50.追憶の伯爵
何も見えない聞こえない。
石の身でも、時折ふつふつと、これまでの記憶や思いが浮かぶ。
ひとしきり思い返しては、また意識ごと闇に呑まれ、次に意識が戻るまで空白に支配される。
今回もそうだった。
浮上したエリアスの意識は、走馬灯のように巡る記憶の中にあった。
色褪せない。
細部まで鮮やかであり続ける、ミルシュカとの大切な時間。
初めて王の前で相見えたときの、あの忌まわしそうな表情。
油虫か蛇蝎に出くわしたような嫌悪を、隠す気もなく。
それでは貴族失格だ。そう思いつつ、反射するように同等の反感が湧くのを隠せなかった。
なんて生意気な女。
この女、屈服させたい。
赤い髪が床に散るように組み敷いて請わせてみたい。
胸をかすめた乱暴な衝動を押し殺して、国王の前でエリアスも全力で相手を否定した。
次の記憶だ。
戦場の夕焼け。
沈む太陽がもたらす逆光の中、輪郭をサンセットオレンジに輝かせた女。
エリアスの命を救った彼女は微笑み、彼に手を差し伸べた。
柔らかい笑みは美しく、ファイヤーオパールをもしのぐほど煌めく。
心の根っこにざっくり切り口を入れられて。
以来、彼女に接するたびエリアスの心の天秤は傾き続けた。
ただただ、ミルシュカへ。
これまで誰にも抱いたことのない、激しい恋心。
エリアスはミルシュカへの想いを持て余す。
日毎に彼女への気持ちが膨らみ、ふとしたことでため息を漏らしてばかり。
頭の方も熱が出ているようにぼうっとして、考えがまとまらない。
彼女の関心を引きたい。
エリアスなりに、贈り物で関心を引こうと試みたり、ミルシュカを食事に誘うために、セレスタイト伯爵家の料理人を腕利きに入れ替えたりした。
しかし、それらはことごとく空回りで終わる。
かえって彼女の嫌悪感に火を注いでしまったかもしれない。
なぜ彼女にだけ、こんなにもうまくいかないんだ。
これまで社交界で出会ってきた女性たちは、エリアスが語りかけでもすれば、有頂天になって彼へ落ちてきた。
同じように、ミルシュカも誘惑してしまえばいい。
男への免疫がないのは見てとれた。
エリアスが本気を出して他の女と同様に口説けば、きっとすぐ自分に夢中になる。
(俺に、夢中になっているスペルサッティン辺境伯……いいな、悪くない……見たい)
ミルシュカと顔を合わせるたび、口説こうと試みた。
ところが、他の女のときはペラペラめくれていく頭の中の辞書が、ミルシュカ相手だとさっぱり働かないと知った。
これまで嫌いあっていた後遺症だろうか?
彼女を前にすると、もってまわった嫌味や、慇懃無礼な言葉しか出てこない。
何も言わないままいれば、去られてしまう。
仕方なしに、思い浮かぶ言葉を口にしていれば、ミルシュカはますますエリアスに頑なになった。
まずは形から。
ファーストネームで呼び合う提案をしたが、蹴られて一方的な状態に。
──ミルシュカ、ミルシュカ。
エリアスばかりが名で呼んで、慕う心はますます深まってしまった。
ある日、王城の夜会にミルシュカが来るというので嬉々として参加した。
騎士の勤務と異なり夜会だから、ミルシュカも雅びさを優先させた装いをしていた。
胸元に無数の花が重ねられ、薄紫のシフォンを寄せたスカートに、オレンジの花と花びらが縫い付けられている。
彼女の赤毛と合っていて、情熱の深さを引き立てた華麗なドレス姿だ。
あまりの魅力に、目で姿を追うことをやめられない。
生命力あふれる赤い髪は目立つ。
緑の力強い瞳やふっくらとした桜桃の唇、白磁の頬。
あれをかき抱いて、唇で触れ、この熱い想いを少しでも伝えられたら。
(俺ばかり意識して……悔しい)
エリアスは自分は男として魅力的であり、女性に評価されていると、ミルシュカへ見せつけることにした。
群がってきた令嬢の一人を腕に絡め、テラスで彼女と向かい合う。
女の対抗心を煽ってみたものの。結果は惨敗だった。
何も気にかけてもらえない。
かすりもしていない。
そればかりか、ミルシュカは婚約者を都へ迎えに来させ、送別会の後は領地に戻り結婚する。
そう、エリアスのことなどなんとも思わぬ口で言い放って、去ってしまった。
「ぐ……くっ、ミルシュカが、結婚、だと……っ」
エリアスは唇が紫になるほど噛み締めて、唸った。
この勝ち逃げされたような気持ち。
まだ得たこともないのに、喪失したという痛み。
心臓が脈を打つたび苦痛が増し、つらくて立っていられない。
「エリアス様?」
当て馬にする気だった令嬢の、エリアスを心配する声が聞こえた。
だが、そんなものどうでもいい。
視界のすべてが、怒りや悔しさ、見たこともない男への嫉妬で真っ赤だった。
「さがれ、俺は今、誰ともいたくない」
「そんな、エリアス様……」
「邪魔だと言っている! 去れ!!」
エリアスの剣幕に怯え、令嬢が走り去っていく。
テラスの手すりで、組んだ腕に顔を埋め、湧き上がる心痛に耐え続けた。
(くそっ……! 好きだ……お前が好きなんだよミルシュカ!!)
でも、どうしようもない。この心をどこに落ち着ければいいのか。
想いを告げることなど、今さらできない。かといって抱え続けるには重い。
いっそ自分を消してしまいたかった。
(時の果てか? 寝て起きて、職務をまっとうして生きて。その繰り返しで時間が経てば、この気持ちは薄れていく……?)
幸いにも、伯爵業はいくらでも仕事がある。
エリアスは私情を押し殺し、人形のように陳情を聞いて回ったり、権益の調整に奔走した。
日にち薬が効くのを待ったのだ。
しかし、最後まで嫌がらせに余念がないあたり、ミルシュカはさすがスペルサッティン辺境伯家の者である。
彼女から、送別会の招待状が届いた。
(どんな辛辣な言い回しで出席を拒むか……)
悩んでいたエリアスだが、良い文句が思いつかないうちに当日が来てしまった。
そして、招待状を手に会場へ入ってしまっていた。
「悪いが私にとってはレイモンドこそが最高の男になるのだ」
散々ダメージを負った心が、新月直前の三日月の形になるほど抉られた瞬間だ。
その後も続く言葉は恋するエリアスを打ちのめし。
「もう二度と会うこともない」そう請け合って喜ぶミルシュカが、憎い。
この場で彼女を殺し、自分も後を追って、それで想いを遂げてしまいたいくらいだった。
(本当に……お前はもう俺のものにはなることはないのだな。俺以外の人間と一緒になって生きていくのを、こんな嬉しそうに、希望に満ちて)
そのミルシュカに贈ったのは、別れと、「幸せに」という一言。
言葉に込めた万感の思い。
彼女に百分の一も届かない。伝わっていないだろう。
惨めな男として、去るミルシュカの背中を見つめ続けた。
見えなくなってすら、その場を動けなかった。




