ばかり契約に盛り込む。
ミルシュカなら、これでエリアスに情が移らないはずがない。
我ながら、なんとも卑怯だと自嘲した。
彼女の領地奪還を手助けし、外堀から埋め、彼女がエリアスの愛を受け入れる下地をつくる。
誰にもミルシュカは奪わせない。
徐々にではあるが、ミルシュカはエリアスの存在に馴染んできた。
甘やかに接する夜を連ねていけば、日中の態度もまるくなっていく。
親密に、なれていってる気がする。
いつもと違う街へ遠出し、ミルシュカと行動を別にした。
花街のメメックのところで、解呪士の話を持っているから単身訪ねるよう、女の一人に耳打ちされたからだ。
紫の花の咲き乱れる街をわざわざ訪れ、女を誘惑してまで、解呪士の情報を仕入れた。
朗報を持って帰ってたのに、ミルシュカの顔色は浮かなかった。
疑問に思いつつ、まだその段階ではなかったから、詳細を伏せた。
策士策に溺れるとはこれか。
エリアスへの抵抗感が減るように、ミルシュカを慣らしてきた。
だが、それは同時に姿の似た弟への警戒心も解いていたということ。
エリアスよりも、弟ユリウスとの方が打ち解けていくスピードが速い。
ユリウスもセレスタイト伯爵家の人間なのに。
もうミルシュカはいがみ合っていた家の人間という色眼鏡を外してユリウスに接していた。
そして、ついに決定的な瞬間を目撃してしまうのだ。
「どうやら俺はお前が好きらしい」
「あの、ユリウス……」
ユリウスを名で呼び捨てて、ミルシュカは弟からの口付けを受けていた。
何度言っても『セレスタイト卿』と他人行儀にしか呼ばないくせに。
エリアスとは契約にある条件下でしかキスしないくせに。
いつの間にか契約のことも弟に話していたようだ。
(契約で縛られているから、俺から離れられないとでも言ったのだろうか)
ユリウスならば、呪いが解けない元踊り子でも妻にできる。
苦労して魔封じ紋を解かなくても、安楽に生きたいのなら、想いを表明したユリウスに乗り換えたほうがいいだろう。
弟を甘やかして、これまで欲しいと頼まれたらなんだって譲ってきた。
今回だって、彼らが想いあっているというなら、エリアスは契約を破棄して彼らを応援するべきだろう。
取り出した契約書を裂こうとしたのに、苦悩の挙句できなかった。
(手放せない。俺の方からミルシュカを手放すなんて、できない!)
契約を破棄してやることもできず、逃げた。
自室には戻れなかった。
戻ったらきっと苛立ちをすべてミルシュカにぶつけてしまう。
そんなふうに彼女と接したくない。




